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一橋治済は松平定信に田沼意知の暗殺を嗾けることにする
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「差出がましゅうはござりまするが…」
安祥院はそう切出したかと思うと、
「この際、御庭番を動かされましては如何でござりましょう…」
一橋治済に対して、御庭番を放ってはどうかと、家治にそう提案したのであった。
成程、将軍に附属する御庭番を一橋治済の許へと放てば、治済の「罪」を明らかにすることも或いは容易やも知れぬ。
いや、それ以前に―、家基が亡くなる前、毒殺される前に一橋治済の許へと御庭番を放っておけば、家基の毒殺も阻止出来たやも知れぬ。
だがその場合、御側御用取次に悟られる危険性が高かった。
即ち、御庭番を動かせるのは将軍と御側御用取次のみであり、しかも実際には御庭番を動かすのは御側御用取次である例が殆どであった。
そんな中、将軍たる家治が御庭番を動かそうものなら、しかもその目的たるや、
「将軍家たる御三卿の一橋治済が家基の暗殺を企んでいるやも知れず、そこで治済の動静を徹底的に監視せよ…」
御庭番に斯かる「密命」を与えようものなら、さしもの御庭番も尻込みするに違いなく、そこで御庭番は「真の御主人様」とも言うべき御側御用取次に相談を持掛ける、いや、告口する危険性があった。
そしてその御側御用取次には一橋治済とは昵懇の稲葉正明も含まれていた。
そこで家治としては如何に将軍と雖も、斯かる事情から容易には御庭番を動かせず、そこで腹心とも言うべき水谷勝富と田沼意致の二人を御三卿家老、一橋家老として治済の許へと差向けたのだ。
水谷勝富と田沼意致の二人に家老として、つまりは治済の「お目附役」、「監視役」として治済の動静、それこそ一挙手一投足に至るまで徹底的に監視させることで、家基の暗殺を阻止しようとしたのだ。
だが結果から言えば、それは失敗に終わってしまった。
これなら初手から、御庭番を動かしておけば良かったと、家治はそう思わぬでもなかった。仮令、御庭番を動かしたことが稲葉正明を通じて、一橋治済に悟られたとしてもだ。
しかしだからと言って、家基が毒殺された今、それも治済の手にかかった今、その治済の「罪」、謀叛にも等しいその「大罪」を白日の下に曝すべく、御庭番を動かす訳にはゆかなかった。
その様な真似をすれば、やはり稲葉正明を通じて治済へとそのことが伝わり、そうなれば治済には証拠湮滅を許巣ことにもなりかねなかったからだ。
そこで家治は御庭番を動かす代わりにやはり腹心とも言うべき田沼意知を動かすことにしたのだ。
意知を若年寄に取立て、若年寄として家基の死の真相を探索させることに、探索の指揮を執らせることにしたのだ。
家治が安祥院にそのことを告げると、安祥院も納得した。
「なれど兄上…、されば一橋民部殿に附子と河豚を云々されましたのは如何にも拙いのではありますまいか?」
重好がそう口を挟んだ。
確かに重好の言う通り、今日の月次御礼にて家治が一橋治済と面会した際に、附子、トリカブトと河豚を治済に口走ったのは如何にも失策と言えた。
これで治済には家治が家基毒殺の仕掛に気付いたことを悟らせてしまったからだ。
だがどうにも堪えられなかったのだ。
己の愛息を毒殺した首魁が今、そこに平然と着座し、将軍たる己との拝謁に臨んでいる…、家治は治済を目の前にしてそう思うと、堪えられなかったのだ。
家治がその真情を吐露するや、重好もそれ以上は何も言わなかった。
さてその頃、一橋屋形の大奥にては治済が物頭の久田縫殿助と侍女の雛を相手に「謀議」を巡らしていた。
謀議とは外でもない、治済が己の犯した「罪」、次期将軍殺しという謀叛にも等しい「大罪」を湮滅、揉消す為の謀議であった。
但し、消すのは証拠ではなく、田沼意知の命であった。
日本橋の魚市場にて吉岡彦右衛門なる先手同心が冬場には河豚を扱う棒手振を相手に、安永7(1778)年から同8(1779)年にかけての冬場に河豚を大量に買付けた者がいないかどうか、聞込みをしていたことが判明した。
その吉岡彦右衛門は嘗ては、京都町奉行であった長谷川備中守宣雄を「お頭」に仰いでいた頃もあったそうな。
時を同じくして、その長谷川宣雄が一子、平蔵宣以が田沼意知の許へと数多の陳情客に紛れて足を運び、しかし数多の陳情客とは異なり、田沼家の家中にも悟られぬ様、平蔵と意知は密談に及んでいたそうな。
これらの事実を重ね合わせれば、
「将軍・家治は意知に家基の死の真相を探索させるべく、それも探索の指揮を執らせるべく、極めて異例ながら部屋住の身のままで若年寄へと進ませ、そこで意知は長谷川平蔵に実際の探索を託した…」
その結論が導き出される。
そして今日の月次御礼にて治済は家治より、附子、トリカブトと河豚毒について言及された。
どうやら家治は家基毒殺の仕掛に気付いている様だ。
無論、意知に探索を委ねた「賜物」である。
だがまだ確たる証までは家治も掴んではいない様であった。
それはつまりは意知が確たる証を、一橋治済が家基毒殺の首魁であるとする確たる証を掴んではいないということであった。
それならばこの段階で意知をも「排除」すれば、将軍・家治に心理的、精神的な大打撃を与えることになろう。
家基に続いて意知までも喪えば、さしもの将軍・家治も最早、家基の死の真相を解明かそうなどとは思わなくなるであろう。
それは即ち、治済を追及する気力を喪わせることを意味していた。
「さて…、そこでだ、如何に料理すべきだが…」
治済のその「問いかけ」に反応したのは侍女の雛であった。
「松平越中殿を使嗾あそばされましては如何でござりましょう…」
松平越中殿とは外でもない、白河藩主の松平越中守定信のことである。
「定信めを?定信に山城めを料理させようと申すのか?」
治済が雛に確かめる様に尋ねると、雛も「御意…」と応じた。
「確かに…、越中殿は山城殿が…、どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の成上がり者などと、斯様に自が蔑視せし山城殿が若年寄へと進まれたことで…、謂ってみれば先を越されしことで、越中殿は山城殿を大いに憎んでいる御様子…」
久田縫殿助がそう口を挟むと、雛も「さればそこを突くのでござりまする…」と応じた。
「話は分かったが、なれど具体的には如何にして定信を嗾ける?」
治済は重ねてそう問うた。
「されば越中殿に斯様に吹込まれましては如何でござりましょう…、山城殿は近々、部屋住のまま老職へと進まれるらしい、と…」
雛のその応えに、治済は元より、久田縫殿助も大いに頷かされた。
老職、即ち、老中ともなると、従四位下侍従の官位に叙されることになる。
天明3(1783)年の今、定信と意知は共に従五位下諸大夫の官位にあり、二人は同格であった。
いや、自尊心が殊の外、高い定信にはこれだけでも―、意知と同格というだけでも許し難いに相違なく、それが意知に先を越された、即ち、意知が部屋住のまま老中へと昇進した為に、それまでの従五位下諸大夫から一気に二段階昇格―、従五位下諸大夫の一段階上である四品、従四位下諸大夫を跳び越えて、従四位下侍従へと昇叙を果たしたとあらば、意知は官位の上でも役職の上でも、正に、
「名実共に…」
定信の上に立つ訳で、そうなれば定信のその富士山の様に高い自尊心はズタズタに引裂かれることは間違いなく、それが為に、定信が意知に殺意を抱くのは間違いなかろう。
「さればこの際、茶会でも催されましては如何でござりましょう…」
雛は不意にそう「方向転換」したが、治済にしろ久田縫殿助にしろ、雛の言わんとするところは直ぐに察せられた。
「茶会に越中殿をお招きし、そこで越中殿に斯かる山城殿が昇進話を吹込もうと?」
久田縫殿助が治済を代弁して雛を頷かせると、
「久方ぶりに、八代様の孫同士で語合いたい…、斯様なる名目にて越中殿を茶会にお招きあそばされましては如何でござりましょう…」
雛はそう補足した。
治済にしろ、定信にしろ共に八代様こと八代将軍・吉宗の孫であり、その孫同士で語合いたいとは、成程、理屈が合っていた。
「然らば如何に定信に繋ぎを取るか、だな…」
治済はそう呟いた。
天明3(1783)年の今、この時点ではスマホの様な便利な通信機器は影も形もないので、例えば、定信を茶会に招こうと思えば、定信に直に会って招待するか、或いは人を介するより外にはない。
いや、書状にてやり取りする手もあるが、それとて人伝、人を介する部類に入るであろう。
「されば家老の水谷但馬殿を介しましては如何でござりましょうや…」
雛のその言葉にはさしもの治済は元より、知恵者の久田縫殿助までも首を傾げさせたものである。
雛はそんな二人に対して、その意図するところを「絵解き」してみせた。
つまりはこういうことである。
水谷但馬こと家老の水谷但馬守勝富は相役、同僚の家老である林肥後守忠篤と共に交代で御城本丸へと登城しては中奥にある詰所に詰める。
そこで水谷勝富が御城に登城する日に、勝富に松平定信への「繋ぎ」を頼むのである。
定信は今は帝鑑間詰の大名であり、それ故、平日登城は許されてはおらず、しかし、代わりに江戸留守居が所謂、「城使」として平日、主君・定信に成代わって御城に登城し、蘇鉄之間に詰めることが認められていた。
いや、これは何も定信に限った話ではない。
平日登城が認められてはいない、つまりは松之大廊下の上之部屋に詰める御三家や、或いは同下之部屋に詰める加賀前田家や福井松平家、或いは矢田松平家を筆頭に、大廣間詰や帝鑑間詰、柳間詰といった諸侯は皆、平日登城が許されてはいない代わりに留守居が主君に成代わって御城へと登城することが許されていた。
ちなみに御三家の留守居のみ、「城附」と称せられ、勘定所中之間の直ぐ傍に、「御留守居控所」なる詰所が与えられており、そこに詰めていた。
ともあれ、平日、蘇鉄之間には定信に仕える留守居が詰めているので、そこで水谷勝富に蘇鉄之間へと足を運んで貰い、そこに詰めているであろう、定信に仕える留守居に治済の意向を伝えて貰おうという訳であり、謂わば、メッセンジャーであった。
「それなれば水谷殿でなくとも宜しいのでは?」
何かと口煩い、つまりは御三卿家老として、御三卿たる治済の監視役に徹っする水谷勝富に頼まずとも、同じく御三卿家老であり乍、水谷勝富とは対照的に治済の忠実なる番犬と化している林忠篤に「メッセンジャー」を頼んだ方が何かと好都合なのではあるまいか…、久田縫殿助はそう反論し、それには治済も同意見であった。
「いえ、水谷殿なればこそ、却って都合が良いと申すものにて…」
雛は思わせぶりにそう応えた。
「と申すと?」
治済が雛に先を促した。
「されば何かと口煩い、つまりは御三卿家老としての職分を全うせし水谷殿を介しますことで、その茶会が真、何の変哲もない茶会でありますことが担保されますによって…」
成程、治済が茶会を催すべく、しかもその茶会に定信を招待すべく、敢えて水谷勝富に定信への「メッセンジャー」を頼めば、如何に勝富とて、治済がよもやその茶会を利用して、定信に意知暗殺を嗾けようなどとは思わぬであろう。
いや、実際、治済は定信に対して、ただ、意知が近々、部屋住のまま老中に進むらしいと、そんな噂があると吹込むだけであり、これでは定信に意知暗殺を嗾けたことにはならないだろう。仮令、その結果、定信がその噂、もとい治済の虚言をどう受止めようとも、である。
ならば林忠篤ではなく、水谷勝富に「メッセンジャー」をやらせた方が、その茶会が真、何の変哲もない茶会であると担保されることになる。
仮に定信が意知暗殺を決意、それを実行に移したとして、それが発覚した場合、定信の口より件の茶会での一件が明るみに出た場合にその「担保」が役に立つ。つまりは治済にまで罪が及ぶ危険性を失くす効果が見込めるという訳だ。
治済は雛からそう聞かされて、「成程のう…」と頷き、久田縫殿助もまた頷いた。
「ときに…、定國は呼ばずとも良いのか?あれも八代様の孫だが…」
治済は思い出したかの様にそう尋ねた。
治済が口にした定國とは伊豫松山藩主の松平隠岐守定國のことであり、定國は定信の実兄、つまりは吉宗の孫である。
「畏れながら…」
雛はそう前置きしてから、定國は今はまだ国許である伊豫松山にいると、治済の勘違いを訂正した。
すると治済も己の勘違いに気付いたらしく、「おお、そうであったの」と微苦笑を浮かべて応ずると、
「定府であると、どうにも参勤交代の概念が抜け落ちてしまうによって…」
治済はそう言訳してみせた。
治済は、いや、治済に限らず御三卿は皆、定府、つまりは江戸居住が義務づけられており、裏を返せば参勤交代の義務から免除されていた。
それ故、治済はつい、定國もまた、己と同じ様に常に、江戸にいるものと誤解したのだ。
その点、定信は定國とは参勤交代の干支、参府年と帰国年が逆であり、今は江戸にいた。
だがその定信も来年、それも6月頃には兄・定國と入替わりに江戸を出立、国許である白河の地へと帰国せねばならなかった。
定信にとってそれは初入封、初めての「お国入り」であった。
いや、それ故、定信がこの江戸にいられるのは来年、天明4(1784)年の6月までということであり、その様な定信が治済から、
「意知が部屋住のまま、老中へと昇進するらしい…」
その様なことを耳打ちされれば、大いに焦り、判断力を喪うであろう。
少し考えれば、あり得ない話だと分かりそうなものだが、しかし、判断力を喪失した定信にはそれは期待出来ない。
来年の6月には江戸を離れなければならない…、定信はその焦りも相俟って、その前、初めての「お国入り」を果たす前に一気に決着をつけようと考えるに違いない。つまりは愈愈もって定信に意知暗殺を決意させる効果が見込めるという訳だ。
「いや、これで定信が山城暗殺に成功すれば良し、仮に、成功せずにしくじったとしても、それで定信が失脚すればそれはそれでまた良し…、そして両者が共倒れともなれば尚良し…」
治済は口元を歪めさせた。
その治済は早速にも翌日の11月16日、雛の「アドバイス」に従い、登城前、水谷勝富に「メッセンジャー」を頼んだのであった。
この日は幸いにも水谷勝富が登城する日であり、その勝富だが、普段は何かと己を煙たく思い、己を遠ざけている治済より斯かる依頼をされて、心底、驚いた。
「手前で真、宜しいので?」
勝富は思わずそう聞返した程である。
「うむ、今日は幸いにも、そなたが登城する日によって…、いや、気が進まぬと申すのならば、明日にでも改めて、肥後に頼むが…」
明日、17日は林肥後守忠篤が登城する日であった。
ともあれ、そう応えた治済に対して、勝富は暫し、治済の顔をまじまじと眺めたものである。それは治済の真意を探るかの様な目付きであり、事実、勝富は腹の内で治済の真意を推量ろうとしていた。
すると治済もそうと察して微苦笑を浮かべると、
「そなたを表向の蘇鉄之間へと追い遣る間に、中奥に留まりしこの治済が、中奥にそなたがいないのを良いことに、何か良からぬ企みでも企てんと欲しているのではないか…、大方、然様に疑うているのであろうが…」
そう応じたかと思うと、
「さればこの治済もそなたと共に、蘇鉄之間へと足を運んでも良いぞ?」
そうも告げたので、これにはさしもの勝富も慌てさせられた。如何に御三卿の監視役たる家老と雖も、御三卿にその様な真似をさせる訳にはゆかなかったからだ。
「いえ、それには及びませぬ…」
勝富はそう応ずると「メッセンジャー」の役目を引受けたのであった。
安祥院はそう切出したかと思うと、
「この際、御庭番を動かされましては如何でござりましょう…」
一橋治済に対して、御庭番を放ってはどうかと、家治にそう提案したのであった。
成程、将軍に附属する御庭番を一橋治済の許へと放てば、治済の「罪」を明らかにすることも或いは容易やも知れぬ。
いや、それ以前に―、家基が亡くなる前、毒殺される前に一橋治済の許へと御庭番を放っておけば、家基の毒殺も阻止出来たやも知れぬ。
だがその場合、御側御用取次に悟られる危険性が高かった。
即ち、御庭番を動かせるのは将軍と御側御用取次のみであり、しかも実際には御庭番を動かすのは御側御用取次である例が殆どであった。
そんな中、将軍たる家治が御庭番を動かそうものなら、しかもその目的たるや、
「将軍家たる御三卿の一橋治済が家基の暗殺を企んでいるやも知れず、そこで治済の動静を徹底的に監視せよ…」
御庭番に斯かる「密命」を与えようものなら、さしもの御庭番も尻込みするに違いなく、そこで御庭番は「真の御主人様」とも言うべき御側御用取次に相談を持掛ける、いや、告口する危険性があった。
そしてその御側御用取次には一橋治済とは昵懇の稲葉正明も含まれていた。
そこで家治としては如何に将軍と雖も、斯かる事情から容易には御庭番を動かせず、そこで腹心とも言うべき水谷勝富と田沼意致の二人を御三卿家老、一橋家老として治済の許へと差向けたのだ。
水谷勝富と田沼意致の二人に家老として、つまりは治済の「お目附役」、「監視役」として治済の動静、それこそ一挙手一投足に至るまで徹底的に監視させることで、家基の暗殺を阻止しようとしたのだ。
だが結果から言えば、それは失敗に終わってしまった。
これなら初手から、御庭番を動かしておけば良かったと、家治はそう思わぬでもなかった。仮令、御庭番を動かしたことが稲葉正明を通じて、一橋治済に悟られたとしてもだ。
しかしだからと言って、家基が毒殺された今、それも治済の手にかかった今、その治済の「罪」、謀叛にも等しいその「大罪」を白日の下に曝すべく、御庭番を動かす訳にはゆかなかった。
その様な真似をすれば、やはり稲葉正明を通じて治済へとそのことが伝わり、そうなれば治済には証拠湮滅を許巣ことにもなりかねなかったからだ。
そこで家治は御庭番を動かす代わりにやはり腹心とも言うべき田沼意知を動かすことにしたのだ。
意知を若年寄に取立て、若年寄として家基の死の真相を探索させることに、探索の指揮を執らせることにしたのだ。
家治が安祥院にそのことを告げると、安祥院も納得した。
「なれど兄上…、されば一橋民部殿に附子と河豚を云々されましたのは如何にも拙いのではありますまいか?」
重好がそう口を挟んだ。
確かに重好の言う通り、今日の月次御礼にて家治が一橋治済と面会した際に、附子、トリカブトと河豚を治済に口走ったのは如何にも失策と言えた。
これで治済には家治が家基毒殺の仕掛に気付いたことを悟らせてしまったからだ。
だがどうにも堪えられなかったのだ。
己の愛息を毒殺した首魁が今、そこに平然と着座し、将軍たる己との拝謁に臨んでいる…、家治は治済を目の前にしてそう思うと、堪えられなかったのだ。
家治がその真情を吐露するや、重好もそれ以上は何も言わなかった。
さてその頃、一橋屋形の大奥にては治済が物頭の久田縫殿助と侍女の雛を相手に「謀議」を巡らしていた。
謀議とは外でもない、治済が己の犯した「罪」、次期将軍殺しという謀叛にも等しい「大罪」を湮滅、揉消す為の謀議であった。
但し、消すのは証拠ではなく、田沼意知の命であった。
日本橋の魚市場にて吉岡彦右衛門なる先手同心が冬場には河豚を扱う棒手振を相手に、安永7(1778)年から同8(1779)年にかけての冬場に河豚を大量に買付けた者がいないかどうか、聞込みをしていたことが判明した。
その吉岡彦右衛門は嘗ては、京都町奉行であった長谷川備中守宣雄を「お頭」に仰いでいた頃もあったそうな。
時を同じくして、その長谷川宣雄が一子、平蔵宣以が田沼意知の許へと数多の陳情客に紛れて足を運び、しかし数多の陳情客とは異なり、田沼家の家中にも悟られぬ様、平蔵と意知は密談に及んでいたそうな。
これらの事実を重ね合わせれば、
「将軍・家治は意知に家基の死の真相を探索させるべく、それも探索の指揮を執らせるべく、極めて異例ながら部屋住の身のままで若年寄へと進ませ、そこで意知は長谷川平蔵に実際の探索を託した…」
その結論が導き出される。
そして今日の月次御礼にて治済は家治より、附子、トリカブトと河豚毒について言及された。
どうやら家治は家基毒殺の仕掛に気付いている様だ。
無論、意知に探索を委ねた「賜物」である。
だがまだ確たる証までは家治も掴んではいない様であった。
それはつまりは意知が確たる証を、一橋治済が家基毒殺の首魁であるとする確たる証を掴んではいないということであった。
それならばこの段階で意知をも「排除」すれば、将軍・家治に心理的、精神的な大打撃を与えることになろう。
家基に続いて意知までも喪えば、さしもの将軍・家治も最早、家基の死の真相を解明かそうなどとは思わなくなるであろう。
それは即ち、治済を追及する気力を喪わせることを意味していた。
「さて…、そこでだ、如何に料理すべきだが…」
治済のその「問いかけ」に反応したのは侍女の雛であった。
「松平越中殿を使嗾あそばされましては如何でござりましょう…」
松平越中殿とは外でもない、白河藩主の松平越中守定信のことである。
「定信めを?定信に山城めを料理させようと申すのか?」
治済が雛に確かめる様に尋ねると、雛も「御意…」と応じた。
「確かに…、越中殿は山城殿が…、どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の成上がり者などと、斯様に自が蔑視せし山城殿が若年寄へと進まれたことで…、謂ってみれば先を越されしことで、越中殿は山城殿を大いに憎んでいる御様子…」
久田縫殿助がそう口を挟むと、雛も「さればそこを突くのでござりまする…」と応じた。
「話は分かったが、なれど具体的には如何にして定信を嗾ける?」
治済は重ねてそう問うた。
「されば越中殿に斯様に吹込まれましては如何でござりましょう…、山城殿は近々、部屋住のまま老職へと進まれるらしい、と…」
雛のその応えに、治済は元より、久田縫殿助も大いに頷かされた。
老職、即ち、老中ともなると、従四位下侍従の官位に叙されることになる。
天明3(1783)年の今、定信と意知は共に従五位下諸大夫の官位にあり、二人は同格であった。
いや、自尊心が殊の外、高い定信にはこれだけでも―、意知と同格というだけでも許し難いに相違なく、それが意知に先を越された、即ち、意知が部屋住のまま老中へと昇進した為に、それまでの従五位下諸大夫から一気に二段階昇格―、従五位下諸大夫の一段階上である四品、従四位下諸大夫を跳び越えて、従四位下侍従へと昇叙を果たしたとあらば、意知は官位の上でも役職の上でも、正に、
「名実共に…」
定信の上に立つ訳で、そうなれば定信のその富士山の様に高い自尊心はズタズタに引裂かれることは間違いなく、それが為に、定信が意知に殺意を抱くのは間違いなかろう。
「さればこの際、茶会でも催されましては如何でござりましょう…」
雛は不意にそう「方向転換」したが、治済にしろ久田縫殿助にしろ、雛の言わんとするところは直ぐに察せられた。
「茶会に越中殿をお招きし、そこで越中殿に斯かる山城殿が昇進話を吹込もうと?」
久田縫殿助が治済を代弁して雛を頷かせると、
「久方ぶりに、八代様の孫同士で語合いたい…、斯様なる名目にて越中殿を茶会にお招きあそばされましては如何でござりましょう…」
雛はそう補足した。
治済にしろ、定信にしろ共に八代様こと八代将軍・吉宗の孫であり、その孫同士で語合いたいとは、成程、理屈が合っていた。
「然らば如何に定信に繋ぎを取るか、だな…」
治済はそう呟いた。
天明3(1783)年の今、この時点ではスマホの様な便利な通信機器は影も形もないので、例えば、定信を茶会に招こうと思えば、定信に直に会って招待するか、或いは人を介するより外にはない。
いや、書状にてやり取りする手もあるが、それとて人伝、人を介する部類に入るであろう。
「されば家老の水谷但馬殿を介しましては如何でござりましょうや…」
雛のその言葉にはさしもの治済は元より、知恵者の久田縫殿助までも首を傾げさせたものである。
雛はそんな二人に対して、その意図するところを「絵解き」してみせた。
つまりはこういうことである。
水谷但馬こと家老の水谷但馬守勝富は相役、同僚の家老である林肥後守忠篤と共に交代で御城本丸へと登城しては中奥にある詰所に詰める。
そこで水谷勝富が御城に登城する日に、勝富に松平定信への「繋ぎ」を頼むのである。
定信は今は帝鑑間詰の大名であり、それ故、平日登城は許されてはおらず、しかし、代わりに江戸留守居が所謂、「城使」として平日、主君・定信に成代わって御城に登城し、蘇鉄之間に詰めることが認められていた。
いや、これは何も定信に限った話ではない。
平日登城が認められてはいない、つまりは松之大廊下の上之部屋に詰める御三家や、或いは同下之部屋に詰める加賀前田家や福井松平家、或いは矢田松平家を筆頭に、大廣間詰や帝鑑間詰、柳間詰といった諸侯は皆、平日登城が許されてはいない代わりに留守居が主君に成代わって御城へと登城することが許されていた。
ちなみに御三家の留守居のみ、「城附」と称せられ、勘定所中之間の直ぐ傍に、「御留守居控所」なる詰所が与えられており、そこに詰めていた。
ともあれ、平日、蘇鉄之間には定信に仕える留守居が詰めているので、そこで水谷勝富に蘇鉄之間へと足を運んで貰い、そこに詰めているであろう、定信に仕える留守居に治済の意向を伝えて貰おうという訳であり、謂わば、メッセンジャーであった。
「それなれば水谷殿でなくとも宜しいのでは?」
何かと口煩い、つまりは御三卿家老として、御三卿たる治済の監視役に徹っする水谷勝富に頼まずとも、同じく御三卿家老であり乍、水谷勝富とは対照的に治済の忠実なる番犬と化している林忠篤に「メッセンジャー」を頼んだ方が何かと好都合なのではあるまいか…、久田縫殿助はそう反論し、それには治済も同意見であった。
「いえ、水谷殿なればこそ、却って都合が良いと申すものにて…」
雛は思わせぶりにそう応えた。
「と申すと?」
治済が雛に先を促した。
「されば何かと口煩い、つまりは御三卿家老としての職分を全うせし水谷殿を介しますことで、その茶会が真、何の変哲もない茶会でありますことが担保されますによって…」
成程、治済が茶会を催すべく、しかもその茶会に定信を招待すべく、敢えて水谷勝富に定信への「メッセンジャー」を頼めば、如何に勝富とて、治済がよもやその茶会を利用して、定信に意知暗殺を嗾けようなどとは思わぬであろう。
いや、実際、治済は定信に対して、ただ、意知が近々、部屋住のまま老中に進むらしいと、そんな噂があると吹込むだけであり、これでは定信に意知暗殺を嗾けたことにはならないだろう。仮令、その結果、定信がその噂、もとい治済の虚言をどう受止めようとも、である。
ならば林忠篤ではなく、水谷勝富に「メッセンジャー」をやらせた方が、その茶会が真、何の変哲もない茶会であると担保されることになる。
仮に定信が意知暗殺を決意、それを実行に移したとして、それが発覚した場合、定信の口より件の茶会での一件が明るみに出た場合にその「担保」が役に立つ。つまりは治済にまで罪が及ぶ危険性を失くす効果が見込めるという訳だ。
治済は雛からそう聞かされて、「成程のう…」と頷き、久田縫殿助もまた頷いた。
「ときに…、定國は呼ばずとも良いのか?あれも八代様の孫だが…」
治済は思い出したかの様にそう尋ねた。
治済が口にした定國とは伊豫松山藩主の松平隠岐守定國のことであり、定國は定信の実兄、つまりは吉宗の孫である。
「畏れながら…」
雛はそう前置きしてから、定國は今はまだ国許である伊豫松山にいると、治済の勘違いを訂正した。
すると治済も己の勘違いに気付いたらしく、「おお、そうであったの」と微苦笑を浮かべて応ずると、
「定府であると、どうにも参勤交代の概念が抜け落ちてしまうによって…」
治済はそう言訳してみせた。
治済は、いや、治済に限らず御三卿は皆、定府、つまりは江戸居住が義務づけられており、裏を返せば参勤交代の義務から免除されていた。
それ故、治済はつい、定國もまた、己と同じ様に常に、江戸にいるものと誤解したのだ。
その点、定信は定國とは参勤交代の干支、参府年と帰国年が逆であり、今は江戸にいた。
だがその定信も来年、それも6月頃には兄・定國と入替わりに江戸を出立、国許である白河の地へと帰国せねばならなかった。
定信にとってそれは初入封、初めての「お国入り」であった。
いや、それ故、定信がこの江戸にいられるのは来年、天明4(1784)年の6月までということであり、その様な定信が治済から、
「意知が部屋住のまま、老中へと昇進するらしい…」
その様なことを耳打ちされれば、大いに焦り、判断力を喪うであろう。
少し考えれば、あり得ない話だと分かりそうなものだが、しかし、判断力を喪失した定信にはそれは期待出来ない。
来年の6月には江戸を離れなければならない…、定信はその焦りも相俟って、その前、初めての「お国入り」を果たす前に一気に決着をつけようと考えるに違いない。つまりは愈愈もって定信に意知暗殺を決意させる効果が見込めるという訳だ。
「いや、これで定信が山城暗殺に成功すれば良し、仮に、成功せずにしくじったとしても、それで定信が失脚すればそれはそれでまた良し…、そして両者が共倒れともなれば尚良し…」
治済は口元を歪めさせた。
その治済は早速にも翌日の11月16日、雛の「アドバイス」に従い、登城前、水谷勝富に「メッセンジャー」を頼んだのであった。
この日は幸いにも水谷勝富が登城する日であり、その勝富だが、普段は何かと己を煙たく思い、己を遠ざけている治済より斯かる依頼をされて、心底、驚いた。
「手前で真、宜しいので?」
勝富は思わずそう聞返した程である。
「うむ、今日は幸いにも、そなたが登城する日によって…、いや、気が進まぬと申すのならば、明日にでも改めて、肥後に頼むが…」
明日、17日は林肥後守忠篤が登城する日であった。
ともあれ、そう応えた治済に対して、勝富は暫し、治済の顔をまじまじと眺めたものである。それは治済の真意を探るかの様な目付きであり、事実、勝富は腹の内で治済の真意を推量ろうとしていた。
すると治済もそうと察して微苦笑を浮かべると、
「そなたを表向の蘇鉄之間へと追い遣る間に、中奥に留まりしこの治済が、中奥にそなたがいないのを良いことに、何か良からぬ企みでも企てんと欲しているのではないか…、大方、然様に疑うているのであろうが…」
そう応じたかと思うと、
「さればこの治済もそなたと共に、蘇鉄之間へと足を運んでも良いぞ?」
そうも告げたので、これにはさしもの勝富も慌てさせられた。如何に御三卿の監視役たる家老と雖も、御三卿にその様な真似をさせる訳にはゆかなかったからだ。
「いえ、それには及びませぬ…」
勝富はそう応ずると「メッセンジャー」の役目を引受けたのであった。
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