経験値ゼロ

神山 備

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手紙

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 お久しぶりです。とは言え、私のことなど覚えておられないかもしれません。

 先ずは、ご結婚おめでとうございます。

 そしてあのお見合いのこと、深くお詫び申し上げます。

 あのときそれが見合いであることを私もあの場所で知りました。私は何を置いてもまず、妻帯者だということをあなた方に告げてこちらからお断りすべきだったのでしょうが、私はその後の母の荒れ狂う様が容易に想像できたので、あなたの方から断っていただくようにもっていくという、消極的な態度しかとれませんでした。こんなだから嫁も出ていくのだと言われても仕方ありませんね。

 だけど、あなたがあの場所から消えてくれたおかげで、ようやく私は母と闘う決心がついたのです。
 私はあの後すぐ、荒れる母を後目に嫁を迎えに行きました。ですが、嫁が家を出てからもう一年半もたってしまっていました。

 そして、嫁のタイの実家にたどり着いたとき、嫁の腕(かいな)には見知らぬ赤子が抱かれていました。嫁はこんなふがいない私をさっさと見限って別の男の許に今はいるのだと思いました。自業自得ですから、怒りはありませんでした。ただ、自分がほとほと情けなかっただけです。
「遅かったのか……」
がっくりと肩を落としてようやくそれだけ言えた私に嫁のファラは、笑顔で、
「カズオ遅すぎるね」
と言いました。
「そうだな、遅すぎたな。じゃぁ」
「どこ行くね」
すごすごと帰ろうとする私をファラは何故か引き留めました。
「帰る」
「もうか? ああ、飛行機時間あるのか? でも、私荷物マダ持ってないね。それにスミレも家だよ」
菫(すみれ)というのは私とファラとの娘の名です。
「へっ」
「カズオ迎えに来たの違うか?」
「いや、間違ってない。間違ってないよ。迎えに来た。でも、ファラ一緒に帰ってくれるのか」
「もちろんだよ、ファラカズオの嫁ね。けど、なかなか迎えに来てくれないから、父さん母さん帰るゆるしてくれなかったよ」
「そうか、ごめんな。長いこと待たせた」
 何のことはない、ファラは私を見限って国へ帰ったのではなく、一旦頭を冷やすために実家に戻ったら妊娠が分かって、しかも経過がよくなかったため、日本に戻りたくても戻れなくなっていただけだったのです。さらに産まれた子は未熟児で、出産前はファラの命も危なかったそう。
「タイ語じゃなくても、英語で手紙ぐらい寄こせないのか」
 それなのに、連絡すらよこさない私に、ファラの両親はカンカンで、当然家には入れてもらえず。私としては、連絡を取ろうとすると母が激怒して荒れるので、いつかあきらめたというか……はい、言いわけでしかありません。そして、玄関先で土下座をし続けて数時間、やっとのことで渋々許してもらい、私は、ファラと子供たちを連れ日本に戻ってくることができたのでした。

 しかし、帰る道中どんな嵐が吹こうとも今度は絶対にファラや子供たちを守ると堅く決心して、鼻息も荒く戻った私の前に現れたのは、憔悴した様子の母の姿でした。私が急に迎えに行ったことで、見合いの一幕が父に知れ、父は結婚して初めて母に手を上げたそうです。
 ですが、そんな落ち込んだ母を救ったのは、他ならぬ菫の、
「ばーたん」
の一言でした。あまりかわいがってはいなかったはずなのに、この孫は笑顔で自分を祖母と呼んでくれる。その姿に、母は正直この孫がかわいいと思えたそうです。
 以来母は、宗旨替えしたように、菫の面倒を見るようになりました。
 実は菫は母の事をあまり覚えてはおらず、タイの義父母にかわいがってもらっていたことがベースになっていることは母には言わぬが花です。
 下の息子のルイ(ファラの両親がつけた名に帰国後あわてて漢字を充てました)にまだまだ手が掛かるため、菫を母に任せられるようになって、母とファラとの関係も格段によくなり、いろいろありましたが、この寄り道も無駄ではなかったと勝手ながら思っている次第です。
 それもこれもすべてはあなたが毅然とした態度をとってくれたお陰です。本当にありがとうございました。

 それではあなたの幸せを祈りつつ、この辺で筆を置くことにします。

取り急ぎ結婚のお祝いと、感謝のご報告まで。

櫟原 更紗様
                                    渋井 一男

※どこまでも煮え切らない見合い相手の後日談でした。(名前だけは渋い ― 男ですが)
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