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chapter,6
02. 元婚約者の挑発
ほのかに花の香りが漂う美術館のバックヤード。その、薄暗い通路は音を吸い込むように静まり返っていた。
九条は壁際に身を寄せ、視線だけで二人の様子を追う。
――あれが、森鍵剣人。
更紗の過去に、確かに存在していた男。
彼女が”虹”を扱う理由の一端であり、同時に、彼女が切り離そうとしている名前でもある。
剣人が声をかけた瞬間、更紗の足がわずかに止まった。その様子を見て、九条の胸が苦しくなる。
呼びかけも、感情を伴う名前も、懐旧もない。
それでも、二人の間には九条が踏み込めない時間が横たわっていた。
剣人の視線が、更紗の手元に向けられる。
名残の薔薇。そしてかすかに残る鉱石の気配。
――彼女が何をしてきたのか、見抜いている?
そして更紗もまた、彼の問いに簡潔に応じている。
どれほど危うい場所に身を置いてきたのかを知っているからこそ、ふたりの間に絆があるのだろう。そこに恋愛感情がないだけで。
「終わらせます。次で」
更紗の声が静かに響いた。
迷いを感じさせない、凛とした声音だ。
九条は、じわりじわりと距離を詰めながら、その言葉を胸の奥で反芻する。
終わらせる。
――それは、彼女が自分を削ってきた役割の終わり。怪盗キャリコを終わらせるということか?
剣人の表情が、ほんのわずかに緩む。
諦めと、安堵と、そして悔恨。
「強くなったな」
その言葉が、更紗を縛ってきた過去そのもののように、九条には聞こえた。
だが、更紗は首を横に振った。
「違います。剣人さんが、優しすぎただけ」
九条は、思わず息を止める。
それは拒絶ではないけれど、戻る余地を完全に断つ言葉だった。
――彼女は、自分で選んだのか。
「……そういうところが、オトコ心をくすぐるんだよ」
そう言って剣人は笑った。
更紗がこちらを見て驚いた顔をする。背後に九条が迫っていたことにようやく気付いたらしい。
一瞬だけ、視線が重なる。
「更紗」
彼女は踵を返し、手に薔薇を持ったまま逃げ出した。
更紗を追いかけようとして、剣人に引き留められる。
九条は、彼の言葉に息を呑む。
「どこまで知っている?」
まるで私設書庫にあった調査書を読んだことを知っているかのような口調から、彼もまた観測者のひとりなのだと九条は察した。
「……彼女の覚悟を、全部引き受けるつもりなんだろう?」
その言葉に、九条は首を振る。
「覚悟は、引き受けるものじゃない」
剣人は、一瞬だけ目を伏せた。彼が何を言おうとしているのか興味深そうに耳を傾ける。
「ふうん」
「俺は彼女の隣に並ぶ」
それだけ口にした九条を見て、剣人は苦笑する。
「……それが言えるなら、問題ない」
剣人の言葉を耳にしながら、九条はその場から立ち去った。
彼の声は、静かに閉じられる過去を懐かしんでいるかのようだった。
――もう、戻れない。けれど、それでいい。
逃げた更紗を探しながらそう思えた自分に、九条はわずかに驚いていた。
* * *
残された剣人は、バックヤードを出てからもしばらく足を止めていた。
石造りの回廊は冷え切っており、会場を出入りする関係者の微かな反応音だけが耳に残る。
――並ぶ、か。
それがすべてだった。
九条黎は、理解した上で退かなかった。
無知ゆえの執着でも、酔狂でもない。あの調査書を読んでもなお、いや、読んだからこそ覚悟を決めた瞳だった。
呪いの輪郭を見て、それでも踏み込むと決めた男の一途な瞳。
「……面倒な男だ」
呟きながらも、剣人の口元はわずかに緩んでいた。
剣人は長い間、更紗を「守る側」にいた人間だ。同じ立場にいた桜よりも後ろ盾がなく、か弱かったがゆえ、森鍵錠太郎が気にかけていたのだ。
そう、正確には――役割を引き受けてきた。森金連城の弟子の末裔しか受け継いでいない”虹”にまつわる体質を利用して。
なんせ更紗は守られると壊れる。だからといって甘やかされると、自分を差し出す。
だから剣人は、距離を保ち、役割を与え、情を断ち切るふりをしてきた。
怪盗キャリコとして”虹”の回収に乗り出したのは正直意外だったが、辰砂と雌黄以外の五つをすでに封じ、そのうえで”虹”に準ずる呪いの鉱石の処理をつづける彼女の現状を知って、彼は彼女を応援することにした。八つの”虹”を完全に閉じること――それは鍵小野宮家ですらなしえなかった悲願だと、桜も賛同した。
だが、森鍵新蔵からすれば酔狂なものに思われただろう。けれど手に負えないと感じたから、KUJOの人間に更紗を差し出すことで己の罪を隠し通そうとしているのだ。
「とはいえ……もう、俺の仕事じゃないか」
剣人は、懐から一枚の古い紙片を取り出す。それは連城鉱石の管理記録だった……表向きは廃棄されたはずの写し。
白は留め石だ。虹を束ね、均衡を取るための“最後の石”とされている。
その所在を剣人は知っている。まもなく展示会で世に出る”幻の連城鉱石”は”虹の記憶”という名前がつけられた。
七つの”虹”と異なり毒性自体はほとんどないが、別の意味でそれを扱える人間は限られる。それは連城の弟子が受け継いだ体質を持つ者だけに反応する猛毒――ゆえに剣人は更紗を止めたかった。けれど彼女に拒まれてしまった。
「九条黎」
知識と覚悟を併せ持つ彼の名前を口のなかで転がして、剣人は嘯く。
更紗の選択を奪わず、隣にいることを、並ぶことを選んだ観測者。
それができる人間は、そう多くないだろうし、彼がそれをできるかはまだわからない。
――それでも彼なら、委ねてもいいのかもしれない。
剣人は紙片を二つに折り、掌で潰した。
粉になった繊維が、床に落ちる。
情報は渡さないが、ふたりが選ぶ道は閉ざさない。それが森鍵剣人のやり方だ。
選択肢を残すことくらいしか、いまの彼にはできない。
「……好きにしろ」
どこか突き放す言葉でありながら、最大限の信頼を寄せていることに、彼は気づかない。
これから先、彼が動くのは表舞台ではない。
九条が踏み込めば踏み込むほど、自分は一歩、影へ退く。
それが、共犯を迎え入れる観測者の役割ともいえた。
――さて。桜さんと作戦会議だな。
「あのふたり、どこまで来れるかな」
誰にも聞かせない独り言を楽しそうに残して、剣人はひっそりと姿を消した。
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