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弐
望まぬ来客
しおりを挟む帆波が岐阜城にやってきてからまもなくふた月が経過しようとしていた水無月のある日。
信長に客人があった。
「帆波、お前も来い」
信長の小姓である忠三郎に呼び出されて帆波は渋々客が待つ三階の茶の間へ向かう。
忠三郎にいきなり唇を奪われたとき、帆波は目の前が真っ白になっていた。それが彼の宣戦布告の合図だった。
接吻なら、宣教師たちとのあいだで親愛の情を告げる手段として経験がある。とはいえ受ける場所は頬や手の甲や額だったから、忠三郎に挑むようにされた口づけは帆波にとって初めての、未知なるものだった。それを主である冬姫に告げ口でもしようものなら、それこそ彼の思うつぼのような気がした。だから黙って帆波はやりすごした。
自分と同い年であるはずなのに、妙に大人ぶった彼の仕草、ひとつひとつが帆波を苛立たせる。あのとき張り倒しておけばよかったと後悔しても後の祭り。相変わらず忠三郎は帆波を天敵扱いしてたわいもない喧嘩を餓鬼のように仕掛けては彼女の慌てふためく姿を笑いながらあらさがしをしている。
「……なんであんたまでついてくるのよ」
弱々しく文句を言っても、忠三郎は気にしない。
「見ていろと言ったのはお前だからな」
あくまで自分は帆波に見ていろと言われたからその一挙一動を見てやるのだと偉そうに返されてしまう。信長の小姓で人質のくせに。なぜ彼はこんなに堂々としていられるのだろう。帆波は湧き上がる悔しさを彼に隠しながら、客人のもとへ向かう。
「見ていても、わかりゃしないわよ」
帆波がぼそりと呟くと、忠三郎はそれでも構わないと応えて、帆波のうしろへつづいていく。
* * *
黄金色の髪を高く結いあげ、浅葱色の小袖を身にまとって入ってきた少女の姿に、慣れない正座をしていた男が振り返る。
「姫サマ。ご無沙汰シテ、おりましタ」
リボンと呼ばれる黒の天鵞絨でできた分厚い布切れを使って肩のところでひとつに結った、帆波が持つ黄金に近い淡黄色の波打つ毛先が、振り返った際にゆうらりと揺れ、端正な青年の容貌が現れる。すらりとした鼻梁に、玻璃細工を彷彿させる透き通った藤色の瞳。ゆったりとした、すこしぎこちない、涼やかな声。
忠三郎がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。帆波は目の前にいる人間の名を、静かに呼ぶ。
「――ルイス」
ルイス・フロイス。ゼウスの教えを世界中へ拡げるためこの国の実質的な権力者に取り入ろうと、天下統一を淡々と進めている織田信長に目をつけ、布教の許しを請うた男。
……そして、帆波を信長のもとへ置き去りにしていった張本人。
「Por que agora……?」
帆波は咄嗟に言葉を変換させていた。傍には忠三郎が耳を澄ませている。ルイスは当り前のように自分のことを姫サマと呼んでいた。これ以上、彼にわかるように話をされたらたまらないと帆波の脳裡で警鐘が鳴り響く。
「何故、今更……デスカ」
帆波の意図をわかっていながら、ルイスは考え込むふりをしている。
そして、ひとつ頷いてから言語を切り替える。自分の母国語である葡萄牙語へ。
『ゼウスの教えを拡めていくための援助を、信長さまにお願いしたのですよ』
『それは建前でしょう? 信長さまがいらっしゃるところで話せば済んだことじゃない。あたしを呼んだのはどういうわけよ』
飛び交う言語を忠三郎は理解していないだろうと帆波はルイスへ向けて堰を切ったように問いただしていく。
『ゼウスの信仰をこの地に根づかせるべく生贄みたいな形でこの城にあたしは来たんですからね、なんでいまさら何事もなかったかのようにあたしを呼んだの? ……それとも豊後国で何か動きでもあったの?』
帆波が豊後国を旅立つ以前から、九州一帯ではしばしば戦が起こっている。帆波の故国である周防国を滅ぼした毛利氏が九州の土地を狙っているのだ。あの宗麟があっさりくたばるとは思えないが、彼の父親は後継争いのごたごたで臣下に殺されたという経緯がある。ありえない話ではない。
『落ち着いてくださいよ、姫君』
『その言葉であたしを呼ぶな! あたしはここでは帆波って名前があるんだからっ』
流暢に異国の言葉を操りながら食ってかかる帆波を見て、忠三郎は唖然としている。そして帆波に責められる形に陥った宣教師のルイスもまた、彼女の攻撃的な物言いに対しておろおろしながら応えている。
『帆に波でホナミですか。そういえばハンの字は帆とも読むのでしたね』
『信長さまがつけてくださったのよ。豊後国での呼び名は仰々しいって』
『ハンナが? おハンなんてどこにでもいるでしょうに』
『知らないわよ。それよりルイス、話を勝手にずらさないでくれるかしら?』
ぎくりと身体を強張らせるルイスに、帆波は鋭い視線を向けたまま、優しく声をあげる。
『どうして今になってあたしに逢いに来たの』
養父の側室になることを拒んだ自分は捨てられ、宣教師たちによって売られたのだ。煮るなり焼くなりすきにしろという宗麟の文言通り、信長は帆波を娘の侍女にしているし、帆波ももはや自分が生きる術はそこにしかないと受け入れていたというのに。
――自分が育った土地に残るひとたちのことが気になるなんて。
帆波は小袖の懐に大切にしまっていた銀の十字架を取り出し、両掌でそっと包み込む。自分がキリシタンであることは信長も冬姫も知っている。何かに縋りたいとき、困難に陥ったとき、帆波は豊後国にいた頃から身につけているこの十字架を陽光にかざし、ひかりのなかに神を感じ、心の癒しとしていた。ルイスの前で馴染みのある十字架を見せたのは、帆波が未だ、彼らをどこかで信じているという証でもある。
『……あなたは』
紺碧の瞳に見据えられたルイスは、必死になって言葉を探す。
かつての仲間であった少女は、信長の娘の侍女として生き延びていた。彼の不興を買って死んでいてもおかしくないと宗麟は言っていたが、彼女はこうして運命に向き合って、自分たちが選んだ神を信じつづけている。
『――あたしが、必要なの?』
十字架の銀色が明かりに反射し、憂いを帯びた帆波の髪と瞳を輝かす。
豊穣を象徴するような黄金の髪は、どこまでも神々しく、思わずルイスは平伏していた。紛いもない、彼女の容姿と備わった気質が魅せる奇跡である。
『ハンナ。聖母マリアの黄金の名を持つ麗しの花の姫……ある方が、貴女を求めているのです。どうかともに』
『断る!』
帆波は怒りで顔を真っ赤に染め、思わず母国語で叫んでいた。
「彼女はもう死んだのよ! そういう話なら、とっとと帰って!」
思いがけない光景を目の当たりにした忠三郎は、美しい少女が怒りのままに感情を露わにするさまを、瞬きすることなく、射抜いていた。
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