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壱 その四
しおりを挟む元暦元年九月、源頼朝は異母弟の範頼を平家討伐へ向かわせている。指を咥えてそれを見送ることしかできなかった義経に、武蔵国入間郡河越の現当主河越太郎重頼に嫁いだ頼朝の乳母である比企ノ尼の孫娘、静がやって来たのも同じ時期だ。
あれから三ヶ月。義経は検非違使として京都の治安を守りつづけている。静は正室と呼ばれるものの、義経に初潮が訪れてない旨を知られているため、夜を共にしようとすると「まだ早い」と几帳の向こうへ追い出されてしまう、そんな不毛でありながらも平和な日々が続いていた。
自分が義経の下へ嫁入りした実感を未だに持てない静は、義経が閑そうに縁側でひなたぼっこをしている横で、無邪気に青灰色の猫を遊ばせている。
「どうしておっさんは義経さまを出陣させたがらないの?」
そうかと思えばいきなり核心をつくような問いかけをする。それも頼朝のことを堂々とおっさんと呼んでいる。侍女の浅葱も馴れているのか彼女の言動を窘めることはせず、静の言わせたいようにしている。鎌倉で一番偉い人間である自分の兄をおっさん呼ばわりする少女が自分の正室なのかと考えると、多少だがこの先大丈夫かとあたまが痛くなる。
「なんで兄上をおっさんって呼ぶんだ」
「だっておっさんじゃない。三十路過ぎたら誰でもおっさん。義経さまみたいに若くてカッコいいわけでもないし」
きっぱり言い切る静。確かに頼朝はすでに三十を越えているが、だからって一概におっさんと呼んでいいものか……義経は苦笑する。
「それで、静はどう思う?」
頼朝が範頼を筆頭にした平家討伐の遠征軍が京都を通過したのは八月のことだ。常勝軍として囃したてられていた彼らだったが、現状は思わしくない。
あれから朝廷から平家追討の官符を受け、山陽道へ下ったというが、安芸に至る頃には食糧がなくなり全軍の統一がみだれてしまったときく。そこを平家にもつかれ、四国から海を渡ってきた水軍に後方を絶たれそうになり、今では一軍崩壊状態、まっとうな戦いもできず逃げ惑い食糧を漁るだけの集団と化している……というのに、頼朝はまだ動かない。
「てっきり、兄弟喧嘩をしてるのかと」
「俺たちが喧嘩してるように見えるって?」
「だっておっさんが私に嫁に行けって口にしたとき、怒ってるみたいだったから」
「それは、静が俺の花嫁にはもったいないってことかな?」
茶化すように義経が笑いかけても、静はむっつりした表情で素っ気無く返す。
「逆。河越風情の人間が俺の弟の正室には相応しいってことを思い知らせたいんでしょうよ。要するに、義経さまがこれ以上勝手に京都の公達の娘とかに手を出さないように釘を刺したんだと私は思うわけ。義経さまは体よく小娘の面倒を見る羽目になったのよ、女遊びに費やす時間を減らしてまでご苦労なこと」
ずけずけと言われ、義経から笑顔が消える。
「あのね、私は義経さまのことを悪く言ってるわけじゃないの。頼朝のおっさんは鎌倉の主、一番偉いひととして義経さまを扱っているの、立場上。別に意地悪で意地っ張りなだけだからじゃないのよ。そこから齟齬が生じてるのは義経さまでも理解してるんでしょう? それすら理解できないならただの莫迦だもの」
静に悪く言ってないと言われているというのに、なぜかさりげなく貶されているような気分になる義経。自分でも兄上が偉い立場にいることは理解しているし、それだから距離を置かれていることも前々から感じていた。けれど、戦局が悪化の一途を辿っているというのに、義経は頼朝に京都の治安を守れと言われつづけ、それ以上のことを命じられない。ここまでくるとどうしてだろうと不審に思うのが正直なところだ。
義経がもどかしい思いをしているのは静も理解している。けれど、静はあえて厳しい言葉を紡ぐ。まだ身体は大人の女になっていないけれど、彼の正室として。
「範頼さまの軍が散り散りになっている噂がほんとうなら、待ってなくてもすぐに出番が来ます。義経さまはそのときが来るまでじっくり腰を据えていればいいのです」
みゃうん、と静に撫でられていた猫が鳴く。義経は聡明な少女の言葉を、噛み締めるように心に刻む。
それから一ヶ月経たないうちに、頼朝から出陣命令が届く。
義経は正室の少女がしてやったりの表情で見送りにでてきたところをひょいと抱き上げ、すぐ帰ってくるからなと耳元で囁いて地面へ下ろす。
はりきって郎党どもを連れて京都をでていく義経の後ろ姿は、とても頼もしそうだ。
静は彼らの姿が見えなくなるまで、ひたすらに手を振りつづける。
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