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四年後、天明3年10月24日 ~田沼意知、元・岳父にして老中首座の松平康福より若年寄内定を伝えらる~ 前篇
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青天下、黒鹿毛は陽光を良く反射させ、10月下旬の肌寒さを和らげる様であった。
奏者番を勤める田沼意知は黒鹿毛に跨り、神田橋御門内にある屋敷を出ると、大名小路にある岳父・松平周防守康福の屋敷へと向かった。
大名小路と言っても愛宕下にあるそれではなく、曲輪内の大名小路であった。
それ故、神田橋御門内にある屋敷からは正に目と鼻の先であり、態々、馬に跨る必要はなかった。徒歩で充分の距離である。
にもかかわらず、意知がその様な近距離であるにもかかわらず、態々、馬に跨ったのは偏に、岳父の康福がそれを求めたからだ。
意知が跨るこの黒鹿毛は岳父・康福からの贈物であり、
「当屋敷に参られる折にはこの馬にて…」
康福は婿の意知に馬を贈った際に、その様に申し添えるのを忘れなかった。
康福の意図は意知にも察しがついていた。
即ち、意知が己の屋敷を訪れるのを周囲に、とりわけ大名に誇示するのが目的であったのだ。
康福が屋敷を構える曲輪内の大名小路には、その名が冠せられている通り、大名屋敷が立並ぶ。
その中でも岳父・康福が屋敷を構えるのが東側の北角、つまりは大名小路のさしずめ、入口の様な場所であり、辰ノ口の南角の真向かいに位置する。正に一等地と言えた。
その康福の屋敷に意知が、それも馬に跨って訪れれば、真向かいの辰ノ口の南角、即ち、高崎藩上屋敷は元より、斜向かい―、高崎藩上屋敷の「お隣」の岡山藩上屋敷の「住人」に婿のその姿、康福からすれば正に「勇姿」を存分に誇示することが出来、それはそのまま己の存在価値を高めることにもなる。
今―、天明3(1783)年10月時点で老中は意知の岳父である康福と、それに意知の実父である意次、そして久世大和守廣明の3人体制であり、これに老中格式を与えられている側用人の水野出羽守忠友が加わる。
この中でも康福が一応、筆頭である老中首座に位置付けられていた。だが、
「一応…」
それに過ぎず、実際には意次こそが実権を握ってり、康福はあくまで、
「お飾り…」
それに過ぎないと、周囲には見られていた。
いや、実際、その通りであり、康福自身がそのことを何よりも自覚するところであった。意次がいなければ到底、国政をあずかることは不可能であろう。
だが康福にも老中首座としての自負心がある。仮令、「お飾り」であったとしてもだ。
そこで康福は婿の意知を、と言うよりは事実上の老中首座とも言うべき意次の息・意知を自邸に呼付けることで、己の存在価値を高め様と欲したのだ。つまりは、
「己は今を時めく意次の息・意知を呼付けられるのだぞ…」
周囲にそう誇示することで、
「なればこそ、己は決してただの、お飾りではないのだぞ…」
周囲にその様にも思わせることが出来るという寸法である。
それは些か、牽強付会が過ぎる様にも思われるが、存外、効果覿面で、それは陳情客の「数」として表れた。
即ち、幕府の役人には「月番制」が取られており、分けても要職である老中には、それに側用人や若年寄に御側御用取次といった面々にもだが、
「御用番月御對客日」
というものが設けられていた。
老中などの要職の許には就職や昇進などが目的の種々の陳情客が足繁く通うものである。
そして老中ともなると忙しい。
何しろ老中は国政の最高責任者として、民政や財政、司法など全般に亘り、目配りしなければならないからだ。
その上、陳情客の対応までさせれば、老中としての、その「本来業務」にも差支えるのは間違いない。
これは側用人や若年寄、御側御用取次にも同じことが言える。
そこで、陳情客が訪れる、それも殺到するであろう彼等、老中たちの為に、
「御用番月御對客日」
というものが設けられたのだ。
この對客だが、
「登城前對客」
とも称せられ、その名の通り、登城前に陳情客の対応をすることであり、幕府は月番の老中たちの為にこの、「登城前對客」の日を指定していたのだ。
老中たちは本来業務も忙しく、その上、月番ともなると、更に忙しく、毎日、登城前に陳情客に押掛けられては堪らない。
そこで老中の場合は3日と5日、7日と11日、13日と18日、21日と23日、そして25日の9日間が「御用番月御對客日」と指定されていた。これは月番の老中は毎月、以上の9日間だけ登城前に陳情客の相手をしてやれば良いということであり、若年寄もこれに準じる。
一方、これとは逆に、
「御非番月御對客日」
というものも設けられており、老中と若年寄の場合、それも月番ではない非番月の場合、先の9日間のうち2日間だけ登城前に陳情客の相手をしてやれば良い。
例えば、康福の場合だと5日と25日がこの、「御非番月御對客日」であり、つまり康福は非番の折には5日と25日の2日間だけ登城前に陳情客の対応をしてやれば良く、また陳情客にしても康福が非番の折には5日と25日の2日以外は登城前に康福の許へと陳情に訪れてはならないという訳だ。
しかしこれにも抜道があり、「逢客」については「別儀」であった。
即ち、「逢客」とは下城後、屋敷に帰ってから陳情客の対応をすることであり、この「逢客」については「對客」とは異なり、幕府も特に定めてはいなかった。
つまり、月番であろうと非番であろうと、屋敷に帰ってからは毎日でも陳情客の相手をしてやりなさい、という訳だ。
いや、そもそも「對客」にしても同様であり、「御当番月御對客日」にしろ、「御非番月御對客日」にしろ、それはあくまで、「努力義務」に過ぎず、陳情客がそれを無視して登城前に押掛けたところで、罰せられるというものではない。
好例なのはやはり何と言っても意次であろう。今月10月は意次にとっては「御当番月」、月番に当たり、それ故、先の9日間だけ陳情客の相手をしてやれば良い筈であり、今日は24日であるので、9日間のうちには入っておらず、本来ならば登城前に陳情客の相手をしてやる必要はない。
だが実際には陳情客はそんなことには、
「お構いなし…」
とばかり日参、誇張ではなしに毎日、意次の許へと押掛け、それは「御對客日」ではない筈の今日、24日とて変わらず、何の規制もない「逢客」については、
「申すに及ばず…」
であり、馬に跨り、神田橋御門内にある屋敷を出た意知の目に飛込んできたものは、やはり誇張ではなしに、神田橋御門まで続くのではないかと思われる程の行列であった。
一方、康福はと言うと、これもまた陳情客が列をなしており、同じく誇張ではなし、鍛冶橋御門方面まで陳情客が列をなしていた。
曲輪内の大名小路は康福が屋敷を構える東側の北角を起点とし、南町奉行所のある数寄屋橋御門方面まで延び、終点は島原藩の上屋敷に突当たる。康福への陳情客はその大名小路の半分程まで列をなしていたのだ。
お飾りの老中首座にしては上出来と言えよう。いや、これもまた康福の、
「涙ぐましい…」
努力の成果と言えよう。その甲斐あってか、周囲も最近では康福のことをただの、
「お飾りの老中首座…」
とは見做さなくなった様で、それが意次に次ぐ陳情客の列となって表れていた。
さて、意知はその行列の起点とも言うべき門前に着いた。いや、意知一人ではない。その真後ろにはやはり黒鹿毛に跨る龍助の姿があった。
龍助は今年、数えで11の意次の息であり、康福の外孫でもある。
龍助はまだ11であり、一人で黒鹿毛を操るのは難しく、そこで附人の武田織右衛門が手綱を引き、同じく附人の大村六右衛門が龍助の介添を務めていた。
こうして意知・龍助父子が馬に、それも見事な黒鹿毛に跨り、門前に姿を見せたことから、いやでも陳情客の目を引く。
だが彼等、陳情客に驚きはなかった。それと言うのも、意知・龍助父子は頻繁にこの康福の屋敷を訪れ、それも馬に跨り訪れるので、彼等陳情客にはそれは見慣れた光景であった。
いや、だからこそ陳情客も、意知・龍助父子を頻繁に召す康福の実力を重く見て、こうして陳情の列をなしていたのだ。
それでも意知・龍助父子の「登場」に一種の華やぎが生じたのは事実であった。
さしずめ大輪の花が咲いた様であり、康福の家臣の中嶋環の声が更に花を添えた。
「山城守様、龍助様…」
中嶋環は馬上の意知一行に深々と頭を下げてみせた。これもまた、陳情客に対して意知の存在を知らしめる、つまりは康福の存在価値を誇示する康福による、
「涙ぐましい…」
努力の一環、もとい演出であった。
その際、中嶋環が選ばれたのは、環が陳情客を主・康福へと取次ぐ取次衆の一人ということもあるが、それ以上に、取次衆のみならず、全ての家臣の中でも一番、眉目秀麗であったからだ。やはり見映えがする者が出る方が、己の存在価値を高める演出にはより効果的と言えた。
いや、それだけが理由ではない。やはり最大の理由は何と言っても、中嶋環が、
「ヒラの家臣に過ぎない…」
それに尽きた。
今を時めく老中・田沼意次の息・意知と、その上、更に嫡孫の龍助までが大名屋敷の門前に到着したとあらば、通常は家老か、或いはそれに次ぐ中老か、悪くとも公用人クラスが出迎えに訪れても良さそうなものである。
だが康福はそうはせず、陳情客の取次ぎに従事する取次衆の中でも、あえてヒラの中嶋環に意知一行の出迎えに当たらせることで、即ち、陳情客が屯する門前においては意知たちをあえて粗略に扱うことで、
「周防守様は今を時めく老中首座の田沼様の御嫡子と御嫡孫をその様に粗略に扱われても、ビクともせぬのか…」
陳情客にその様に思わせられ、
「これは…、周防守様は決してお飾りの老中首座なのではないのやも知れぬ…、それどころか田沼様に匹敵せし、実力を兼備えたる老中首座なのやも…」
ひいてはその様にも思わせられるという寸法であった。
意知も、それに家来の武田織右衛門と大村六右衛門もそのことは良く承知していたので、腹も立たず、それどころか内心では康福のその様ないじましい、涙ぐましい努力に苦笑させられた。
さて、意知と龍助が下馬するや、附人の武田織右衛門、大村六右衛門共々、中嶋環の案内にて康福の許へと足を運んだ。
門前には陳情客が外へと食み出しており、本来ならば意知一行も陳情に訪れた訳ではないにしても、客であることに変わりはないので、そうであるならば陳情客の列の真後ろに並ぶべきであろうが、康福も流石にそこまでは意知を粗略には扱えない。
いや、意知としては並んでも構わず、それ故に、意知は己が到着するよりも前よりもずっと先に到着して、康福に逢うべく列をなしている陳情客に対して申訳なさを感じつつ、中嶋環の案内により、龍助たちを引連れて邸内へと足を踏み入れた。ちなみに意知と龍助をここまで運んで来てくれた二頭の馬は別の家臣がやはり邸内へと手綱を引き、厩へと運んだ。
門前より邸内の玄関、表玄関までも陳情客が列をなしており、意知たちが案内されたのはそれとは別の玄関であり、そこには家老の坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の二人が平伏して待受けていた。意知たちを「粗略」に扱うのはあくまで、陳情客の前での「演出」に過ぎない。
いや、玄関にて意知たちを出迎えたのは家老だけではない。それに次ぐ中老の野村榮左衛門と内藤忠右衛門の二人も玄関前にて蹲い、意知たちを出迎えた。
これよりは家老の坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の二人が意知と龍助を主君・康福の許へと案内し、一方、龍助の附人の武田織右衛門と大村六右衛門の二人の接遇を務めるのは中老の野村榮左衛門と内藤忠右衛門であり、これは逆に鄭重が過ぎるというものである。それこそ公用人クラスで充分であろう。如何に武田織右衛門と大村六右衛門が今を時めく田沼意次の家臣、嫡孫の龍助の附人であろうとも、その身はあくまで陪臣に過ぎない。そうであれば公用人クラスが接遇に務めれば充分、いや、そもそも接遇する必要すらないであろう。ましてや康福は老中首座、立場では意次の上に位置するのだ。意次の陪臣など一々、接待してやる必要はないであろうが、しかし康福としては頭では分かっていても、そうは出来ないところが、
「お飾りの老中首座…」
その所以と言えた。
さて、意知と龍助が坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の案内にて奥座敷へと案内されると、そこには康福が既に床の間を背にして待っていた。
その奥座敷は床の間に面する壁を除いて、三方、障子は一切なく、即ち、渡廊下だけが奥座敷へと通ずる唯一の通路であり、そかもその渡廊下は奥座敷の床の間と正に垂直に設えられており、それ故、意知は渡廊下を進むうちに、床の間を背にした岳父・康福の姿を捉えることが出来た。
意知が龍助と共に渡廊下を背にして岳父・康福の前に坐すと、足音が…、坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の二人の足音が遠ざかった。これよりは家族、所謂、
「ファミリー」
その為の時間という訳で、坂口幸左衛門にしろ味岡八郎兵衛にしろ如何に家老と雖も、「ファミリー」の時間、空間に立入る訳にはゆかない。
いや、この奥座敷からして、そもそも康福が婿の意知と孫、それも外孫の龍助との時を過ごす為に設えさせたものであり、今、康福が背にしている床の間が北側ならば、渡廊下は南側、つまりは康福は、
「南面に座す…」
という訳である。
そして康福と意知・龍助父子との間は東西に面しており、今は西から日が差していた。
「いや、よう参られたの…」
康福がいつもの口上で意知を労うと、孫の龍助にもこれまた、
「いつもの如く…」
祖父の顔を覗かせた。
龍助は康福が次女・義が生んだ子であった。それも「忘れ形見」であった。
即ち、去年―、天明2(1782)年の6月、正確には6月20日に義は龍助と、それに二人の息、次男の萬吉と三男の幸吉を遺して卒した。流行病であり、それから4日後の24日には三男の幸吉までも同じく流行病により夭逝した。今で言う肺炎であった。
康福は義を含めて6人もの女児に恵まれ、しかし、嫡子には恵まれず、それ故、長女の峯が養嗣子の康定と娶せた。それが明和5(1768)年10月のことであった。
明和5(1768)年10月に康福は康定を養嗣子に迎えたのに伴い、長女の峯を娶せたのだ。
一方、義は峯の直ぐ下の次女であり、峯が康定と結ばれたその翌年の明和6(1769)年12月に意知と結ばれ、4年後の安永2(1773)年に龍助をもうけたのであった。
康定にとっては初孫であり、それも外孫だけに余計に可愛かった。
義はそれから更に7年後の安永9(1780)年には萬吉を、その翌年の天明元(1781)年には幸吉を正しく、
「立続けに…」
意知との間にもうけたのであった。
ことに幸吉が生まれたのは意知が奏者番に取立てられた12月15日のことであり、意知にとっては二重の幸せであった。
だが意知の幸せもそこまでと言えた。その翌年、即ち去年の6月、その月の20日は義を、そして24日には幸吉をもこれまた、
「立続けに…」
流行病により喪ってしまったからだ。
意知と義との結婚生活は14年にも満たないものであった。
それ故、意知にとって康福は最早、岳父ではなかった。強いて言うならば、「元・岳父」であろうか。
だがそれでも義が意知との間に龍助と、更に萬吉を遺してくれたので、康福は龍助・萬吉兄弟の外祖父として、今でも意知の岳父であるかのように振舞っていた。
「萬吉も息災か?」
康福は初孫であった龍助に目尻を下げつつ、意知にそう問うた。
「はい、幸いにも丈夫にて…」
「左様か…、いや、それは祝着…」
「畏れ入ります…」
「萬吉の顔も見たいものよ…」
康福のその言葉には実感がこもっていた。
いや、康福が意知と龍助をこうして頻繁に屋敷へ呼寄せるのは己の存在価値を高めるのが最大の動機ではあるが、しかしそれだけではない。
「可愛い孫に逢いたい…」
その動機も多分に含まれていたのだ。
康福は6人の女児に恵まれはしたものの、そのうち2人は―、五女と末娘は夭逝してしまい、更に四女の諄にも先立たれてしまい、それ故、今でも健在なのは長女の峯と三女の数の二人だけであった。
三女の数は岩村藩主・松平河内守乗保の許へと嫁していた。
いや、実を言えば四女の諄も以前、亀山藩主の石川日向守總純と婚約していたのだ。
それは總純が亀山藩6万石を領する石川家を相続したものの、未だ、将軍・家治への初めての御目見得を済ませてはおらず、従五位下日向守に叙任される前、吟次郎なる通称を名乗っていた明和8(1771)年のことであった。
だが結局、諄が石川總純と結ばれることはなく、その前―、總純が将軍・家治への初めての御目見得を済ませる前年の安永元(1772)年に卒してしまったのだ。
それ故、康福には今はもう、長女の峯と三女の数しか残ってはいなかったのだ。
しかもその峯にしろ、数にしろ未だ、子には恵まれず、つまり次女の義が意知との間にもうけた龍助と萬吉の二人だけが康福にとっては唯一の孫と言えた。
そしてその母である義はもうこの世にはおらず、康福にとってはそれだけに大事な愛娘である義の「忘れ形見」とも言うべき龍助と萬吉が余計に可愛く思え、その上、二人とも亡き母の面影をたたえているとあらば、尚更であろう。
康福が孫の龍助の顔を見たくて頻繁に意知を呼付ける面もあった。
いや、本来ならば萬吉にも逢いたいところであったが、萬吉は数えでも未だ4つに過ぎず、これでは馬に跨らせることは出来まい。それどころか歩くことすらままならないであろう。
「いや、自らが足を運ぶべきであろうが、老中首座ともなると、中々に忙しゅうてな…」
康福は「老中首座」とのフレーズにアクセントを置いてみせた。
「御心遣い、忝のう存じまする…、萬吉が丈夫に成長せし暁には、龍助とそれに萬吉共々、参りますによって…」
「うむ。是非にの…、いや、その折には萬吉にも馬を贈ってやろうぞ…」
「畏れ入ります…」
「馬と申さば、黒鹿毛の乗心地はどうだな?」
これもまたいつも康福が意知に問うものであった。意知もその度に、
「はい。この上ない乗心地にて、意知には勿体のうござりまする…」
康福より贈られた黒鹿毛を持上げると同時に、謙遜してみせることも忘れなかった。
「いやいや、決して左様に謙る必要はあるまいて、それどころか中々の勇姿ぞ。意知が姿…、それも晴姿はのう…、いや、龍助の晴姿もな…」
康福は目尻を更に下げて見せた。
すると龍助は父・意知の「言付」に遵い、
「畏れ入りまする…」
舌足らずな調子ではあったが、外祖父・康福に対してそう礼の言葉を口にした。
一方、康福にはそんな外孫の舌足らずな口調がまた、余計に愛おしく覚えたらしく、愈愈もって目尻が下がった。それは最早、だれ下がりであった。
「いや、意知や龍助の勇姿を、もそっと皆にも見せたいものよ…、大名小路に屋敷を構えしことが、これ程までに恨めしいとはのう…」
康福は冗談めかしてはいたものの、それでも半分は本音であった。
同じ大名小路でも、その行止まりとも言うべき数寄屋橋御門内、それも今は島原藩が上屋敷を構えている場所に屋敷を構えていたならば、意知と龍助のその武者姿を今よりも、もっと多くの者に見せびらかせることが出来るというものである。
いや、今でも―、大名小路の入口とも言うべきここ、東側の北角に屋敷を構える今でも意知と龍助のその「勇姿」を周囲の者に存分に見せ付けることが出来ていたが、康福としてはそれでは不十分な様子であり、今よりももっと多くの者に見せたい様子であった。
その為、神田橋御門内にある田沼家の上屋敷よりも、もっと遠くに屋敷を構えられていたならば、康福はそう思うと、今は島原藩の上屋敷がある数寄屋橋橋御門内に屋敷を構えていたならばと、ふとそう思った次第である。
そこならば、意知と龍助は今よりも長い距離をそれこそ、
「練歩く…」
必然的にそうなるからだ。島原藩が上屋敷を構える数寄屋橋御門内の場所にまで辿り着くには康福が屋敷を構えるここ、大名小路の入口より、今、ちょうど康福への陳情客が列をなしている鍛冶橋御門内の方面へと進み、更にその先へと進まねばならないからだ。
鍛冶橋御門内より、その終点とも言うべき数寄屋橋御門内までの距離はちょうど、大名小路の入口より鍛冶橋御門内までの距離に匹敵し、してみると、鍛冶橋御門内はちょうど、大名小路の入口とその終点である数寄屋橋御門内の中間地点に当たる。
ともあれ、大名小路の入口より終点である数寄屋橋御門内までの間には多くの大名屋敷が立並んでいた。
例えば今、陳情客が列をなしている鍛冶橋御門方面にかけては、康福の屋敷の「お隣さん」に当たる岡山藩の向屋敷、及び、康福の屋敷の斜向かいにある岡山藩の上屋敷―、つまりは大名小路を隔てて向かい合う岡山藩の上屋敷と向屋敷を皮切りに、古河藩や篠山藩、三河吉田藩、及び、新発田藩、横須賀藩といった上屋敷が立並ぶ。
そして鍛冶橋御門内より終点たる数寄屋橋御門内にかけては高知藩や徳嶋藩、佐倉藩、及び鳥取藩藩、田中藩、高槻藩といった上屋敷が立並び、これらの上屋敷の主とも言うべき大名たちにも、
「婿の意知と可愛い孫の龍助の武者ぶり、晴姿を見せつけたいものよ…」
康福はその思いからふと、鍛冶橋御門内に屋敷があったならばと、思った訳である。
その様なやり取りの最中、再び、渡廊下より足音が近付くのが聞こえた。康福の長女にして養嗣子の康定の室である峯が侍女を随えて茶菓子を運んで来たのだ。これも「恒例行事」と言え、意知には直ぐにそうと察せられた。
「お出でなさいませ…」
峯はまず、父である康福の許に、次いで意知の許に茶を置くと、そう挨拶したので、意知も「畏れ入ります」と応え、龍助もそれに倣った。
「さぁ、遠慮は無用ぞ…」
湯気の立つ茶と共に、意知と龍助の元に差出された菓子も遠慮なく食べるよう、康福は奨めた。
「されば菓子は仙台より取寄せし、塩瀬の饅頭ぞ…」
康福は、「仙台」という地名にこれまたアクセントを置き、それに対して孫の龍助は普通に聞流したものの、婿の意知は、
「成程…」
岳父・康福の意図を察した。
すると意知が予期した通り、康福は孫の龍助に対して、
「玩具も取り揃えた故に、奥にて見るが良いぞ…」
玩具をあげるからと、極めて一般的な手法でもって、孫に座を外させることにした。龍助は伯母に当たる峯とその侍女に伴われて奥、男子禁制の大奥へと連れて行かれた。
こうして奥座敷にて康福と意知の二人だけとなったところで、康福は本題に入った。
奏者番を勤める田沼意知は黒鹿毛に跨り、神田橋御門内にある屋敷を出ると、大名小路にある岳父・松平周防守康福の屋敷へと向かった。
大名小路と言っても愛宕下にあるそれではなく、曲輪内の大名小路であった。
それ故、神田橋御門内にある屋敷からは正に目と鼻の先であり、態々、馬に跨る必要はなかった。徒歩で充分の距離である。
にもかかわらず、意知がその様な近距離であるにもかかわらず、態々、馬に跨ったのは偏に、岳父の康福がそれを求めたからだ。
意知が跨るこの黒鹿毛は岳父・康福からの贈物であり、
「当屋敷に参られる折にはこの馬にて…」
康福は婿の意知に馬を贈った際に、その様に申し添えるのを忘れなかった。
康福の意図は意知にも察しがついていた。
即ち、意知が己の屋敷を訪れるのを周囲に、とりわけ大名に誇示するのが目的であったのだ。
康福が屋敷を構える曲輪内の大名小路には、その名が冠せられている通り、大名屋敷が立並ぶ。
その中でも岳父・康福が屋敷を構えるのが東側の北角、つまりは大名小路のさしずめ、入口の様な場所であり、辰ノ口の南角の真向かいに位置する。正に一等地と言えた。
その康福の屋敷に意知が、それも馬に跨って訪れれば、真向かいの辰ノ口の南角、即ち、高崎藩上屋敷は元より、斜向かい―、高崎藩上屋敷の「お隣」の岡山藩上屋敷の「住人」に婿のその姿、康福からすれば正に「勇姿」を存分に誇示することが出来、それはそのまま己の存在価値を高めることにもなる。
今―、天明3(1783)年10月時点で老中は意知の岳父である康福と、それに意知の実父である意次、そして久世大和守廣明の3人体制であり、これに老中格式を与えられている側用人の水野出羽守忠友が加わる。
この中でも康福が一応、筆頭である老中首座に位置付けられていた。だが、
「一応…」
それに過ぎず、実際には意次こそが実権を握ってり、康福はあくまで、
「お飾り…」
それに過ぎないと、周囲には見られていた。
いや、実際、その通りであり、康福自身がそのことを何よりも自覚するところであった。意次がいなければ到底、国政をあずかることは不可能であろう。
だが康福にも老中首座としての自負心がある。仮令、「お飾り」であったとしてもだ。
そこで康福は婿の意知を、と言うよりは事実上の老中首座とも言うべき意次の息・意知を自邸に呼付けることで、己の存在価値を高め様と欲したのだ。つまりは、
「己は今を時めく意次の息・意知を呼付けられるのだぞ…」
周囲にそう誇示することで、
「なればこそ、己は決してただの、お飾りではないのだぞ…」
周囲にその様にも思わせることが出来るという寸法である。
それは些か、牽強付会が過ぎる様にも思われるが、存外、効果覿面で、それは陳情客の「数」として表れた。
即ち、幕府の役人には「月番制」が取られており、分けても要職である老中には、それに側用人や若年寄に御側御用取次といった面々にもだが、
「御用番月御對客日」
というものが設けられていた。
老中などの要職の許には就職や昇進などが目的の種々の陳情客が足繁く通うものである。
そして老中ともなると忙しい。
何しろ老中は国政の最高責任者として、民政や財政、司法など全般に亘り、目配りしなければならないからだ。
その上、陳情客の対応までさせれば、老中としての、その「本来業務」にも差支えるのは間違いない。
これは側用人や若年寄、御側御用取次にも同じことが言える。
そこで、陳情客が訪れる、それも殺到するであろう彼等、老中たちの為に、
「御用番月御對客日」
というものが設けられたのだ。
この對客だが、
「登城前對客」
とも称せられ、その名の通り、登城前に陳情客の対応をすることであり、幕府は月番の老中たちの為にこの、「登城前對客」の日を指定していたのだ。
老中たちは本来業務も忙しく、その上、月番ともなると、更に忙しく、毎日、登城前に陳情客に押掛けられては堪らない。
そこで老中の場合は3日と5日、7日と11日、13日と18日、21日と23日、そして25日の9日間が「御用番月御對客日」と指定されていた。これは月番の老中は毎月、以上の9日間だけ登城前に陳情客の相手をしてやれば良いということであり、若年寄もこれに準じる。
一方、これとは逆に、
「御非番月御對客日」
というものも設けられており、老中と若年寄の場合、それも月番ではない非番月の場合、先の9日間のうち2日間だけ登城前に陳情客の相手をしてやれば良い。
例えば、康福の場合だと5日と25日がこの、「御非番月御對客日」であり、つまり康福は非番の折には5日と25日の2日間だけ登城前に陳情客の対応をしてやれば良く、また陳情客にしても康福が非番の折には5日と25日の2日以外は登城前に康福の許へと陳情に訪れてはならないという訳だ。
しかしこれにも抜道があり、「逢客」については「別儀」であった。
即ち、「逢客」とは下城後、屋敷に帰ってから陳情客の対応をすることであり、この「逢客」については「對客」とは異なり、幕府も特に定めてはいなかった。
つまり、月番であろうと非番であろうと、屋敷に帰ってからは毎日でも陳情客の相手をしてやりなさい、という訳だ。
いや、そもそも「對客」にしても同様であり、「御当番月御對客日」にしろ、「御非番月御對客日」にしろ、それはあくまで、「努力義務」に過ぎず、陳情客がそれを無視して登城前に押掛けたところで、罰せられるというものではない。
好例なのはやはり何と言っても意次であろう。今月10月は意次にとっては「御当番月」、月番に当たり、それ故、先の9日間だけ陳情客の相手をしてやれば良い筈であり、今日は24日であるので、9日間のうちには入っておらず、本来ならば登城前に陳情客の相手をしてやる必要はない。
だが実際には陳情客はそんなことには、
「お構いなし…」
とばかり日参、誇張ではなしに毎日、意次の許へと押掛け、それは「御對客日」ではない筈の今日、24日とて変わらず、何の規制もない「逢客」については、
「申すに及ばず…」
であり、馬に跨り、神田橋御門内にある屋敷を出た意知の目に飛込んできたものは、やはり誇張ではなしに、神田橋御門まで続くのではないかと思われる程の行列であった。
一方、康福はと言うと、これもまた陳情客が列をなしており、同じく誇張ではなし、鍛冶橋御門方面まで陳情客が列をなしていた。
曲輪内の大名小路は康福が屋敷を構える東側の北角を起点とし、南町奉行所のある数寄屋橋御門方面まで延び、終点は島原藩の上屋敷に突当たる。康福への陳情客はその大名小路の半分程まで列をなしていたのだ。
お飾りの老中首座にしては上出来と言えよう。いや、これもまた康福の、
「涙ぐましい…」
努力の成果と言えよう。その甲斐あってか、周囲も最近では康福のことをただの、
「お飾りの老中首座…」
とは見做さなくなった様で、それが意次に次ぐ陳情客の列となって表れていた。
さて、意知はその行列の起点とも言うべき門前に着いた。いや、意知一人ではない。その真後ろにはやはり黒鹿毛に跨る龍助の姿があった。
龍助は今年、数えで11の意次の息であり、康福の外孫でもある。
龍助はまだ11であり、一人で黒鹿毛を操るのは難しく、そこで附人の武田織右衛門が手綱を引き、同じく附人の大村六右衛門が龍助の介添を務めていた。
こうして意知・龍助父子が馬に、それも見事な黒鹿毛に跨り、門前に姿を見せたことから、いやでも陳情客の目を引く。
だが彼等、陳情客に驚きはなかった。それと言うのも、意知・龍助父子は頻繁にこの康福の屋敷を訪れ、それも馬に跨り訪れるので、彼等陳情客にはそれは見慣れた光景であった。
いや、だからこそ陳情客も、意知・龍助父子を頻繁に召す康福の実力を重く見て、こうして陳情の列をなしていたのだ。
それでも意知・龍助父子の「登場」に一種の華やぎが生じたのは事実であった。
さしずめ大輪の花が咲いた様であり、康福の家臣の中嶋環の声が更に花を添えた。
「山城守様、龍助様…」
中嶋環は馬上の意知一行に深々と頭を下げてみせた。これもまた、陳情客に対して意知の存在を知らしめる、つまりは康福の存在価値を誇示する康福による、
「涙ぐましい…」
努力の一環、もとい演出であった。
その際、中嶋環が選ばれたのは、環が陳情客を主・康福へと取次ぐ取次衆の一人ということもあるが、それ以上に、取次衆のみならず、全ての家臣の中でも一番、眉目秀麗であったからだ。やはり見映えがする者が出る方が、己の存在価値を高める演出にはより効果的と言えた。
いや、それだけが理由ではない。やはり最大の理由は何と言っても、中嶋環が、
「ヒラの家臣に過ぎない…」
それに尽きた。
今を時めく老中・田沼意次の息・意知と、その上、更に嫡孫の龍助までが大名屋敷の門前に到着したとあらば、通常は家老か、或いはそれに次ぐ中老か、悪くとも公用人クラスが出迎えに訪れても良さそうなものである。
だが康福はそうはせず、陳情客の取次ぎに従事する取次衆の中でも、あえてヒラの中嶋環に意知一行の出迎えに当たらせることで、即ち、陳情客が屯する門前においては意知たちをあえて粗略に扱うことで、
「周防守様は今を時めく老中首座の田沼様の御嫡子と御嫡孫をその様に粗略に扱われても、ビクともせぬのか…」
陳情客にその様に思わせられ、
「これは…、周防守様は決してお飾りの老中首座なのではないのやも知れぬ…、それどころか田沼様に匹敵せし、実力を兼備えたる老中首座なのやも…」
ひいてはその様にも思わせられるという寸法であった。
意知も、それに家来の武田織右衛門と大村六右衛門もそのことは良く承知していたので、腹も立たず、それどころか内心では康福のその様ないじましい、涙ぐましい努力に苦笑させられた。
さて、意知と龍助が下馬するや、附人の武田織右衛門、大村六右衛門共々、中嶋環の案内にて康福の許へと足を運んだ。
門前には陳情客が外へと食み出しており、本来ならば意知一行も陳情に訪れた訳ではないにしても、客であることに変わりはないので、そうであるならば陳情客の列の真後ろに並ぶべきであろうが、康福も流石にそこまでは意知を粗略には扱えない。
いや、意知としては並んでも構わず、それ故に、意知は己が到着するよりも前よりもずっと先に到着して、康福に逢うべく列をなしている陳情客に対して申訳なさを感じつつ、中嶋環の案内により、龍助たちを引連れて邸内へと足を踏み入れた。ちなみに意知と龍助をここまで運んで来てくれた二頭の馬は別の家臣がやはり邸内へと手綱を引き、厩へと運んだ。
門前より邸内の玄関、表玄関までも陳情客が列をなしており、意知たちが案内されたのはそれとは別の玄関であり、そこには家老の坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の二人が平伏して待受けていた。意知たちを「粗略」に扱うのはあくまで、陳情客の前での「演出」に過ぎない。
いや、玄関にて意知たちを出迎えたのは家老だけではない。それに次ぐ中老の野村榮左衛門と内藤忠右衛門の二人も玄関前にて蹲い、意知たちを出迎えた。
これよりは家老の坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の二人が意知と龍助を主君・康福の許へと案内し、一方、龍助の附人の武田織右衛門と大村六右衛門の二人の接遇を務めるのは中老の野村榮左衛門と内藤忠右衛門であり、これは逆に鄭重が過ぎるというものである。それこそ公用人クラスで充分であろう。如何に武田織右衛門と大村六右衛門が今を時めく田沼意次の家臣、嫡孫の龍助の附人であろうとも、その身はあくまで陪臣に過ぎない。そうであれば公用人クラスが接遇に務めれば充分、いや、そもそも接遇する必要すらないであろう。ましてや康福は老中首座、立場では意次の上に位置するのだ。意次の陪臣など一々、接待してやる必要はないであろうが、しかし康福としては頭では分かっていても、そうは出来ないところが、
「お飾りの老中首座…」
その所以と言えた。
さて、意知と龍助が坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の案内にて奥座敷へと案内されると、そこには康福が既に床の間を背にして待っていた。
その奥座敷は床の間に面する壁を除いて、三方、障子は一切なく、即ち、渡廊下だけが奥座敷へと通ずる唯一の通路であり、そかもその渡廊下は奥座敷の床の間と正に垂直に設えられており、それ故、意知は渡廊下を進むうちに、床の間を背にした岳父・康福の姿を捉えることが出来た。
意知が龍助と共に渡廊下を背にして岳父・康福の前に坐すと、足音が…、坂口幸左衛門と味岡八郎兵衛の二人の足音が遠ざかった。これよりは家族、所謂、
「ファミリー」
その為の時間という訳で、坂口幸左衛門にしろ味岡八郎兵衛にしろ如何に家老と雖も、「ファミリー」の時間、空間に立入る訳にはゆかない。
いや、この奥座敷からして、そもそも康福が婿の意知と孫、それも外孫の龍助との時を過ごす為に設えさせたものであり、今、康福が背にしている床の間が北側ならば、渡廊下は南側、つまりは康福は、
「南面に座す…」
という訳である。
そして康福と意知・龍助父子との間は東西に面しており、今は西から日が差していた。
「いや、よう参られたの…」
康福がいつもの口上で意知を労うと、孫の龍助にもこれまた、
「いつもの如く…」
祖父の顔を覗かせた。
龍助は康福が次女・義が生んだ子であった。それも「忘れ形見」であった。
即ち、去年―、天明2(1782)年の6月、正確には6月20日に義は龍助と、それに二人の息、次男の萬吉と三男の幸吉を遺して卒した。流行病であり、それから4日後の24日には三男の幸吉までも同じく流行病により夭逝した。今で言う肺炎であった。
康福は義を含めて6人もの女児に恵まれ、しかし、嫡子には恵まれず、それ故、長女の峯が養嗣子の康定と娶せた。それが明和5(1768)年10月のことであった。
明和5(1768)年10月に康福は康定を養嗣子に迎えたのに伴い、長女の峯を娶せたのだ。
一方、義は峯の直ぐ下の次女であり、峯が康定と結ばれたその翌年の明和6(1769)年12月に意知と結ばれ、4年後の安永2(1773)年に龍助をもうけたのであった。
康定にとっては初孫であり、それも外孫だけに余計に可愛かった。
義はそれから更に7年後の安永9(1780)年には萬吉を、その翌年の天明元(1781)年には幸吉を正しく、
「立続けに…」
意知との間にもうけたのであった。
ことに幸吉が生まれたのは意知が奏者番に取立てられた12月15日のことであり、意知にとっては二重の幸せであった。
だが意知の幸せもそこまでと言えた。その翌年、即ち去年の6月、その月の20日は義を、そして24日には幸吉をもこれまた、
「立続けに…」
流行病により喪ってしまったからだ。
意知と義との結婚生活は14年にも満たないものであった。
それ故、意知にとって康福は最早、岳父ではなかった。強いて言うならば、「元・岳父」であろうか。
だがそれでも義が意知との間に龍助と、更に萬吉を遺してくれたので、康福は龍助・萬吉兄弟の外祖父として、今でも意知の岳父であるかのように振舞っていた。
「萬吉も息災か?」
康福は初孫であった龍助に目尻を下げつつ、意知にそう問うた。
「はい、幸いにも丈夫にて…」
「左様か…、いや、それは祝着…」
「畏れ入ります…」
「萬吉の顔も見たいものよ…」
康福のその言葉には実感がこもっていた。
いや、康福が意知と龍助をこうして頻繁に屋敷へ呼寄せるのは己の存在価値を高めるのが最大の動機ではあるが、しかしそれだけではない。
「可愛い孫に逢いたい…」
その動機も多分に含まれていたのだ。
康福は6人の女児に恵まれはしたものの、そのうち2人は―、五女と末娘は夭逝してしまい、更に四女の諄にも先立たれてしまい、それ故、今でも健在なのは長女の峯と三女の数の二人だけであった。
三女の数は岩村藩主・松平河内守乗保の許へと嫁していた。
いや、実を言えば四女の諄も以前、亀山藩主の石川日向守總純と婚約していたのだ。
それは總純が亀山藩6万石を領する石川家を相続したものの、未だ、将軍・家治への初めての御目見得を済ませてはおらず、従五位下日向守に叙任される前、吟次郎なる通称を名乗っていた明和8(1771)年のことであった。
だが結局、諄が石川總純と結ばれることはなく、その前―、總純が将軍・家治への初めての御目見得を済ませる前年の安永元(1772)年に卒してしまったのだ。
それ故、康福には今はもう、長女の峯と三女の数しか残ってはいなかったのだ。
しかもその峯にしろ、数にしろ未だ、子には恵まれず、つまり次女の義が意知との間にもうけた龍助と萬吉の二人だけが康福にとっては唯一の孫と言えた。
そしてその母である義はもうこの世にはおらず、康福にとってはそれだけに大事な愛娘である義の「忘れ形見」とも言うべき龍助と萬吉が余計に可愛く思え、その上、二人とも亡き母の面影をたたえているとあらば、尚更であろう。
康福が孫の龍助の顔を見たくて頻繁に意知を呼付ける面もあった。
いや、本来ならば萬吉にも逢いたいところであったが、萬吉は数えでも未だ4つに過ぎず、これでは馬に跨らせることは出来まい。それどころか歩くことすらままならないであろう。
「いや、自らが足を運ぶべきであろうが、老中首座ともなると、中々に忙しゅうてな…」
康福は「老中首座」とのフレーズにアクセントを置いてみせた。
「御心遣い、忝のう存じまする…、萬吉が丈夫に成長せし暁には、龍助とそれに萬吉共々、参りますによって…」
「うむ。是非にの…、いや、その折には萬吉にも馬を贈ってやろうぞ…」
「畏れ入ります…」
「馬と申さば、黒鹿毛の乗心地はどうだな?」
これもまたいつも康福が意知に問うものであった。意知もその度に、
「はい。この上ない乗心地にて、意知には勿体のうござりまする…」
康福より贈られた黒鹿毛を持上げると同時に、謙遜してみせることも忘れなかった。
「いやいや、決して左様に謙る必要はあるまいて、それどころか中々の勇姿ぞ。意知が姿…、それも晴姿はのう…、いや、龍助の晴姿もな…」
康福は目尻を更に下げて見せた。
すると龍助は父・意知の「言付」に遵い、
「畏れ入りまする…」
舌足らずな調子ではあったが、外祖父・康福に対してそう礼の言葉を口にした。
一方、康福にはそんな外孫の舌足らずな口調がまた、余計に愛おしく覚えたらしく、愈愈もって目尻が下がった。それは最早、だれ下がりであった。
「いや、意知や龍助の勇姿を、もそっと皆にも見せたいものよ…、大名小路に屋敷を構えしことが、これ程までに恨めしいとはのう…」
康福は冗談めかしてはいたものの、それでも半分は本音であった。
同じ大名小路でも、その行止まりとも言うべき数寄屋橋御門内、それも今は島原藩が上屋敷を構えている場所に屋敷を構えていたならば、意知と龍助のその武者姿を今よりも、もっと多くの者に見せびらかせることが出来るというものである。
いや、今でも―、大名小路の入口とも言うべきここ、東側の北角に屋敷を構える今でも意知と龍助のその「勇姿」を周囲の者に存分に見せ付けることが出来ていたが、康福としてはそれでは不十分な様子であり、今よりももっと多くの者に見せたい様子であった。
その為、神田橋御門内にある田沼家の上屋敷よりも、もっと遠くに屋敷を構えられていたならば、康福はそう思うと、今は島原藩の上屋敷がある数寄屋橋橋御門内に屋敷を構えていたならばと、ふとそう思った次第である。
そこならば、意知と龍助は今よりも長い距離をそれこそ、
「練歩く…」
必然的にそうなるからだ。島原藩が上屋敷を構える数寄屋橋御門内の場所にまで辿り着くには康福が屋敷を構えるここ、大名小路の入口より、今、ちょうど康福への陳情客が列をなしている鍛冶橋御門内の方面へと進み、更にその先へと進まねばならないからだ。
鍛冶橋御門内より、その終点とも言うべき数寄屋橋御門内までの距離はちょうど、大名小路の入口より鍛冶橋御門内までの距離に匹敵し、してみると、鍛冶橋御門内はちょうど、大名小路の入口とその終点である数寄屋橋御門内の中間地点に当たる。
ともあれ、大名小路の入口より終点である数寄屋橋御門内までの間には多くの大名屋敷が立並んでいた。
例えば今、陳情客が列をなしている鍛冶橋御門方面にかけては、康福の屋敷の「お隣さん」に当たる岡山藩の向屋敷、及び、康福の屋敷の斜向かいにある岡山藩の上屋敷―、つまりは大名小路を隔てて向かい合う岡山藩の上屋敷と向屋敷を皮切りに、古河藩や篠山藩、三河吉田藩、及び、新発田藩、横須賀藩といった上屋敷が立並ぶ。
そして鍛冶橋御門内より終点たる数寄屋橋御門内にかけては高知藩や徳嶋藩、佐倉藩、及び鳥取藩藩、田中藩、高槻藩といった上屋敷が立並び、これらの上屋敷の主とも言うべき大名たちにも、
「婿の意知と可愛い孫の龍助の武者ぶり、晴姿を見せつけたいものよ…」
康福はその思いからふと、鍛冶橋御門内に屋敷があったならばと、思った訳である。
その様なやり取りの最中、再び、渡廊下より足音が近付くのが聞こえた。康福の長女にして養嗣子の康定の室である峯が侍女を随えて茶菓子を運んで来たのだ。これも「恒例行事」と言え、意知には直ぐにそうと察せられた。
「お出でなさいませ…」
峯はまず、父である康福の許に、次いで意知の許に茶を置くと、そう挨拶したので、意知も「畏れ入ります」と応え、龍助もそれに倣った。
「さぁ、遠慮は無用ぞ…」
湯気の立つ茶と共に、意知と龍助の元に差出された菓子も遠慮なく食べるよう、康福は奨めた。
「されば菓子は仙台より取寄せし、塩瀬の饅頭ぞ…」
康福は、「仙台」という地名にこれまたアクセントを置き、それに対して孫の龍助は普通に聞流したものの、婿の意知は、
「成程…」
岳父・康福の意図を察した。
すると意知が予期した通り、康福は孫の龍助に対して、
「玩具も取り揃えた故に、奥にて見るが良いぞ…」
玩具をあげるからと、極めて一般的な手法でもって、孫に座を外させることにした。龍助は伯母に当たる峯とその侍女に伴われて奥、男子禁制の大奥へと連れて行かれた。
こうして奥座敷にて康福と意知の二人だけとなったところで、康福は本題に入った。
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