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最後の客
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雨の降る夜、僕は古書店の店じまいをしていた。
「すみません、まだ開いてますか」
ドアベルが鳴って、濡れた黒いコートを着た女性が入ってきた。時計を見ると午後十時を五分過ぎている。
「ええ、どうぞ」
僕は愛想よく答えたが、内心では早く帰りたいと思っていた。この時間に来る客にろくな人はいない。万引きか、値切り交渉か、あるいは延々と立ち読みして何も買わないか。
女性は店の奥へと進んでいった。この店を継いで三年になるが、見たことのない顔だ。三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた雰囲気を持っている。
十分ほどして、彼女は一冊の文庫本を持ってレジに来た。
「これをください」
手に取ると、それは夏目漱石の『こころ』だった。定価四百円のところを、僕は三百円で売っている。
「三百円です」
彼女は財布から千円札を出した。お釣りを渡そうとすると、彼女は首を横に振った。
「お釣りはいりません。それと、これを」
そう言って、彼女は一通の封筒を差し出した。封筒には「店主様へ」と書かれている。
「これは?」
「読んでいただければわかります。それでは」
彼女はそのまま店を出て行った。ドアベルが寂しげに鳴る。
僕は封筒を開けた。中には便箋が一枚入っていた。
『二十年前、私は高校生でした。家庭の事情で進学を諦めようとしていた時、この店で『こころ』を立ち読みしていました。先代の店主さんが、「持って行きなさい。お金はいいから」と言ってくださいました。あの本に救われて、私は教師になりました。今日、同じように悩んでいる生徒がいます。この本を、その子に渡したいのです。先代のご恩を、次の世代へ』
僕は急いで外に出たが、雨に煙る路地に彼女の姿はもうなかった。
父が遺したこの店を、僕は正直、重荷に感じていた。儲からないし、未来もない。でも今夜、初めて理解した。
この店が繋いでいるのは、本だけじゃない。
レジの横に置いてあった父の写真を見つめた。父は優しく微笑んでいた。
翌日から、僕は店の一角に「ご自由にどうぞ」という棚を作った。状態の良い本を何冊か並べる。
最初の一冊は、もちろん『こころ』だった。
雨上がりの朝、その本は誰かの手に渡っていた。空いた場所に、僕は新しい一冊を置く。
こうして本は、人から人へ、心から心へと旅を続けていく。
父が始めた物語を、僕も紡いでいこうと思った
「すみません、まだ開いてますか」
ドアベルが鳴って、濡れた黒いコートを着た女性が入ってきた。時計を見ると午後十時を五分過ぎている。
「ええ、どうぞ」
僕は愛想よく答えたが、内心では早く帰りたいと思っていた。この時間に来る客にろくな人はいない。万引きか、値切り交渉か、あるいは延々と立ち読みして何も買わないか。
女性は店の奥へと進んでいった。この店を継いで三年になるが、見たことのない顔だ。三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた雰囲気を持っている。
十分ほどして、彼女は一冊の文庫本を持ってレジに来た。
「これをください」
手に取ると、それは夏目漱石の『こころ』だった。定価四百円のところを、僕は三百円で売っている。
「三百円です」
彼女は財布から千円札を出した。お釣りを渡そうとすると、彼女は首を横に振った。
「お釣りはいりません。それと、これを」
そう言って、彼女は一通の封筒を差し出した。封筒には「店主様へ」と書かれている。
「これは?」
「読んでいただければわかります。それでは」
彼女はそのまま店を出て行った。ドアベルが寂しげに鳴る。
僕は封筒を開けた。中には便箋が一枚入っていた。
『二十年前、私は高校生でした。家庭の事情で進学を諦めようとしていた時、この店で『こころ』を立ち読みしていました。先代の店主さんが、「持って行きなさい。お金はいいから」と言ってくださいました。あの本に救われて、私は教師になりました。今日、同じように悩んでいる生徒がいます。この本を、その子に渡したいのです。先代のご恩を、次の世代へ』
僕は急いで外に出たが、雨に煙る路地に彼女の姿はもうなかった。
父が遺したこの店を、僕は正直、重荷に感じていた。儲からないし、未来もない。でも今夜、初めて理解した。
この店が繋いでいるのは、本だけじゃない。
レジの横に置いてあった父の写真を見つめた。父は優しく微笑んでいた。
翌日から、僕は店の一角に「ご自由にどうぞ」という棚を作った。状態の良い本を何冊か並べる。
最初の一冊は、もちろん『こころ』だった。
雨上がりの朝、その本は誰かの手に渡っていた。空いた場所に、僕は新しい一冊を置く。
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