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chapter,2
04. 不穏な予告状
しおりを挟む準備を終えたあとも、九条は展示室の隅で黙々と作業を続けていた。動線の確認、ガラス面の指紋、備品リストの照合。
一つひとつを淡々とこなし、誰よりも静かに、誰よりも丁寧に目を配っている。
その姿を見ていると、更紗はどうしても胸の奥がすこしだけ落ち着かなくなる。
――この展示会で”虹”が出品されるのは八月の末だったはず。キャリコとして盗みに入るなら、会期中よりもその前に偽物とすり替えた方がいい。だけど……彼を欺くことは可能だろうか?
旧鍵小野家の宝飾品に紛れ込んで飾られていた鉱石を盗んだのは常設展示だったこともあり、侵入も容易かった。
だが、ふだん非公開の宝物が表に出るとなると、警備もさらに手ごわくなる。前回の解析コードは使えないだろう。更紗はじぃっと九条を凝視する。
警備会社の社員として当然のことなのに、彼の動きにはどこか“品”があった。不用意に音を立てない歩き方をはじめ、来客への短い会釈、スタッフの指示を聞くときの真剣な横顔……それらすべてが「彼」を形作っている。
――あんなに無駄がない人がいるなんて。
自分も職業柄、作品の扱いには人一倍神経を使っている。だからこそ、同じ空気の中にいる彼の挙動を見ていると、心強いと感じてしまうし……警戒もする。
「九条さん、もうお昼ですよ。休憩されなくていいんですか?」
「え? ……ああ、そうですね。つい確認が長引いてしまって」
彼が腕時計を見てわずかに笑う。
更紗はその表情を初めて見た気がした。
「熱心なんですね」
「仕事ですから」
矢のようにきっぱりと言い放たれたその言葉がまっすぐに響く。
お世辞でも謙遜でもない。本当に、本心からそう思っている声だった。
きっと、真面目な彼は怪盗キャリコの件でこのプロジェクトに引き抜かれてしまったのだろう。なんせ彼なら不可思議な怪盗キャリコを捕まえられるのではないかと思われるだけの妙な説得力がある。KUJOの方が本腰を入れてきたのか、彼を雇った森鍵新蔵になんらかの思惑があるのかはわからないが。
――まあ、そう簡単に捕まるつもりはないけどね。
更紗は外の自販機で自分で飲もうと思って購入したストレートティーの冷えたペットボトルを差し出して、九条に渡す。
「よければこれ、どうぞ。展示室は乾燥しますから」
「ありがとうございます」
九条が受け取る手を見て、彼女は思う。
冷たくて硬そうなのに、すこし優しい指をしている。彼の繊細な指先は更紗と違って美術品を守るためのもののはず。なのに彼はペットボトルを受け取った手とは異なる手で、更紗の指を撫でてきた。ゾクリ、と身体に震えが走る。ほんの一瞬のふれあいにも関わらず、熱が灯ったような錯覚に陥る。
けれど次の瞬間には、彼はさっと手を放し、元の無表情に戻って更紗の前から姿を消してしまった。
彼自身が展示室の一部に溶けこんでしまったみたいで、取り残された更紗は困惑を隠せない。
「霧島さん、第二企画室の方に……」
呆然としていた更紗を正気に戻したのはインカム越しに耳に入ってきたスタッフの声だった。
ひどく焦りをみせている声音にただごとではないと急いで駆けつけると、そこには厳しい表情を浮かべた九条も立っている。
「何があったんですか」
「これが、宅配便の荷物に紛れていたみたいなんです」
郵便物を回収してきたスタッフの手にはひときわ目立つ封筒が混ざっていた。差出人のわからない、黒地に金色の魚のシルエットが浮かび上がるシンプルな封筒、が。
「……どなたが受け取ったんですか?」
中には封筒と同じ紙質の黒いカードが一枚。
そして艶やかな銀のインクで、ただ一行。
“虹の記憶をいただきに参上します。——Calico”
文面を見た瞬間、更紗の背筋が凍りついた。“虹”――それは森金連城が遺した鉱石の”呪われたもの”。
一般には展示予定すら知られていないはずのものだというのに。
――どうして、その名を?
「……怪盗キャリコ、ですか」
「ご存知なんですか?」
「警備関係者の間では有名です。高価な美術品を狙う“美意識の週末怪盗”と呼ばれている」
週末怪盗とか月末怪盗とか一部の人間が面白がってつけていることは更紗も知っていたが九条もそのことを知っているらしい。
五月に別の美術館で対峙したときは、まさかこのような形で展示会に携わって来るとは思わなかった。やはり彼――彼らは今回の展示会で怪盗キャリコが動くと考えているのだろう。だが、九条の声にはわずかな緊張と、もうひとつ別の感情が混じっていた。
それが何なのか、更紗にはわからない。
ただ、彼の目の奥が鋭い光を見せている。
「この件、こちらの方で処理しておきます。いまはまだ館の外には漏らさないでください」
「わかりました。でも……」
言いかけた更紗の声を、九条が遮る。
「――霧島さん、あなたは普段どおりでいてください」
「え?」
「狙われているのは“虹”だけじゃないかもしれません」
その言葉の意味を問う前に、彼は立ち去った。
残された更紗の手には、銀の文字が刻まれたカード。
光を受けてきらりと輝くそれが、まるで何かの合図のようにも見えた。
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