アルコホリックガールにサヨナラ

ささゆき細雪

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1.幻覚? 幽霊? 少年登場

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「どちら様?」
「あ、お気になさらず」


 失恋からどうにか立ち直って、美大の講義に再び顔を出して。靴屋のバイトを終えた夜十時、一人暮らしの我が家に戻ったら。


「そうですか……」


 見知らぬ少年が堂々と部屋に居座っていた。しかしこの少年、肌が白くて瞳の色が灰色だ。きれいだなぁ。
 あたしは洗濯機に靴下を投げ入れて、シャワーの準備をする。眼鏡を外してシャワーを浴びる。


「幻覚かぁ」


 まだ今日は一滴もアルコールを飲んでいないというのに。あたしの脳内細胞は確実に狂ってきているらしい。嬉しいやら悲しいやら。
 ざっとシャワーを浴びて、裸のまま部屋に出てきたときも、少年の幻影は消えていなかった。幻覚というものはどうやら眼鏡をかけていても映るものらしい。そうだったのか、納得してどうする。


「あの、裸」
「あ、お気になさらず」


 今度はあたしが気にするなと応える。少年はギョッとしている。
 別に人に見せられるような身体ではない。裸婦のデッサンだってしてる。自分がモデルになることはないけど……


「いや、そこは気にしろよ!」


 幻覚少年は顔を赤らめて俯いてしまった。
 どうしよう。あたしの中の自我同一性があたしの貧弱な身体を認めていないらしい。


「いや、だってあたし、身体売り物にしてるわけでもないし」
「……普通逆だよ」
「どっちでもいいじゃん。あたしは別にこの自分の身体にコンプレックスを持っているわけでもないし、羞恥心を抱くほどセクシーだとも思ってないし、誰にも迷惑」
「いやすでにかけてるから俺に」


 器用な幻覚だ。あたしの独り言に突っ込みまで入れてくれる。統合失調症の前触れかもしれない。なんだっけ、人格境界障害とかボーダーラインとか保険適用の対象になるのかわからない奴。だけどあたしは単なるアルコール依存症もどきだから違うんだろう。偉そうなこと言えないけど。二十歳のアル中女子の戯言。

 などと無意味なことを考えているうちに腹が空いてくる。ほら鳴った、ぐぅって……あれ。あたしの腹じゃないぞ今の腹の虫。幻覚でもお腹空かせるんだろうか、もしや彼は幽霊か?


「えっと、とりあえず着替えて。それから夜食」


 幽霊(仮)に指図されるあたし。でもこの寮、幽霊騒動が起こったなんて話聞いてない。じゃあやっぱりお酒が見せるひと時の夢なんだろうか。だけど少年はお腹が空いているらしい。仕方ない、何か準備してあげよう。食べたくても食べられない身体だったらたぶん幽霊だろうし。


「そうだね。ラーメンでも作ろう。お湯沸かして」


 赤錆の浮かんだケトルに水を入れて、火をかける。ガスの青白い炎がゆらり、あたしと少年を照らす。あたしはノーブラのまま蛙のイラストがプリントされたロングTシャツを被り、カップラーメンの蓋をあける。三分で出来上がる都合のよい食材。少年はあたしの無防備な格好に戸惑っているらしい。無防備というより無頓着なだけなんだけど。それに一人でいるときくらい面倒くさいから気楽な格好でいたい。あたしが生み出した幻覚もしくは浮遊霊に文句言われる筋合いはないのだ。


「三分たってる」
「いいのあたしはのびた麺が好きなんだから」
「そんなことまで知らねえよ!」


 そんなことまで、ってことはどこまであたしのことを知っているんだろう? もしかしたらずっと前から見守っていた守護霊かもしれない。守護天使の方がいいなぁカッコイイし。なんてぼんやり考えているうちに、少年は勝手にカップラーメンを食べ始める。白い湯気を顔に浴びて、ふぅふぅ、口をすぼめて息吹きかけて。その仕草を見つめるのは他人が足の爪を切る時みたいにアンニュイだ。それにしても興奮しやすい性格なのか、あたしのマイペースさに翻弄されてるのか、幽霊だか幻覚だかわからない少年はしょっちゅう怒鳴ってる。まるで妹の笙子みたい。

 少年、あたしに観察されているのを知らずにもくもくとカップラーメンを胃の中へ流し込む。よっぽどお腹が空いていたんだろう。もの食う幽霊、うん、この広い世の中、いてもおかしくないだろう。


「ねえ幽霊少年」
「……勝手に殺すな」
「何が不満でこの世に居座ってるの」


 早く成仏させてあげた方がいいんだろうなぁ。あたしだってそこまで暇人じゃないし。先週荒れた所為で出席日数ヤバくなってるし。自業自得だけど。あとでデッサンの続きしなきゃ。そのためにもまずはこの目の前にいる少年をどうにかしなきゃ……
 少年は何事もなかったかのようにカップラーメンをすすりつづける。ずるずる。


「ねえ無視しないでよ」
「だから幽霊じゃねぇって」
「じゃあ幻覚少年」
「なんだそれ」


 箸を持つ手が一瞬止まる。そろそろいいかとあたしもカップラーメンの蓋を開く。もはっ、白い湯気が眼鏡を曇らせる。何も見えなくなる。


「あたしが生み出した妄想のなれの果て」


 ずるずる。カップラーメンをすすりながら。あたしは話す。一人遊びの延長みたいに。


「もしかしたら死神かも。天使みたいな死神、素敵!」
「そんなに死にたい?」
「いや全然。ただ死ぬんだったらそういう風に死にたいなあって。あんたが死んだときはどうだったの?」
「だから死んでねぇって」


 カップラーメンを食べる死神。絵になる。アンバランスなのが心地いい。最近のファッションの流行だってきっちりキメるんじゃなくて、どっか一箇所ハズすのが定番だし。


「どうして死んでないって言い張るの? 現世に恨みがあるの? 誰か呪わなきゃいけないとか……」
「今すんごくお前のこと呪いたい気分だよ。もし死んでるとしたらな」


 グッドジョーク。
 カップラーメンを食べ終えた少年は「便所借りるぜ」とトイレに入っていく。トイレの幽霊だったのか、いやトイレの幽霊は花子ちゃんだからじゃああの少年が花子ちゃん? ジャー。水が流れる音。洗浄。幽霊もトイレ……しないか?
 そこであたしは今更のように気づく。彼は幽霊じゃなかったらしい。なんて失礼な接客だったんだろう。あれ? いつあたしが彼を招待した? なんで彼があたしの家に平然と居座ってるんだ?


「ね。キミは誰」
「遅ッ」


 トイレから出てきた少年に早速問いただす。彼はあたしを見て両肩をがっくり落とす。


「カップ麺ご馳走さん」


 そして壁を通り抜けるわけでもなく、何事もなかったかのように扉を開けて外へ出て行く。残されたあたしは呆然として彼の背中を見送る。


「またな、リョーコちゃん」


 そして、扉を閉じる寸前の言葉。幻覚少年はまたあたしの家に来る気でいるらしい。あたしの名前呼んでるし。どういうことだ?
 アルコールの過度な摂取による幻視、幻聴かと思いたいが、たぶん違うだろう。だってその夜はあたし、結局、一滴もアルコール嗜めなかったんだもの……
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