独立不羈の幻術士

ムルコラカ

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第三章

第四十八話 心に映る現実

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 ペンキが剥げ、塗装前の木目が覗くように。昆虫が脱皮して、新しい身体を日光に浴びせるように。

 目の前に続く夢幻回廊がボロボロに朽ち果て、その下から現れたセピア色の景色が私を包み込んだ。

「これは、幻術!?」

 私はすぐに気がついた。こんなことは、たとえ魔法を駆使したとしても現実の事象として成立するとは考えづらい。

 唯一可能にするのは、幻術だけだ。幻であれば、どれだけ荒唐無稽な内容であったとしてもそこに瑞々しい現実感を伴わせるのは、術者にとってそこまで難しい技術では無い。

「この回廊自体に、中を歩いている人に幻術を掛ける仕掛けでも施されていたのかな?」

 総主教の御座所でもある大鐘楼へ続く唯一の道だ。そんなこともあるだろう。『夢幻回廊』という名前からして推して知るべし、といったところか。恐らくは他の五人も同じような状況に陥っているのだろう。

「だったら、“破幻”の呪文で……!」

 さっさと術を解いて合流するべきだ。そう考えた私は、もうすっかり十八番になった幻術破りの呪文を唱えようとした。

「……いえ、待って。この景色、何処かで……あ!」

 だが、不意に覚えた違和感が私の詠唱を遮る。その正体に気付いたのは直後だった。

「これ、私の夢……!?」

 いくつもの列を成し、等間隔に並べられた小さな個人用の机と椅子。その正面に設置された巨大な長方形の黒い板。対角線上に置かれた棚は、いくつもの正方形の口が連なった蜂の巣に似せたかのような形をしているし、側面に備え付けられた窓には、贅沢にも全てガラスが張ってあるようだ。

 雑然とした、しかし何処か清潔感をも覚える部屋。見覚えの無い筈なのに、何故か親しみを感じる空間。

「私、この夢の中で違う服を来てこの椅子に座っていたんだ。手前の机に突っ伏して、寝ているところをシェーナに良く似た子に起こされて……」

 今朝見た夢を、記憶の底から掘り起こして追ってゆく。あの夢の中で、私は“アザミ”と呼ばれていた。そして、まるで本当にそこで生きているかのように感じられたんだ。

 けど、そんなことがある筈無い。あれは、ただの夢だ。夢の記憶だ。

「人の記憶を元にして展開する幻術なのかな? ひょっとすると、今朝の夢だって幻術を見せられていたり……?」

「ううん、違うよ」

 不意に、背後から声がした。慌てて振り返るとそこには、いつのまにかひとりの少女が佇んでいた。

 腰まで届く長い髪はまるで新雪のように真っ白く、対象的に瞳は淡く煌めくような紅さを含んでいる。

 白い髪の少女は、同じく純白に染められた法衣に身を包み、いかにも慣れた感じで着こなしている。表情は柔和で落ち着きがあり、全身から異様なほどの存在感を放っていた。

「あ、あなたは……!?」

「初めまして、シッスル・ハイフィールド。ボクは現在におけるこの国の最高責任者、国教会総主教のイリューゼだ。宜しく」

「はっ!? あ、あなたが総主教さん!?」

 全く予想外の人物が登場したことに、私は仰天した。思わず、まじまじとその少女の姿を頭から爪先まで何度も見返す。

「……あの、本当にあなたが総主教さんなんですか?」

 どうにも信じられない。イリューゼと名乗った彼女は、何処からどう見ても私より年下の少女にしか見えないからだ。こんな子が、マゴリア教国を治める国教会の頂点に君臨する存在です、といきなり言われても「はい、そうですか」と頷く気にはなれない。

「疑わしい見た目なのは認めるけどね。これでも君よりずっと長い時を重ねてきた古老なんだ。少女の姿をしているのは、まあ言うなら、総主教の座を引き受けた者にもたらされる、神からの祝福といったところかな」

 綺麗に手入れされたサラサラで艶々の白髪を慣れた仕草で掻き揚げて、イリューゼさんは微笑んだ。見た目にそぐわない、貫禄のついた物腰だった。

「神からの祝福、ですか? それってどういう……」

「今はそんなことはどうでも良いよ。それとも、君にとってはボクの身上を知るのが一番大事なことなのかい?」

「そうではありませんが、こちらとしてもあなたが本当の総主教さんなのか、確かめるすべが無いものですから」

「無論だ。ボクは普段、人前には出ない。名前も極力出さないように言ってあるし、サレナもボクの秘密をおいそれと漏らすようなことはしない。たとえ相手が愛弟子の君であってもね」

「師匠を、ご存知なんですか?」

「ああ、当然さ。元々はボクと彼女こそが、この世界を次代に繋げる柱となる予定だったんだからね。もっとも、今となっては少々事情が異なってきたが」

「と、仰いますと?」

「先の法廷での話は聴いたよ。サレナはいよいよ、手塩にかけて育ててきた愛弟子を運命の歯車に組み込もうと決めたみたいだね。君だってそれを受け入れたから、【テネブラエ】が始まる前にボクと会おうとしたんだろ?」

「…………」

 イリューゼさんは、法廷での顛末を知っている。あの件に関しては箝口令が布かれたから、誰かの口からうっかり無関係の第三者に情報が漏れたとは考えにくい。仮にそれが起こるとしても、もう少し時間が経過してからだろう。三大主教が揃った法廷で出された箝口令を、即座に破る聖職者が居るとは思えないからだ。

 だとすると、この人は本当に……?

「なあ、此処でいつまでもはらの探り合いをしていても埒が明かないだろう? どうせこの後、君は大鐘楼に来るんだから、ボクが本物かどうかはすぐに分かるさ」

 こちらの猜疑心など端から問題にならないとばかりに、イリューゼさんは余裕のある態度を崩さない。

「……分かりました。でも、あなたが総主教さんだとしたら、どうして此処に? この幻術も、あなたの仕業なんですか?」

「幻術については、そうじゃないよ。これは夢幻回廊に予め仕掛けられた防衛用の秘術さ。他の五人も、今頃はそれそれ別の幻を見ていることだろう。ボクは、そこにちょいと外側から干渉して意識を送り込んでいるに過ぎないよ」

 イリューゼさんは、すっと後ろに手を組んで幻の中を歩き始めた。正面にある、大きな黒い長方形の板を背にするように立ち、改めて私と向き直る。

「君が謁見を乞う為に大鐘楼に来ることは知っていた。じっと待っていても良かったんだけど、ボクと会う前に君には予め心の準備をしてもらった方が良いと思ったんだ。だからこうして、夢幻回廊に仕込んだ術を通じて会いに来た」

「心の準備、ですか? それは、このような幻術の中でないと話せないようなことなんですか?」

 少なからず、皮肉を込めた問いかけだった。だけど、イリューゼさんは真面目な顔で頷いたのだ。

「うん。君にとってはとても衝撃的なことだし、多分余人に聴かれたくない内容だから、幻術で他と隔離された空間で話しておくのが良いと思ってさ。さっき君が言っていたことの、半分は当たり。これは、人の記憶を元に形作る幻なんだ。違うって言ったのは、後半の“今朝の夢も幻術なのかな?”って呟いていたところに対してだね」

 スラスラと淀みなく説明してくれる総主教、イリューゼさんの姿に私は舌を巻いた。見た目で言えば、やはり私より年下の小さな女の子に過ぎない。けれどその物腰には、重ねた年月を感じさせる重みがあり、さざ波のような揺らぎも見せない赤い瞳には、深い知見と思慮深さが窺えた。

「……って、ちょっと待って下さい。人の記憶って、それじゃあこれは一体誰の記憶なんですか?」

「そんなの、決まっているじゃないか」

 イリューゼさんは、努めて抑揚を排したような声で続けた。

「この幻術の元となっているのは――君の記憶だ。これは、紛れもなく君自身が体験した現実の記憶から創られているんだよ」

「…………は?」

 相当の長い間を空けて、私の喉からやっとそれだけが絞り出された。

 ――いや、待って。いやいや、待って。この幻が……私自身の体験を復元したもの?

 いや、あり得ない……! あり得ないあり得ないあり得ない!

「う、嘘でしょ!? だって、こんなのは、ただの夢で……!」

「夢だと思うのも無理は無い。君はこれまで、ずっとシッスル・ハイフィールドとしての人生を歩んできた。サレナの庇護の下で、赤ん坊の頃から一歩一歩この世界での時間を積み重ねてきた」

 なんでそんなことを言うの!? その言い方ではまるで、私の名前が――シッスル・ハイフィールドという唯一無二の自分の名前が、本物では無いと言っているみたいだ。

 まさか、夢で呼ばれていた、“アザミ”という全く覚えのない名前が、私の本当の名前なんて言わないでしょうね!?

「わ、私は私です! 産まれてから今日まで、ずっとシッスル・ハイフィールドというれっきとした一個人なんです! 当たり前じゃないですか! 私は捨て子だったのを師匠に拾われて、それからずっと育ててもらってきたんです! でも、こんな光景なんて見たことがありません! “アザミ”なんて名前も知らないし、シェーナだって“詩絵菜”じゃない! 着ている服だって全然違うし、彼女達が話していた内容も全く理解出来なかった!」

「ああ、理解は出来なかっただろう。何せ、あっちの世界の記憶は、こっちでは封印されてしまっているからね。現実を忘れて、違う世界で違う人間として生きるというのが、こっちの世界で神が定めたルールなんだよ」

「え……!?」

 イリューゼさんが言った言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。頭がどうにかなりそうだった。同じ言語を使っている筈なのに、全く知らない言葉で語りかけられているような感覚が拭い去れない。

「混乱する気持ちは分かる。けど、君は、君だけは受け入れなければならない。この世界から独立した、何者にも羈束きそくされない幻術士として立たなければ、【テネブラエ】を防ぐことは出来ないんだよ」

 言葉とは裏腹に、対してこちらの気持ちを汲んだとは思えないような平坦な声音でイリューゼさんが続ける。私は何も言い返すことが出来ず、ただ呆然と彼女の話を受け止めるだけだ。

「君はオーロラ・ウォールの外側を見たんだろう? 闇の空間に囲われた、孤立した世界。それこそがマゴリア教国の実態であることは、覆しようもない事実だ。多くの人々は、そのことを気にも留めず、外の世界を夢想することもなく一生をこの隔絶した国で送る。けれど、君はオーロラの外にある真実を知ってしまった。その時に疑問も生まれた筈だ。――”果たしてこの世界は、本当なのだろうか?“、とね。はっきりとそう意識しなくても、心の深層にはきっと刻まれている。違うかい?」

 違わない。私は確かに疑いを持った。マゴリア教国に、この世界そのものに。

 けどまさか、その答えが――

「結論から言おう」

 イリューゼさんは、相変わらず心の動きが読めない紅い瞳で私を見据え、はっきりと告げた。

「この世界は、現実に生きる人々の集合的無意識を利用して創られた、夢の世界だ」
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