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最後のコーヒー

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「今日で最後なんです」
カウンター越しに、マスターがいつもの笑顔で言った。
僕は思わずコーヒーカップを持つ手を止めた。
「え?」
「この店、今日で閉めることにしたんですよ」
マスターは穏やかな表情のまま、グラスを磨き続けている。三十年は使い込んだであろうその手つきは、まるで楽器を奏でるように滑らかだった。
「そんな、急に……」
「急じゃないですよ。もう七十五になりますからね。潮時かなって」
この喫茶店「モーニング」に通い始めて、もう五年になる。大学を卒業して就職した会社が、駅から徒歩十分のこの商店街にあった。毎朝、始業前にここでコーヒーを一杯。それが僕の日課だった。
「でも、お客さんいっぱいいるじゃないですか」
そう言って店内を見回すと、確かに満席だ。常連らしき初老の男性、ノートパソコンを広げる若い女性、新聞を読むサラリーマン。みんな、いつもの光景だ。
「ええ。ありがたいことです。でもね、続けるのと、やめるのを決めるのは別の話でしょう」
マスターは磨き終えたグラスを棚に戻し、次のグラスを手に取った。
「息子さんは?」
「継がないって。まあ、自分の人生がありますからね」
僕はコーヒーを一口飲んだ。いつもの味。深煎りの豆を丁寧にドリップした、苦みの中に甘みが溶け込む、あの味。
「明日から、どうするんですか」
「さあ。とりあえず、妻と温泉でも行こうかと思ってます。それから……まあ、何か見つかるでしょう」
なんて呑気な、と思いかけて、僕は口をつぐんだ。マスターの表情には、迷いも後悔も見えない。ただ、静かな満足感だけがあった。
ふと、窓の外に目をやる。朝の通勤ラッシュで、人々が足早に駅に向かっている。僕も、あと十五分後にはあの流れに身を投じる。そして明日も、明後日も。
「マスター、僕、明日からどこでコーヒー飲めばいいんですか」
「駅前に新しいチェーン店ができましたよ。二十四時間営業で便利ですし」
「でも……」
「でも?」
言葉が出なかった。便利さの話じゃない。味の話でもない。何が違うのか、うまく説明できない。
「ここじゃないと、ダメなんです」
マスターは少し目を細めて、僕を見た。
「お客さん、五年前に初めて来た時のこと、覚えてますか」
「覚えてます。緊張してて、メニューもろくに見られなくて」
「『ブレンドを』って、小さい声で言いましたね。で、コーヒーが来たら、一口飲んで泣き出しそうな顔をしてた」
恥ずかしい。確かに、あの時は社会人一年目で、何もかもが不安で、コーヒーの味なんて分からなかった。
「でもね、今のお客さんは違う。ちゃんと味を楽しんでいる。それだけでも、僕は嬉しいんですよ」
マスターは新しいコーヒーを淹れ始めた。お湯を注ぐ音、豆が膨らむ様子。何度見ても飽きない光景。
「人間、いつまでも同じ場所にいられるわけじゃない。お客さんだって、いずれこの会社を辞めるかもしれない。結婚して引っ越すかもしれない。それでいいんですよ」
出来上がったコーヒーを、マスターは僕の前に置いた。
「これ、サービスです。最後だから」
「マスター……」
「ここで学んだことを、次の場所に持っていってください。それが、この店の続きです」
時計を見ると、出勤まであと十分。いつもなら、そろそろ席を立つ時間だ。でも今日は、もう少しだけここにいたかった。
コーヒーを飲み干し、レジで会計を済ませる。マスターは最後まで笑顔だった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。お客さんの人生に、少しでも美味しい時間を提供できたなら幸いです」
店を出て、振り返る。「モーニング」の看板が朝日を浴びて輝いていた。
明日から、僕は新しい朝を探さなければならない。
でも、それでいいのかもしれない。
マスターの言う通り、ここで学んだことを次に持っていけばいい。
ポケットに手を入れると、レシートに何か書いてあることに気づいた。
『良い人生を。そして、たまには立ち止まって、コーヒーを飲んでください』
マスターの几帳面な字だった。
僕は笑顔で、駅へと歩き出した。
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