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エル・ヌーバ号(完)

エル・ヌーバ号

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 それから二人は十日ほど西へと歩いた。
 幾つかの山脈と、薄く広がる湖を超えた先で、マナとアトラスは念願であった集落を発見した。

 集落は皿のように広がる切り立った丘の麓、湖の上に築かれていた。
 重く巨大な金属の塊でそれは造られていた。浅い湖の底に身を埋もれさせ、二度と動くことの無い。
 釘打ちされた看板がこの集落の銘を綴っていた。

『エル・ヌーバ号』 

 この集落は、打ち上げられた船をそのまま住処に利用しているようだ。

 本来水面に浮かんでいるはずの船だが、湖はあまりにも浅く船底に備え付けられたスクリューも三分の一ほどしか浸かっていない。
 丘の岩肌には苔跡が染み付いており、湖のかつての姿を連想させた。湖は長い時間をかけてゆっくりと干上がっているようだ。

 船の上には増築された建物が何層も連なり異様なシルエットとなっている。無秩序な増築は船の重心を著しく傾けていた。例えもう一度、この船が水上に浮かんだとしてもたちまち横転し、沈んでしまうだろう。

 エル・ヌーバ号。それは地図には載っていない集落であった。思わぬ遭遇にマナ頬を緩ませる。思えば久々の人工物であった。
 感傷に浸りかけたマナを他所にアトラスが衛星通信機を打ち上げた。銃声は静かな湖に響き渡り、水面に僅かに波紋を広げた。慌ててマナが手を取る。それは二人の存在をあまりにも主張しすぎる行為だ。

「ちょっと」
「大丈夫だよ、多分ここも死んでる。人が居たらこんなには近づけない」

 アトラスはあっさりとそう言うや地図を広げ、現在地の様子を書き込んでいく。確かに船上は静まり返り、物音一つ聞こえない。生物の気配は感じ取れなかった。
 銃声に反応する気配は無い。この船上の集落は無人であった。


「せっかく見つけた集落なのに残念ね」
「生きた集落なんてそうそう無いし。マナだって今まで旅してきたんでしょ?」
「貴方ならもっと嘆くかと思ってたわ」
「集落は日々減っている。地図に載ってる集落がいくら大きくて発展してても黒霧が降りればおしまいだしね。まだ歩いて入れる分、今回は十分運が良い方だよ」
「それもそうね」

 地図に夢中のアトラスを他所にマナはエル・ヌーバ号をまじまじと眺める。ふと、あるものに気がついた。


「あれは…」

 エル・ヌーバ号の周囲には木組みの足場があり、船内へ登る為の梯子が取り付けられている。その一つに赤黒いものが見えた。よく近づいて見ると、それが死体である事が分かった。女の死体だ。手を滑られたのか転落したようで頭が潰れ、顔が判別できないほど損傷している。

「まだ新しいわね」

 死体の半身は湖に浸かり、その肉を小魚の類がつついている。腐敗も進み、骨が見え隠れしているが、生前の面影が分かる程度には残っている。死後、一週間といった具合だろうか。

「ねぇマナ、ちょっと来て」

 アトラスが呼んでいる。彼女はしゃがみ込んで湖を見ている。湖の水はけして綺麗とは言えない黄ばんだ色をしていたが、それでも膝の半分ほどの深さの水底が見えない程濁っては居なかった。
 湖の底には小さな果実が落ちていた。一つだけではない。それは転々と続き、北に向かって何者かの足跡を残していた。

「一足遅かったってやつかしら」
「そうみたいだね。ここはもぬけの殻だ。追いかける?」
「いえ、まずはこっちを調べましょう」 

 二人は梯子を登り、船内へと入り込んだ。
 船内は繰り返された改築のおかげで、複雑に入り組んでいた。通路は部屋に押しつぶされ、半身でやっと入れるかといった様子だ。場所によってはしゃがんだり、よじ登ったりする必要もありそうだ。思わず足が止る。船内は狭く見通しが悪い、そして何より満ちた濃い死臭がこれ以上進む事を躊躇わせた。

 エル・ヌーバ号へ入り込んだ二人を待ち受けたのは死体だった。梯子へ降りた丁度そこへ、上半身だけになった女の死体が転がっていた。死体には虫が群がり、下半身は見当たらない。空気に充満する死臭の濃さから死体は一つや二つでは無いだろう。入り組んだ地形に隠れているだけで進めば進むだけ、死体が転がっているだろう。


「うぇ、酷い匂い」

 臭いに耐えかねたアトラスはバックからガスマスを取り出して身に付ける。以前に拾ったものらしく、アトラスが身につけるにはやや大きかった。

 こういったアトラスの小道具は大半が収拾物だそうだ。アトラスは集落から集落へ地図の更新をしながら移動し、役立ちそうな物を拾っている。

 それは、マナにはできない事であった。

 マナの能力。死体の爆発と死体からの復活。マナの周囲ではあらゆる死体は一撃必殺の武器となり、それはマナの身体も含まれる。

 マナは自分の死をトリガーに爆発を引き起こす事により、相打ちと迅速な復活を得意としてきた。この能力の前では誰もマナを殺せない。一方的に爆死の連鎖に巻き込まれるだけである。だが、この能力には欠点があった。それは爆発という攻撃手段だ。爆発は銃と違い、敵味方の分別が付かない。無闇に使えば仲間を巻き込んでしまう。不死身とも言えるマナの能力であったが、万能には程遠い極端な力であった。

 この能力のお陰でマナは危険な世界を大胆に進む事が出来るのだが、荷物を持ち歩く事が出来ず、服もまともに着られない。爆発に耐えれるのはマナの所有物であるリボルバー拳銃と、特異な耐性を持つコートだけだ。それ以外の物は拾ったそばから破壊に巻き込んでしまうだろう。
 
 マナが持っていた第Ⅳ聖典も、今ではアトラスの持ち物の一つであった。思えば、アトラスに出会うまで本が無事であったのは幸運な事だ。
 マナの持つリボルバーは威力こそ絶大だが、弾数と連射性に難がある。アトラスの主武装であるライフルも十全とはいいがたい。仮にアトラスの持つ獣避け加護が掻い潜られた場合、マナは爆発の能力の使用を余儀なくされただろう。
 そうなれば、持ち物の無事が保証出来ないどころか、アトラスに危険が及ぶ可能性が高い。
 アトラスとの二人旅はマナに慎重さを意識させた。一人旅とは勝手が違う。それをマナは理解していたが、元より、気になる物につられ、ふらふらと彷徨うように旅をしていたマナだ。慎重にはなるが、好奇心を抑えようとはしなかった。
 
 死体にまみれた土地、分りやすいレットゾーンであるこのエル・ヌーバ号。マナの興味が惹かれないはずがなかった。


「もう少し見てみましょう」
「いいよ」

 二つ返事でアトラスが即答する。ガスマスク越しにその目を輝かせている。彼女も同じ穴のムジナ。危険な世界を旅する者同士、アトラスもマナと同じ気質を持っていた。命の理を無視するようなマナの能力を見た後でも気にせずマナを仲間として迎え入れたアトラスだ。恐い物知らずの無鉄砲とは彼女のような者の事を言うのだろう。
 アトラスにとってマナは自分より強い仲間。それだけの事だった。


「でも気をつけて。滅んだばかりが一番危険って言うから」
「死体を見れば分るわ。ここに何かが居たわ」


 死体は外と同じく新しい。外にあった死体は転落事故のように見えたが、船内の死体はそうではなかった。目の前の身体を上下に切り離された女の死体。とても人間の仕業とは思えない。もっと凶悪な存在がこの船内の何処かにいる筈だ。

 無秩序に入り組んだ船内を進んで行くマナとパティ。先には予想の通り死体まみれで、狭い通路に引っかかった遺体を引き剥がしながら進んでいく必要があった。こう言った作業はもっぱらマナが担当していた。アトラスは歩いている間もマッピングに務め、地図を作りながら進んでいる。地図を汚しかねない行為は避ける必要あった。

 船内を進む二人は一風変わった部屋へ辿り着いた。
 部屋を包む重い空気に二人は足を止めた。
 暗い船内通路や他の部屋と違いここは光に溢れている。
 壁の中に照明が埋め込まれたのだ。照明の光は同じく壁に埋め込まれたステンドグラスによって虹色に輝く。
 室内はステンドグラスによって写し出される幻想的な光に包まれていた。
 どちらかといえば縦長の部屋。その奥には美しい黄金色の鐘が見え、その下には小さな祭壇が置かれていた。
 部屋の入り口ある銅プレートにはここが何であるかが刻まれていた。

『教会部屋』

 ここは船内に造られた教会部屋。住民達の祈りの場。ここだけは改築がなされなかったようで、他の部屋と比べても広い。余計な階段や扉も見当たらない。

「ねぇ、これって……」

 アトラスが足元に落ちていた本を拾い上げる。本は破られ、ボロボロであったが、それはマナにも見覚えのあるものだった。

「第Ⅳ聖典!」

 ひどく損傷し、表紙を落書きされている点を除けば、それはマナ達が持っていたものと同じものだった。

「私の故郷にもあったって言ってたっけ?」
「聞いたわ。案外ベストセラーなのかもしれないわね」
「誰かが配ってるのかもよ?」
「なんにせよ、ここが起点ね」
「うん、それは間違いない」

 教会部屋の異様さは人目見れば明確だった。
 天井や床に見える破壊の跡。赤黒い血で塗り粒された絵画。天井からは麻袋を被せられた死体が吊るされ、ぽたぽたと赤い雫を垂らしている。

 そして何より床に描かれた魔法陣がこの部屋の異常性を物語っていた。部屋全体を囲むような大きな魔法陣。引かれた線の上には人外の文字が綴られている。それを見ていると心がざわつき、焦燥感に駆られる感覚を覚えた。二人はこれはただの図でもシンボルでも無い事を一目で理解した。
 
「これ本物だよね?」
「えぇ力を感じるわ……でも」

 周囲にはぐねぐねと絡み合う人の形をした奇妙な蝋燭が並べられている。蝋燭は既に半分ほど、溶けていて火は消えている。魔法陣を描く黒い染料は床に根を張ったように染みつき、擦った程度ではにじませる事すら出来ないとさえ思えた。部屋へ深く結びつき馴染んでいる。そう見えるのはこの魔法陣が既に完結しているからだ。
 ここで何かがあった。もう、起きてしまった。魔法陣に残る残滓がそう感じさせるのだ。

「発動済みの魔法陣か。今は何も起きないみたいだけど、集落の惨状はこれが原因ぽいよね。絶対ろくでもない」

「貴方って魔術とかの知識は明るい方かしら?」
「いや、残念ながら全然。私は魔術使えないし、魔術使いも見たことも無いしあった事も無いや」
「そうなの? 貴方の獣避けは? 造って貰ったって言ってたわよね」
「うん。神父様にね。でもこれは魔術じゃ無くて奇跡」
「奇跡? 魔術とどう違うのよ」
「えーとね、奇跡は統一教会の信徒に与えられた恩寵。悪魔から授かる魔術と違い、人の為の力……って感じ」

 説明に自信なさげなのはうろ覚えだからなのか、奇跡と魔術を分ける意味をアトラス自身が理解できてないせいか。アトラスは歯切れ悪く答える。

「貴方は使えるの?」
「奇跡を? 無理無理。私、信じてないもん。主による救いとか、天使の導きだとか。第Ⅳ聖典にあった楽園ってのには興味あるけどね」
「信じる事が奇跡の使用条件という訳でいいのかしら」
「たぶんね。それで、話は戻るけどこの魔法陣。奇跡関連でも無さそうだけど、マナは何か分かる?」
「私も魔術知識は乏しいわ。でもこの魔法陣からは信仰の要素が感じられるわ」
「信仰?」
「そうよ。悪魔崇拝とでも言えばいいのかしら。これを書いた人間は特定の悪魔に対する深い信仰心を持っているわ」

 床に描かれた魔法陣からは教会部屋の神聖さとは真逆のおどおどしい邪悪さが感じられた。教会には似つかわしくない存在だ。

「ってことは……統一教会の教会で悪魔を崇めたって事? ずいぶん挑発的だね」
「宗教対決でもあったのかもしれないわね」
「やっぱりここには何かがある。私はここを調べるからマナは上を見てきて」
「貴方がここに残るの? 一人で平気?」
「大丈夫。ここまで歩き回って何も出てこないなら私の獣避証拠だよ」

 そう言ってアトラスは胸元のネックレスを主張する。

「貴方って案外楽観的よね」
「まぁね。あと、はい。ここの地図」
「この短期間で良く描けたわね」

 アトラスが手渡した地図は二枚。
 一枚目はここに来る道中の地図だ。通ったフロアの様子が落ちていた死体の位置に至るまで描かれている。
 二枚目には簡単ではあるが、四階までを含む、エル・ヌーバ号全体のフロア図が描かれていた。重要な部屋の位置とそこへ行く為の道順が記されている。当然、マナ達はまだそこへ行っていない。今まで探索していたのは一階に相当するエリアのみだ。

「貴方、いつの間に四階まで行っていたの?」
「あくまで予想図、だけど多分あってると思うよ。あちこちにヒントはあったからね。目星い場所をマークしてるから回ってきて」
「さすがね。使わせて貰うわ」
「お土産期待しておくね」

 マナは手をひらひらさせて返事を返した。その足は、部屋の出口へ向かっている。別行動に賛同したのだ。
 アトラスが心配でないと言えば嘘になる。だが、惨劇の起点となる教会部屋の調査は必要に思えた上、魔法陣の解析はどちらも出来ない。

 部屋の調査に二人も要らないだろう。

 アトラスが手渡した地図には彼女が言っていた通り、幾つかの場所に印が入っていた。食料庫、金庫、船長室、といったように確かに重要そうなワードが並んでいる。マナはまず食料庫へと向う事にした。















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