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四年後、天明3年10月24日 ~田沼意知、元・岳父にして老中首座の松平康福より若年寄内定を伝えらる~ 前篇

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 青天せいてんくろ鹿毛かげ陽光ようこう反射はんしゃさせ、10月下旬げじゅん肌寒はだざむさをやわらげるようであった。

 奏者番そうじゃばんつとめる田沼たぬま意知おきともくろ鹿毛かげまたがり、神田かんだばし門内もんないにある屋敷やしきると、大名だいみょう小路こうじにある岳父がくふ松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよし屋敷やしきへとかった。

 大名だいみょう小路こうじと言っても愛宕あたごしたにあるそれではなく、曲輪内くるわない大名だいみょう小路こうじであった。

 それゆえ神田かんだばし門内もんないにある屋敷やしきからはまさはなさきであり、態々わざわざうままたが必要ひつようはなかった。徒歩とほ充分じゅうぶん距離きょりである。

 にもかかわらず、意知おきともがそのよう近距離きんきょりであるにもかかわらず、態々わざわざうままたがったのはひとえに、岳父がくふ康福やすよしがそれをもとめたからだ。

 意知おきともまたがるこのくろ鹿毛かげ岳父がくふ康福やすよしからの贈物おくりものであり、

とう屋敷やしきまいられるおりにはこのうまにて…」

 康福やすよし婿むこ意知おきともうまおくったさいに、そのようもうえるのをわすれなかった。

 康福やすよし意図いと意知おきともにもさっしがついていた。

 すなわち、意知おきともおのれ屋敷やしきおとずれるのを周囲しゅういに、とりわけ大名だいみょう誇示アピールするのが目的もくてきであったのだ。

 康福やすよし屋敷やしきかまえる曲輪内くるわない大名だいみょう小路こうじには、そのかんせられているとおり、大名だいみょう屋敷やしき立並たちならぶ。

 そのなかでも岳父がくふ康福やすよし屋敷やしきかまえるのが東側ひがしがわ北角きたかど、つまりは大名だいみょう小路こうじのさしずめ、入口いりぐちよう場所ばしょであり、たつぐち南角みなみかど真向まむかいに位置いちする。まさ一等地いっとうちと言えた。

 その康福やすよし屋敷やしき意知おきともが、それもうままたがっておとずれれば、真向まむかいのたつぐち南角みなみかどすなわち、高崎藩たかさきはん上屋敷かみやしきもとより、はすかい―、高崎藩たかさきはん上屋敷かみやしきの「おとなり」の岡山藩おかやまはん上屋敷かみやしきの「住人じゅうにん」に婿むこのその姿すがた康福やすよしからすればまさに「勇姿ゆうし」を存分ぞんぶん誇示アピールすることが出来でき、それはそのままおのれ存在そんざい価値かちたかめることにもなる。

 いま―、天明3(1783)年10月時点じてん老中ろうじゅう意知おきとも岳父がくふである康福やすよしと、それに意知おきとも実父じっぷである意次おきつぐ、そして久世くぜ大和守やまとのかみ廣明ひろあきらの3人体制たいせいであり、これに老中ろうじゅう格式かくしきあたえられている側用人そばようにん水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただともくわわる。

 このなかでも康福やすよし一応いちおう筆頭ひっとうである老中ろうじゅう首座しゅざ位置付いちづけられていた。だが、

一応いちおう…」

 それにぎず、実際じっさいには意次おきつぐこそが実権じっけんにぎってり、康福やすよしはあくまで、

「おかざり…」

 それにぎないと、周囲しゅういにはられていた。

 いや、実際じっさい、そのとおりであり、康福やすよし自身じしんがそのことをなによりも自覚じかくするところであった。意次おきつぐがいなければ到底とうてい国政まつりごとをあずかることは不可能ふかのうであろう。

 だが康福やすよしにも老中ろうじゅう首座しゅざとしての自負心ぷらいどがある。仮令たとえ、「おかざり」であったとしてもだ。

 そこで康福やすよし婿むこ意知おきともを、と言うよりは事実上じじつじょう老中ろうじゅう首座しゅざとも言うべき意次おきつぐそく意知おきとも自邸じてい呼付よびつけることで、おのれ存在そんざい価値かちたかようほっしたのだ。つまりは、

おのれいまときめく意次おきつぐそく意知おきとも呼付よびつけられるのだぞ…」

 周囲しゅういにそう誇示アピールすることで、

「なればこそ、おのれけっしてただの、おかざりではないのだぞ…」

 周囲しゅういにそのようにもおもわせることが出来できるという寸法すんぽうである。

 それはいささか、牽強付会けんきょうふかいぎるようにもおもわれるが、存外ぞんがい効果こうか覿面てきめんで、それは陳情ちんじょうきゃくの「かず」としてあらわれた。

 すなわち、幕府ばくふ役人やくにんには「月番制つきばんせい」がられており、けても要職ようしょくである老中ろうじゅうには、それに側用人そばようにん若年寄わかどしよりそば用取次ようとりつぎといった面々めんめんにもだが、

用番月ようばんづき對客たいきゃく

 というものがもうけられていた。

 老中ろうじゅうなどの要職ようしょくもとには就職しゅうしょく昇進しょうしんなどが目的もくてき種々しゅじゅ陳情ちんじょうきゃく足繁あししげかようものである。

 そして老中ろうじゅうともなるといそがしい。

 なにしろ老中ろうじゅう国政まつりごと最高さいこう責任者せきにんしゃとして、民政みんせい財政ざいせい司法しほうなど全般ぜんぱんわたり、目配めくばりしなければならないからだ。

 そのうえ陳情ちんじょうきゃく対応たいおうまでさせれば、老中ろうじゅうとしての、その「本来ほんらい業務ぎょうむ」にも差支さしつかえるのは間違まちがいない。

 これは側用人そばようにん若年寄わかどしよりそば用取次ようとりつぎにもおなじことが言える。

 そこで、陳情ちんじょうきゃくおとずれる、それも殺到さっとうするであろう彼等かれら老中ろうじゅうたちのために、

用番月とうばんづき對客たいきゃく

 というものがもうけられたのだ。

 この對客たいきゃくだが、

登城とじょうまえ對客たいきゃく

 ともしょうせられ、そのとおり、登城とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく対応たいおうをすることであり、幕府ばくふ月番つきばん老中ろうじゅうたちのためにこの、「登城とじょうまえ對客たいきゃく」の指定していしていたのだ。

 老中ろうじゅうたちは本来ほんらい業務ぎょうむいそがしく、そのうえ月番つきばんともなると、さらいそがしく、毎日まいにち登城とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく押掛おしかけられてはたまらない。

 そこで老中ろうじゅう場合ばあいは3日と5日、7日と11日、13日と18日、21日と23日、そして25日の9日間が「用番月ようばんづき對客たいきゃく」と指定していされていた。これは月番つきばん老中ろうじゅう毎月まいつき以上いじょうの9日間だけ登城とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやればいということであり、若年寄わかどしよりもこれにじゅんじる。

 一方いっぽう、これとはぎゃくに、

非番月ひばんづき對客たいきゃく

 というものももうけられており、老中ろうじゅう若年寄わかどしより場合ばあい、それも月番つきばんではない非番月ひばんづき場合ばあいさきの9日間のうち2日間だけ登城とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやればい。

 たとえば、康福やすよし場合ばあいだと5日と25日がこの、「非番月ひばんづき對客たいきゃく」であり、つまり康福やすよし非番ひばんおりには5日と25日の2日間だけ登城前とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく対応たいおうをしてやればく、また陳情ちんじょうきゃくにしても康福やすよし非番ひばんおりには5日と25日の2日以外は登城とじょうまえ康福やすよしもとへと陳情ちんじょうおとずれてはならないというわけだ。

 しかしこれにも抜道ぬけみちがあり、「逢客ほうきゃく」については「別儀べつぎ」であった。

 すなわち、「逢客ほうきゃく」とは下城げじょう屋敷やしきかえってから陳情ちんじょうきゃく対応たいおうをすることであり、この「逢客ほうきゃく」については「對客たいきゃく」とはことなり、幕府ばくふとくさだめてはいなかった。

 つまり、月番つきばんであろうと非番ひばんであろうと、屋敷やしきかえってからは毎日まいにちでも陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやりなさい、というわけだ。

 いや、そもそも「對客たいきゃく」にしても同様どうようであり、「当番月とうばんづき對客たいきゃく」にしろ、「非番月ひばんづき對客たいきゃく」にしろ、それはあくまで、「努力どりょく義務ぎむ」にぎず、陳情ちんじょうきゃくがそれを無視むしして登城とじょうまえ押掛おしかけたところで、ばっせられるというものではない。

 好例こうれいなのはやはりなんと言っても意次おきつぐであろう。今月こんげつ10月は意次おきつぐにとっては「当番月とうばんづき」、月番つきばんたり、それゆえさきの9日間だけ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやればはずであり、今日きょうは24日であるので、9日間のうちにははいっておらず、本来ほんらいならば登城前とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやる必要ひつようはない。

 だが実際じっさいには陳情ちんじょうきゃくはそんなことには、

「おかまいなし…」

 とばかり日参にっさん誇張こちょうではなしに毎日まいにち意次おきつぐもとへと押掛おしかけ、それは「對客たいきゃく」ではないはず今日きょう、24日とてわらず、なん規制きせいもない「逢客ほうきゃく」については、

もうすにおよばず…」

 であり、うままたがり、神田かんだばし門内もんないにある屋敷やしき意知おきとも飛込とびこんできたものは、やはり誇張こちょうではなしに、神田かんだばしもんまでつづくのではないかとおもわれるほど行列ぎょうれつであった。

 一方いっぽう康福やすよしはと言うと、これもまた陳情ちんじょうきゃくれつをなしており、おなじく誇張こちょうではなし、鍛冶かじばし門方面もんほうめんまで陳情ちんじょうきゃくれつをなしていた。

 曲輪内くるわない大名だいみょう小路こうじ康福やすよし屋敷やしきかまえる東側ひがしがわ北角きたかど起点きてんとし、みなみ町奉行所まちぶぎょうしょのある数寄屋すきやばし門方面もんほうめんまでび、終点しゅうてん島原藩しまばらはん上屋敷かみやしき突当つきあたる。康福やすよしへの陳情ちんじょうきゃくはその大名だいみょう小路こうじ半分程はんぶんほどまでれつをなしていたのだ。

 おかざりの老中ろうじゅう首座しゅざにしては上出来じょうできと言えよう。いや、これもまた康福やすよしの、

なみだぐましい…」

 努力どりょく成果せいかと言えよう。その甲斐かいあってか、周囲しゅうい最近さいきんでは康福やすよしのことをただの、

「おかざりの老中ろうじゅう首座しゅざ…」

 とは見做みなさなくなったようで、それが意次おきつぐ陳情ちんじょうきゃくれつとなってあらわれていた。

 さて、意知おきともはその行列ぎょうれつ起点きてんとも言うべき門前もんぜんいた。いや、意知おきとも一人ひとりではない。その真後まうしろにはやはりくろ鹿毛かげまたが龍助りゅうすけ姿すがたがあった。

 龍助りゅうすけ今年ことしかぞえで11の意次おきつぐそくであり、康福やすよし外孫そとまごでもある。

 龍助りゅうすけはまだ11であり、一人ひとりくろ鹿毛かげあやつるのはむずかしく、そこで附人つけびと武田たけだ織右衛門おりえもん手綱たづなき、おなじく附人つけびと大村おおむら六右衛門ろくえもん龍助りゅうすけ介添かいぞえつとめていた。

 こうして意知おきとも龍助りゅうすけ父子ふしうまに、それも見事みごとくろ鹿毛かげまたがり、門前もんぜん姿すがたせたことから、いやでも陳情ちんじょうきゃくく。

 だが彼等かれら陳情ちんじょうきゃくおどろきはなかった。それと言うのも、意知おきとも龍助りゅうすけ父子ふし頻繁ひんぱんにこの康福やすよし屋敷やしきおとずれ、それもうままたがおとずれるので、彼等かれら陳情ちんじょうきゃくにはそれは見慣みなれた光景こうけいであった。

 いや、だからこそ陳情ちんじょうきゃくも、意知おきとも龍助りゅうすけ父子ふし頻繁ひんぱん康福やすよし実力じつりょくおもて、こうして陳情ちんじょうれつをなしていたのだ。

 それでも意知おきとも龍助りゅうすけ父子ふしの「登場とうじょう」に一種いっしゅはなやぎがしょうじたのは事実じじつであった。

 さしずめ大輪たいりんはないたようであり、康福やすよし家臣かしん中嶋なかじまたまきこえさらはなえた。

山城守やましろのかみさま龍助りゅうすけさま…」

 中嶋なかじまたまき馬上ばじょう意知おきとも一行いっこう深々ふかぶかあたまげてみせた。これもまた、陳情ちんじょうきゃくたいして意知おきとも存在そんざいらしめる、つまりは康福やすよし存在そんざい価値かち誇示アピールする康福やすよしによる、

なみだぐましい…」

 努力どりょく一環いっかん、もとい演出パフォーマンスであった。

 そのさい中嶋なかじまたまきえらばれたのは、たまき陳情ちんじょうきゃくあるじ康福やすよしへと取次とりつ取次衆とりつぎしゅう一人ひとりということもあるが、それ以上いじょうに、取次衆とりつぎしゅうのみならず、すべての家臣かしんなかでも一番いちばん眉目びもく秀麗しゅうれいであったからだ。やはり見映みばえがするものほうが、おのれ存在そんざい価値かちたかめる演出パフォーマンスにはより効果的こうかてきと言えた。

 いや、それだけが理由りゆうではない。やはり最大さいだい理由りゆうなんと言っても、中嶋なかじまたまきが、

「ヒラの家臣かしんぎない…」

 それにきた。

 いまときめく老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐそく意知おきともと、そのうえさら嫡孫ちゃくそん龍助りゅうすけまでが大名だいみょう屋敷やしき門前もんぜん到着とうちゃくしたとあらば、通常つうじょう家老かろうか、あるいはそれに中老ちゅうろうか、わるくとも公用人こうようにんクラスが出迎でむかえにおとずれてもさそうなものである。

 だが康福やすよしはそうはせず、陳情ちんじょうきゃく取次とりつぎに従事じゅうじする取次とりつぎしゅうなかでも、あえてヒラの中嶋なかじまたまき意知おきとも一行いっこう出迎でむかえにたらせることで、すなわち、陳情ちんじょうきゃくたむろする門前もんぜんにおいては意知おきともたちをあえて粗略そりゃくあつかうことで、

周防守すおうのかみさまいまときめく老中ろうじゅう首座しゅざ田沼たぬまさま嫡子ちゃくし嫡孫ちゃくそんをそのよう粗略そりゃくあつかわれても、ビクともせぬのか…」

 陳情ちんじょうきゃくにそのようおもわせられ、

「これは…、周防守すおうのかみさまけっしておかざりの老中ろうじゅう首座しゅざなのではないのやもれぬ…、それどころか田沼たぬまさま匹敵ひってきせし、実力じつりょく兼備かねそなえたる老中ろうじゅう首座しゅざなのやも…」

 ひいてはそのようにもおもわせられるという寸法すんぽうであった。

 意知おきともも、それに家来けらい武田たけだ織右衛門おりえもん大村おおむら六右衛門ろくえもんもそのことは承知しょうちしていたので、はらたず、それどころか内心ないしんでは康福やすよしのそのようないじましい、なみだぐましい努力どりょく苦笑くしょうさせられた。

 さて、意知おきとも龍助りゅうすけ下馬げばするや、附人つけびと武田たけだ織右衛門おりえもん大村おおむら六右衛門ろくえもん共々ともども中嶋なかじまたまき案内あんないにて康福やすよしもとへとあしはこんだ。

 門前もんぜんには陳情ちんじょうきゃくそとへとしており、本来ほんらいならば意知おきとも一行いっこう陳情ちんじょうおとずれたわけではないにしても、きゃくであることにわりはないので、そうであるならば陳情ちんじょうきゃくれつ真後まうしろにならぶべきであろうが、康福やすよし流石さすがにそこまでは意知おきとも粗略そりゃくにはあつかえない。

 いや、意知おきともとしてはならんでもかまわず、それゆえに、意知おきともおのれ到着とうちゃくするよりもまえよりもずっとさき到着とうちゃくして、康福やすよしうべくれつをなしている陳情ちんじょうきゃくたいして申訳もうしわけなさをかんじつつ、中嶋なかじまたまき案内あんないにより、龍助りゅうすけたちを引連ひきつれて邸内ていないへとあしれた。ちなみに意知おきとも龍助りゅうすけをここまではこんでてくれた二頭にとううまべつ家臣かしんがやはり邸内ていないへと手綱たづなき、うまやへとはこんだ。

 門前もんぜんより邸内ていない玄関げんかんおもて玄関げんかんまでも陳情ちんじょうきゃくれつをなしており、意知おきともたちが案内あんないされたのはそれとはべつ玄関げんかんであり、そこには家老かろう坂口さかぐち幸左衛門こうざえもん味岡あじおか八郎兵衛はちろうべえ二人ふたり平伏へいふくして待受まちうけていた。意知おきともたちを「粗略そりゃく」にあつかうのはあくまで、陳情ちんじょうきゃくまえでの「演出パフォーマンス」にぎない。

 いや、玄関げんかんにて意知おきともたちを出迎でむかえたのは家老かろうだけではない。それに中老ちゅうろう野村のむら榮左衛門えいざえもん内藤ないとう忠右衛門ちゅうえもん二人ふたり玄関前げんかんまえにてつくばい、意知おきともたちを出迎でむかえた。

 これよりは家老かろう坂口さかぐち幸左衛門こうざえもん味岡あじおか八郎兵衛はちろうべえ二人ふたり意知おきとも龍助りゅうすけ主君しゅくん康福やすよしもとへと案内あんないし、一方いっぽう龍助りゅうすけ附人つけびと武田たけだ織右衛門おりえもん大村おおむら六右衛門ろくえもん二人ふたり接遇せつぐうつとめるのは中老ちゅうろう野村のむら榮左衛門えいざえもん内藤ないとう忠右衛門ちゅうえもんであり、これはぎゃく鄭重ていちょうぎるというものである。それこそ公用人こうようにんクラスで充分じゅうぶんであろう。如何いか武田たけだ織右衛門おりえもん大村おおむら六右衛門ろくえもんいまときめく田沼たぬま意次おきつぐ家臣かしん嫡孫ちゃくそん龍助りゅうすけ附人つけびとであろうとも、そのはあくまで陪臣ばいしんぎない。そうであれば公用人こうようにんクラスが接遇せつぐうつとめれば充分じゅうぶん、いや、そもそも接遇せつぐうする必要ひつようすらないであろう。ましてや康福やすよし老中ろうじゅう首座しゅざ立場たちばでは意次おきつぐうえ位置いちするのだ。意次おきつぐ陪臣ばいしんなど一々いちいち接待せったいしてやる必要ひつようはないであろうが、しかし康福やすよしとしてはあたまではかっていても、そうは出来できないところが、

「おかざりの老中ろうじゅう首座しゅざ…」

 その所以ゆえんと言えた。

 さて、意知おきとも龍助りゅうすけ坂口さかぐち幸左衛門こうざえもん味岡あじおか八郎兵衛はちろうべえ案内あんないにて奥座敷おくざしきへと案内あんないされると、そこには康福やすよしすでとこにしてっていた。

 その奥座敷おくざしきとこめんするかべのぞいて、三方さんぽう障子しょうじ一切いっさいなく、すなわち、渡廊下わたりろうかだけが奥座敷おくざしきへとつうずる唯一ゆいいつ通路つうろであり、そかもその渡廊下わたりろうか奥座敷おくざしきとこまさ垂直すいちょくしつらえられており、それゆえ意知おきとも渡廊下わたりろうかすすむうちに、とこにした岳父がくふ康福やすよし姿すがたとらえることが出来できた。

 意知おきとも龍助りゅうすけとも渡廊下わたりろうかにして岳父がくふ康福やすよしまえすと、足音あしおとが…、坂口さかぐち幸左衛門こうざえもん味岡あじおか八郎兵衛はちろうべえ二人ふたり足音あしおととおざかった。これよりは家族かぞく所謂いわゆる

「ファミリー」

 そのため時間じかんというわけで、坂口さかぐち幸左衛門こうざえもんにしろ味岡あじおか八郎兵衛はちろうべえにしろ如何いか家老かろういえども、「ファミリー」の時間じかん空間くうかん立入たちいわけにはゆかない。

 いや、この奥座敷おくざしきからして、そもそも康福やすよし婿むこ意知おきともまご、それも外孫そとまご龍助りゅうすけとのときごすためしつらえさせたものであり、いま康福やすよしにしているとこ北側きたがわならば、渡廊下わたりろうか南側みなみがわ、つまりは康福やすよしは、

南面なんめんす…」

 というわけである。

 そして康福やすよし意知おきとも龍助りゅうすけ父子ふしとのあいだ東西とうざいめんしており、いま西にしからしていた。

「いや、ようまいられたの…」

 康福やすよしがいつもの口上こうじょう意知おきともねぎらうと、まご龍助りゅうすけにもこれまた、

「いつものごとく…」

 祖父そふかおのぞかせた。

 龍助りゅうすけ康福やすよし次女じじょよしんだであった。それも「わす形見がたみ」であった。

 すなわち、去年きょねん―、天明2(1782)年の6月、正確せいかくには6月20日によし龍助りゅうすけと、それに二人ふたりそく次男じなん萬吉ばんきち三男さんなん幸吉こうきちのこしてしゅっした。流行病はやりやまいであり、それから4日後の24日には三男さんなん幸吉こうきちまでもおなじく流行病はやりやまいにより夭逝ようせいした。いまで言う肺炎はいえんであった。

 康福やすよしよしふくめて6人もの女児じょじめぐまれ、しかし、嫡子ちゃくしにはめぐまれず、それゆえ長女ちょうじょみね養嗣子ようしし康定やすさだめあわせた。それが明和5(1768)年10月のことであった。

 明和5(1768)年10月に康福やすよし康定やすさだ養嗣子ようししむかえたのにともない、長女ちょうじょみねめあわせたのだ。

 一方いっぽうよしみねした次女じじょであり、みね康定やすさだむすばれたその翌年よくねんの明和6(1769)年12月に意知おきともむすばれ、4年後の安永2(1773)年に龍助りゅうすけをもうけたのであった。

 康定やすさだにとっては初孫ういまごであり、それも外孫そとまごだけに余計よけい可愛かわいかった。

 よしはそれからさらに7年後の安永9(1780)年には萬吉ばんきちを、その翌年よくねんの天明元(1781)年には幸吉こうきちまさしく、

立続たてつづけに…」

 意知おきともとのあいだにもうけたのであった。

 ことに幸吉こうきちまれたのは意知おきとも奏者番そうじゃばん取立とりたてられた12月15日のことであり、意知おきともにとっては二重にじゅうしあわせであった。

 だが意知おきともしあわせもそこまでと言えた。その翌年よくねんすなわ去年きょねんの6月、そのつきの20日はよしを、そして24日には幸吉こうきちをもこれまた、

立続たてつづけに…」

 流行はやりやまいによりうしなってしまったからだ。

 意知おきともよしとの結婚生活けっこんせいかつは14年にもたないものであった。

 それゆえ意知おきともにとって康福やすよし最早もはや岳父がくふではなかった。いて言うならば、「もと岳父がくふ」であろうか。

 だがそれでもよし意知おきともとのあいだ龍助りゅうすけと、さら萬吉ばんきちのこしてくれたので、康福やすよし龍助りゅうすけ萬吉ばんきち兄弟きょうだいがい祖父そふとして、いまでも意知おきとも岳父がくふであるかのように振舞ふるまっていた。

萬吉ばんきち息災そくさいか?」

 康福やすよし初孫ういまごであった龍助りゅうすけ目尻めじりげつつ、意知おきともにそううた。

「はい、さいわいにも丈夫じょうぶにて…」

左様さようか…、いや、それは祝着しゅうやく…」

おそります…」

萬吉ばんきちかおたいものよ…」

 康福やすよしのその言葉ことばには実感じっかんがこもっていた。

 いや、康福やすよし意知おきとも龍助りゅうすけをこうして頻繁ひんぱん屋敷やしき呼寄よびよせるのはおのれ存在そんざい価値かちたかめるのが最大さいだい動機どうきではあるが、しかしそれだけではない。

可愛かわいまごいたい…」

 その動機どうき多分たぶんふくまれていたのだ。

 康福やすよしは6人の女児じょじめぐまれはしたものの、そのうち2人は―、五女ごじょ末娘すえむすめ夭逝ようせいしてしまい、さら四女よんじょじゅんにも先立さきだたれてしまい、それゆえいまでも健在けんざいなのは長女ちょうじょみね三女さんじょかず二人ふたりだけであった。

 三女さんじょかず岩村藩主いわむらはんしゅ松平まつだいら河内守かわちのかみ乗保のりやすもとへとしていた。

 いや、じつを言えば四女よんじょじゅん以前いぜん亀山藩主かめやはんしゅ石川いしかわ日向守ひゅうがのかみ總純ふさずみ婚約こんやくしていたのだ。

 それは總純ふさずみ亀山藩かめやまはん6万石をりょうする石川いしかわ相続そうぞくしたものの、いまだ、将軍しょうぐん家治いえはるへのはじめての御目見得おめみえませてはおらず、従五位下じゅごいのげ日向守ひゅうがのかみ叙任じょにんされるまえ吟次郎ぎんじろうなる通称つうしょう名乗なのっていた明和8(1771)年のことであった。

 だが結局けっきょくじゅん石川總純いしかわふさずみむすばれることはなく、そのまえ―、總純ふさずみ将軍しょうぐん家治いえはるへのはじめての御目見得おめみえませる前年ぜんねんの安永元(1772)年にしゅっしてしまったのだ。

 それゆえ康福やすよしにはいまはもう、長女ちょうじょみね三女さんじょかずしかのこってはいなかったのだ。

 しかもそのみねにしろ、かずにしろいまだ、にはめぐまれず、つまり次女じじょよし意知おきともとのあいだにもうけた龍助りゅうすけ萬吉ばんきち二人ふたりだけが康福やすよしにとっては唯一ゆいいつまごと言えた。

 そしてそのははであるよしはもうこのにはおらず、康福やすよしにとってはそれだけに大事だいじ愛娘まなむすめであるよしの「わす形見がたみ」とも言うべき龍助りゅうすけ萬吉ばんきち余計よけい可愛かわいおもえ、そのうえ二人ふたりともはは面影おもかげをたたえているとあらば、尚更なおさらであろう。

 康福やすよしまご龍助りゅうすけかおたくて頻繁ひんぱん意知おきとも呼付よびつけるめんもあった。

 いや、本来ほんらいならば萬吉ばんきちにもいたいところであったが、萬吉ばんきちかぞえでもいまだ4つにぎず、これではうままたがらせることは出来できまい。それどころかあるくことすらままならないであろう。

「いや、みずからがあしはこぶべきであろうが、老中ろうじゅう首座しゅざともなると、中々なかなかいそがしゅうてな…」

 康福やすよしは「老中ろうじゅう首座しゅざ」とのフレーズにアクセントをいてみせた。

心遣こころづかい、かたじけのうぞんじまする…、萬吉ばんきち丈夫じょうぶ成長せいちょうせしあかつきには、龍助りゅうすけとそれに萬吉ばんきち共々ともどもまいりますによって…」

「うむ。是非ぜひにの…、いや、そのおりには萬吉ばんきちにもうまおくってやろうぞ…」

おそります…」

うまもうさば、くろ鹿毛かげ乗心地のりごこちはどうだな?」

 これもまたいつも康福やすよし意知おきともうものであった。意知おきとももそのたびに、

「はい。このうえない乗心地のりごこちにて、意知おきともには勿体もったいのうござりまする…」

 康福やすよしよりおくられたくろ鹿毛かげ持上もちあげると同時どうじに、謙遜けんそんしてみせることもわすれなかった。

「いやいや、けっして左様さようへりくだ必要ひつようはあるまいて、それどころか中々なかなか勇姿ゆうしぞ。意知おきとも姿すがた…、それも晴姿はれすがたはのう…、いや、龍助りゅうすけ晴姿はれすがたもな…」

 康福やすよし目尻めじりさらげてせた。

 すると龍助りゅうすけちち意知おきともの「言付いいつけ」にしたがい、

おそりまする…」

 舌足したたらずな調子ちょうしではあったが、がい祖父そふ康福やすよしたいしてそうれい言葉ことばくちにした。

 一方いっぽう康福やすよしにはそんな外孫そとまご舌足したたらずな口調くちょうがまた、余計よけいいとおしくおぼえたらしく、愈愈いよいよもって目尻めじりがった。それは最早もはや、だれがりであった。

「いや、意知おきとも龍助りゅうすけ勇姿ゆうしを、もそっとみなにもせたいものよ…、大名だいみょう小路こうじ屋敷やしきかまえしことが、これほどまでにうらめしいとはのう…」

 康福やすよし冗談じょうだんめかしてはいたものの、それでも半分はんぶん本音ほんねであった。

 おな大名だいみょう小路こうじでも、その行止ゆきどまりとも言うべき数寄屋すきやばし門内もんない、それもいま島原藩しまばらはん上屋敷かみやしきかまえている場所ばしょ屋敷やしきかまえていたならば、意知おきとも龍助りゅうすけのその武者むしゃ姿すがたいまよりも、もっとおおくのものせびらかせることが出来できるというものである。

 いや、いまでも―、大名だいみょう小路こうじ入口いりぐちとも言うべきここ、東側ひがしがわ北角きたかど屋敷やしきかまえるいまでも意知おきとも龍助りゅうすけのその「勇姿ゆうし」を周囲しゅういもの存分ぞんぶんけることが出来できていたが、康福やすよしとしてはそれでは不十分ふじゅうぶん様子ようすであり、いまよりももっとおおくのものせたい様子ようすであった。

 そのため神田かんだばし門内もんないにある田沼たぬま上屋敷かみやしきよりも、もっととおくに屋敷やしきかまえられていたならば、康福やすよしはそうおもうと、いま島原藩しまばらはん上屋敷かみやしきがある数寄屋橋すきやばし門内もんない屋敷やしきかまえていたならばと、ふとそうおもった次第しだいである。

 そこならば、意知おきとも龍助りゅうすけいまよりもなが距離きょりをそれこそ、

練歩ねりあるく…」

 必然的ひつぜんてきにそうなるからだ。島原藩しまばらはん上屋敷かみやしきかまえる数寄屋すきやばし門内もんない場所ばしょにまで辿たどくには康福やすよし屋敷やしきかまえるここ、大名だいみょう小路こうじ入口いりぐちより、いま、ちょうど康福やすよしへの陳情ちんじょうきゃくれつをなしている鍛冶かじばし門内もんない方面ほうめんへとすすみ、さらにそのさきへとすすまねばならないからだ。

 鍛冶かじばし門内もんないより、その終点しゅうてんとも言うべき数寄屋すきやばし門内もんないまでの距離きょりはちょうど、大名だいみょう小路こうじ入口いりぐちより鍛冶かじばし門内もんないまでの距離きょり匹敵ひってきし、してみると、鍛冶かじばし門内もんないはちょうど、大名だいみょう小路こうじ入口いりぐちとその終点しゅうてんである数寄屋すきやばし門内もんない中間ちゅうかん地点ちてんたる。

 ともあれ、大名だいみょう小路こうじ入口いりぐちより終点しゅうてんである数寄屋すきやばし門内もんないまでのあいだにはおおくの大名だいみょう屋敷やしき立並たちならんでいた。

 たとえばいま陳情ちんじょうきゃくれつをなしている鍛冶かじばし門方面もんほうめんにかけては、康福やすよし屋敷やしきの「おとなりさん」にたる岡山藩おかやまはんむこう屋敷やしきおよび、康福やすよし屋敷やしき斜向はすむかいにある岡山藩おかやまはん上屋敷かみやしき―、つまりは大名だいみょう小路こうじへだててかい岡山藩おかやまはん上屋敷かみやしきむこう屋敷やしき皮切かわきりに、古河こがはん篠山藩ささやまはん三河みかわ吉田よしだはんおよび、新発田しばたはん横須賀よこすかはんといった上屋敷かみやしき立並たちならぶ。

 そして鍛冶かじばし門内もんないより終点しゅうてんたる数寄屋すきやばし門内もんないにかけては高知こうちはん徳嶋藩とくしまはん佐倉さくらはんおよ鳥取藩とっとりはん田中たなかはん高槻たかつきはんといった上屋敷かみやしき立並たちならび、これらの上屋敷かみやしきあるじとも言うべき大名だいみょうたちにも、

婿むこ意知おきとも可愛かわいまご龍助りゅうすけ武者むしゃぶり、晴姿はれすがたせつけたいものよ…」

 康福やすよしはそのおもいからふと、鍛冶かじばし門内もんない屋敷やしきがあったならばと、おもったわけである。

 そのようなやりりの最中さなかふたたび、渡廊下わたりろうかより足音あしおと近付ちかづくのがこえた。康福やすよし長女ちょうじょにして養嗣子ようしし康定やすさだしつであるみね侍女じじょしたがえて茶菓子ちゃがしはこんでたのだ。これも「恒例こうれい行事ぎょうじ」と言え、意知おきともにはぐにそうとさっせられた。

「おでなさいませ…」

 みねはまず、ちちである康福やすよしもとに、いで意知おきとももとちゃくと、そう挨拶あいさつしたので、意知おきともも「おそります」とこたえ、龍助りゅうすけもそれにならった。

「さぁ、遠慮えんりょ無用むようぞ…」

 湯気ゆげちゃともに、意知おきとも龍助りゅうすけもと差出さしだされた菓子かし遠慮えんりょなくべるよう、康福やすよしすすめた。

「されば菓子かし仙台せんだいより取寄とりよせし、塩瀬しほせ饅頭まんじゅうぞ…」

 康福やすよしは、「仙台せんだい」という地名ちめいにこれまたアクセントをき、それにたいしてまご龍助りゅうすけ普通ふつう聞流ききながしたものの、婿むこ意知おきともは、

成程なるほど…」

 岳父がくふ康福やすよし意図いとさっした。

 すると意知おきとも予期よきしたとおり、康福やすよしまご龍助りゅうすけたいして、

玩具がんぐそろえたゆえに、おくにてるがいぞ…」

 玩具おもちゃをあげるからと、きわめて一般的オーソドックス手法しゅほうでもって、まごはずさせることにした。龍助りゅうすけ伯母おばたるみねとその侍女じじょともなわれておく男子だんし禁制きんせい大奥おおおくへとれてかれた。

 こうして奥座敷おくざしきにて康福やすよし意知おきとも二人ふたりだけとなったところで、康福やすよし本題ほんだいはいった。
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