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徳川家基毒殺事件 ~将軍・家治は大奥の謎に苦しめられる~

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「ああ、そうか…」

 家治いえはるなにかをおもしたかのようこえげた。

 実際じっさい家治いえはるは「あること」をおもしたのであった。

家基いえもとくなってから…、いや、毒殺どくさつされてから一月ひとつき、いや、二月程ふたつきほどったころであろうかの…、芥川あくたがわ小野寺おのじ管理かんりせし西半分にしはんぶん…、小石川こいしかわ薬園やくえん西半分にしはんぶんより失火しっかがあり…」

 家治いえはるのその言葉ことば意知おきともおもした。

 すなわち、安永8(1779)年の4月、小石川こいしかわ薬園やくえん西半分にしはんぶんにて失火しっか発生はっせいしたのだ。

「そのおり西半分にしはんぶんなかにありし小笠原おがさわら若狭わかさめが下屋敷しもやしきをも延焼えんしょうまれたそうだが…」

 じつ失火しっかなどではなく、火元ひもと小笠原おがさわら若狭わかさこと若狭守わかさのかみ信喜のぶよし下屋敷しもやしきではなかったのか…。

 すなわち、小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきにて附子ぶし、トリカブトを栽培さいばいしていたことを、その痕跡こんせき隠滅いんめつすべく、信喜のぶよし下屋敷しもやしき、それも邸内ていない一角いっかく附子ぶし、トリカブトが咲乱さきみだれるにわはなち、同時どうじに、薬園やくえんにもはなつことで、さも薬園やくえんよりしょうじた失火しっか、その信喜のぶよし屋敷やしきをも呑込のみこんでしまった…、そのようせかけたのではあるまいかと、家治いえはる示唆しさしたのであった。

 意知おきともおなじことをかんがえており、家治いえはるうなずいてせた。

「あとは…、だれ河豚ふぐどく附子ぶしどくとを調合ちょうごうして、遅効性ちこうせいどく完成かんせいさせたか、だの…」

 家治いえはるうめようつぶやいた。

 飯塚いいづか勘解由かげゆ市岡いちおか左大夫さだゆう、そして中島なかじま久右衛門きゅうえもん、この3人の屋敷やしき遅効性ちこうせいどく調合ちょうごう人体実験じんたいじっけんおこなわれたとかんがえるならば、最低さいていでも3人のものが、それも医師いし関与かんよしていたものとおもわれる。

 無論むろん、この3人の医師いしもまた、治済はるさだ所縁ゆかりのあるものたちであり、そして治済はるさだめいじられて3人の医師いし各自かくじ、3人の先手頭さきてがしら屋敷やしきにおいて、

切磋せっさ琢磨たくま…」

 一番早いちばんはやくに遅効性ちこうせいどく完成かんせいさせようと、河豚ふぐどく附子ぶし、トリカブトのどく調合ちょうごう、それも遅効性ちこうせい最適さいてき分量ぶんりょう配合はいごう研究けんきゅういそしんだのではあるまいか。

「だが…、この3人の医師いし割出わりだしは容易よういなことではあるまいの…」

 家治いえはるおもわずてんあおいだ。

「いえ、それにつきましてはじつ長谷川はせがわ平蔵へいぞうおなじことをもうしておりまして、明日あす以降いこう…、今日きょうより吉岡よしおか彦右衛門ひこえもん探索たんさくさせるよしとのこと…」

 意知おきとも家治いえはる元気げんきけるようにそうげた。

 それは昨日きのう意知おきとも平蔵へいぞうとの面会めんかいにおいて、平蔵へいぞういま家治いえはる見立みたてをくちにし、吉岡よしおか彦右衛門ひこえもんにまた探索たんさくさせるつもりだと、意知おきともげたことであった。

 すると家治いえはるもそれをいて、「左様さようか」と期待きたいめたこえげた。

 それでも家治いえはるぐに冷静れいせいさを取戻とりもどした。

「いや、医師いし割出わりだしに成功致せいこういたさば、あるいは人体実験じんたいじっけんをせずともむやもれぬな…」

 家治いえはるおのれ言聞いいきかせるようにそうつぶやいた。

 成程なるほど、その医師いしから記録きろく、さしずめ「研究けんきゅうデータ」でも押収おうしゅう出来できれば、家治いえはるの言うとおり、人体実験じんたいじっけんをせずにむ。

 そして冷静れいせいさを完全かんぜん取戻とりもどした家治いえはるはまだ、問題もんだいが、それも最大さいだい問題もんだいのこっていることをおもした。

「どうやって遅効性ちこうせいどくを…、河豚ふぐどく附子ぶし、トリカブトのどくとを掛合かけあわせたそのどく家基いえもとふくませたか…」

 であった。

 くなった深谷式部ふかやしきぶ探索たんさくにより、家基いえもと生前せいぜん最期さいごとなった鷹狩たかがりの前日ぜんじつすなわち、2月20日に薩摩藩さつまはん老女ろうじょ平野ひらのが、「公儀こうぎおく女遣おんなづかい」として御城えどじょう西之丸にしのまる大奥おおおくへとがったことが判明はんめいしている。

 公儀こうぎおく女遣おんなづかいともなれば、大奥おおおくへの使者ししゃということになり、余程よほどのことがないかぎりは、たとえば、馬鹿ばかデカい荷物にもつでもかかえていないかぎりは「身体しんたい検査けんさ」をもけずに「フリーパス」で大奥おおおくへとがれる。

 そのさい平野ひらの接遇せつぐうつとめたのが家基いえもと附属ふぞくするきゃく応答あしらい山野やまのであることもまた、深谷式部ふかやしきぶ調しらべにより判明はんめいしている。

 その山野やまのだが、じつかつては芝新しばしん馬場ばばにある薩摩藩さつまはん上屋敷かみやしき奥向おくむき所謂いわゆる大奥おおおくにて竹姫たけひめつかえていたのだ。

 竹姫たけひめがまだ、薩摩さつま藩主はんしゅであった島津しまづ繼豊つぐとよむすばれるまえ御城えどじょう本丸大奥ほんまるおおおくにてらしていたころより、山野やまのはその竹姫たけひめ表使おもてづかいとしてつかえていた。

 その竹姫たけひめが享保14(1729)年に当時とうじ薩摩さつま藩主はんしゅであった島津しまづ繼豊つぐとよむすばれ、御城えどじょう本丸大奥ほんまるおおおくから芝新しばしん馬場ばばにある上屋敷かみやしきへと移徙いしうつると、山野やまのたち竹姫附たけひめづき奥女中おくじょちゅうもそれにしたがい、上屋敷かみやしきへとうつった。

 宝暦10(1760)年に島津しまづ繼豊つぐとよ先立さきだたれた竹姫たけひめ落飾らくしょくして淨岸院じょうがんいんあらためたのちも、山野やまの竹姫たけひめこと淨岸院じょうがんいんつかつづけた。

 そしてその竹姫たけひめこと淨岸院じょうがんいんも安永元(1772)年の12月に病歿びょうぼつすると、山野やまのはその翌年よくねん、それも正月しょうがつ御城えどじょう本丸大奥ほんまるおおおくに「再就職さいしゅうしょく」をたすと、いきなり萬壽ます姫附ひめづき中年寄ちゅうどしより取立とりたてられたのであった。

 これはかつて、本丸大奥ほんまるおおおくにて竹姫附たけひめづき表使おもてづかいつとめていたという経歴キャリア考慮こうりょされたものであろう。

 本来ほんらいならば大奥おおおく採用さいようされたものはまずは御目見得以下おめみえいか御三之間おさんのまからその勤務キャリアをスタートさせるのが原則げんそくだからだ。

 山野やまの場合ばあいすでに、御三之間おさんのまてから竹姫附たけひめづき表使おもてづかいへと昇進しょうしんげたという経歴キャリアがあり、それが考慮こうりょされたのであろうが、しかし、それでもこの抜擢ばってきには異論いろんもあった。

 すなわち、将軍しょうぐん家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしより、それも筆頭ひっとうである松嶌まつしまと、それに高岳たかおか二人ふたりであった。

 松嶌まつしまにしろ、高岳たかおかにしろ、公家くげけい上臈じょうろう年寄どしよりであり、本来ほんらいならば実権じっけんはないはずであった。

 だがこと松嶌まつしまについては別格べっかくであった。

 それと言うのも松嶌まつしま将軍しょうぐん家治いえはる乳母うばつとめたからだ。

 松嶌まつしま元々もともと梅薗うめぞのとも九代くだい将軍しょうぐん家重いえしげ正室せいしつ増子ますこつかえる上臈じょうろう年寄どしよりであった。

 それが増子ますこ死後しご家重附いえしげづき上臈じょうろう年寄どしよりとなり、そのてん大御所おおごしょ吉宗附よしむねづき上臈じょうろう年寄どしよりとなった梅薗うめぞのとはことなる。

 さて、家重いえしげ増子ますこ死後しご側妾そくしょうであったこうかたとのあいだ家治いえはるすと、松嶌まつしま家治いえはる乳母うばえらばれたのであった。

 いや、じつを言えばべつ奥女中おくじょちゅう家治いえはる乳母うばえらばれていたのだが、生後せいごもない家治いえはるはその奥女中おくじょちゅうちちきらい、そこできわめて異例いれいではあるが、上臈じょうろう年寄どしよりであった松嶌まつしま白羽しらはち、家治いえはる乳母うばつとめることになったのであった。

 すると家治いえはる松嶌まつしまちちこのんでんだ。

 かる経緯けいいから松嶌まつしま格式かくしきだけではない、実権じっけんをも兼備かねそなえた上臈じょうろう年寄どしよりであった。

 高岳たかおかはその松嶌まつしま要請ようせいにより宝暦10(1760)年12月に、将軍しょうぐん家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしよりつらねたのであった。

 これはその当時とうじ将軍しょうぐんになったばかりの家治いえはる附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしより松嶌まつしま唯一人ただひとりであり、あとは武家ぶけけい年寄としよりばかりで、これでは如何いか松嶌まつしま将軍しょうぐん家治いえはる乳母うばをもつとめたため実権じっけんをも兼備かねそなえているとは言っても、かずまさ武家ぶけけい年寄としより呑込のみこまれてしまうかもれぬと、松嶌まつしまはそれをおそれて、そこで味方みかたとなるべき「仲間なかま」をやそうと、あらたに京都きょうとから公家くげむすめ上臈じょうろう年寄どしよりまねこうとかんがえて、そこで公家くげ岡崎国廣おかざきくにひろ一人娘ひとりむすめである高岳たかおか上臈じょうろう年寄どしよりとしてまねいたというわけだ。

 かる次第しだいで、松嶌まつしま高岳たかおか紐帯ちゅうたいむすばれており、松嶌まつしま山野やまのをいきなり萬壽ます姫附ひめづき中年寄ちゅうどしより抜擢ばってきすることに難色なんしょくしめすと、高岳たかおかもこれに加勢かせいした。

 すると萬壽ます姫附ひめづき上臈じょうろう年寄どしより岩橋いわはし年寄としより小枝さえだが、「口出くちだ無用むよう」と猛反論もうはんろんしたのであった。

 元々もともと山野やまの萬壽ます姫附ひめづき中年寄ちゅうどしより抜擢ばってきしようとしたのは岩橋いわはし小枝さえだ二人ふたりであり、岩橋いわはし小枝さえだ萬壽ます姫附ひめづき年寄としよりとして、山野やまの中年寄ちゅうどしより抜擢ばってきしようとかんがえたのであり、そうである以上いじょう萬壽ます姫附ひめづきでもない、将軍しょうぐん家治附いえはるづき年寄としよりである松嶌まつしま高岳たかおか口出くちだしは僭越せんえつ越権えっけん行為こういであると猛反論もうはんろんしたのであった。

 これに何故なぜ西之丸にしのまる大上臈おおじょうろう梅薗うめぞのまでもが参戦さんせん、しかも岩橋いわはし小枝さえだ加勢かせいしたことから、さしもの松嶌まつしま高岳たかおか引下ひきさがらざるをなかった。

 それゆえ山野やまの竹姫たけひめこと淨岸院じょうがんいんかいして薩摩藩さつまはんとも、さらにはその薩摩藩さつまはん背後はいごひかえる、いや、そび一橋ひとつばしともかかわりがある可能性かのうせいかんがえられた。

 だとするならば、その山野やまの薩摩藩さつまはんよりつかわされた「公儀こうぎおく女遣おんなづかい」の平野ひらの接遇せつぐうつとめた、それも家基いえもと生前せいぜん最期さいごとなってしまった鷹狩たかがり前日ぜんじつ接遇せつぐうつとめたとなると、その機会きかい平野ひらのより山野やまのへと毒物どくぶつが…、おそらくは小壜こびんにでもめられた遅効性ちこうせい発揮はっきするに適当てきとうりょう附子ぶし、トリカブトと河豚毒ふぐどく手交しゅこうされたものとおもわれる。

 ここまではい。

 問題もんだいはその翌日よくじつ大奥おおおくにて家基いえもと朝餉あさげ毒見どくみつかさどった御客おきゃく応答あしらい山野やまのではなく、砂野いさの笹岡ささおかというてんであった。

 砂野いさの家基いえもと乳母うばつとめた初崎はつざきめいたり、笹岡ささおかいたっては家基いえもと生母せいぼ於千穂おちほかたのやはりめいたるのだ。

 将軍しょうぐんにしろ次期じき将軍しょうぐんにしろ、大奥おおおく食事しょくじさいには将軍しょうぐんづき次期じき将軍しょうぐんづき年寄としより監視かんしするなか、やはり将軍しょうぐんづき次期じき将軍しょうぐんづき御客おきゃく応答あしらい最後さいご毒見どくみつとめることになる。

 それゆえ家基いえもと大奥おおおく朝餉あさげどく混入こんにゅうしようとおもえば、御客おきゃく応答あしらいによる最後さいご毒見どくみ機会きかいいてほかにはない。

 だがその毒見どくみつとめたのが砂野いさの笹岡ささおか二人ふたりとなると、山野やまのからさら砂野いさの笹岡ささおかへとどくが、薩摩藩さつまはん女遣おんなづかい平野ひらのよりもたらされた遅効性ちこうせいのそのどく手交しゅこうされたことになる。

 しかし、たして砂野いさの笹岡ささおか二人ふたり山野やまのより手交しゅこうされたどくを、家基いえもと食事しょくじ朝餉あさげ毒見どくみ機会きかいに、その朝餉あさげどく混入こんにゅうしたりするものであろうか。

 なにしろ砂野いさのにしろ笹岡ささおかにしろ、初崎同様はつざきどうよう

家基いえもとあっての…」

 立場たちばにあるからだ。

 そして毒見どくみには年寄としよりひからせるのだ。

 家治いえはる愛妻あいさいであった倫子ともこと、そのうえ愛娘まなむすめであった萬壽ますひめ際会さいかいして、家基いえもと身辺しんぺんにはとりわけをつけていた。

 寶蓮院ほうれんいんからも、倫子ともこ萬壽ますひめ毒殺どくさつではないか、それも一橋ひとつばし治済はるさだによる陰謀いんぼうではないかと、そう耳打みみうちされたことも手伝てつだって、そこで家治いえはる大奥おおおくにおいては家基いえもと附属ふぞくする年寄としより小枝さえだのぞいて、おのれもっと信頼しんらいする初崎はつざきと、それに室津むろつはいしたのであった。

 家基いえもと大奥おおおくにて食事しょくじさい、その毒見どくみにな御客おきゃく応答あしらいにしてもおなじであり、砂野いさの笹岡ささおかはいしたのであった。

 そして家基いえもと大奥おおおくにて食事しょくじさいにはつね砂野いさの笹岡ささおか二人ふたり毒見どくみになわせることにし、さらに、年寄としよりのうちでも、初崎はつざき室津むろつ交代こうたいでその毒見どくみ監視かんしさせることにし、上臈じょうろう年寄どしより岩橋いわはし年寄としより小枝さえだには一切いっさい毒見どくみには関与タッチさせなかった。

 岩橋いわはし小枝さえだ倫子ともこづき萬壽ます姫附ひめづき年寄としよりとして、二人ふたり毒殺どくさつ関与かんよした可能性かのうせいがあり、また、家基附いえもとづき御客おきゃく応答あしらいであった花川はなかわもまた、倫子ともこづき中年寄ちゅうどしよりとして、倫子ともこ毒殺どくさつ関与かんよ、それも実行犯じっこうはんとして実際じっさいくだした可能性かのうせいがあるからだ。

 しかもこれはあとかったことだが、花川はなかわ一橋ひとつばし治済はるさだ近習番きんじゅうばんとしてつかえる並河なみかわ新五左衛門しんござえもん正央まさなか実妹じつまいであったのだ。

 いや、花川はなかわ大奥おおおくつとめるさい必要ひつようとなる宿元やどもと、つまりは身元みもと保証人ほしょうにんとしておとうと清水しみず重好しげよしにやはり近習きんじゅうとしてつかえる川崎かわさき十兵衛じゅうべえ正武まさたけてていたので、それゆえ家治いえはるたいして注意ちゅういはらっていなかったのだが、倫子ともこ萬壽ますひめ際会さいかいして、家治いえはるあらためて家基いえもとつかえる奥女中おくじょちゅう身元みもと徹底的てっていてき調しらべさせた結果けっか判明はんめいしたことであった。

 そこで家治いえはる花川はなかわを、ひいては一橋ひとつばし治済はるさだおよがせる意味いみで、花川はなかわをそのまま家基附いえもとづき年寄としよりになしおき、ただし、毒見どくみには一切いっさい関与タッチさせないことにしたのだ。

 これで完璧かんぺきすくなくとも大奥おおおくにていのちとすことはないとおもわれたのだが、しかし、実際じっさいには家基いえもと大奥おおおくにて一服いっぷくられた可能性かのうせいかぎりなくたかく、家治いえはるはそのなぞくるしめられた。
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