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一橋治済の「最も危険な遊戯」 その2

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「いや、それにいたしましても、田安たやすさまやしきにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんめに、おいあそばされまするは中々なかなかさくでござりまするな…」

 はなしもとい「悪巧わるだくみが大方おおかたまとまったところで、矢部やべ主膳しゅぜんはそんな感想かんそうらした。

「ともうすと?」

 治済はるさだ矢部やべ主膳しゅぜんにその真意しんいたずねた。

「ははっ…、されば佐野さの善左衛門ぜんざえもん縁者えんじゃ…、善左衛門ぜんざえもん本家ほんけすじ庶子しょし佐野さの與五郎よごろう政峰まさみねなるものがおりまして、かのもの田安たやすにてつかえおりもうし…」

 矢部やべ主膳しゅぜんによればその佐野さの與五郎よごろう先代せんだい先々代せんせんだいと、つまりは田安たやす始祖しそである宗武むねたけ、その二代目にだいめである治察はるあき二代にだいわたって近習きんじゅうばんとしてつかつづけたものだそうな。

 そして、天明3(1783)年のいま佐野さの與五郎よごろうつかえるべき当主とうしゅ不在ふざいというわけで、佐野さの與五郎よごろう田安たやすにおいて事務じむしょく所謂いわゆる、「家司けいし」としてつとめていた。

 また、おなじく本家ほんけすじ庶子しょしである捨五郎すてごろう政信まさのぶなるもの田安たやすにてやはり「家司けいし」としてつかえる、それも佐野さの與五郎よごろうおなじく、宗武むねたけ治察はるあき二代にだいわたって近習きんじゅうばんとしてつかえた杉浦すぎうら兵左衛門ひょうざえもん洪嘉ひろよし養嗣子ようししとしてむかえられており、しかもこの杉浦すぎうら兵左衛門ひょうざえもん実兄じっけい杉浦すぎうら猪兵衛いへえ良昭よしあきら田安たやすにて廣敷用人ひろしきようにんという重職じゅうしょくにあるとのことであった。

 それゆえ佐野さの善左衛門ぜんざえもんにとって三卿さんきょう田安たやすかる縁者えんじゃである佐野さの與五郎よごろう佐野さのあらた杉浦すぎうら捨五郎すてごろうかいして非常ひじょう身近みじか存在そんざいであり、「シンパシー」をいていた。

斯様かようなる佐野さの善左衛門ぜんざえもんめがことゆえ下屋敷しもやしきとはもうせ、田安たやすさま屋敷やしきにて越中えっちゅうさまえるとなれば狂喜きょうき乱舞らんぶするは必定ひつじょう…、そして上様うえさま越中えっちゅうさまよそおいあそばされたとしても、佐野さの善左衛門ぜんざえもんめがこれに気付きづくことはまんひとつもなく…、なにしろ田安たやすさま越中えっちゅうさま実家じっかなれば…」

 矢部やべ主膳しゅぜんのその意見いけん治済はるさだおおいにうなずいた。

 治済はるさだとしてもそのつもりで―、佐野さの善左衛門ぜんざえもんおのれ松平まつだいら定信さだのぶだとしんませるつもりで、田安たやす下屋敷しもやしきえらんだのであった。

 いや、まこと佐野さの善左衛門ぜんざえもんおのれ松平まつだいら定信さだのぶだとしんませるには、定信さだのぶ当主とうしゅいだばかりの白河藩しらかわはん上屋敷かみやしき、は流石さすが無理むりだとしても、中屋敷なかやしき下屋敷しもやしきうのが常道じょうどうであるやにおもわれるやもれぬ。

 だが実際じっさいには佐野さの善左衛門ぜんざえもんおのれ松平まつだいら定信さだのぶであるとしんませる「舞台ぶたい」として白河藩しらかわはん屋敷やしきじつ適当てきとうとは言えなかった。

 それと言うのもズバリ、佐野さの善左衛門ぜんざえもん白河藩しらかわはん屋敷やしき把握はあくしてはいないだろうことに起因きいんする。

 大名だいみょう諸侯しょこうかずだけ大名だいみょう屋敷やしきそんする。いや、上屋敷かみやしきだけでなく、中屋敷なかやしき下屋敷しもやしきふくめれば、大名だいみょう諸侯しょこうの2~3倍以上いじょうにはたっするであろう。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんよう一介いっかい新番しんばん一介いっかい旗本はたもと一々いちいち大名だいみょうかお把握はあくしていないのと同様どうよう、その屋敷やしき所在地しょざいちをもまた、把握はあくしているはずがないのだ。

 これでたとえば大名だいみょう屋敷やしき門前もんぜんに、

白河藩しらかわはん上屋敷かみやしき

 あるいは「白河藩しらかわはん中屋敷なかやしき」、「白河藩しらかわはん下屋敷しもやしき」とでも表札ひょうさつ看板かんばんでもかっていればはなしべつだが、実際じっさいには大名だいみょう屋敷やしきふくめて武家ぶけ屋敷やしきにおいてはこの表札ひょうさつ看板かんばんかっていることはなく、それゆえ佐野さの善左衛門ぜんざえもんとしてはあしはこんだそのさき白河藩しらかわはん屋敷やしきであるとげられたところで、そこが間違まちがいなく白河藩しらかわはん屋敷やしきであると確信かくしんするだけの根拠こんきょなにもないというわけだ。

 そしてそれはりもなおさず、佐野さの善左衛門ぜんざえもんおのれ間違まちがいなく松平まつだいら定信さだのぶであるとしんませる「舞台ぶたい」としては不十分ふじゅうぶんであることを意味いみする。

 だが三卿さんきょう田安たやす、その屋敷やしきともなればはなしべつであった。

 大名だいみょう屋敷やしきへの度重たびかさなる「御成おなり」でられる五代ごだい将軍しょうぐん綱吉つなよしとはちがい、いま将軍しょうぐん家治いえはる外出がいしゅつしてもそれは軍事ぐんじ訓練くんれんである鷹狩たかがりがおもであり、大名だいみょう屋敷やしきへと「御成おなり」におよぶことは滅多めったにない。

 いや、だからこそ、将軍しょうぐんの「SP」をもつとめる新番しんばん役職ポストにある佐野さの善左衛門ぜんざえもん大名だいみょう屋敷やしき所在地しょざいちまで把握はあくしていないと断言だんげん出来できた。

 これでかり家治いえはる綱吉同様つなよしどうよう大名だいみょう屋敷やしきへの「御成おなり」をこのよう将軍しょうぐんであったならば、その「SP」をつとめる新番しんばん勿論もちろん警護けいごため将軍しょうぐん同行どうこう随行ずいこうすることになり、その過程かてい新番しんばんも、すなわち、佐野さの善左衛門ぜんざえもんあるいは大名だいみょう屋敷やしき所在地しょざいちつうじることになっていたやもれぬ。

 だが実際じっさいには家治いえはる大名だいみょう屋敷やしきへの「御成おなり」を綱吉程つなよしほどにはこのまず、それゆえ佐野さの善左衛門ぜんざえもん大名だいみょう屋敷やしき所在地しょざいちつうずることもないというわけだ。

 しかし、その家治いえはるにも例外れいがいはあり、将軍家しょうぐんけである三卿さんきょう、ことに清水家しみずけ田安たやすへの「御成おなり」がそれであった。

 大名だいみょう屋敷やしきへの「御成おなり」をこのまない家治いえはるも「家族ファミリー」とも言うべき三卿さんきょう、ことに清水家しみずけ田安たやす、この両家りょうけ屋敷やしきあしはこぶのはこのみ、上屋敷かみやしきもとより、下屋敷しもやしきにもたとえば鷹狩たかがりの帰途きとなどに立寄たちよることもしばしばであった。

 そして鷹狩たかがりにも新番しんばんは「SP」として勿論もちろん随行ずいこうする。

 いや、それどころか供弓ともゆみゆみ射手しゃしゅとして鷹狩たかがりに参加さんかすることさえあった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんによると、主膳しゅぜんとは「同期どうきさくら」、安永7(1778)年6月に新番しんばんとして取立とりたてられ、爾来じらい今年ことし、天明3(1783)年までのおおよそ5年以上いじょうわたって新番しんばんを、すなわち、将軍しょうぐん家治いえはるの「SP」をもつとめてきたわけで、佐野さの善左衛門ぜんざえもん将軍しょうぐんかおならば把握はあくしているだろうと、治済はるさだがそうかんがえる所以ゆえんであり、同時どうじに、その家治いえはるたとえば鷹狩たかがりの帰途きとなどに、

非公式ひこうしきに…」

 将軍家ファミリーである三卿さんきょう、そのなかでも清水家しみずけ田安たやす屋敷やしきおとずれることもしばしばであり、それゆえ、その家治いえはるに「SP」として随行ずいこうする佐野さの善左衛門ぜんざえもんならば、三卿さんきょう屋敷やしきをも、それも下屋敷しもやしきいたるまでやはり把握はあくしているに相違そういないと、そうもかんがえる、これまた所以ゆえんであった。

 そのよう治済はるさだにとって、佐野さの善左衛門ぜんざえもん田安たやすとは縁者えんじゃかいしてだが、所縁ゆかりがあったとはまさに、

うれしい誤算ごさん

 であった。これで愈愈いよいよもって、田安たやす下屋敷しもやしきという「舞台ぶたい」が、佐野さの善左衛門ぜんざえもん治済はるさだ定信さだのぶだとしんませるには最高さいこうのそれとなってくれるにちがいないからだ。

 だが、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ佐野さの善左衛門ぜんざえもん田安たやす所縁ゆかりがあることについて、治済はるさだとは正反対せいはんたいに、「うれしい誤算ごさん」とはかんがえず、それどころか懸念けねんしめした。

「されば…、佐野さの善左衛門ぜんざえもん越中えっちゅうさまかおぞんじておることはあるまいの?」

 それこそが久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ懸念けねん原因げんいんであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん田安たやす所縁ゆかりがあるならば、田安たやす出身しゅっしん越中えっちゅうさまこと定信さだのぶかおっているのではないか、かりにそうだとすれば、治済はるさだ定信さだのぶ名乗なのったところで、ぐに佐野さの善左衛門ぜんざえもん見破みやぶられるのではないかと、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはそのてんあんじていたのだ。

 だがそれは久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ杞憂きゆうぎなかったようで、矢部やべ主膳しゅぜんによると、佐野さの善左衛門ぜんざえもん田安たやす所縁ゆかりがあると言っても、それは縁者えんじゃ田安家臣たやすかしん複数ふくすういるために、

田安贔屓たやすびいき…」

 それであるにぎず、定信さだのぶかおまでは、それどころか田安たやす女主おんなあるじたる寶蓮院ほうれんいんかおさえも正確せいかく把握はあくしているかどうか、はなはあやしいとのことであった。

 これで久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ一安心ひとあんしんしたが、しかし、もうひとつ、べつ懸念けねんしょうじた。

 かり定信さだのぶふんした治済はるさだ田安たやす家中かちゅうられぬよう、とりわけ女主おんなあるじ寶蓮院ほうれんいんぬすんで、下屋敷しもやしき勝手かって使つかうことが出来できたとして、そしてその下屋敷しもやしきにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんえるだんになって、

田安たやす下屋敷しもやしきにて定信様さだのぶさまえる…」

 そのことを縁者えんじゃである佐野さの與五郎よごろう杉浦すぎうら兵左衛門ひょうざえもんあるいは杉浦すぎうら猪兵衛いへえらさぬともかぎらず、その場合ばあい治済はるさだとしてははなはこまったことになる。

 なにしろ、佐野さの善左衛門ぜんざえもん縁者えんじゃである彼等かれら3人はこれから治済はるさだ田安たやす下屋敷しもやしき勝手かって使つかうべく、抱込だきこもうとしている、わば、

工作こうさく対象外たいしょうがい

 とでもべる田安家臣たやすかしんであるので、そんな彼等かれらみみ定信さだのぶ下屋敷しもやしきにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんうなどとつたわれば、彼等かれら3人ににしてみればまさに、「寝耳ねみみみず」であり、3人は寶蓮院ほうれんいんたいしてそのようなことを、つまりは定信さだのぶ下屋敷しもやしき使つかい、そこで佐野さの善左衛門ぜんざえもんうことをゆるしたのかと、たしかめるに相違そういない。ことに寶蓮院ほうれんいんたいして廣敷用人ひろしきようにんとしてつかえる杉浦すぎうら猪兵衛いへえはそうだろう。

 そうなれば治済はるさだ計画けいかく、もとい「危険きけん遊戯ゆうぎ」も破綻はたんたすこととなろう。久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはそのてん懸念けねんした。

 すると久田ひさだ縫殿助ぬいのすけのその懸念けねんたいしてもやはり矢部やべ主膳しゅぜんが「解決策かいけつさく」をみちびした。

「されば上様うえさま越中えっちゅうさまとしていざ、田安たやすさま下屋敷しもやしきにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんめに御逢おあいあそばされしだんになりましたならば、この矢部やべ主膳しゅぜん佐野さの善左衛門ぜんざえもんかた口止くちどめをいたしますゆえに…、左様さよう…、越中えっちゅうさまにおかれてはまこと白河藩しらかわはん藩邸はんていにていたきところなれど、いま存命ぞんめい岳父がくふもあり、なにより婿入むこいさき屋敷やしきでははらったはなし出来できず、そこで実家じっかである田安たやす屋敷やしきにてうことに…、なれど養母上ははうえ寶蓮院様ほうれんいんさまこそ、越中えっちゅうさま下屋敷しもやしきにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんうことを…、言うなれば下屋敷しもやしき気儘きまま使つかうことをゆるされたが、なれどほか田安たやす家中かちゅうは、とりわけ廣敷用人ひろしきようにんとして寶蓮院様ほうれんいんさまつかたてまつりし杉浦すぎうら猪兵衛いへえなどは反対はんたい代表格だいひょうかくとももうせるじんだそうで、その杉浦すぎうら猪兵衛いへえ同調どうちょうせしものおおく、そこで越中えっちゅうさま田安たやすさま下屋敷しもやしきにてうことはけっして他言たごんしてはならぬ、ことに田安たやす家中かちゅうたいして…、と、まぁ斯様かようかた口止くちどいたさば、佐野さの善左衛門ぜんざえもんかる縁者えんじゃにはらしますまい…」

 矢部やべ主膳しゅぜんのその意見いけん治済はるさだおおいにうなずいた。治済はるさだもまた、いま矢部やべ主膳しゅぜん意見いけん大意たいいおなじことをかんがえていたからだ。

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけもそれでとりあえずは納得なっとくしたが、しかしあらたにもうひとつ、これは懸念けねんではなく疑問ぎもんかんだ。

 それは矢部やべ主膳しゅぜんが「メッセンジャー」をつとめることであった。

 すなわち、矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばしとは、それも治済はるさだとはこうして所縁ゆかりがあるものの、しかし、定信さだのぶとはなん所縁ゆかりもない。無論むろん定信さだのぶ養家ようかである白河藩しらかわはん松平家まつだいらけとも、である。

 そのよう矢部やべ主膳しゅぜん定信さだのぶふんした治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもんとのあいだって、「メッセンジャー」をつとめることに久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ疑問ぎもんおもえたのだ。

 いや、佐野さの善左衛門ぜんざえもん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ以上いじょう疑問ぎもんおもうであろう。

定信さだのぶとはなん所縁ゆかりもない矢部やべ主膳しゅぜん何故なにゆえに、定信さだのぶ自分じぶんいたがっているなどと、打明うちあけるのか…」

 かり矢部やべ主膳しゅぜんに「メッセンジャー」をになわせたならば、佐野さの善左衛門ぜんざえもんかならずやそう疑問ぎもんおもはずであった。

「ここはやはり、越中えっちゅうさま個人こじんか、あるいは白河しらかわ松平家まつだいらけか…、すくなくとも田安たやすさま所縁ゆかりのありしものあいだれるべきではござりますまいか?」

 つまりはその条件じょうけん該当がいとうするもの今回こんかい計画けいかく、もとい「危険きけん遊戯ゆうぎ」にかかわらせる必要ひつようがあると、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだたいして意見具申いけんぐしんおよんだ。

 たしかにもっともな意見いけんではあったが、これは中々なかなかむずかしい、ハードルがたか条件じょうけんと言えた。

 なにしろ、佐野さの善左衛門ぜんざえもんへの「メッセンジャー」、定信さだのぶふんした治済はるさだより佐野さの善左衛門ぜんざえもんへの「メッセンジャー」をつとめさせるからには、佐野さの善左衛門ぜんざえもん相役あいやく同僚どうりょう新番しんばん、それもおな三番組さんばんぐみ番士ばんしであることがのぞましく、そのうえで、

定信さだのぶ個人こじん所縁ゆかりがあるか、あるいは白河しらかわ松平家まつだいらけ所縁ゆかりがあるか、すくなくとも田安たやす所縁ゆかりがあるもの…」

 という条件じょうけんくからだ。

 いや、さら今一いまひとつ、

治済はるさだ手足てあしとなってはたらいてくれるもの…」

 その絶対ぜったい不可欠ふかけつとも言える条件じょうけんまでもさねばならないからだ。

差出さしでがましゅうはござりまするが…」

 陪席ばいせきゆるされていた侍女じじょひながそこでくちはさんだ。

 それはひな貴重きちょう進言アドバイスあたえてくれる「前触まえぶれ」であり、治済はるさだもそれがかっていたので、

ゆるす、もうせ」

 治済はるさだひなをそううながした。いや、かした。

「されば…、番士ばんしよりも番頭ばんがしらほうがより信憑性しんぴょうせいが…」

 すなわち、仮令たとえ定信さだのぶ所縁ゆかりがあり、つ、治済はるさだとも所縁ゆかりがあり、しかも治済はるさだとの所縁ゆかりほう優先ゆうせん治済はるさだためにその手足てあしとなってはたらいてくれる、さきの「条件じょうけん」にすべ合致がっちする、そんな都合つごう新番しんばんがいたとしても、やはり一介いっかい新番しんばん佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいして、

定信さだのぶいたがっている…」

 そのような「メッセンジャー」をつとめたところで、佐野さの善左衛門ぜんざえもんからは、

何故なにゆえ定信さだのぶともあろうものが、一介いっかい新番しんばんにそのよう伝言メッセージたくすのか…」

 そううたがわれる可能性かのうせいたかかった。

 それよりは新番しんばんがしらに「メッセンジャー」をつとめさせたほうが、つまりは新番しんばんがしらより佐野さの善左衛門ぜんざえもんへと、

定信さだのぶいたがっている…」

 その「伝言メッセージ」をつたえさせたほうが、まだしもその「伝言メッセージ」に信憑性しんぴょうせいがある、というものである。すなわち、佐野さの善左衛門ぜんざえもんしんませられるというわけだ。

 なにしろ新番しんばんがしらと言えば、従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶやくでこそないものの、従六位じゅろくい布衣ほいやくであり、しかも布衣ほいやくなかでは小普請こぶしんぐみ支配しはいいで重職じゅうしょくであったからだ。佐野さの善左衛門ぜんざえもんほっしたのも無理むりはない。

 ひなのその進言アドバイスまこと的確てきかくであり、治済はるさだもそれを至当しとうみとめると、矢部やべ主膳しゅぜんたいして、いまの3番組ばんぐみ支配しはいする番頭ばんがしらだれであるかたずねた。

「されば蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文様ちかぶんさまにて…」

 矢部やべ主膳しゅぜんがそうこたえると、しかしひながその蜷川親文にながわちかぶんに「メッセンジャー」のやくになわせることに、すなわち、今回こんかい計画けいかくもとい「危険きけん遊戯ゆうぎ」に一枚いちまいませることに否定的ひていてき反応はんのうしめした。

 かり蜷川親文にながわちかぶん支配しはいするしんばん3番組ばんぐみ所属しょぞくする新番しんばんたる佐野さの善左衛門ぜんざえもん営中えいちゅう殿中でんちゅうにて若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきとも討果うちはたそうものなら、佐野さの善左衛門ぜんざえもんたまわるのは当然とうぜんとして、蜷川親文にながわちかぶん佐野さの善左衛門ぜんざえもん支配しはいするものとして、ようは「上司じょうし」として管理かんり責任せきにんわれることに相成あいなろう。

 無論むろん佐野さの善左衛門ぜんざえもんようたまわることこそないものの、それでも出世しゅっせひびくだけの管理かんり責任せきにんわれることはけられまい。

 蜷川親文にながわちかぶんもその程度ていどのことは承知しょうちしているはずであり、だとしたらその蜷川親文にながわちかぶんにも一枚いちまいませることは、つまりはこえけることはきわめて危険リスキーと言えた。

 最悪さいあく蜷川親文にながわちかぶん田沼たぬまサイドへと、あるいは将軍しょうぐん家治いえはる治済はるさだからの「さそい」を密告みっこく告口つげぐちおよ危険性リスクがありたからだ。

 ひな蜷川親文にながわちかぶんこえけることに否定的ひていてき反応はんのうしめしたのはかる事情じじょうからであり、これもまた至当しとうであった。

「だとするならば、3番組ばんぐみ以外いがいばん差配さはいせし番頭ばんがしらこえけるべきであろうかの…」

 治済はるさだがそうおうじると、ひな今度こんどは「御意ぎょい」と首肯しゅこうした。

 そこで治済はるさだあらためて矢部やべ主膳しゅぜんたいして3番組ばんぐみ以外いがいばん支配しはいする番頭ばんがしらについて、その名前なまえたずねた。

 たして矢部やべ主膳しゅぜんほかばん支配しはいする新番しんばんがしら名前なまえまで把握はあくしているか、治済はるさだにも流石さすが確信かくしんてなかったものの、しかし、あん相違そういして矢部やべ主膳しゅぜん蜷川親文にながわちかぶん以外いがいすべての本丸ほんまるしん番頭ばんがしら名前なまえをそれも正式名称フルネームそらんじてみせた。すなわち、

「1番組ばんぐみ仙石せんごく次兵衛じへえ久峰ひさみね

「2番組ばんぐみ永見ながみ伊豫守いよのかみ爲貞ためさだ

「4番組ばんぐみ松平まつだいら大膳亮だいぜんのすけ忠香ただよし

「5番組ばんぐみ天野あまの阿波守あわのかみ忠邦ただくに

「6番組ばんぐみ飯田いいだ能登守のとのかみ易信かねのぶ

 彼等かれらしん番頭ばんがしら夫々それぞれ支配しはいしていた。

 たしてこの5人のしん番頭ばんがしらなかでも、今回こんかい計画けいかくもとい「危険きけん遊戯ゆうぎ」に一枚いちまいませるに相応ふさわしいもの一体誰いったいだれか…、こういう場合ばあい、「知恵者ちえしゃ」の久田ひさだ縫殿助ぬいのすけよりも「生字引いきじびき」の岩本いわもと喜内きないほうやくつ。

松平まつだいら大膳亮だいぜんのすけさまもうさば、細田ほそだ伊左衛門いざえもん時矩殿ときのりどのむすめ…、細田ほそだ五郎三郎ごろさぶろう時昭殿ときてるどの姪御めいご住殿すみどのそくではござりませぬか…」

 岩本いわもと喜内きないのその解説レクチャー治済はるさだおおいにうなずいた。じつ治済はるさだおなじことをかんがえていたのだ。

 すなわち、松平まつだいら忠香ただよし勘定かんじょう奉行ぶぎょう西之丸にしのまる留守居るすいはた奉行ぶぎょうといった顕職けんしょくつとげた松平まつだいら駿河守するがのかみ忠陸ただみちちちち、そのははは―、松平まつだいら忠陸ただみち妻女さいじょすみなる女性にょしょうであり、旗本はたもと細田ほそだ五郎三郎ごろさぶろう時昭ときてるめいたる。

 この松平まつだいら忠香ただよしははすみにとっては叔父おじである細田ほそだ五郎三郎ごろさぶろう生憎あいにく嫡子ちゃくしにはめぐまれず、しかし一人娘ひとりむすめとうにだけはめぐまれ、そこで当時とうじきん奉行ぶぎょうつとめていた平岡ひらおか十左衛門じゅうざえもん道富みちとみ四男よんなん助右衛門すけえもん時義ときよし養嗣子ようししとしてむかえたうえ一人娘ひとりむすめとうめあわせたのであった。つまりは婿養子むこようしである。

 その婿養子むこようしである細田ほそだ助右衛門すけえもんとうとのあいだ嫡子ちゃくしにはめぐまれず、やはりのち養嗣子ようししむかえることになるわけだが、しかしむすめにはめぐまれ、それも3人のむすめめぐまれ、この三女さんじょのうち次女じじょである遊歌ゆか成長後せいちょうごにはここ、一橋ひとつばし屋形やかたにて侍女じじょとしてつかえることになったわけだが、遊歌ゆかはその当時とうじ一橋ひとつばし当主とうしゅ、それも一橋ひとつばし始祖しそである宗尹むねただ見初みそめられ、側妾そくしょうとして召出めしだされたのだ。

 そして遊歌ゆか一橋ひとつばし宗尹むねただとのあいだ一女いちじょ五男ごなんをもうけ、そのうちの|一人《ひとりこそがだれあろう治済はるさだであった。

 つまり、治済はるさだにとっては外曾祖父がいそうそふたる細田ほそだ五郎三郎ごろさぶろうめい―、治済はるさだ族叔祖母いとこおおおばすみ松平まつだいら忠陸ただみちとのあいだにもうけた嫡子ちゃくしこそが松平まつだいら忠香ただよしであった。

「しかも、松平まつだいら大膳亮だいぜんのすけさま実妹じつまいは、松下蔵人殿まつしたくらんどどの妻女さいじょにて…」

 岩本いわもと喜内きないはそうも補足ほそくした。

 すなわち、すみ松平まつだいら忠陸ただみちとのあいだ忠香ただよしほかにもう一人ひとりむねなるむすめをもうけ、そのむね御城えどじょう本丸ほんまる中奥なかおくにて将軍しょうぐん家治いえはる小納戸こなんどとしてつかえる松下蔵人統筠まつしたくらんどむねのりもとへとした。

 このむねもまたおっと松下蔵人まつしたくらんどとのあいだ嫡子ちゃくしめぐまれず、しかし二女じじょにはめぐまれたので、そこで当時とうじ西之丸にしのまる裏門番之頭うらもんばんのがしらつとめていた、いま先手さきて弓頭ゆみがしらつとめる市岡いちおか左大夫さだゆう正峰まさみね次男じなん正邑まさむら養嗣子ようしし、それも婿養子むこようしとしてむかえたのだ。長女ちょうじょそら正邑まさむらめあわせたのだ。

 そしてこの正邑まさむらにしても治済はるさだとは多少たしょうではあるが所縁ゆかりがあり、正邑まさむら実母じつぼすなわち、市岡いちおか左大夫さだゆう妻女さいじょしげ岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだい実姉じっしであるのだ。

 それゆえ正邑まさむら岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだいにとってはおい正利まさとし次女じじょにして治済はるさだ愛妾あいしょう次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり母堂ぼどうであるとみにとっては従弟いとこ夫々それぞれたる。

 その正邑まさむらいま西之丸にしのまる中奥なかおくにて次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり小姓こしょうとしてつかえていた。

 ともあれ、松平まつだいら忠香ただよし実妹じつまいむねかいして―、婚家こんかである松下まつしたさらには市岡いちおかかいして、岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだいとも所縁ゆかりがあったのだ。それはすなわち、治済はるさだとの所縁ゆかりでもあった。

松平まつだいら大膳亮だいぜんのすけさま越中えっちゅうさまとの所縁ゆかりこそなきものの、なれど事程ことほど左様さよう上様うえさまとの所縁ゆかりがござりますれば…」

 松平まつだいら忠香ただよしこそ、今回こんかい計画けいかくもとい「危険きけん遊戯ゆうぎ」に一枚いちまいませるにもっと相応ふさわしいしん番頭ばんがしらであると、岩本いわもと喜内きない進言アドバイスした。

 治済はるさだとしてもまった同感どうかんであった。

 いや、越中えっちゅうさまこと定信さだのぶとの所縁ゆかりはないとはもうせ、おな松平まつだいらである。

 しかも忠香ただよし当主とうしゅつとめる松平家まつだいらけ庶流しょりゅうとはもうせ、五井ごい松平まつだいらながれむという名門めいもんであった。

 五井ごい松平まつだいらと言えば、所謂いわゆる十八じゅうはち松平まつだいらなかでもトップクラスに位置いちし、定信さだのぶ養家ようかである白河藩しらかわはん松平家まつだいらけはそれよりも格下かくした久松ひさまつ松平まつだいらながれむ、それもやはり庶流しょりゅうであった。

 そうであれば定信さだのぶなにかのおりしん番頭ばんがしら松平まつだいら忠香ただよしはな機会きかいめぐまれ、そのさい支配しはいするばんちがえど、新番しんばん佐野さの善左衛門ぜんざえもん話題わだいとなり、結果けっか定信さだのぶ佐野さの善左衛門ぜんざえもんにいたく興味きょうみかれ、機会きかいがあれば近々きんきん佐野さの善左衛門ぜんざえもんってみたい…、それが定信さだのぶ意向いこうであると、松平まつだいら忠香ただよしより佐野さの善左衛門ぜんざえもんへと大意たいい、そのようつたえてもらえれば、佐野さの善左衛門ぜんざえもん容易よういにそのはなしもとい「つくばなししんじるにちがいない。

 治済はるさだはそうとめると、松平まつだいら忠香ただよし今回こんかいおのれの「危険きけん遊戯ゆうぎ」に一枚いちまいませることとし、しかしそのためにはまず、松平まつだいら忠香ただよしの「抱込だきこみ」が必要ひつよう不可欠ふかけつであった。

「さればそれにつきましては手前てまえに…、あに岩本内膳いわもとないぜんにおまかねがえれば…」

 岩本いわもと喜内きないがそう請合うけあった。

 成程なるほど松平まつだいら忠香ただよしの「抱込だきこみ」、そのための「手入ていれ」は岩本内膳いわもとないぜんこと、内膳正ないぜんのかみ正利まさとし適任てきにんと言え、治済はるさだはそのむねゆるした。

 治済はるさだはそのうえで、田安屋敷たやすやしき、それも下屋敷しもやしき寶蓮院ほうれんいんらに気付きづかれぬよう勝手かって使つかうべく、そのためにやはり必要ひつよう不可欠ふかけつとなる田安たやす下屋敷しもやしき奉行ぶぎょうの「抱込だきこみ」、「手入ていれ」を岩本いわもと喜内きないとそれに久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ両名りょうめいまかせることにした。
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