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つぶらな瞳のペンギンとアザラシ。宙を漂うように浮遊するクラゲ。華麗にジャンプするイルカ。のんびりと餌を食むカピバラ。
今日一日、大量に撮影した写真をスマホで眺める。そんな僕の姿に、アイスコーヒーを飲みながら隣を歩く天野くんが、ふいにくすりと笑った。
「日向、嬉しそうだな」
「えっ、そうかな」
「口許、緩んでたぞ。水族館好きなの?」
指摘された口許に指先で触れ、小さく頷く。
「うん。生き物全般が結構好きかな。小学生の頃、飼育係もしてたし」
「あははっ、分かる、日向っぽい。ちゃんとまめに世話とかしそう」
「そう?」
褒め言葉として捉えていいのかなと思いながら、ストローをくわえた横顔を見る。
ミルクティーベージュの髪は、今日は一つにまとめて小さなお団子にしてある。丸いサングラスとピアスをつけて柄シャツを着た姿は近寄りがたい雰囲気を醸しているけれど様になっていて、目を引く魅力があった。無地のTシャツとスキニーを身につけた地味な自分が隣を歩いていていいのだろうかと、少し気後れさえしてしまう。
「今日、誘ってくれてありがとな。楽しかった」
天野くんからのお礼に、目を丸くして首を横に振る。
「お礼を言うのはこっちだよ。僕の予定に付き合ってくれて本当にありがとう」
改めて会えないか、と。三日前、天野くんから連絡が来た。加えて、どこか行きたいところはないか、とも。
あの日以来、連絡をしようとしては思いとどまってを何度も繰り返していた。迷惑をかけてしまったことに対して改めてお詫びをしたいという気持ちと、「また連絡する」と言っていた天野くんにこちらから連絡するのは逆に迷惑かもしれないという気持ちがせめぎ合い、躊躇していた矢先のことだった。
水族館には、執筆の参考のために元々行く予定にしていた。そのため、もし嫌じゃなければ一緒に行かないかと声をかけると、間髪入れずに了承が返ってきた。天野くんも水族館が好きなのかなと思っていたが、楽しんでくれた様子を見るにその予想は当たっていたのだろう。
幾分か日差しが和らいだ夕暮れの道を、駅へ向けて歩く。この後の予定は特に決めていない。天野くんに相談しようと横を向くと、何か言いたげにこちらを見ていた。いつの間にかサングラスはシャツの襟に引っかけていて、猫のような大きな瞳と真っ直ぐに視線がぶつかる。
「なあ、日向」
「どうしたの?」
「ちょっと、海、見ていかない?」
親指で海辺の方を指す彼の提案に頷く。海なんて機会がなければ画面越しでしか見ることがないし、せっかくここまで来たなら近くまで見に行くのもいいかもしれない。そう思い、並んで海辺までの道を歩く。
海へ通じる歩道をぬけると、眼前に水平線が広がる。茜色に染まりつつある空と相まった美しい景色に、思わず感嘆の声が漏れていた。
どちらからともなく浜へ降りる階段に腰かけ、穏やかに凪いだ海を並んで見つめる。静かな海辺でゆったりと海風を吸いこみ、目を閉じる。波の音と潮の香りに意識を傾けていると、「あのさ、」と天野くんに声をかけられた。まぶたを持ちあげると、夕日を反射して煌めく瞳と視線が交わる。
「この前、日向の書いた小説、読ませてもらった」
緊張感のにじむ言葉と表情に、ぐっと息をのむ。多分、気付かれている。あの小説のヒロインのモデルが、誰かということを。
「……読んでくれて、ありがとう。ごめん、勝手にモデルになんかして」
「あ、やっぱり、俺がモデルだったんだ。そっか」
なぜか、ほっとしたように天野くんが息をつく。勝手に小説のネタにするなんて嫌な反応をされるかと思っていたが、心なしか天野くんは嬉しそうに見えた。頬を弛め、彼はトーンの高い声で言葉を続ける。
「そうかなーと思ったけど、思い上がりだったらめちゃくちゃ恥ずかしいじゃん? どうやって聞こうか迷ってたんだよね」
「そっか。怒ってない? 許可もなく天野くんのこと書いたりして」
「いや、全然! そんなん気にすんなよ。へー、そか……」
戸惑いと、喜びと、期待。なぜか、そんな感情が入り交じったような表情を天野くんは見せた。
つかの間の静寂。波音と、浜辺を歩く人の笑い声だけが辺りを包む。やがて、じっくりと言葉を選ぶように、天野くんがおもむろに唇を持ち上げた。
「俺、さ……日向のことが、高校の時からずっと、好きなんだ」
一度、二度、と。緩慢に瞬きを繰り返す。好き、と彼は言ったか。それは、友人や人間としてという意味合いだろうか。そんなことをぼんやり考えたが、声色から伝わる熱も、緊張した眼差しも、強ばった頬も、その『好き』がそういった類のものではないことを物語っていた。
彼の言う『好き』はきっと、恋愛感情のことだろう。そう悟るけれど、彼のような人がなぜ僕を、と疑問ばかりが頭に浮かぶ。言葉が出ない僕に対し、天野くんは一つ一つ、言葉を丁寧に紡ぐ。
「俺の歌を好きだって言ってもらえたことも、音楽室で二人きりで会えるのも、なんか、特別な関係になれたみたいで嬉しくて……何も言えずにいなくなったのは、本当にごめん。だけど、あの頃からずっと日向のことが好きで、忘れられなかった。だから、俺は、これからは恋人として、日向と付き合っていけたらって、思ってる」
真っ直ぐにこちらを見つめる大きな双眸から、目が離せなくなる。
もしかすると彼も、小説の主人公がヒロインに抱く気持ちを『恋』と解釈したのかもしれない。だけど、その気持ちが愛や恋なのか、作者の僕自身が未だ分からずにいた。
「その……気持ちは、すごく嬉しい。ありがとう」
何とかそれだけ絞りだし、「えっと……」と言葉の続きを探す。けれど、それは僕の頭のどこにも見つからなくて、結局そのまま黙りこんでしまった。
『好き』と『恋』の境界線は、一体どこなのだろう。確かに僕は、天野くんのことが好きだ。けれど、それが恋かと問われると、途端に分からなくなる。
平凡な僕の日常に突然差しこんだ、眩しい光のような人。その光を美しいと、その温もりに触れていたいと望みはする。けれど、彼と特別な関係になりたい、独り占めしたい、愛し合いたい、という感情はない。一方的で構わないから、美しく暖かな光の傍らに寄り添っていられたら、それだけでこの思いは満たされる。
彼が恋愛対象として僕に好意を寄せてくれていることは、本当に嬉しい。だけど、こんな曖昧な気持ちで彼と付き合うことはできない。
長い沈黙を、彼は否定と受け取ったのだろう。天野くんの顔から、ゆっくりと表情が消えていく。やがて、彼は静かに息を吸いこみ、顔を背けて立ち上がった。
「あー……うん、大丈夫! なんか、困らせてごめんな? ははっ……なんだ、そっか」
「天野く――」
「ひとりで勝手に舞いあがって、ほんと、バカみてぇ」
手のひらで目許を覆い、彼は嘲笑するように口の端を歪める。苦しげに揺れる声に、胸の奥がズキリと痛む。
「ちがっ、違うんだ」
立ちあがり、君の気持ちを否定したいわけではないと弁明しようとする。けれど、僕自身を拒絶するように、彼は黙って背を向け足を踏み出す。
「ごめん、帰るわ」
「えっ、待って」
彼の腕を掴む。足を止めた天野くんは俯き、小さくため息を落とした。
おもむろに、彼が振り向く。鮮やかな夕陽を反射する彼の瞳は、涙で揺れていた。
「頼むから、今は一人にさせてくれ」
消え入りそうな彼の声に、気付けば僕は手を離していた。離れた手許を見つめていた天野くんは、やがて、何も言わずにその場から歩き去ってしまった。
揺れるクリーム色のカーテン。がらんとした音楽室には二脚の椅子だけが置かれ、そこに座って僕と天野くんはお昼ご飯を食べている。
「あっつ……そろそろ髪切るか」
首筋を撫でる天野くんの仕草に、もったいないなと思う。さらりとした長めの直毛は、独特の雰囲気があって素敵だなと思っていたから。
「天野くん、長めの髪も様になってていいよね」
「そう? 日向がそう言うなら、伸ばしてみようかな」
僕の言葉に、天野くんは口許を綻ばせて毛先を指でいじる。褒められたのがそんなに嬉しかったのだろうか、天野くんなら容姿で褒められることなんていくらでもあるだろうに。そんなことを思いながらその横顔から視線をそらし、再び彼に視線を戻した時、そこには誰もいなかった。
「天野くん……?」
ぽつりと置かれた椅子。静寂に満ちた明るい音楽室。まるで、世界から彼の存在が消えてしまったかのような恐怖感に、僕は椅子を倒して勢いよく立ち上がった。
ガタン、と大きな音がして目を覚ます。作業中にうっかり寝落ちてしまったらしい。うとうとと傾いた頭がスタンドライトを倒したようで、机に倒れたライトと、額にかすかな痛みが残っていた。
懐かしい記憶を思い出す。学生時代、襟足が伸びた天野くんの髪を似合っていると伝えたことがあった。今の彼は、あの頃より少し長いくらいの髪型をしている。
思い返せば、あの頃からそこはかとなく僕への気持ちが見え隠れしていた気がする。だけど、誰とでも仲良くなれるタイプの彼にとって僕は取るに足らない存在だと勝手に思いこみ、彼が僕のことをどう思っているかなんて、考えたこともなかった。
手元に置いたスマホの画面をつける。新着メッセージの通知はない。アプリを立ち上げて天野くんとのメッセージ画面を開くが、やはり既読すらついていなかった。
『今日はごめん。もう一度、きちんと話せないかな?』
『体調は崩してない? 既読だけでもつけてくれると嬉しい。』
『また会いたいです。』
『いつでも大丈夫だから、少しだけでもいいから、会う時間をください。』
毎日のように送っては未読のまま放置されたメッセージに、ため息をつく。
忙しい彼には、僕からの連絡なんて迷惑かもしれない。今までなら、そんな遠慮が先立って何度も連絡しようなんて思わなかっただろう。だけど、このままじゃいけない。このまま僕から連絡することも会うこともしなければ、今度こそ本当に天野くんとは二度と会えなくなる気がした。
時刻は午後八時を回ったあたり。財布とスマホだけを手に、僕は駅へ向けて夜の道を走り出していた。
今日一日、大量に撮影した写真をスマホで眺める。そんな僕の姿に、アイスコーヒーを飲みながら隣を歩く天野くんが、ふいにくすりと笑った。
「日向、嬉しそうだな」
「えっ、そうかな」
「口許、緩んでたぞ。水族館好きなの?」
指摘された口許に指先で触れ、小さく頷く。
「うん。生き物全般が結構好きかな。小学生の頃、飼育係もしてたし」
「あははっ、分かる、日向っぽい。ちゃんとまめに世話とかしそう」
「そう?」
褒め言葉として捉えていいのかなと思いながら、ストローをくわえた横顔を見る。
ミルクティーベージュの髪は、今日は一つにまとめて小さなお団子にしてある。丸いサングラスとピアスをつけて柄シャツを着た姿は近寄りがたい雰囲気を醸しているけれど様になっていて、目を引く魅力があった。無地のTシャツとスキニーを身につけた地味な自分が隣を歩いていていいのだろうかと、少し気後れさえしてしまう。
「今日、誘ってくれてありがとな。楽しかった」
天野くんからのお礼に、目を丸くして首を横に振る。
「お礼を言うのはこっちだよ。僕の予定に付き合ってくれて本当にありがとう」
改めて会えないか、と。三日前、天野くんから連絡が来た。加えて、どこか行きたいところはないか、とも。
あの日以来、連絡をしようとしては思いとどまってを何度も繰り返していた。迷惑をかけてしまったことに対して改めてお詫びをしたいという気持ちと、「また連絡する」と言っていた天野くんにこちらから連絡するのは逆に迷惑かもしれないという気持ちがせめぎ合い、躊躇していた矢先のことだった。
水族館には、執筆の参考のために元々行く予定にしていた。そのため、もし嫌じゃなければ一緒に行かないかと声をかけると、間髪入れずに了承が返ってきた。天野くんも水族館が好きなのかなと思っていたが、楽しんでくれた様子を見るにその予想は当たっていたのだろう。
幾分か日差しが和らいだ夕暮れの道を、駅へ向けて歩く。この後の予定は特に決めていない。天野くんに相談しようと横を向くと、何か言いたげにこちらを見ていた。いつの間にかサングラスはシャツの襟に引っかけていて、猫のような大きな瞳と真っ直ぐに視線がぶつかる。
「なあ、日向」
「どうしたの?」
「ちょっと、海、見ていかない?」
親指で海辺の方を指す彼の提案に頷く。海なんて機会がなければ画面越しでしか見ることがないし、せっかくここまで来たなら近くまで見に行くのもいいかもしれない。そう思い、並んで海辺までの道を歩く。
海へ通じる歩道をぬけると、眼前に水平線が広がる。茜色に染まりつつある空と相まった美しい景色に、思わず感嘆の声が漏れていた。
どちらからともなく浜へ降りる階段に腰かけ、穏やかに凪いだ海を並んで見つめる。静かな海辺でゆったりと海風を吸いこみ、目を閉じる。波の音と潮の香りに意識を傾けていると、「あのさ、」と天野くんに声をかけられた。まぶたを持ちあげると、夕日を反射して煌めく瞳と視線が交わる。
「この前、日向の書いた小説、読ませてもらった」
緊張感のにじむ言葉と表情に、ぐっと息をのむ。多分、気付かれている。あの小説のヒロインのモデルが、誰かということを。
「……読んでくれて、ありがとう。ごめん、勝手にモデルになんかして」
「あ、やっぱり、俺がモデルだったんだ。そっか」
なぜか、ほっとしたように天野くんが息をつく。勝手に小説のネタにするなんて嫌な反応をされるかと思っていたが、心なしか天野くんは嬉しそうに見えた。頬を弛め、彼はトーンの高い声で言葉を続ける。
「そうかなーと思ったけど、思い上がりだったらめちゃくちゃ恥ずかしいじゃん? どうやって聞こうか迷ってたんだよね」
「そっか。怒ってない? 許可もなく天野くんのこと書いたりして」
「いや、全然! そんなん気にすんなよ。へー、そか……」
戸惑いと、喜びと、期待。なぜか、そんな感情が入り交じったような表情を天野くんは見せた。
つかの間の静寂。波音と、浜辺を歩く人の笑い声だけが辺りを包む。やがて、じっくりと言葉を選ぶように、天野くんがおもむろに唇を持ち上げた。
「俺、さ……日向のことが、高校の時からずっと、好きなんだ」
一度、二度、と。緩慢に瞬きを繰り返す。好き、と彼は言ったか。それは、友人や人間としてという意味合いだろうか。そんなことをぼんやり考えたが、声色から伝わる熱も、緊張した眼差しも、強ばった頬も、その『好き』がそういった類のものではないことを物語っていた。
彼の言う『好き』はきっと、恋愛感情のことだろう。そう悟るけれど、彼のような人がなぜ僕を、と疑問ばかりが頭に浮かぶ。言葉が出ない僕に対し、天野くんは一つ一つ、言葉を丁寧に紡ぐ。
「俺の歌を好きだって言ってもらえたことも、音楽室で二人きりで会えるのも、なんか、特別な関係になれたみたいで嬉しくて……何も言えずにいなくなったのは、本当にごめん。だけど、あの頃からずっと日向のことが好きで、忘れられなかった。だから、俺は、これからは恋人として、日向と付き合っていけたらって、思ってる」
真っ直ぐにこちらを見つめる大きな双眸から、目が離せなくなる。
もしかすると彼も、小説の主人公がヒロインに抱く気持ちを『恋』と解釈したのかもしれない。だけど、その気持ちが愛や恋なのか、作者の僕自身が未だ分からずにいた。
「その……気持ちは、すごく嬉しい。ありがとう」
何とかそれだけ絞りだし、「えっと……」と言葉の続きを探す。けれど、それは僕の頭のどこにも見つからなくて、結局そのまま黙りこんでしまった。
『好き』と『恋』の境界線は、一体どこなのだろう。確かに僕は、天野くんのことが好きだ。けれど、それが恋かと問われると、途端に分からなくなる。
平凡な僕の日常に突然差しこんだ、眩しい光のような人。その光を美しいと、その温もりに触れていたいと望みはする。けれど、彼と特別な関係になりたい、独り占めしたい、愛し合いたい、という感情はない。一方的で構わないから、美しく暖かな光の傍らに寄り添っていられたら、それだけでこの思いは満たされる。
彼が恋愛対象として僕に好意を寄せてくれていることは、本当に嬉しい。だけど、こんな曖昧な気持ちで彼と付き合うことはできない。
長い沈黙を、彼は否定と受け取ったのだろう。天野くんの顔から、ゆっくりと表情が消えていく。やがて、彼は静かに息を吸いこみ、顔を背けて立ち上がった。
「あー……うん、大丈夫! なんか、困らせてごめんな? ははっ……なんだ、そっか」
「天野く――」
「ひとりで勝手に舞いあがって、ほんと、バカみてぇ」
手のひらで目許を覆い、彼は嘲笑するように口の端を歪める。苦しげに揺れる声に、胸の奥がズキリと痛む。
「ちがっ、違うんだ」
立ちあがり、君の気持ちを否定したいわけではないと弁明しようとする。けれど、僕自身を拒絶するように、彼は黙って背を向け足を踏み出す。
「ごめん、帰るわ」
「えっ、待って」
彼の腕を掴む。足を止めた天野くんは俯き、小さくため息を落とした。
おもむろに、彼が振り向く。鮮やかな夕陽を反射する彼の瞳は、涙で揺れていた。
「頼むから、今は一人にさせてくれ」
消え入りそうな彼の声に、気付けば僕は手を離していた。離れた手許を見つめていた天野くんは、やがて、何も言わずにその場から歩き去ってしまった。
揺れるクリーム色のカーテン。がらんとした音楽室には二脚の椅子だけが置かれ、そこに座って僕と天野くんはお昼ご飯を食べている。
「あっつ……そろそろ髪切るか」
首筋を撫でる天野くんの仕草に、もったいないなと思う。さらりとした長めの直毛は、独特の雰囲気があって素敵だなと思っていたから。
「天野くん、長めの髪も様になってていいよね」
「そう? 日向がそう言うなら、伸ばしてみようかな」
僕の言葉に、天野くんは口許を綻ばせて毛先を指でいじる。褒められたのがそんなに嬉しかったのだろうか、天野くんなら容姿で褒められることなんていくらでもあるだろうに。そんなことを思いながらその横顔から視線をそらし、再び彼に視線を戻した時、そこには誰もいなかった。
「天野くん……?」
ぽつりと置かれた椅子。静寂に満ちた明るい音楽室。まるで、世界から彼の存在が消えてしまったかのような恐怖感に、僕は椅子を倒して勢いよく立ち上がった。
ガタン、と大きな音がして目を覚ます。作業中にうっかり寝落ちてしまったらしい。うとうとと傾いた頭がスタンドライトを倒したようで、机に倒れたライトと、額にかすかな痛みが残っていた。
懐かしい記憶を思い出す。学生時代、襟足が伸びた天野くんの髪を似合っていると伝えたことがあった。今の彼は、あの頃より少し長いくらいの髪型をしている。
思い返せば、あの頃からそこはかとなく僕への気持ちが見え隠れしていた気がする。だけど、誰とでも仲良くなれるタイプの彼にとって僕は取るに足らない存在だと勝手に思いこみ、彼が僕のことをどう思っているかなんて、考えたこともなかった。
手元に置いたスマホの画面をつける。新着メッセージの通知はない。アプリを立ち上げて天野くんとのメッセージ画面を開くが、やはり既読すらついていなかった。
『今日はごめん。もう一度、きちんと話せないかな?』
『体調は崩してない? 既読だけでもつけてくれると嬉しい。』
『また会いたいです。』
『いつでも大丈夫だから、少しだけでもいいから、会う時間をください。』
毎日のように送っては未読のまま放置されたメッセージに、ため息をつく。
忙しい彼には、僕からの連絡なんて迷惑かもしれない。今までなら、そんな遠慮が先立って何度も連絡しようなんて思わなかっただろう。だけど、このままじゃいけない。このまま僕から連絡することも会うこともしなければ、今度こそ本当に天野くんとは二度と会えなくなる気がした。
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