経験値ゼロ

神山 備

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経験値ゼロ

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 電話を切ったマイケルさんはとりあえず私と同じダイニングの椅子に座る。でも、
「あ、お茶だったよね」
とまた立ち上がる。
「あ、私やります」
「いいよ、いいよ。じゃぁ一揃え持っていくからそっちでしてくれる」
そう言いながらマイケルさんはキッチンに立ってケトルに水を入れると火にかけた。
 そして煎れた緑茶を寿司屋さんみたいな大きな湯呑みで飲むマイケルさんを見て何となくアンバランスだなと思った。確かに日本人離れした顔だというのもあるのだけど、ここは始めて訪れたとは言え、自宅だと言うのに、マイケルさんまだウチに来たスーツのままだったから。彼、今朝退院してそのままここに来たわけで、病み上がりなのにいろいろなことがありすぎて、相当疲れているに違いない。
「マイケルさん、それ 飲んだら着替えて横になってください」
「なんで?」
「なんでって……マイケルさん、今日退院してきたばっかりでしょ。ちゃんと安静にしてないとまたぶり返しますよ」
「大丈夫だよ、しっかり完治させてきたもん」
「ダメです。こういうのは治りかけが肝心なんです」
私はそう言うとお茶を飲み終わったマイケルさんを早速寝室に追い立てた。マイケルさんは、
「大丈夫だってば」
と渋っていたが、寝室の前まで来るとくるっと私に向き直り、
「じゃぁ、更紗ちゃんも着替えて一緒に横になろ。治りかけが肝心なら、更紗ちゃんも一緒だよ」
と言いながら私の手を取り寝室に入った。
一緒に横になるってことは、一つのベッドに寝るってことだよね。大体、このマンションに着いたときに一通り見て回ったから解っているのだけど、寝室にはベッドは一つしかない。たとえそれがクイーンサイズという奴であったとしても。
「私は」
「怪我も病気も一緒だよ」
焦って逃げようとする私に、マイケルさんは余裕の笑みを向けた。

 そして、寝室に入ったマイケルさんは着替えるのだから当然だけど、ぽんぽんと躊躇なく服を脱ぎ始めて、あっと言う間に下着姿になった。目のやり場に困った私は、あわてて脱いだスーツを拾い上げて、かけるために作り付けのクローゼットへばりつく。
「美久くんの話だと、パジャマはこの棚に入れてあるんだったよね」
「は、はい確か……」
と言った声も相当うわずっていたと思う。
「あったあった」
そう言いながらマイケルさんはそこから真新しいパジャマを取り出すと、それを着た。ああ、助かった。すると続けて棚の中を確認していたマイケルさんは、
「あ、ちゃんと更紗ちゃんの分も用意してくれてるみたいだよ」
と言って、私にピンクの物体を手渡した。でも、それを広げてでびっくり! それは所謂ベビードールという、ヒラヒラスケスケの奴だった。こんなの、着られないよぉ、まるで私が誘ってるみたいじゃん!!
「あ、あの……私はウチから持ってきたのがありますから。持ってくるついでにシャワー浴びてきます」
色気なんてゼロどころかマイナスくらいの単色スウェットだけど……良いよね。
 私は逃げるように寝室を出た。そしたら、
「まだ慣れない家なんだから、シャワーなんかで済ませたら風邪引いちゃうよ。今日は僕はもういいから、更紗ちゃんお湯ためてゆっくり浸かっておいで」
マイケルさんのそんな声が聞こえた。とりあえずそんなマイケルさんの指示に従ってさっと浴槽の表面を洗ってお湯を張ってその間に体を洗う。だけどそれもいつもより念入りに洗ってるなと思ったら、急に恥ずかしくなってしまった。違う違う、これはお湯がたまるまでの時間稼ぎだからって……私ってば、何で自分に言い訳してるんだろう。
 ああ、でもここから出たらやっぱり、あーんなこととか、こーんなこととかするんだろうか。さっき婚姻届けを出したんだから、もう夫婦な訳だし、誰も咎める人はいないんだけど……恥ずかしい。女36歳、友達はみんな一回は結婚していて、経験値はゼロだけど、知識は豊富。私は出た後のことをいろいろ想像してすっかり長湯をしてしまったようだ。
 とりあえず体にバスタオルを巻き付けたものの、パンツを穿こうとして俯いたら吐き気がして目の前が真っ暗に。これ以上足を悪くしたくないので、慌てて座り込むけれど、視界は一向に良くならない。その時、
「更紗ちゃん!! どうしたの」
というマイケルさんの小さな声が聞こえた。私があまりにも遅いのでマイケルさんがお風呂場を覗きにきてくれたのだ。
 私の意識はマイケルさんに抱き上げられたところでフェードアウトした。
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