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エル・ヌーバ号(完)
堕落の黒霧
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薄暗い闇はどこまでも続いていた。
天を見上げる人々はその底知れぬ暗さに絶望し、霧の中を歩む人々はその瘴気に飲まれ果てていった。
黒霧。いつの日か、それは人々の頭上にあった。その恐ろしさは誰もが知っていた。人は産まれたときからこの黒霧に脅かされ、犯され、蝕み、一生を終えるのだ。
空を見上げる。
黒霧が渦を巻いていた。その動きは実にゆっくりとしたものに見えるが、それは黒霧が空高くにあるからそう見えているだけだ。とてつもない速度で黒霧が廻る。渦巻く黒霧が暴風を引き連れてうねり、重々しい音を響かせる。
それはこの世の終わりのような光景だった。
黒霧の渦はゆっくりと高度を下げている。地上に近づいている。徐々にその先端を伸ばし降り立つ様子は次々に足場が出現する螺旋階段のようにも見えた。天から地へ落ち行く階段。それは見るものへ楽園からの追放を暗示させた。
故にこの現象は堕落の黒霧と呼ばれている。
黒霧の中では、人間を始めとする耐性を持たない生物は生きられない。黒奈落により、霧の降り立った土地の生態系は死に絶え植物は枯れ果てる。残るのは悍ましく変質した異形共の楽園だ。
黒霧の発生以降人類は、奈落によってその生存圏を大きく狭められた。そしてそれは今も尚、続いている。
「あーあ、後もうちょっとで集落だったのに」
黒霧の堕落の様子を遠巻きに見ていたアトラスがため息をついた。丘の上に立ち、双眼鏡を片手に堕落を観察している。
丘は堕落が発生している地点からは距離があり、その影響を受ける事は無い。だが、遠いかと言えばそうでもない。徒歩一週間ほどといった所だろう。
地図からその事実を読みとっていたアトラスの頬には僅かに冷汗が浮かんでいる。丁度一週間ほど、アトラスは歩みを止め、この丘に滞在していたのだ。
旅の同行人であるマナの提案によって。
「黒霧。第Ⅳ聖典によれば黙示録以前は無かったのよね。黒霧が無い世界はどんな景色だったのかしら」
堕落を眺めながらマナは呑気なことを言う。木の幹に背を預け、脱力している。
丘への滞在。それはマナへ、第Ⅳ聖典を読み聞かせる為であった。地図上に存在する集落を目前にしたマナはその前に本の内容を知りたいと言い出した。
マナは本を読まない。文字が読めないわけでは無く、読まない。ポリシーのようなものだとアトラスは聞かされていた。アトラスにはよく分からなかったがその変わった拘りに、深くは突っ込まなかった。
アトラスはマナの提案を快く承諾した。
実のところ、アトラスもマナの持つ本、第Ⅳ聖典を読んでみたいと思っていた。
その理由は第Ⅳ聖典と呼ばれる本の存在を知っていたからに他ならない。
生まれ故郷の集落を統括していた神父がその本を持っていたのをアトラスは覚えていた。
神父は様々な奇跡を齎し、集落を支えた。奇跡なくして集落の存続は不可能だった。アトラスの持つ獣避けの加護もその神父の力によるものだ。
絶大な力を持った神父に集落の皆が追従した。彼らは皆、一様に祈りを捧げた。その祈りは統一信仰と呼ばれていた。遠い異邦の何処かの祈り。
統一信仰も、第Ⅳ聖典も元々集落にあったものではない。アトラスの祖父が、その若かりし頃に行った旅で見つけてきたものであった。
アトラスの旅の目的は地図の更新だ。地図が作られたのは祖父の時代よりも遥か前、百年以上、遠方であればさらに古い時代である。その地図を確かめ、改める為にアトラスは故郷を出たのだ。
だが、故郷に大きな変化をもたらした第Ⅳ聖典との再会。そして、そこへ記されていた楽園なる土地。人類が人類らしく暮らせる最後の縁。
マナと共に第Ⅳ聖典を読破した事により、アトラスの目的はその探究に置き換わりつつあった。
双眼鏡から目を離すとアトラスはマナに向き直った。マナはアトラスが道を指すのを待っている。奴隷市街を出てからというものマナは旅の進路をアトラスに一任していた。
当然であろう。アトラスの地図と目的地までのルート作成能力は旅を円滑に進める上で必要不可欠の要素だ。
これまでのマナの一人旅は直進と迂回のみ、どこを歩いているのか把握もしていない。直感的なルート選択は効率が良いとは言えず、同じ場所を彷徨う事さえあった。
それに比べ、集落から集落へ移動するアトラスのスタイルは理にかなっていた。最初の頃は先頭を歩いたマナも今ではすかっりアトラスの後ろを歩くようになっていた。
そもそもマナが集落を目指していた理由は第Ⅳ聖典を読んでもらう事だった。そして、それはアトラスが既に達成した。元より、マナの旅に明確な目的地は無い。目的が済んだ以上、マナにはアトラスの決定に口を挟むだけの意義は無かった。
「とにかく黒霧が降りた以上、あっちには進めない」
「どうするつもり?」
「ちょっとまってて」
アトラスは小型の拳銃をとり出した。銃身は長方形の箱のような形をしており、上面には黒いディスプレイが備えられている。銃口には円筒状の矢尻のようなものが差し込まれている。ディスプレイのスイッチを入れると筒部分が赤く発光した。
アトラスは銃口を空へと向け、引き金を引いた。ぱんっと乾いた音が響き、赤く光る弾が空高く登っていく。赤い光点は黒霧の中へと消える。
暫くした後、ディスプレイに二つの数字が表示された。
『17.32, 33.77』
数字を確認したアトラスはそれを地図へと書き込んでいく。アトラスの持つ地図には地形や建物の描写と共に、幾つもの数字が書き込まれていた。
この二つの数字は位置を表す座標だ。アトラスは座標によって現在地を確認し、目的地までのルートを決めているのだ。
「それ便利よね。それも旧時代の技術って奴?」
「そう。黄金郷製のね」
この特殊な拳銃は座標を知る為の機械で、前の持ち主であるアトラスの祖父はこれを衛星通信機と呼んでいた。曰く、滅びた帝国、黄金郷より発掘されたものだそうだ。
黒霧の遙か上空。空の上にはかつて人類が打ち上げた人工衛星が今も尚稼働しているとされている。座標はその人工衛星より受信される。かつて人工衛星との接続には何の制限も無く、万人が座標を手にしていた。しかし、現在は黒霧によってその利用は大きく制限されてしまっている。
通常、機械電波は黒霧を通過出来ない。その為、この機械の発明者は、受信機を黒霧の上へと打ち上げる事で、人工衛星との通信を試みたのだ。火薬によって打ち上げられた小型の受信機は、その推力で黒霧の層を突破すると、座標を人工衛星より受け取る。その後、推力を失った受信機は再び黒霧の層を通り抜け、地表へと落下する。その際に衛星通信機本体へと座標データは転送され、使用者は自分の現在地を座標として知る事が出来るのだ。
このような知識をアトラスは知ってはいた。しかし、それを理解してはいない。人工衛星なる存在も、電波の概念もアトラスにとっては漠然とした存在であり、有り体に言ってピンと来ないものであった。アトラスへこの衛星通信機を渡し、その知識を語って見せた祖父も理解していた訳では無いだろう。
結局はよく分らない物をよく分らないまま使っているに過ぎない。それでも過去の叡智は、確実にその断片を継承していた。
『技術は人の為に在る』
黄金郷にまつわる文献では、この言葉が繰り返し使われている。
「決まったかしら?」
地図と数字と睨めっこしているアトラスへ、いいかげん待ちかねたマナが声をかける。彼女の思考が遠く離れ、物思いにふけ始めた事を察したのだ。間延びした唸り声を出してアトラスが顔を上げた。
「堕落の範囲計算してみたんだけど、北部の集落は全部飲み込まれてるかもしれない」
「予定では集落は幾つ?」
「四つ。この先は川の合流地点になってるから土地が豊穣で人が多く残ってた。数ヶ月ぐらいかけて回る計画だったけど中止だね」
「百年前は、でしょう?元より集落が残ってるかは期待半分って話だったわよね」
「まぁね。でも近場のアテは無くなったから暫く人工物はお預けかな」
「それで進路は?次はどこを目指すのかしら」
アトラスは地図をマナに向けピシッと指で進路をなぞった。
「西だね。ここからひたすら西に進めばまた川に合流できる」
「なら決まりね。道案内任せたわよ」
「了解、ボディーガードよろしく」
二人の役割は決まっていた。マナにとってその関係は心地良いものであった。
天を見上げる人々はその底知れぬ暗さに絶望し、霧の中を歩む人々はその瘴気に飲まれ果てていった。
黒霧。いつの日か、それは人々の頭上にあった。その恐ろしさは誰もが知っていた。人は産まれたときからこの黒霧に脅かされ、犯され、蝕み、一生を終えるのだ。
空を見上げる。
黒霧が渦を巻いていた。その動きは実にゆっくりとしたものに見えるが、それは黒霧が空高くにあるからそう見えているだけだ。とてつもない速度で黒霧が廻る。渦巻く黒霧が暴風を引き連れてうねり、重々しい音を響かせる。
それはこの世の終わりのような光景だった。
黒霧の渦はゆっくりと高度を下げている。地上に近づいている。徐々にその先端を伸ばし降り立つ様子は次々に足場が出現する螺旋階段のようにも見えた。天から地へ落ち行く階段。それは見るものへ楽園からの追放を暗示させた。
故にこの現象は堕落の黒霧と呼ばれている。
黒霧の中では、人間を始めとする耐性を持たない生物は生きられない。黒奈落により、霧の降り立った土地の生態系は死に絶え植物は枯れ果てる。残るのは悍ましく変質した異形共の楽園だ。
黒霧の発生以降人類は、奈落によってその生存圏を大きく狭められた。そしてそれは今も尚、続いている。
「あーあ、後もうちょっとで集落だったのに」
黒霧の堕落の様子を遠巻きに見ていたアトラスがため息をついた。丘の上に立ち、双眼鏡を片手に堕落を観察している。
丘は堕落が発生している地点からは距離があり、その影響を受ける事は無い。だが、遠いかと言えばそうでもない。徒歩一週間ほどといった所だろう。
地図からその事実を読みとっていたアトラスの頬には僅かに冷汗が浮かんでいる。丁度一週間ほど、アトラスは歩みを止め、この丘に滞在していたのだ。
旅の同行人であるマナの提案によって。
「黒霧。第Ⅳ聖典によれば黙示録以前は無かったのよね。黒霧が無い世界はどんな景色だったのかしら」
堕落を眺めながらマナは呑気なことを言う。木の幹に背を預け、脱力している。
丘への滞在。それはマナへ、第Ⅳ聖典を読み聞かせる為であった。地図上に存在する集落を目前にしたマナはその前に本の内容を知りたいと言い出した。
マナは本を読まない。文字が読めないわけでは無く、読まない。ポリシーのようなものだとアトラスは聞かされていた。アトラスにはよく分からなかったがその変わった拘りに、深くは突っ込まなかった。
アトラスはマナの提案を快く承諾した。
実のところ、アトラスもマナの持つ本、第Ⅳ聖典を読んでみたいと思っていた。
その理由は第Ⅳ聖典と呼ばれる本の存在を知っていたからに他ならない。
生まれ故郷の集落を統括していた神父がその本を持っていたのをアトラスは覚えていた。
神父は様々な奇跡を齎し、集落を支えた。奇跡なくして集落の存続は不可能だった。アトラスの持つ獣避けの加護もその神父の力によるものだ。
絶大な力を持った神父に集落の皆が追従した。彼らは皆、一様に祈りを捧げた。その祈りは統一信仰と呼ばれていた。遠い異邦の何処かの祈り。
統一信仰も、第Ⅳ聖典も元々集落にあったものではない。アトラスの祖父が、その若かりし頃に行った旅で見つけてきたものであった。
アトラスの旅の目的は地図の更新だ。地図が作られたのは祖父の時代よりも遥か前、百年以上、遠方であればさらに古い時代である。その地図を確かめ、改める為にアトラスは故郷を出たのだ。
だが、故郷に大きな変化をもたらした第Ⅳ聖典との再会。そして、そこへ記されていた楽園なる土地。人類が人類らしく暮らせる最後の縁。
マナと共に第Ⅳ聖典を読破した事により、アトラスの目的はその探究に置き換わりつつあった。
双眼鏡から目を離すとアトラスはマナに向き直った。マナはアトラスが道を指すのを待っている。奴隷市街を出てからというものマナは旅の進路をアトラスに一任していた。
当然であろう。アトラスの地図と目的地までのルート作成能力は旅を円滑に進める上で必要不可欠の要素だ。
これまでのマナの一人旅は直進と迂回のみ、どこを歩いているのか把握もしていない。直感的なルート選択は効率が良いとは言えず、同じ場所を彷徨う事さえあった。
それに比べ、集落から集落へ移動するアトラスのスタイルは理にかなっていた。最初の頃は先頭を歩いたマナも今ではすかっりアトラスの後ろを歩くようになっていた。
そもそもマナが集落を目指していた理由は第Ⅳ聖典を読んでもらう事だった。そして、それはアトラスが既に達成した。元より、マナの旅に明確な目的地は無い。目的が済んだ以上、マナにはアトラスの決定に口を挟むだけの意義は無かった。
「とにかく黒霧が降りた以上、あっちには進めない」
「どうするつもり?」
「ちょっとまってて」
アトラスは小型の拳銃をとり出した。銃身は長方形の箱のような形をしており、上面には黒いディスプレイが備えられている。銃口には円筒状の矢尻のようなものが差し込まれている。ディスプレイのスイッチを入れると筒部分が赤く発光した。
アトラスは銃口を空へと向け、引き金を引いた。ぱんっと乾いた音が響き、赤く光る弾が空高く登っていく。赤い光点は黒霧の中へと消える。
暫くした後、ディスプレイに二つの数字が表示された。
『17.32, 33.77』
数字を確認したアトラスはそれを地図へと書き込んでいく。アトラスの持つ地図には地形や建物の描写と共に、幾つもの数字が書き込まれていた。
この二つの数字は位置を表す座標だ。アトラスは座標によって現在地を確認し、目的地までのルートを決めているのだ。
「それ便利よね。それも旧時代の技術って奴?」
「そう。黄金郷製のね」
この特殊な拳銃は座標を知る為の機械で、前の持ち主であるアトラスの祖父はこれを衛星通信機と呼んでいた。曰く、滅びた帝国、黄金郷より発掘されたものだそうだ。
黒霧の遙か上空。空の上にはかつて人類が打ち上げた人工衛星が今も尚稼働しているとされている。座標はその人工衛星より受信される。かつて人工衛星との接続には何の制限も無く、万人が座標を手にしていた。しかし、現在は黒霧によってその利用は大きく制限されてしまっている。
通常、機械電波は黒霧を通過出来ない。その為、この機械の発明者は、受信機を黒霧の上へと打ち上げる事で、人工衛星との通信を試みたのだ。火薬によって打ち上げられた小型の受信機は、その推力で黒霧の層を突破すると、座標を人工衛星より受け取る。その後、推力を失った受信機は再び黒霧の層を通り抜け、地表へと落下する。その際に衛星通信機本体へと座標データは転送され、使用者は自分の現在地を座標として知る事が出来るのだ。
このような知識をアトラスは知ってはいた。しかし、それを理解してはいない。人工衛星なる存在も、電波の概念もアトラスにとっては漠然とした存在であり、有り体に言ってピンと来ないものであった。アトラスへこの衛星通信機を渡し、その知識を語って見せた祖父も理解していた訳では無いだろう。
結局はよく分らない物をよく分らないまま使っているに過ぎない。それでも過去の叡智は、確実にその断片を継承していた。
『技術は人の為に在る』
黄金郷にまつわる文献では、この言葉が繰り返し使われている。
「決まったかしら?」
地図と数字と睨めっこしているアトラスへ、いいかげん待ちかねたマナが声をかける。彼女の思考が遠く離れ、物思いにふけ始めた事を察したのだ。間延びした唸り声を出してアトラスが顔を上げた。
「堕落の範囲計算してみたんだけど、北部の集落は全部飲み込まれてるかもしれない」
「予定では集落は幾つ?」
「四つ。この先は川の合流地点になってるから土地が豊穣で人が多く残ってた。数ヶ月ぐらいかけて回る計画だったけど中止だね」
「百年前は、でしょう?元より集落が残ってるかは期待半分って話だったわよね」
「まぁね。でも近場のアテは無くなったから暫く人工物はお預けかな」
「それで進路は?次はどこを目指すのかしら」
アトラスは地図をマナに向けピシッと指で進路をなぞった。
「西だね。ここからひたすら西に進めばまた川に合流できる」
「なら決まりね。道案内任せたわよ」
「了解、ボディーガードよろしく」
二人の役割は決まっていた。マナにとってその関係は心地良いものであった。
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