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参
残された希望
しおりを挟む忠三郎にとって冬姫は主人の娘であり将来をともにする妻である。だが、人質として彼が岐阜に連れられてきた当時、冬姫はまだ十歳になったばかりの子どもだった。
「なへさま。行ってしまいました」
その冬姫も次の冬が来れば十二歳。信長の小姓をしている忠三郎に嫁ぐことになる。
珍しく自分のもとを訪ねてきた冬姫を、なへは優しく迎え、彼女の言葉に耳を傾ける。
「わたしにとって……忠三郎さまも、帆波も、どちらも大切なのです」
忠三郎は冬姫のことを大切に扱っている。けれど、それは兄が妹を想うような感じで、冬姫もまた、彼のことを兄のように尊敬することしかできずにいる。
帆波のように対等に言い合い、絆を深めていくなかで、芽生えたであろう恋慕の情とは違うのだと、冬姫は理解している。けれど、冬姫にとってそれは苦しい感情ではなかった。
黄金色の髪に紺碧の瞳をもつ亡国の姫君。妖しいほどに美しい帆波を忌わしいと拒まず、傍におけることを誇らしく、嬉しく感じる冬姫同様、忠三郎もきっと、一目見たときから惹きつけられた帆波と一緒に過ごしていくにつれて、自分の気持ちに正直になったのだろう。初陣前に告げてくれた願望のように。
「忠三郎さまが帆波を妻にするということに、わたしは反対しません」
「彼女が彼のもとへ嫁ぐことで国を滅ぼすと言われても?」
おっとりとした口調で、なへは問いかける。冬姫はまぁ、と驚いた表情を見せて言い返す。
「なへさまがそのようなことを口にされるなんて思いもしませんでしたわ。美萄に何か言われたのですか?」
「いいえ。でも、あなたがそれでいいと受け入れても、周りの人間があなたと同じであるわけではないのよ。それに、いくらあなたと忠三郎が帆波を望んでも、選ぶのは彼女でしょう?」
「……こわいのです」
冬姫は困惑したような表情で、ぽつりと呟く。なへには隠していた、幼さの残る彼女の姿。忠三郎が初陣に出たときすら不安に感じなかったのに、どうしてふたりがいなくなってしまったら、こんなに胸がすうすうするのだろう。
「このまま、帰ってこない気がして」
美萄とともに帆波は城を去った。護衛としてついたのは忠三郎ひとり。周防国の戦の状況がわからない冬姫には想像できないが、三人だけでそんな場所へ赴くのは容易ではないように感じてしまう。それでも帆波は美萄の話をきいて、行くことを決めたのだ。冬姫に暇乞いをしてまで。
「忠三郎さまが一緒に連れて戻ってくださればいいんですけど……」
忠三郎は何があっても起こっても信長のもとへ戻ってくるだろう。そして冬姫のもとへ何食わぬ顔をして帰ってくる。でも、帆波は?
彼女は負け戦も当然だというのに、故郷にいる人間のために身を投げ出そうとしている。
それはまるで、安全な鳥籠から空へ飛び出して行ってしまった金糸雀のよう。
彼女の味方だと公言する忠三郎は、けして止めることをしないだろう。むしろ、彼女が滅ぶまでを見届けるのではなかろうか……
思案に暮れる冬姫に、なへが優しく問いかける。
「冬姫。あなたが持っているそれは何?」
なへに指摘され、冬姫は杉の木でできた箱を静かに開く。なかには朱鷺色の布が貼られた沓が入っている。
「帆波の、お母さまの形見の品です」
それは帆波が冬姫に託した、唯一の品。
――冬姫さま、持っていてください。
帆波はそう言って、自分が履いていた沓を脱ぎ捨て、美萄が準備した沓に履き換えたのだ。これ以上、この沓を汚したくないからと。
「帆波はなぜ、あなたに託したのかしら」
沈黙で応える冬姫に、なへは視線を遠くに向けて、囁くように言葉を紡ぐ。
「……また、戻ってくるからじゃない?」
冬姫のもとへ仕えに戻ることを誓って、その大切な品を預けたのだと、なへは冬姫に伝える。
冬姫は、その言葉に、希望を持つ。
「そう、ですよね。帆波はまた、わたしのもとに帰ってきますよね!」
泣き笑いの表情で、冬姫はなへの言葉に強く頷く。自分が信じないでどうするのだ。たとえ彼女が破滅を招く忌わしい人間だと周囲に言われようが、自分はそんなの関係ないと帆波に言ったではないか。
絶望することに怯えて希望を手放してはいけない。
冬姫には帆波が信じる神のことはわからないけれど。帆波を信じることにしたのだ。
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