極上御曹司は仮面の怪盗令嬢の素顔を暴きたい

ささゆき細雪

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chapter,7

02. 桜琉金の忠告




 一般公開初日の来館者数は思っていたよりも少なかった。プレオープン時と異なり休館日開けだったからか、客層も穏やかで警備上の問題もなかった。怪盗キャリコが現れる可能性はあったものの、週末怪盗と呼ばれるだけあって、平日の中日に登場するなどという無粋なことはしないようだ。
 その日の業務を終えた九条はすっかり元気になった更紗と駅で別れ、本社に戻り、当然のように資料閲覧室へ向かう。

「……?」

 ピッ、とカードキーを通すまでもなくゲートが開いていることに違和感を抱く。自分以外の何者かがこの場にいる。
 九条の気配に気づいたのか、人影が陽炎のようにゆうらりと動く。奥から現れたのは、白衣でもスーツでもない、普段着姿の桜だった。

「……来ると思ってたわ」
「呼び出しは受けてない」
「お久しぶりね、黎くん。君がお望みの調査書類はこちらかしら?」

 ふふ、と微笑む桜を怪訝そうに見る九条に、彼女は手にしていた書類を見せる。厚みはあるが、背表紙には何のタイトルもない。受け取り、ページを開いた九条は息を呑む。

「――”連城鉱石〈白〉曝露例における生体反応の臨床的検討”。なぜ、これを」
「だって、あたしが書いたものだから」

 書式は明らかに医学論文だった。症例番号、観察期間、身体所見、精神状態の推移。用語も、統計処理も、専門的だ――が、どこかおかしい。

「本鉱石は、既存の連城鉱石群(通称〈虹〉)と異なり、明確な毒性、急性症状、精神攪乱作用を示さない。しかしながら、特定個体においてのみ認知・情動・存在感覚に不可逆的変化が生じる事例を確認……当該変化は進行性であり、症状の増悪というよりも状態の固定化として観測される?」
「”白”はね。七鉱石と違って病理学的経過として整理することは困難なの」
「だから病名も治療方針もないのか」
「そ。あるのは状態遷移だけ」

 ――本報告では便宜上、当該個体が最終的に至る状態を”帰着状態”と定義する。

「治療不能なのではなく、治療の概念が適用できない。だって患者本人が「治る必要性」を感じていないんだもの」
「それで医学的に安全であると結論づけることは可能、と?」
「ただし被験者は、曝露前の自己を「過去の状態」と認識するからその結果――最悪、戻れなくなる」

 桜の言葉は抽象的で、九条がすべてを理解するには難しかったが、”白”に選ばれた更紗を放っておくわけにはいかないと痛感した。

「結局、どうなるんだ? 更紗も、同じ帰着状態なんだろ?」
「兆候は出てる。あたしと同じ初期段階」
「桜さんも?」
「だけどあたしは更紗ちゃんと違って他の”虹”の作用を受けていないから、単発曝露として連続観測されることもなかった。帰着しなかったけど選ばれた感覚は理解できる」
「じゃあ、止める方法はあるのか」
「無理矢理引きはがすことはできない。けれど、進行を遅らせる方法はある」

 室内の非常灯が、わずかに明滅する。九条はファイルを抱えたまま、深く息を吐く。

「進行を遅らせる?」
「彼女をひとりにしなければいいの」

 警備対象は、石じゃない。人だと、桜は嘯いた。


   * * *


 夜になってから、更紗はようやく落ち着いて部屋の明かりを点けた。
 展示会が始まってから帰宅時間が少し早くなった気がする。画廊にいるときよりも自分の担当が限定されているからだろう。
 九条は今夜も本社に戻って報告書をまとめるらしい。駅まで送ってくれたが、そのときの彼の表情は読めなかった。
 ただ、更紗のことを心配している様子だけは変わらない。

『ひとりで抱え込むな。何かあったら連絡を――』

 更紗は「大丈夫です」とこくりと頷き、九条と別れた。“雌黄”の件以来、彼は更紗に対してずいぶん過保護な気がする。任務で更紗を監視していたはずなのに、彼の態度はときに恋人に対するように甘くなる。だからと言って更紗は彼にすべてを明かすつもりはない。これ以上彼を危険な場所へ連れていくことはできないから。
 カーテンを閉め、時計を伏せる。
 何時かを確認する必要はない。机の引き出しを開けると、奥に小さな箱が見えた。鍵をかける必要のない小さな箱のなかには黒い手袋、軽量のロープ、簡易工具が並んでいる。どれも特別なものではない。防犯用品として売られている、ごくごく一般的な品――だけどこれも、怪盗キャリコの装備の一部。

 ――おかしいな、盗みに行くわけじゃないのに。

 更紗は一つひとつ手に取り、状態を確かめる。手袋の革の柔らかさ、金具の冷たさ、ふれた時点で感触ははっきりしている。
 白はここにいないのに、視界の奥に“距離”が見える。あの展示室までの、正確な間隔がくっきりと。
 床に座り込み、手袋をはめてみる。指先の感覚は失われていなかった。むしろ、余計な情報が削ぎ落とされて、ふれているものだけがはっきりする。

 ――感覚異常は、なし。

 思った瞬間、更紗は少しだけ首を傾げた。何に対して異常だと思ったのかが、説明できない。
 そのまま鏡の前に立つ。映っているのは、いつもの自分。
 学芸員の服でも、展示室の照明でもない、ただの部屋着姿。目元だけが、少し違う気がする。
 怯えてはいないし、高揚もしていない――位置が定まっていて、逆に不気味だ。

「キャリコは、回収するだけ」

 声に出してみる――白を、隔離する。
 その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥で小さなズレが生じる。
 隔離して、”虹”を留めなくては。
 いつものキャリコのように、展示されている白を無害な乳白色のオパールとすり替えればいいだけなのだから。

「あれは世に出してはいけないもの。閉じた世界に存在するモノ……」

 考えるのをやめて更紗は箱を閉じた。必要なものはすべて揃っている。
 足りないものがあるとすれば、それはもう用意できない。
 心配そうな九条の顔が浮かんだが、更紗はぶん、と首を振る。

 ――大丈夫。

 彼に向けて言う言葉を、先に選んでおこう。信じてもらうための声色も、表情も。
 それから、窓を開けてみる。夜の空気がむわっと流れ込む。踏み外す感覚は戻らないけれど、落ちるとは思えなかった。

「美意識の週末怪盗、琉金キャリコ。金曜の夜に参上します」

 標的は呪われた”連城鉱石”のなかの”虹の輝き”。七つの”虹”を揃えて、今度こそ無害化するのだ。
 更紗は黒い手袋を外し、丁寧に畳んでポケットにしまった。
 今はまだ、素手でいい――次に近づくときは、仮面をつけてから。
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