お天気雨と童歌

織緒こん

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 昨夜はほとんど眠れなくて、目をしょぼしょぼさせて起き出す。母さんは俺が遅くまで受験勉強をしていたと思ったのか心配そうにしていたが、すまん、アンタの息子は人間じゃない美人にうつつを抜かしている。さっさと朝飯をかっ喰らって土曜日にもかかわらず、平日よりも早く家を出る。休日なので適当にデニムパンツに長袖Tシャツの重ね着だ。

 何人かの顔も知らない後輩を追い越して神社の石段の下まで辿り着く。部活に勤しむ姿は去年までの俺だ。深呼吸をひとつして、一気に駆け上がるが、久々の階段ダッシュは部活を引退した鈍らな身体にはキツかった。

 鍵などあってなきが如しの格子戸を開き、遠慮もなく社に入る。小さな社の中は狭い。開けた瞬間に真っ白な美しい子どもの姿が目に入る。樟葉くずのはは昨夜寝かせた寝襖ねぶすまの上にきちんと正座をしてこっちを見ていた。

狐狗狸こっくりと言うのは、きつねいぬたぬきを一絡げにしたものじゃ。我らは人間ひとが好きで好きでたまらぬ。狐も狸も数を減らしてしもうたが、犬らはうまく人間の傍に侍って愛玩されていやる。我ら狐はちょっとばかり人間と疎遠になっておるが、それでも変わらずそなたらが愛おしい」
 
 こっくりさん
 こっくりさん
 こっくりさんが、こーんこーん
 こっくらけんでこんがらがって、こーんこん

「子どもらが我を呼ぶときに歌うた歌ぞ。ふふふ。我ら稲荷の狐は、豊穣の神の遣いじゃ。里の人間は豊かな実りを祈願して祭りを行い、遣いの狐にたんと駄賃の油揚げを寄越したものじゃ。つい昨日のことのようで、古(いにしえ)の出来事のようにも思う」

 ほろほろとまろい頬に涙がこぼれ落ちる。俺は土足のまま社に入り込んで膝をついた。頬に手を添えて親指で涙を拭う。人間と同じ温かさは消失の危機など微塵も感じさせない。だけど俺は、大人の姿の樟葉を知っている。小さな身体は情緒のない言い方をするならエコモードなんだろう。

「人間は田畑を手放し、この土地を捨ててゆく。我と我のお仕えする御方おんかたが忘れられていくのは、世の定めじゃ。御方は疾うに伏見へお帰りになられた。我は共に帰るを拒んだのじゃ。人間の──勝利の傍で消えたかった……」
「消えない方法を探そう。俺はもう一度会えたアンタと離れたくない」

 まだ高校生のガキだ。受験してこの町から出て行くつもりだったが、いずれ帰ってきたときには樟葉が迎えてくれると思っていた。夏に樟葉を思い出してからにわかに立てた皮算用は、あっさりと狐火に燃やし尽くされた。くろが浮かべる大人の余裕が恨めしい。

「ふふふ。離れたくないなどと、そのようなことは可愛い女人にょにんに言うが良い。幼子おさなごが親を慕うときに使う言葉ではありゃあせぬ」

……玄の余裕は恨めしいが、樟葉の余裕は悔しい。見た目の年齢が逆転しても完全に子ども扱いだ。

「俺はもう成人した。法律が変わって十八歳は大人だからな。子ども扱いするんじゃねぇ」
「我が若いころの人間のの子は、数えの十四には立派な若武者じゃった。勝利かつとし満歳まんどしの十八と言うても、戦も知らぬわらわじゃろう」

 キョトンとするなよ。チクショウ、可愛いな。しかし何百年前の話だ。令和の日本は戦争も内戦も断固反対の平和国家のはずだ。

「だからなぁ、童じゃねぇって言ってんの。まだ金も稼げないガキだってのは覆せないけど、樟葉に『こういう好き』だって言う程度には大人なんだよ」

 手のひらで樟葉の頬を包んだまま、勢いのままに小さな唇に噛み付いた。十歳ほどの子どもの姿をしているが、戦国時代を知っていそうなことを言い出すジイさんだ。構うもんか。流石にディープなやつは躊躇われて、唇を甘噛みしてすぐに離れる。

「な、な、な……ッ!」

 樟葉が顔を真っ赤にしておこりのように身体を震わせた。

「く、口吸いなど、童がするものではない!」
「口吸い……」

 多分キスのことだろう。口吸いなんて初めて聞いたが、キスより生々しく官能的な響きだ。って、あれ? 樟葉の身長が伸びてないか?

「樟葉、ちょっと立ってみて」
「なんじゃ?」

 キスに驚いて涙を引っ込めた樟葉を支えて立ち上がらせる。やっぱり、大きくなっている。髪の毛も伸びてるようだ。

「勝利、そなた縮んだのかや?」
「そんなわけあるか。人間はそんな簡単に伸び縮みなんかしない。樟葉の背が伸びたんだ。中学生くらいに見えるぞ」
「なんと……力が少し、戻っておる。口吸いひとつでこの有様かや?」

 少し大きくなった手を握って開いて、しげしげと眺めている。おもむろに俺に背を向けると、何やら腹の辺りでゴソゴソしている。身体が成長して着衣が苦しくなったのか、腰の紐を弛めているようだ。

 衣類は変化や幻術でなく、物理的に脱着するものらしい。

「阿呆なことを考えておらぬかや?」

 ジトリとめられた。やっばい、この身長差で下から睨まれると上目遣いだ。上目遣いなんて三白眼で藪睨みなだけだと思っていたのに、好きな子がするとあざと可愛い。破壊力がハンパねぇな。だけど、阿呆なことなんか考えていない。いつかのときには脱がすことができるってのを理解しただけだ。

 って言うか。

「キスで力が戻ってる?」
「そうじゃ。神力と人力──生気は似ておるゆえ、古来より妖は人間と契って生きながらえておった。取り憑かれるとはそういうことじゃ。のう、勝利よ。そなたの生命が危ういゆえ、もう我の口を吸うてはならぬぞえ」

 なるほど、だから玄のヤツが嫁だとか抜かすのか! ズッポリやらかして神力を直接ぶち込むってことかよ⁈

「いやいやいや、感心してる場合じゃねぇ! 俺がアンタにエッチなことしたら、アンタが消えずにすむってこったろ⁈」
「えっちがなにかはわからぬが、口吸いをすると生気が流れ込んでくるのじゃ。人間の生命は我らにとってほんの瞬き。我の弱った身体は、貪欲にそなたの生気を啜ってしまうじゃろう。いい子じゃから口吸いはもうせぬと、約束してくりゃれ」

 この期に及んで、子ども扱いかよ。俺を心配して眉毛を下げているのは嬉しいが、なんかムカつく。

「……そなたの寿命が尽きるころ、我のながい生命も終わると思うておったが、鳴神なるかみ御方おんかたの残してくださった神力を根こそぎ持っていってしもうた。狐の身で狸の皮算用などするものではないのぅ」

 神様と伏見に帰らなかったのは、俺がここにいるからなのか? それって、それって……。

「ふふふ。我はもう消える。最期にそなたと言葉を交わしたかったのじゃ」

 あぁ、やっぱり。

 俺の初恋は、片想いじゃなかった。

「樟葉……伏見に帰れ」

 キスで成長したとはいえ、俺よりもずっと小さな身体を抱きしめる。わずかな身動みじろぎで埃が舞い上がるほどほったらかされた社は、神々しい狐には似合わない。

「いやじゃ。そなたの傍で幸せなまま消えたいのじゃ」
「それじゃ、俺は幸せにならねぇぞ」

 ぐっと力を込める。ハグで生気は注がれないらしい。

「俺さ、京都の大学を受験するつもりだったんだよ」
「京都……京の都のことで良いかや?」
「伏見稲荷のあるところだ。なぁ、先に伏見に帰って、俺が行くのを待ってろよ。玄のヤツ、鷺沼稲荷かここまで出歩いてるじゃん。伏見で力を蓄えたら、京都市内なら出歩けるんじゃね?」
「そして、生きながらえた我に、そなたが妻子を抱くのを見ておれと申すかや?」

 なんでそうなる⁈

「元気になった樟葉を嫁にしたいって言ってんの! だから俺が稼げるようになるまで、実家で養生してろよ」
「実家……」
「実家って言うのがダメなら、本家でどうだ!」

 初夏に行った京都への修学旅行で伏見稲荷神社にも参拝したが、日本全国の稲荷神社の総本山だと聞いたぞ。ここの主祭神が伏見へ帰ったっていうなら、樟葉も帰ったっていいはずだ。一度一緒に行くのを断ったからって神様なんだ、度量の広いところを見せて迎え入れてくれるだろう。

「なぁ、頼むよ。狐には人間の一生なんてあっという間なんだろう? 春になったら追いかけていくから、俺に愛されるために待ってなよ」

 ほろほろと白い面に涙が伝う。せっかく泣き止んだのに、また泣き始めた。

「それとも樟葉は、俺と一緒に生きたくない?」

 意地悪な言い方だ。顔を隠そうとする樟葉の両の手首をやんわりと掴んで、その行為を許さない。ガキだった俺に樟葉がしたように、唇で涙を啜ってやる。
 樟葉がとろりと微笑んだ。

「──生きたい」

 俺は答えに満足した。
 
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