聖女の兄は傭兵王の腕の中。

織緒こん

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孤軍奮闘と一番駄目な覚悟。

 なんだ、なにが起こった?

 コイツ、なんで寝室にいるんだ?

 ビア樽が俺にのしかかっている。重い。それだけじゃない、はあはあと気色の悪い息を俺の首に吹きかけてくる。脂でテカった口の周りが不潔だ。コイツ、手も洗っていないんじゃないか? シュウさんがこんな暴挙を許すわけがない。

 身体を捩って手足をばたつかせようとするが、大した効果はない。金的でも狙ってやるか。だがその前に、おっさんには聞いておかなきゃならないことがある。

「シュウさんになにをした⁈」
「なにをするかはお前の態度次第だよ」

 どうせどんな態度を取ってもゲスいことするんだろう。シュウさんはめちゃくちゃ綺麗な人だし、今は足が不自由で思ったように動けない。彼はおそらく特別な訓練をした侍従だけど、万全の体調じゃないんだ。どうしよう、どうすればいい? シュウさんは助けたい。でも彼の性格も立場も、俺が傷つくことを良しとしない筈だ。俺がビア樽に穢されたと知ったら、自殺しそうで怖い。こうなったらシュウさんが極めた(はずだ!)特別な訓練を信じて、とことん抗ってやる。

 ジージョエル侯爵の口の周りは食事の後でテカテカと油ぎっている。それとは別に額もおっさんの脂でテッカテカだ。いやマジ、生理的に無理。年齢はしょうがないが、せめて清潔にしろや! パニックが過ぎて阿呆なことを考える。自分の思考に笑えてくる。

 シャツブラウスの襟からリボンタイが引き抜かれ、ボタンを縫い付けている糸が引きちぎられた。結構な馬鹿力だ。俺の胸元を寛げるために、ビア樽が上半身を持ち上げた。暑苦しい体温が離れて、隙間に涼しい空気が通り抜ける。少し身体の可動域が増えた。よし、足が動く。

 俺に跨っているジージョエル侯爵は、お誂えに両膝を開いている。その隙間にあるのは俺の膝頭だ。

「ぎゃあああぁッ」

 叫びたいのはこっちだ! おっさんは唾を飛ばしながら再び俺にのしかかって来た。今度は半分白目を剥いて。重過ぎて胸が詰まる。背中が柔らかなマットレスに沈んだおかげで肋骨をやられずに済んだ。膝に感じたゴリュッとしたヤツのブツの感触も気持ち悪いし、耳元でヒィヒィと泣き声を漏らすのも最悪だ。

 それにしても大失敗。痛みで転げ回って俺の上から退けると思ったのに、ビア樽は自分の身体が支えられなくてこっちに倒れ込んできてしまった。このまま痛みが引いたら、烈火のごとく怒りを撒き散らしそうだ。

 一周まわって変に冷静になっている。身体が勝手に震えているのは気のせいだ。怖くなんかない。武者震いってことにしておこう。眦がぼやけてくる。恐怖を怒りに変えてぐっと涙を飲み込む。泣くのも喚くのも後でいい。俺が泣いていいのはギィの傍だけだ。おっさんの前でなんて、絶対に泣いてやるもんか。

 視線を巡らせると、シーツの上に皿がひっくり返っているのが見えた。おっさんを押し退ける腕力はないが、皿を手繰り寄せるくらいなら出来そうだ。ちょっと遠い。指先に触れたのは串切りにされたオレンジだった。それを咄嗟に引っ掴み、握りつぶした。果汁が滴る。
「こんちくしょう!」
「うぎぁあぁッ!」
 酸味の強い果汁を溢れさせる果肉を、ビア樽の目に押し付けた。今度こそ侯爵は、大きな腹を揺すってのたうっている。俺の身体の上からどころか、ベッドからも転がり落ちていく。おっさんとは反対側に飛び降りて、広いバルコニーへ繋がるフランス窓を押し開いた。バサリと羽音がして、美しい鷹が飛来してきた。

「ヨーコちゃん!」

 さっきから窓をがつがつやってる音が聞こえてたんだ。左腕を掲げると、訓練通りに上手に乗った。訓練中に巻いていた手甲がないため、猛禽の力強い爪が腕にめり込む。声が出そうになってぐっと堪えた。ヨーコちゃんを怯えさせたくない。彼女は完璧に俺の元にやって来たんだ。

 俺は肩にかろうじて引っ掛かっていたリボンタイに、滲み出た血を擦り付けてヨーコちゃんの足に結びつけた。

「ギィに好きって伝えて」

 無理なのはわかっている。ヨーコちゃんは言葉を解さない。それでも呟かずにいられない。もう何日、何ヶ月、引き離されているんだろう。まだ大丈夫。もう辛い。相反する感情が胸を掻き回す。

「ギィのこと、好きって気持ちで頑張るから。ヨーコちゃん、行けゴー!」

 腕を掲げて鷹を送り出す。彼女は空高く舞い上がった。真っ直ぐに飛翔する姿はとても綺麗だ。

 そうしてヨーコちゃんが飛び去ってしばらくすると、地を這うような声がかけられて振り向いた。

「聖女よ。じゃじゃ馬が過ぎるぞ」
「俺がじゃじゃ馬なら、あんたは種馬か?」

 うっそりと姿を現したのは、確認するまでもなくビア樽のジージョエル侯爵だ。憎々しげに俺を睨んでいる。聖女だなんだと言いながら、俺を敬う気なんてこれっぽっちもなかったのがわかる。格下に思っていた小僧っ子に痛い目に遭わされて、プライドをいたく傷つけられたことだろう。

 どうせヤラれるなら、力の限り抵抗しよう。誰が見たって同意の欠片も見出せないよう、明らかな強姦にしてやる。聖女かもしれない俺を強姦したおっさんは、地位を失うだろう。……本当は、ここからバルコニーの柵を乗り越えて飛び降りてしまいたい。おっさんに身体を暴れたりしたら、死んでしまいたくなるのもわかっている。

「死ぬのはいつでも出来るさ」

 口に出したのは自分に言い聞かせるためだ。俺は死なない。絶対に生きて、ギィとミヤビンに会うんだ。

「聖女よ、こっちに来るのだ‼︎」

 ゆさゆさと腹を揺らして近付いてきたビア樽が俺の手首を掴んで引き倒した。日本人の平均、いわゆる中肉中背の身体は、ビア樽の巨体の前では紙ペラみたいなものだ。そのまま引き摺られて部屋の中に連れ戻される。化粧タイルで美しいモザイク画が描かれているバルコニーの床に擦れて、俺の衣服は呆気なく破れた。肩甲骨が直に床に触れてザリッといった。火傷でもしたか? ヒリヒリと痛いがその前に、腕を引っ張られているので肩が脱臼しそうだ。

「離せよ、おっさん! 誰かーーッ! ジージョエル侯爵が、子どもを拉致監禁して強姦しようとしてるぞーーッ‼︎」
「人聞きの悪いことを申すな‼︎」
「助けてーーッ!」

 精々哀れっぽく叫んでやる。近くに控えているだろう使用人は、俺が嫌がっていたって証言してくれるだろう。ギィのところから入り込んでる人たちだって、シュウさんと協力してどうにかしようとしてくれるはずだ。

 引き摺られながら、みっともなく足をバタバタと動かす。まるで駄々をこねる子どものような仕草だが、俺はいたって真剣に暴れている。抵抗されて引き摺り辛くなったのか、ビア樽が足を止めた。引っ張られすぎて限界ギリギリの痛みを訴えていた肩が、ちょっとだけ楽になる。

 ホッとしたのも束の間、ビア樽が足を振り上げたのが見えた。

「黙れ、このガキ!」
「カハッ」

 鳩尾に踵がめり込んだ。空気と一緒に変な声が口から漏れる。目の前が真っ暗になって、チカチカと星が散った。仰向けになったまま無防備な状態で、ビア樽に胸や腹を踏まれて蹴られる。あ、コレ、死んだな、と他人事みたいに不吉な予感が脳裏を掠めた。強姦は覚悟してたけど、生命の危険は感じてなかったな。むしろ俺が自分で死にたくなっても、全力で生かしにかかると思っていたよ。

 ビア樽の野郎、坊ちゃん育ちで喧嘩をしたことがないんだろう。いや、俺だってないけど、それにしたって遊びやスポーツを通して身体の痛みを知っている。このおっさんは自分の痛みに大袈裟で、他人の痛みはどうでもいいタイプだ。打ちどころが悪けりゃ相手が死ぬって、想像できないんだろうか。

 四肢をだらんと投げ出して、阿呆なことを考えた。俺の走馬灯がおっさんの人間性の考察なんて、最悪だ。だいたい走馬灯って今までの人生を振り返るものなんじゃないのか? どうせならギィに抱きしめてもらった記憶で思考を埋め尽くしたいのに。

 目が開けていられなくなって、痛みが遠くなる。意識が刈り取られる前に痛覚がなくなるっていいんだか悪いんだか。けぽって口からなんか出た。さっき食べた果物かな。血だったら、結構な惨状だよな。ビア樽の野郎、ザマァ見ろだ。聖女(かもしれない)幼気いたいけな子ども(しかも男)を暴行死だなんて、完全にアウトだろ?

 あぁ、ヨーコちゃんに持たせた血染めのリボンタイ、フラグだったのかなぁ。あのときは死ぬつもりじゃなかったのに予言かよ。

 いよいよ意識が遠のく。

 がちゃんがちゃんとうるさいな。誰か破壊活動でもしてるのか? もう、なんでもいい。

「なにをしておるのだ! 聖女は儂の花嫁だぞ‼︎」
「うるさいうるさい、うるさいッ! 此奴は儂を愚弄しおったのだ!」
「だからと言って、殺してしまっては我らの名分が立たぬぞ⁉︎」
「名分? そんなもの、聖女を傭兵団から攫って来ればいいのだ! あっちの聖女はまだ幼女だと言うではないか? ならば薬でもなんでも使って従順に育てれば良いわッ‼︎」
「うぬぅ。だがこれほどの美形、勿体無いではないか」
「それはそうだが、躾けはしてやらねば腹の蟲が治らんのだ‼︎」

 宰相が来たのか……。そんで、喧嘩を始めたわけだ。うるさいなぁ、静かにしてくれよ。もうちょっとで眠れそうなんだ──。

「この、腐れ外道どもがぁっ‼︎」

 ごぉっという音がして、風が吹き荒れた気配がする。カーテンが強くはためく音や、室内の装飾品が倒れるような音がする。

 なんだ、なんだ?

 俺はふわぁっと意識が浮遊するような錯覚に陥った瞬間、ストンと地面に落ちた。唐突にポッカリ目が覚めた。

 むくりと起き上がる。

「……痛くない」

 夢でも見ていたのか? でも白いシャツブラウスの胸にも腹にも、靴底の跡がバッチリついてる。手のひらでペタペタとあちこち触った。どこも痛くない。呆然としていると蛙がひしゃげたような声が聞こえて、俺の意識はそちらに移った。

「ふぎゃっ」
「ぎゃぼッ」

『ふぎゃ』はともかく『ぎゃぼ』はない。首を傾げながら声がした方に身体を向けると、箒のようなおっさんとビア樽のようなおっさんが、並んで宙に吊るされている。猫が首根っこを摘まれたみたいって言ったらわかりやすいだろうか。ただし何もない場所に浮いてるんだけど。

 そんで、そのおっさんたちを仁王立ちで見ている、すらっとした男の人……。

「助けてくれて、ありがとう?」

 見知らぬ男性に、俺は間抜けな表情かおをして礼を言ったのだった。

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