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一橋治済は松平定信に田沼意知の暗殺を嗾けることにする

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差出さしでがましゅうはござりまするが…」

 安祥院あんしょういんはそう切出きりだしたかとおもうと、

「このさい御庭番おにわばんうごかされましては如何いかがでござりましょう…」

 一橋ひとつばし治済はるさだたいして、御庭番おにわばんはなってはどうかと、家治いえはるにそう提案ていあんしたのであった。

 成程なるほど将軍しょうぐん附属ふぞくする御庭番おにわばん一橋ひとつばし治済はるさだもとへとはなてば、治済はるさだの「つみ」をあきらかにすることもあるいは容易よういやもれぬ。

 いや、それ以前いぜんに―、家基いえもとくなるまえ毒殺どくさつされるまえ一橋ひとつばし治済はるさだもとへと御庭番おにわばんはなっておけば、家基いえもと毒殺どくさつ阻止出来そしできたやもれぬ。

 だがその場合ばあいそば用取次ようとりつぎさとられる危険性リスクたかかった。

 すなわち、御庭番おにわばんうごかせるのは将軍しょうぐんそば用取次ようとりつぎのみであり、しかも実際じっさいには御庭番おにわばんうごかすのはそば用取次ようとりつぎであるケースほとんどであった。

 そんななか将軍しょうぐんたる家治いえはる御庭番おにわばんうごかそうものなら、しかもその目的もくてきたるや、

将軍家しょうぐんけたる三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだ家基いえもと暗殺あんさつたくらんでいるやもれず、そこで治済はるさだ動静どうせい徹底的てっていてき監視かんしせよ…」

 御庭番おにわばんかる「密命みつめい」をあたえようものなら、さしもの御庭番おにわばん尻込しりごみするにちがいなく、そこで御庭番おにわばんは「まこと主人様しゅじんさま」とも言うべきそば用取次ようとりつぎ相談そうだん持掛もちかける、いや、告口つげぐちする危険性リスクがあった。

 そしてそのそば用取次ようとりつぎには一橋ひとつばし治済はるさだとは昵懇じっこん稲葉いなば正明まさあきらふくまれていた。

 そこで家治いえはるとしては如何いか将軍しょうぐんいえども、かる事情じじょうから容易よういには御庭番おにわばんうごかせず、そこで腹心ふくしんとも言うべき水谷勝富みずのやかつとみ田沼たぬま意致おきむね二人ふたり三卿さんきょう家老かろう一橋ひとつばし家老かろうとして治済はるさだもとへと差向さしむけたのだ。

 水谷勝富みずのやかつとみ田沼たぬま意致おきむね二人ふたり家老かろうとして、つまりは治済はるさだの「お目附めつけやく」、「監視役かんしやく」として治済はるさだ動静どうせい、それこそ一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくいたるまで徹底的てっていてき監視かんしさせることで、家基いえもと暗殺あんさつ阻止そししようとしたのだ。

 だが結果けっかから言えば、それは失敗しっぱいわってしまった。

 これなら初手しょてから、御庭番おにわばんうごかしておけばかったと、家治いえはるはそうおもわぬでもなかった。仮令たとえ御庭番おにわばんうごかしたことが稲葉いなば正明まさあきらつうじて、一橋ひとつばし治済はるさださとられたとしてもだ。

 しかしだからと言って、家基いえもと毒殺どくさつされたいま、それも治済はるさだにかかったいま、その治済はるさだの「つみ」、謀叛むほんにもひとしいその「大罪たいざい」を白日はくじつもとさらすべく、御庭番おにわばんうごかすわけにはゆかなかった。

 そのよう真似まねをすれば、やはり稲葉いなば正明まさあきらつうじて治済はるさだへとそのことがつたわり、そうなれば治済はるさだには証拠しょうこ湮滅いんめつゆる巣ことにもなりかねなかったからだ。

 そこで家治いえはる御庭番おにわばんうごかすわりにやはり腹心ふくしんとも言うべき田沼たぬま意知おきともうごかすことにしたのだ。

 意知おきとも若年寄わかどしより取立とりたて、若年寄わかどしよりとして家基いえもと真相しんそう探索たんさくさせることに、探索たんさく指揮しきらせることにしたのだ。

 家治いえはる安祥院あんしょういんにそのことをげると、安祥院あんしょういん納得なっとくした。

「なれど兄上あにうえ…、されば一橋ひとつばし民部みんぶ殿どの附子ぶし河豚ふぐ云々うんぬんされましたのは如何いかにもまずいのではありますまいか?」

 重好しげよしがそうくちはさんだ。

 たしかに重好しげよしの言うとおり、今日きょう月次御礼つきなみおんれいにて家治いえはる一橋ひとつばし治済はるさだ面会めんかいしたさいに、附子ぶし、トリカブトと河豚ふぐ治済はるさだ口走くちばしったのは如何いかにも失策しっさくと言えた。

 これで治済はるさだには家治いえはる家基毒殺いえもとどくさつ仕掛トリック気付きづいたことをさとらせてしまったからだ。

 だがどうにもこらえられなかったのだ。

 おのれ愛息あいそく毒殺どくさつした首魁しゅかいいま、そこに平然へいぜん着座ちゃくざし、将軍しょうぐんたるおのれとの拝謁はいえつのぞんでいる…、家治いえはる治済はるさだまえにしてそうおもうと、こらえられなかったのだ。

 家治いえはるがその真情しんじょう吐露とろするや、重好しげよしもそれ以上いじょうなにも言わなかった。

  さてそのころ一橋ひとつばし屋形やかた大奥おおおくにては治済はるさだ物頭ものがしら久田ひさだ縫殿助ぬいのうけ侍女じじょひな相手あいてに「謀議ぼうぎ」をめぐらしていた。

 謀議ぼうぎとはほかでもない、治済はるさだおのれおかした「つみ」、次期じき将軍しょうぐんごろしという謀叛むほんにもひとしい「大罪たいざい」を湮滅いんめつ揉消もみけため謀議ぼうぎであった。

 ただし、すのは証拠しょうこではなく、田沼たぬま意知おきともいのちであった。

 日本橋にほんばし魚市場うおいちばにて吉岡よしおか彦右衛門ひこえもんなる先手さきて同心どうしん冬場ふゆばには河豚ふぐあつか棒手振ぼてふり相手あいてに、安永7(1778)年からどう8(1779)年にかけての冬場ふゆば河豚ふぐ大量たいりょう買付かいつけたものがいないかどうか、聞込ききこみをしていたことが判明はんめいした。

 その吉岡よしおか彦右衛門ひこえもんかつては、京都きょうと町奉行まちぶぎょうであった長谷川はせがわ備中守びっちゅうのかみ宣雄のぶおを「おかしら」にあおいでいたころもあったそうな。

 ときおなじくして、その長谷川はせがわ宣雄のぶお一子いっし平蔵宣以へいぞうのぶため田沼たぬま意知おきとももとへと数多あまた陳情客ちんじょうきゃくまぎれてあしはこび、しかし数多あまた陳情客ちんじょうきゃくとはことなり、田沼たぬま家中かちゅうにもさとられぬよう平蔵へいぞう意知おきとも密談みつだんおよんでいたそうな。

 これらの事実じじつかさわせれば、

将軍しょうぐん家治いえはる意知おきとも家基いえもと真相しんそう探索たんさくさせるべく、それも探索たんさく指揮しきらせるべく、きわめて異例いれいながら部屋へやずみのままで若年寄わかどしよりへとすすませ、そこで意知おきとも長谷川はせがわ平蔵へいぞう実際じっさい探索たんさくたくした…」

 その結論けつろんみちびされる。

 そして今日きょう月次御礼つきなみおんれいにて治済はるさだ家治いえはるより、附子ぶし、トリカブトと河豚ふぐどくについて言及げんきゅうされた。

 どうやら家治いえはる家基毒殺いえもとどくさつ仕掛トリック気付きづいているようだ。

 無論むろん意知おきとも探索たんさくゆだねた「賜物たまもの」である。

 だがまだかくたるあかしまでは家治いえはるつかんではいないようであった。

 それはつまりは意知おきともかくたるあかしを、一橋ひとつばし治済はるさだ家基毒殺いえもとどくさつ首魁しゅかいであるとするかくたるあかしつかんではいないということであった。

 それならばこの段階だんかい意知おきともをも「排除はいじょ」すれば、将軍しょうぐん家治いえはる心理的しんりてき精神的せいしんてき大打撃ダメージあたえることになろう。

 家基いえもとつづいて意知おきともまでもうしなえば、さしもの将軍しょうぐん家治いえはる最早もはや家基いえもと真相しんそう解明ときあかそうなどとはおもわなくなるであろう。

 それはすなわち、治済はるさだ追及ついきゅうする気力きりょくうしなわせることを意味いみしていた。

「さて…、そこでだ、如何いか料理りょうりすべきだが…」

 治済はるさだのその「いかけ」に反応はんのうしたのは侍女じじょひなであった。

松平まつだいら越中えっちゅう殿どの使嗾しそうあそばされましては如何いかがでござりましょう…」

 松平まつだいら越中えっちゅう殿どのとはほかでもない、白河藩主しらかわはんしゅ松平まつだいら越中守えっちゅうのかみ定信さだのぶのことである。

定信さだのぶめを?定信さだのぶ山城おきともめを料理りょうりさせようともうすのか?」

 治済はるさだひなたしかめるようたずねると、ひなも「御意ぎょい…」とおうじた。

たしかに…、越中えっちゅう殿どの山城殿やましろどのが…、どこぞのうまほねともからぬ、盗賊とうぞく同然どうぜん成上なりあがりものなどと、斯様かようおの蔑視べっしせし山城殿やましろどの若年寄わかどしよりへとすすまれたことで…、ってみればさきされしことで、越中えっちゅう殿どの山城殿やましろどのおおいににくんでいる様子ようす…」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけがそうくちはさむと、ひなも「さればそこをくのでござりまする…」とおうじた。

はなしかったが、なれど具体的ぐたいてきには如何いかにして定信さだのぶけしかける?」

 治済はるさだかさねてそううた。

「されば越中えっちゅう殿どの斯様かよう吹込ふきこまれましては如何いかがでござりましょう…、山城殿やましろどの近々きんきん部屋へやずみのまま老職ろうしょくへとすすまれるらしい、と…」

 ひなのそのこたえに、治済はるさだもとより、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけおおいにうなずかされた。

 老職ろうしょくすなわち、老中ろうじゅうともなると、従四位下じゅしいのげ侍従じじゅう官位かんいじょされることになる。

 天明3(1783)年のいま定信さだのぶ意知おきともとも従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ官位かんいにあり、二人ふたり同格どうかくであった。

 いや、自尊心プライドことほかたか定信さだのぶにはこれだけでも―、意知おきとも同格どうかくというだけでもゆるがたいに相違そういなく、それが意知おきともさきされた、すなわち、意知おきとも部屋へやずみのまま老中ろうじゅうへと昇進しょうしんしたために、それまでの従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶから一気いっき二段階にだんかい昇格しょうかく―、従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ一段階いちだんかいうえである四品しほん従四位下じゅしいのげ諸大夫しょだいぶえて、従四位下じゅしいのげ侍従じじゅうへと昇叙しょうじょたしたとあらば、意知おきとも官位かんいうえでも役職やくしょくうえでも、まさに、

名実共めいじつともに…」

 定信さだのぶうえわけで、そうなれば定信さだのぶのその富士山ふじさんようたか自尊心プライドはズタズタに引裂ひきさかれることは間違まちがいなく、それがために、定信さだのぶ意知おきとも殺意さついくのは間違まちがいなかろう。

「さればこのさい茶会ちゃかいでももよおされましては如何いかがでござりましょう…」

 ひな不意ふいにそう「方向転換ほうこうてんかん」したが、治済はるさだにしろ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけにしろ、ひなの言わんとするところはぐにさっせられた。

茶会ちゃかい越中えっちゅう殿どのをおまねきし、そこで越中えっちゅう殿どのかる山城殿やましろどの昇進しょうしんばなし吹込ふきこもうと?」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだ代弁だいべんしてひなうなずかせると、

久方ひさかたぶりに、八代様はちだいさままご同士どうし語合かたりあいたい…、斯様かようなる名目めいもくにて越中えっちゅう殿どの茶会ちゃかいにおまねきあそばされましては如何いかがでござりましょう…」

 ひなはそう補足ほそくした。

 治済はるさだにしろ、定信さだのぶにしろとも八代様はちだいさまこと八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねまごであり、そのまご同士どうし語合かたりあいたいとは、成程なるほど理屈りくつっていた。

しからば如何いか定信さだのぶつなぎをるか、だな…」

 治済はるさだはそうつぶやいた。

 天明3(1783)年のいま、この時点じてんではスマホのよう便利べんり通信つうしん機器ききかげかたちもないので、たとえば、定信さだのぼ茶会ちゃかいまねこうとおもえば、定信さだのぶじかって招待しょうたいするか、あるいはひとかいするよりほかにはない。

 いや、書状しょじょうにてやり取りするもあるが、それとて人伝ひとづてひとかいする部類ぶるいはいるであろう。

「されば家老かろう水谷みずのや但馬たじま殿どのかいしましては如何いかがでござりましょうや…」

 ひなのその言葉ことばにはさしもの治済はるさだもとより、知恵ちえしゃ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけまでもくびかしげさせたものである。

 ひなはそんな二人ふたりたいして、その意図いとするところを「絵解えとき」してみせた。

 つまりはこういうことである。

 水谷みずのや但馬たじまこと家老かろう水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみ相役あいやく同僚どうりょう家老かろうであるはやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつとも交代こうたい御城えどじょう本丸ほんまるへと登城とじょうしては中奥なかおくにある詰所つめしょめる。

 そこで水谷勝富みずのやかつとみ御城えどじょう登城とじょうするに、勝富かつとみ松平まつだいら定信さだのぶへの「つなぎ」をたのむのである。

 定信さだのぶいま帝鑑間ていかんのまづめ大名だいみょうであり、それゆえ平日へいじつ登城とじょうゆるされてはおらず、しかし、わりに江戸えど留守居るすい所謂いわゆる、「城使しろづかい」として平日へいじつ主君しゅくん定信さだのぶ成代なりかわって御城えどじょう登城とじょうし、蘇鉄之間そてつのまめることがみとめられていた。

 いや、これはなに定信さだのぶかぎったはなしではない。

 平日へいじつ登城とじょうみとめられてはいない、つまりは松之大廊下まつのおおろうか上之部屋かみのへやめる御三家ごさんけや、あるいはどう下之部屋しものへやめる加賀かが前田家まえだけ福井ふくい松平家まつだいらけあるいは矢田やだ松平家まつだいらけ筆頭ひっとうに、大廣間おおひろまづめ帝鑑間ていかんのまづめ柳間やなぎのまづめといった諸侯しょこうみな平日へいじつ登城とじょうゆるされてはいないわりに留守居るすい主君しゅくん成代なりかわって御城えどじょうへと登城とじょうすることがゆるされていた。

 ちなみに御三家ごさんけ留守居るすいのみ、「城附しろづき」としょうせられ、勘定所かんじょうしょ中之間なかのまそばに、「御留守居おるすい控所ひかえじょ」なる詰所つめしょあたえられており、そこにめていた。

 ともあれ、平日へいじつ蘇鉄之間そてつのまには定信さだのぶつかえる留守居るすいめているので、そこで水谷勝富みずのやかつとみ蘇鉄之間そてつのまへとあしはこんでもらい、そこにめているであろう、定信さだのぶつかえる留守居るすい治済はるさだ意向いこうつたえてもらおうというわけであり、わば、メッセンジャーであった。

「それなれば水谷殿みずのやどのでなくともよろしいのでは?」

 なにかと口煩くちうるさい、つまりは三卿さんきょう家老かろうとして、三卿さんきょうたる治済はるさだ監視役かんしやくっする水谷勝富みずのやかつとみたのまずとも、おなじく三卿さんきょう家老かろうでありながら水谷勝富みずのやかつとみとは対照的たいしょうてき治済はるさだ忠実ちゅうじつなる番犬ばんけんしているはやし忠篤ただあつに「メッセンジャー」をたのんだほうなにかと好都合こうつごうなのではあるまいか…、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはそう反論はんろんし、それには治済はるさだ同意見どういけんであった。

「いえ、水谷殿みずのやどのなればこそ、かえって都合つごういともうすものにて…」

 ひなおもわせぶりにそうこたえた。

「ともうすと?」

 治済はるさだひなさきうながした。

「さればなにかと口煩くちうるさい、つまりは三卿さんきょう家老かろうとしての職分しょくぶんまっとうせし水谷殿みずのやどのかいしますことで、その茶会ちゃかいまことなん変哲へんてつもない茶会ちゃかいでありますことが担保たんぽされますによって…」

 成程なるほど治済はるさだ茶会ちゃかいもよおすべく、しかもその茶会ちゃかい定信さだのぶ招待しょうたいすべく、えて水谷勝富みずのやかつとみ定信さだのぶへの「メッセンジャー」をたのめば、如何いか勝富かつとみとて、治済はるさだがよもやその茶会ちゃかい利用りようして、定信さだのぶ意知暗殺おきともあんさつけしかけようなどとはおもわぬであろう。

 いや、実際じっさい治済はるさだ定信さだのぶたいして、ただ、意知おきとも近々きんきん部屋へやずみのまま老中ろうじゅうすすむらしいと、そんなうわさがあると吹込ふきこむだけであり、これでは定信さだのぶ意知暗殺おきともあんさつけしかけたことにはならないだろう。仮令たとえ、その結果けっか定信さだのぶがそのうわさ、もとい治済はるさだ虚言きょげんをどう受止うけとめようとも、である。

 ならばはやし忠篤ただあつではなく、水谷勝富みずのやかつとみに「メッセンジャー」をやらせたほうが、その茶会ちゃかいまことなん変哲へんてつもない茶会ちゃかいであると担保たんぽされることになる。

 かり定信さだのぶ意知暗殺おきともあんさつ決意けつい、それを実行じっこううつしたとして、それが発覚はっかくした場合ばあい定信さだのぶくちよりくだん茶会ちゃかいでの一件いっけんあかるみに場合ばあいにその「担保たんぽ」がやくつ。つまりは治済はるさだにまでつみおよ危険性リスクくす効果こうか見込みこめるというわけだ。

 治済はるさだひなからそうかされて、「成程なるほどのう…」とうなずき、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけもまたうなずいた。

「ときに…、定國さだくにばずともいのか?あれも八代様はちだいさままごだが…」

 治済はるさだおもしたかのようにそうたずねた。

 治済はるさだくちにした定國さだくにとは伊豫いよ松山藩主まつやまはんしゅ松平まつだいら隠岐守おきのかみ定國さだくにのことであり、定國さだくに定信さだのぶ実兄じっけい、つまりは吉宗よしむねまごである。

おそれながら…」

 ひなはそう前置まえおきしてから、定國さだくにいまはまだ国許くにもとである伊豫いよ松山まつやまにいると、治済はるさだ勘違かんちがいを訂正ていせいした。

 すると治済はるさだおのれ勘違かんちがいに気付きづいたらしく、「おお、そうであったの」と微苦笑びくしょうかべておうずると、

定府じょうふであると、どうにも参勤交代さんきんこうたい概念がいねんちてしまうによって…」

 治済はるさだはそう言訳いいわけしてみせた。

 治済はるさだは、いや、治済はるさだかぎらず三卿さんきょうみな定府じょうふ、つまりは江戸えど居住きょじゅう義務ぎむづけられており、うらかえせば参勤交代さんきんこうたい義務ぎむから免除めんじょされていた。

 それゆえ治済はるさだはつい、定國さだくにもまた、おのれおなようつねに、江戸えどにいるものと誤解ごかいしたのだ。

 そのてん定信さだのぶ定國さだくにとは参勤交代さんきんこうたい干支えと参府年さんぷねん帰国年きこくねんぎゃくであり、いま江戸えどにいた。

 だがその定信さだのぶ来年らいねん、それも6月頃にはあに定國さだくに入替いれかわりに江戸えど出立しゅったつ国許くにもとである白河しらかわへと帰国きこくせねばならなかった。

 定信さだのぶにとってそれははつ入封にゅうぶはじめての「お国入くにいり」であった。

 いや、それゆえ定信さだのぶがこの江戸えどにいられるのは来年らいねん、天明4(1784)年の6月までということであり、そのよう定信さだのぶ治済はるさだから、

意知おきとも部屋へやずみのまま、老中ろうじゅうへと昇進しょうしんするらしい…」

 そのようなことを耳打みみうちされれば、おおいにあせり、判断力はんだんりょくうしなうであろう。

 すこかんがえれば、ありないはなしだとかりそうなものだが、しかし、判断力はんだんりょく喪失そうしつした定信さだのぶにはそれは期待きたい出来できない。

 来年らいねんの6月には江戸えどはなれなければならない…、定信さだのぶはそのあせりも相俟あいまって、そのまえはじめての「お国入くにいり」をたすまえ一気いっき決着けっちゃくをつけようとかんがえるにちがいない。つまりは愈愈いよいよもって定信さだのぶ意知暗殺おきともあんさつ決意けついさせる効果こうか見込みこめるというわけだ。

「いや、これで定信さだのぶ山城おきとも暗殺あんさつ成功せいこうすればし、かりに、成功せいこうせずにしくじったとしても、それで定信さだのぶ失脚しきゃくすればそれはそれでまたし…、そして両者りょうしゃ共倒ともだおれともなれば尚良なおよし…」

 治済はるさだ口元くちもとゆがめさせた。

 その治済はるさだ早速さっそくにも翌日よくじつの11月16日、ひなの「アドバイス」にしたがい、登城とじょうまえ水谷勝富みずのやかつとみに「メッセンジャー」をたのんだのであった。

 このさいわいにも水谷勝富みずのやかつとみ登城とじょうするであり、その勝富かつとみだが、普段ふだんなにかとおのれけむたくおもい、おのれとおざけている治済はるさだよりかる依頼いらいをされて、心底しんそこおどろいた。

手前てまえまことよろしいので?」

 勝富かつとみおもわずそう聞返ききかえしたほどである。

「うむ、今日きょうさいわいにも、そなたが登城とじょうするによって…、いや、すすまぬともうすのならば、明日あすにでもあらためて、肥後ひごたのむが…」

 明日あす、17日ははやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつ登城とじょうするであった。

 ともあれ、そうこたえた治済はるさだたいして、勝富かつとみしばし、治済はるさだかおをまじまじとながめたものである。それは治済はるさだ真意しんいさぐるかのよう目付めつきであり、事実じじつ勝富かつとみはらうち治済はるさだ真意しんい推量おしはかろうとしていた。

 すると治済はるさだもそうとさっして微苦笑びくしょうかべると、

「そなたを表向おもてむき蘇鉄之間そてつのまへとあいだに、中奥なかおくとどまりしこの治済はるさだが、中奥なかおくにそなたがいないのをいことに、なにからぬたくらみでもくわだてんとほっしているのではないか…、大方おおかた然様さよううたごうているのであろうが…」

 そうおうじたかとおもうと、

「さればこの治済はるさだもそなたとともに、蘇鉄之間そてつのまへとあしはこんでもいぞ?」

 そうもげたので、これにはさしもの勝富かつとみあわてさせられた。如何いか三卿さんきょう監視役かんしやくたる家老かろういえども、三卿さんきょうにそのよう真似まねをさせるわけにはゆかなかったからだ。

「いえ、それにはおよびませぬ…」

 勝富かつとみはそうおうずると「メッセンジャー」の役目やくめ引受ひきうけたのであった。
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