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樹木人の繁殖地(完)

寄生木の獣

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 大空を覆う黒い霧に太陽も月や星のきらめきも塞がれていた。昼も夜も無く、世界は暗がりに閉ざされている。


 暗空の下、一面に芝生が広がっていた。この地に生える芝は本来の姿である鮮やかな緑の色彩を失っている。葉は剣山のように鋭く尖り、表面はぬめぬめとした樹液に覆われ黒光りしている。風に吹かれゆらゆらとゆれるその様は深い海底に生い茂る海藻のようで不気味であった。

 黒く濡れた芝生を一人の娘が歩いていた。小脇には1冊の本を大切そうに抱えている。

 後ろで括られた栗色の髪が娘の歩みに合わせ、馬の尾のように揺れる。緑色の瞳は暗闇を正確に写し出している訳では無かったが、その歩みには恐れも迷いも無かった。
 強い風が吹き込み、芝生に波を形造ると、娘が身に着けた黒いコートも同じようにはためく。娘が身に着けている服はそのコートのみであった。薄い布のコートにはボタン等の固定具はついていない。その為ベルトで直接、娘の身体に固定している。固定しているのは腕と腰だけだ。娘が大きく動けば当然コートははだけ、その素肌を晒す事になるだろう。

 腰のベルトには一丁のリボルバー拳銃が差し込まれている。リボルバーには五発の弾丸が装填され、短い銃身に対し大きな銃口が特徴的だ。リボルバーのグリップにはアルファベットの文字が刻まれていた。マナ、それが娘の名前だった。

 素足を樹液で濡らしながら、黒い大海のような草原をマナは歩いていた。

 ただ、ひたすらに草原を直進するマナ。進みにくい地形にぶつかれば迂回し、また直進する。マナの旅はいつもそうだ。地図や現在位置を持たぬマナには直進と迂回、その二つしか選択肢は無い。傍から見れば、あても無く彷徨っているように見えるだろう。実際に、目指す場所が明確にある訳では無かった。

 だが、目的はある。それはマナが持つ一冊の本だ。

 本は辞書を思わせる分厚いもので、高級感のある白色の動物の皮で装丁されている。管理状態も良く、前の所有者がこれを丁寧に扱っていた事が窺い知れる。

 本の題名は第Ⅳ聖典。

 これは沼に沈んだとある町にある『光ある蟲の教会』より回収した本だ。マナがこの本を回収してから暫くたつが、マナはそのタイトル以外に目を通していなかった。

 マナは、自分で本を読まない。それは彼女の中にある重要なルールだった。

 親殺し、人食い、近親相姦。

 人間の場合は主にこの三つだろう。通常、禁忌とされる行為だ。マナにとって読書はそれに匹敵するほどのダブ―なのであった。

 とにかく、本は読まない。だがその中にある情報は知りたいと思っている。その為、マナは、代わりに本を読んで貰おうとしていた。自分以外の誰かに。本の中身を知る為にマナは集落を探していた。

 集落という言葉は人が集まって暮らしている土地全般を指している。町であろうが洞穴だろうが、人が住んでいるという意味を込めて集落と呼ばれる。
 村や、町やらといった大小の分別は既に廃れそういった言葉はその土地を指す固有名詞として残るだけだった。


 マナの近くで芝生が大きく揺れ動く。風のせいでは無い。マナは足を止め、周囲を注意深く観察しようとした。

 何か居る。
 そう認識した時には全てが遅かった。

ぶぅん!

 草陰より、黒い影が飛び出す。一凪の重い衝撃にマナは尻餅をついた。遅れて鋭い痛みが腕に走った。

 咄嗟に突き出した腕に一匹の狼が噛みついていた。狼は腕に噛みついたまま倒れたマナの上に乗ると、噛む力を強め、牙を肉に食い込ませていく。噛まれたのは左腕だ。
 激しい息づかいが直に感じられ、充血した赤い目には強い饑餓への衝動が宿っている。

 このまま腕を食いちぎる気だ。

「はぁあああ!」

 マナは力任せに噛まれた腕を振り上げ、狼を振り払おうとする。苦し紛れの抵抗であったが、狼は意外な程軽く、それは成功した。

 ぶちっ。

 あっけなく、放り飛ばされた狼だったが、腕を放す事はなかった。マナの腕の肉片を引きちぎり、それを咥えたまま狼は草原を転げる。
 芝生がクッションとなるとはいえ、受け身もとらず地面に激突するその姿は野生動物の身のこなしとはとても思えない。

 だが、チャンスだ。

 マナは素早く起き上がり、ベルトからリボルバーを引き抜いた。

 銃口を狼に向ける。
 狼はこちらに背を向けていた。追撃も逃走もせずに先ほど食いちぎったマナの肉片を夢中で頬張っている。

 その狼には毛が生えていなかった。身体は異常なほど痩せ細り、骨に皮が張り付いているようだった。皮膚の上には太い管が浮き上がり、全身に張り巡らせられている。一見すると血管のように見えるが、よく見るとそれは血管では無かった。
 狼の皮膚に張り巡らされているそれは、植物の根だ。根は、全身に張り巡っており、それを辿ると皮膚を裂き発芽した緑の葉を見つけられた。

 寄生だ。
 この植物は狼の体に根を張り、その栄養を収奪しているのだ。狼が異常に痩せているのはこれが原因なのだ。限界まで栄養を奪われ、飢餓に支配された狼は、既に正常な判断能力を失っているのだろう。だからこうして敵を前にしているにも関わらず、食事に没頭しているのだ。だが、せっかく食べた肉も、その養分を植物に奪われ、狼の飢えが満たされる事は無い。

「憐れね」

 マナがじっくりと観察できるほどに、狼は食事に没頭していた。外敵、または大きな獲物に背を向け、ひたすらに肉を頬張る。マナの事など既に忘れてしまっていのかもしれない。

 マナは銃を構えたままゆっくりと後ずさる。逃げようとするマナに狼は反応しない。

 銃は、出来るなら使いたくないとマナは考えている。狼は1匹では無いはずだ。銃声はよく響く。大きな音を立てれば狼を集めることになるかもしれない。
 そもそも弾数は限られている。狼の群れを相手取るには五発というのはあまりにも少ない。
 
 使わずに済むなら、それがいい。

 それに、本を持っている今、派手な戦闘は避けたい。一番の理由、マナの本心がそれだった。マナがもし本気で戦えば、本の無事は保証できないだろう。

 本を、その中身を知る前に失いたくはない。


「さて、どうしましょう」

 目の前の狼は食事に夢中。今なら、これ以上の傷を追わずに逃げられる筈だ。

 腕から血を流したまま、その場から離れるマナ。狼は流石に気づいたのか、一度だけ顔をこちらに向けたが、結局はマナを追いかける事はなかった。

 その、様子にマナは漠然とした不安のようなものを感じたが、その正体を考えようとはしなかった。




 マナが異変に気づいたのはそれから半日ほど歩いた頃だ。狼に襲われた腕の傷にに茶黒い粒が見えている。
粒は幾つもあり、傷の断面にぶつぶつと顔を覗かせている。
 指で傷口をえぐり、粒を摘出してもまた時間が経つとまた新たな粒が現れる。それは植物の種子によく似ていた。

 三日ほど経過した頃には、怪我した左腕の至る所に種子が見られるようになった。皮膚を撫でると出っ張りに当たり針を刺すような痛みが走った。

 マナは確信する。この無数の種はマナの栄養を使い成長しているのだ。種が発芽すればたちまちに根を張り、あの狼のような姿になるのだろう。

 あの時マナを襲った狼の行動を思い出し、マナは苦々しく笑う。

「やられたわね」

 誰に言うまでも無くぼそりと呟き、ため息を吐く。

 あの狼が、マナに手傷を追わせながらも、追撃を行わなかった理由が分ったのだ。

 それは、狼の行動が植物によって支配されていたからに他ならない。
 あの時にマナを追わなかったのは腕の肉を噛みちぎった時点で、いや腕に噛みついた時点で狼はその役目を果たしていたのだ。あれ以上の攻撃は致命傷につながり、獲物を殺してしまう。だから狼は追撃をする事が出来なかった。
 狼の役目とは、植物の種付けだ。
 獲物が生き続ければその分より多くの栄養を植物は得ることが出来き、その種の繁栄へと繋がる。そして、植物に身体を犯された者はその思考を支配され、植物の繁栄の為の行動を取らされる。
 それはきっと本能すら押さえ込む、強力な支配なのだろう。犠牲者達は満たされるこの無い饑餓に苦しみながら、一生を植物の手先として生きる事になるのだ。

 マナは種の摘出が無駄だと悟ると、まだ動ける内に先へ進もうと歩き始めた。
 周囲には背の低い木々がちらほらと見える。もうすぐ草原を抜けるはずだ。

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