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chapter,6
01. 元婚約者と再会
画廊”キィ・フォレスト”の地下にある私設書庫を出た更紗と九条は、その足で森鍵第一美術館へ向かった。途中のベーカリーで朝食をとったが、ふたりとも言葉数が少ないままだ。非日常的な夜から今朝にかけての出来事をお互いに消化しきれていないのだとメロンパンをかじりながら更紗は考える。
「本日からはじまる特別展示についてですが、初日は関係各所の招待客がメインのプレオープンみたいなものだとうかがいました。警備の配置について変更点も特になしと」
「はい。警備についてはKUJOに一任するというのが雇い主である森鍵新蔵からも伝えられていると思います」
「……関係各所ということは、森鍵剣人も来る、のか」
「はい」
どこか他人行儀に会話を続けながら、美術館のエントランスに入る。開館時間にはまだ早いが、すでにマスコミらしき姿が見て取れた。
「――怪盗キャリコについての発表は」
「一昨日の件についてはマスコミに漏れてないと思うので、純粋に本日開始の展示についての取材でしょうね」
怪盗キャリコについて世間は多くを知らないままだ。森鍵新蔵がその事実をひた隠しにしていることもあり、週末の夜の美術館に出没する謎の女怪盗の存在は都市伝説のように受け入れられてしまったきらいがある。それに、KUJOは怪盗キャリコを捕らえろと森鍵新蔵から命じられていない。ただ美術館にある展示品の警備を一任されているだけだ。
怪盗キャリコに盗まれるのを阻止するために動くことはあるが、それ以上の追及は契約違反にあたるため九条も強く出ることができずにいる。一昨日の対峙で更紗は痛感したのだ。彼は怪盗キャリコを捕まえる立場にはいないのだと。
「怪盗キャリコが狙う”虹の輝き”は森鍵本社から直接美術館に送られていたはずです。そちらの展示は別の担当がついているので、わたしも実物をまだ見ていません」
「じゃあ一昨日現れたのは、”虹の輝き”を盗むためではなく、”雌黄”を直接更紗に渡すのが目的だったってことか」
九条の言葉にこくりと頷き、更紗はおそるおそる口をひらく。
「あのふたりは、本物の怪盗キャリコを知っています」
――そしてその目的も。
更紗へ”虹”の”雌黄”を渡した女性は「またね」と言っていた。更紗は彼女が誰だか知っている。そうなると、彼女とともに行動するもうひとりの存在も芋づる式に明らかになる。九条も理解したのか、それ以上の会話を続けなかった。
無言のまま先日偽キャリコが出没した中庭を抜け、関係者通用口にカードをかざし、バックヤードから企画室へ。先日偽物の予告状が届いた場所には大量の生花が所狭しと並んでいた。会社関係者からのお祝いの鉢花や花束を見て、更紗は辟易する。胡蝶蘭などの鉢花は折を見て本社が持ち帰るだろうが、花束は前回同様画廊で生ける形になりそうだ。
「すごい花だな」
「現社長は見栄っ張りだから」
更紗のうんざりした声に、九条が微笑を浮かべる。森鍵錠太郎から新蔵へ社長が代わったことで、開催される美術展もずいぶん華美になったらしい。その費用は美術品売買の利益から経費として扱っているのだろうが、美術品取引の内容が内容なだけに更紗も素直に喜べないのだろう。
「……ふうん」
「それが”闇”取引にあたるって証拠もないから……黎さんは警察と手を組んでるって言ってたけど、そこのところはどうなの?」
「怪盗キャリコの目的が森鍵錠太郎によって封じられたいた”虹”の再蒐集だとしたら、俺は彼女を止めるつもりはないよ」
花束が入ったバケツから一輪の薔薇を取り出し、九条は更紗の前へ差し出す。淡いピンク色のちいさな薔薇からは、ほのかに甘い香りが漂う。
「だからどうか、俺を信じて」
* * *
警備の確認のために姿を消した九条とすれ違った背の高いシルエットに、更紗は凍りつく。
通路の先で男が更紗に気づいて立ち止まる。見慣れた横顔はすこしやつれているように見えた。
「……久しぶり」
森鍵剣人の声は、記憶の中よりも低く、落ち着いていた。
更紗は一瞬だけ足を止め、それから小さく会釈する。
「お久しぶりです」
それだけで十分だった。
かつて婚約者だった事実も、共有した未来も、もうこの場には必要ないものだと互いに理解しているから。
「相変わらずだな」
剣人は視線を彼女の手元――九条から差し出された一輪の薔薇に向ける。
「危ないものほど、丁寧に扱う」
「……危なくなど」
更紗は淡々と答える。
その声音に、剣人はわずかに目を細める。
「それより、終わらせる気はないのか」
空気が張り詰める。
通路の奥で、九条が二人から距離を取って立っているのが、視界の端に映った。
聞くつもりはないのだろう。だが、見えてしまう距離だった。
更紗は一拍置いて、はっきりと言う。
「終わらせます……次で」
剣人はそれ以上、何も言わなかった。
引き留めることも、否定することもなく、ただ静かに息を吐く。
「……そうか」
短い言葉に、諦観と、わずかな安堵が混じる。
「強くなったな」
それは称賛だった。
同時に、自分がもう並べない場所へ行ったという宣告でもある。
更紗は首を横に振る。
「違います。剣人さんが、優しすぎただけ」
そこに責める響きはなかった。
だからこそ、取り返しがつかないんだよと、剣人は小さく笑う。
「……そういうところが、オトコ心をくすぐるんだよ」
更紗は背後に九条が立っていることに気づき、言葉を詰まらせる。
「更紗」
九条の声に驚いた更紗はほんの一瞬、動きを止める。
けれどためらいの影が揺れたあと、彼女は薔薇を持ったまま踵を返した。
その背中を見送り、剣人はゆっくりと九条へ向き直る。
物音を立てずに更紗の背後まで迫っていた九条の険しい表情を見て、剣人はぽつりと零す。
「どこまで知っている?」
彼の声音は挑発とも忠告とも取れるもの。じゃっかんの推測も入っている。
「……彼女の覚悟を、全部引き受けるつもりなんだろう?」
九条は答えない。
ただ、視線を逸らさずに受け止める。
剣人はそれを見て、わずかに口角を上げた。
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