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一橋治済の「最も危険な遊戯」 ~抱込み工作篇~ 2

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 11月27日、ひるの九つ半(午後1時頃)をまわったころ、ここ神田かんだ佐柄木さえきちょうにある料理りょうり茶屋ちゃや百川ももかわ暖簾のれんを3人のおとこたち、それも結構けっこう身形みなりさむらくぐった。

 すなわち、いずれも三卿さんきょう家臣かしんであり、番頭ばんがしら中田左兵衛なかたさへえ物頭ものがしら金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん、そして用人格ようにんかくこおり奉行ぶぎょう幸田こうだ友之助とものすけであった。

 中田左兵衛なかたさへえ過日かじつくちにした「いつものところ」とはここ、百川ももかわしていたのだ。

 岩本いわもと喜内きない密会みっかいおよさいにはこの百川ももかわ使つかっていた。

 女将おかみ心得こころえたもので、女中じょちゅうしたがえさせて中田左兵衛なかたさへえらを出迎でむかえると、こしのものを女中じょちゅうあずからせたうえで、岩本いわもと喜内きない座敷ざしきへと案内あんないした。

 いや、今日きょう岩本いわもと喜内きないほか今一人いまひとり久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ姿すがたもあった。

 中田左兵衛なかたさへえらにとって久田ひさだ縫殿助ぬいのすけとはこれが初対面しょだいめんであったので、左兵衛さへえらは座敷ざしきはいるや、そこに岩本いわもと喜内きないほか見慣みなれない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ姿すがたまであったので、左兵衛さへえらはみな、「おや?」というかおをした。

 岩本いわもと喜内きない左兵衛さへえらのこの反応はんのう予期よきしていたので、左兵衛さへえらが取敢とりあえずこし落着おちつけたところで久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ紹介しょうかいした。

 すなわち、一橋ひとつばし物頭ものがしらにして、一橋ひとつばしきっての知恵者ちえしゃ、それも治済はるさだの「懐刀ふところがたな」であることを紹介しょうかいしたのであった。

 それにたいして左兵衛さへえらも、「左様さようでござったか…」と合点がてんすると、左兵衛さへえらも一人ひとりずつ、この一橋ひとつばし治済はるさだの「懐刀ふところがたな」である久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ挨拶あいさつした。

「この久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ物頭ものがしらゆえ、ちょうど金森殿かなもりどの立場たちばおなじでござるな…」

 金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ挨拶あいさつわしえたところで、岩本いわもと喜内きないはそうくちはさんだ。

 それにたいして金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんも、「まさしく…」と心底しんそこ、そうおうじた。

 金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんおのれ立場たちばおなじの、つまりは三卿さんきょう物頭ものがしら役職ポストにあるこの久田ひさだ縫殿助ぬいのすけというおとこ親近感しんきんかんおぼえた。

 すると久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ流石さすが治済はるさだの「懐刀ふところがたな」とばれるだけのことはある、じつに、

「ソツのない…」

 反応はんのうしめした。

おなじく物頭ものがしらとはもうせ、三卿さんきょう筆頭ひっとう田安たやすさま物頭ものがしらと、一橋ひとつばし物頭ものがしらとでは畢竟ひっきょう田安たやすさま物頭ものがしら格上かくうえもうすものにて…」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはそう謙遜けんそんしてみせたのだ。

 それにたいして金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんはと言うと、内心ないしんでは久田ひさだ縫殿助ぬいのすけのその「謙遜けんそん」をけ、おおいにうなずきつつも、それとは裏腹うらはらに、

「いやいや、左様さよう謙遜けんそんなされずともい…」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけにそうこえをかけたものである。

 すると久田ひさだ縫殿助ぬいのすけもそんな金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんたいして、「ははぁっ」と平伏へいふくしてみせたものである。

 こうして久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ中田左兵衛なかたさへえらに「披露ひろう」したところで、岩本いわもと喜内きない早速さっそく本題ほんだいはいった。

 すなわち、治済はるさだの「危険きけん遊戯ゆうぎ》をかしたうえで、その「危険きけん遊戯ゆうぎ」にしてくれるよう、つまりは協力きょうりょくもとめたのであった。

 これにたいして中田左兵衛なかたさへえらも流石さすがことことだけに協力きょうりょくするに躊躇ちゅうちょおぼえずにはいられなかった。

 中田左兵衛なかたさへえらが躊躇ちゅうちょするのも当然とうぜんであり、岩本いわもと喜内きないも、それに久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ左兵衛さへえらのこの反応はんのう予期よきしていた。

 そこで岩本いわもと喜内きないはまず、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんみずけた。

金森殿かなもりどのは…、田沼たぬま意次おきつぐうらみがござろう?」

 岩本いわもと喜内きないにそうみずけられた金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんおもわず、ハッとしたものの、しかしそのとおりであったので、条件じょうけん反射的はんしゃてきうなずいていた。

 田沼たぬま意次おきつぐへのうらみ、それはズバリ、郡上騒動ぐじょうそうどう一件いっけん―、美濃みの郡上ぐじょうはんりょうしていた金森家かなもりけが、それも金森かなもり兵部少輔ひょうぶしょうゆう頼錦よりかね藩内はんないにて発生はっせいした一揆いっき所謂いわゆる宝暦郡上騒動ほうれきぐじょうそうどうせめわれて改易かいえきされた一件いっけんである。

 このとき金森家かなもりけさばためひらかれた評定ひょうじょう―、評定所ひょうじょうしょにおける五手ごてがかり吟味ぎんみ指揮しきしたのがそば用取次ようとりつぎであった田沼たぬま意次おきつぐであったのだ。

 そしていま三卿さんきょう田安たやすにて物頭ものがしらつとめる金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんはその改易かいえきされた金森家《かなもりけ》のながれむ。

 具体的ぐたいてきには金森家かなもりけ二代目にだいめ出雲守いずものかみ可重ありしげながれみ、可重ありしげ六男ろくなん金森かなもり左兵衛さへえ重義しげよしのそのまた四男よんなんである金森かなもり八左衛門はちざえもん可邑ありむらまごこそが、いま岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけまえにいる金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんなのである。

 それゆえ金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん本家ほんけである大名だいみょう金森家かなもりけ庶流しょりゅうのそのまた庶流しょりゅういところなのだが、本家ほんけたる金森家かなもりけ改易かいえきいやった田沼たぬま意次おきつぐのことをいまもってうらんでいた。

 そのことは―、田沼たぬま意次おきつぐへのうらみは岩本いわもと喜内きない金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん当人とうにんより度々たびたびかされてきた。

 それは完全かんぜん逆恨さかうらみもいところであったが、「天下てんが」をねら一橋ひとつばし治済はるさだとしては、そしてそんな治済はるさだかつ岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけといった一橋ひとつばし家臣かしん、それも生抜プロパー一橋ひとつばし家臣かしんにとっては大変たいへん好都合こうつごうであった。

あるじ一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょういまでも大変たいへん金森家かなもりけがことはしいとおもわれての…、なにしろ右府うふさま以来いらい名族めいぞくゆえのう…」

 岩本いわもと喜内きないはしみじみそう言った。

 たしかに金森家かなもりけと言えば織田おだ信長のぶなが以来いらい名家めいか名族めいぞくであった。

「いや、それゆえあるじ一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうなんとか金森家かなもりけ再興さいこう出来できぬものかと日々ひびおもわれておってのう…、いや、嫡子ちゃくしにあらせられし豊千代とよちよぎみ…、いま家斉公いえなりこう将軍家しょうぐんけ養君ようくんにおりあそばされたことでもあるしのう…」

 治済はるさだせがれ豊千代とよちよこと家斉いえなり次期じき将軍しょうぐんとなったからには、そしてれてその家斉いえなり将軍しょうぐんとなったあかつきには家斉いえなり実父じっぷたる治済はるさだ一言ひとこと家斉いえなりささやけば金森家かなもりけ再興さいこう、つまりは大名だいみょうへの復帰ふっきゆめではないと、岩本いわもと喜内きない金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんにそうにおわせたのだ。

「そのおりには…、かりにだが、金森家かなもりけ再興さいこうあかつきには五郎右衛門ごろうえもん殿どの、そこもとを藩主はんしゅにと、あるじ一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう斯様かよう思召おぼしめされてのう…」

 岩本いわもと喜内きないほそめた。

 金森家かなもりけふたたび、大名だいみょうとして復帰ふっき出来でき場合ばあい新藩主しんはんしゅ田安たやす物頭ものがしら金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんをと、治済はるさだはそのようかんがえていると、岩本いわもと喜内きない五郎右衛門ごろうえもんにそうげた。

 まともにかんがえれば、まともな頭脳ずのう持主もちぬしならば、ぐに、ありないはなしだと気付きづくであろう。

 そのてん金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん今年ことし―、天明3(1783)年で御齢おんとし71をむかえただけあって、流石さすが分別ふんべつはあった。

 つまりは、ありないはなしだと気付きづいた。

「いや…、かり大名だいみょうへの再興さいこうゆるされたとしても、そのおりには本家ほんけ靱負ゆきえがおりましょうぞ…」

 かり金森家かなもりけ大名だいみょうとして再興さいこうゆるされたとして、そのさいには改易かいえきとなった金森頼錦かなもりよりかね庶子しょしである金森かなもり靱負ゆきえ頼興よりおきこそが、藩主はんしゅ相応ふさわしい…、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんはそう反論はんろんした。

 それがまともな反応はんのうであった。

 だが岩本いわもと喜内きないはそんなまともな反応はんのうしめ金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん理性りせい打砕うちくだいた。

たしかに…、なれど金森かなもり靱負ゆきえ殿どのちち兵部少輔ひょうぶしょうゆうさまつみして改易かいえきせられしなれば…」

 金森かなもり靱負ゆきえわば、「前科持まえあり」であり、そのよう靱負ゆきえ新藩主しんはんしゅたして相応ふさわしいか…、岩本いわもと喜内きないはそう示唆しさした。

「それになにより、血筋ちすじという観点かんてんからすれば、金森殿かなもりどの、そこもとしかおるまいて…」

 岩本いわもと喜内きないのその言葉ことばに、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん内心ないしんおおいにうなずいた。

 すなわち、改易かいえきとなった大名だいみょう金森かなもり本家ほんけにはその分家ぶんけとして5家、4家の金森家かなもりけとそれに酒井家さかいけそんする。

 そのなかでも、いま岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけまえにいるこの金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんは、

一番色いちばんいろく…」

 金森かなもり本家ほんけの「」を受継うけついでいた。

 すなわち、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん金森かなもり本家ほんけ二代目にだいめ出雲守いずものかみ可重よししげ玄孫やしゃごたるのだ。

 これは金森かなもり本家ほんけめれば、六代目ろくだいめ出雲守いずものかみ頼旹よりとき相当そうとうする。

 金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん金森かなもり本家ほんけ分家ぶんけ庶流しょりゅうではあるが、しかし、そのかん―、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん高祖父こうそふ金森かなもり可重よししげから金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんいたるまでのあいだ養嗣子ようししなどはむかえず、つまり直系ちょっけいにてつないでたのだ。

 具体的ぐたいてきには金森かなもり可重よししげ六男ろくなん左兵衛さへえ重義しげよし、その左兵衛さへえ重義しげよし四男よんなん八左衛門はちざえもん可邑ありむら、そして八左衛門はちざえもん可邑ありむら嫡子ちゃくしにして五郎右衛門ごろうえもん可言ありゆきちち五郎右衛門ごろうえもん可多ありたねへといたった。

 金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんちち五郎右衛門ごろうえもん可多ありたねちち―、五郎右衛門ごろうえもん可言ありゆきにとっては祖父そふ八左衛門はちざえもん可邑ありむら先立さきだち、つまりは歿ぼっしたために、そこで金森家かなもりけ家督かとく五郎右衛門ごろうもえん可多ありたね嫡子ちゃくし主膳可道しゅぜんありみち八左衛門はちざえもん可邑ありむら所謂いわゆる

嫡孫ちゃくそん承祖しょうそ…」

 としていだ。

 その主膳可道しゅぜんありみち嫡子ちゃくしめぐまれぬまま歿ぼっしたために、そこでおとうとである五郎右衛門ごろうえもん可言ありゆき金森家かなもりけぎ、いまいたるというわけだ。

 田安たやす物頭ものがしら金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん可言ありゆき改易かいえきとなった大名だいみょう金森かなもり本家ほんけの「」を、

一番色いちばんいろく…」

 受継うけついでいるというのはかる事情じじょうにより、本家ほんけ靱負ゆきえ頼興よりおきよりも「色濃いろこい」ものであった。

 また、ほか分家ぶんけにしても同様どうようで、なかには養嗣子ようししを、それも他家たけより養嗣子ようししむかえてつないだケースもあり、そのてんでもこの金森かなもり五郎右衛門ごろうもえん可言ありゆき一番いちばん

色濃いろこく…」

 金森かなもり本家ほんけの「」を受継うけついでいると言えた。

「されば血筋ちすじ大事だいじぞ…」

 金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん可言ありゆきこそが、大名だいみょうとして再興さいこう金森家かなもりけ新藩主しんはんしゅ相応ふさわしい…、岩本いわもと喜内きない金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん可言当人ありゆきとうにんまえにしてそう示唆しさしたかとおもうと、

「いや、血筋ちすじ由緒ゆいしょとは無縁むえんの、どこぞのうまほねともからぬ、それこそ盗賊とうぞく同然どうぜん卑賤ひせんなる田沼たぬま意次おきつぐなればこそ、金森家かなもりけ由緒ゆいしょをも…、如何いか金森家かなもりけ名家めいか名族めいぞくかも理解りかいできず、また、理解りかいしようともせずに、改易かいえきなどと愚挙ぐきょおかしたのであろうが…」

 さらにそう付加つけくわえて、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもんわずかばかりの理性りせい完璧かんぺき打砕うちくだいたのであった。

 すなわち、金森かなもり五郎右衛門ごろうえもん一橋ひとつばし治済はるさだのその「危険きけん遊戯ゆうぎ」への協力きょうりょくちかったのであった。

 すると岩本いわもと喜内きないつづいて、田安たやす番頭ばんがしら中田なかた左兵衛さへえの「攻略こうりゃく」に取掛とりかかった。

 岩本いわもと喜内きないは、「そうそう…」とおもしたかのよう切出きりだしたかとおもうと、中田なかた左兵衛さへえほうへと身体からだけ、

あるじ一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうはそこもとがことにかけておってのう…、いや、田安たやす番頭ばんがしら常見つねみ文左衛門ぶんざえもん一枚看板いちまいかんばんだと、もっぱらの評判ひょうばんだそうだが…」

 そうげた。

 常見つねみ文左衛門ぶんざえもん直與なおともとは相役あいやく同僚どうりょうである田安たやす番頭ばんがしら中田なかた左兵衛さへえにしてみれば大変たいへん不本意ふほんいな「評判ひょうばん」ではあるものの、しかし、事実じじつであったのでみとめざるをなかった。

たしかに、中田なかた左兵衛さへえ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんとはおな番頭ばんがしら三卿さんきょう家臣かしんなかでも番方ばんかた武官ぶかん最高位トップ位置いちする番頭ばんがしらではあるものの、しかし、中田なかた左兵衛さへえ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんされちであった。

 それはひとえに、田安たやす屋形やかたの「女主おんなあるじ」である寶蓮院ほうれんいんられていることに由来ゆらいする。

 常見つねみ文左衛門ぶんざえもん田安たやす始祖しそ宗武むねたけがまだ幼名ようみょう小次郎こじろう名乗なのっていた時分じぶんより、とぎとして宗武むねたけもとい小次郎こじろう近似きんじしていたのだ。

 常見つねみ文左衛門ぶんざえもん宗武むねたけもとい小次郎こじろうとぎとして、小次郎こじろうおおいにられた。

 その小次郎こじろう元服げんぷくして宗武むねたけ名乗なのようになってからも、常見つねみ文左衛門ぶんざえもんは、

引続ひきつづき…」

 宗武むねたけからの寵愛ちょうあい、のみならず、宗武むねたけしつ所謂いわゆる

御簾中ごれんじゅう…」

 としてむかえられた寶蓮院ほうれんいんからもられるようになった。

 そのことを―、常見つねみ文左衛門ぶんざえもん田安たやす宗武むねたけ寶蓮院ほうれんいん夫妻ふさいから寵愛ちょうあいけていたあかしとして、常見つねみ文左衛門ぶんざえもん番方ばんかた武官ぶかん最高位トップである番頭ばんがしら取立とりたてられ、さらにこれは宗武むねたけつづいて二代目にだいめである治察はるあき歿ぼっしたのち、安永5(1776)年正月しょうがつのことであるが、常見つねみ文左衛門ぶんざえもん小姓こしょうがしらまでねさせられ、のみならず配下はいか組頭くみがしらも2人から3人へとやされたのだ。

 これはその直前ちょくぜん、安永4(1775)年に側用人そばようにん―、三卿さんきょう家臣かしんなかでも役方やくかた文官ぶんかんにおいては家老かろう側用人そばようにん竹本要人正美たけもとかなめまさよし歿ぼっしたためである。

 竹本たけもと要人かなめ側用人そばようにんとして小姓こしょうがしらをも兼務けんむしていたので、そこで寶蓮院ほうれんいん常見つねみ文左衛門ぶんざえもん小姓こしょうがしらねさせることにしたのだ。

 この小姓こしょうがしらという役職ポスト小姓こしょうしゅう筆頭ひっとうであり、しかし、当主とうしゅ不在ふざい田安たやすにおいては一見いっけん不要ふようようにもおもえる。

 なにしろ、小姓こしょうがしら小姓こしょうしゅうともに、三卿さんきょう当主とうしゅや、あるいはその嫡子ちゃくし近侍きんじするのをその職掌しょくしょうとしており、しかしいま田安たやすにおいてはそもそも、肝心かんじんかなめ当主とうしゅがおらず、これでは小姓こしょうがしら筆頭ひっとうに、小姓こしょうつかえるべきもの存在そんざいしないことになる。

 事実じじつ小姓こしょうしゅうは、それに小姓こしょうおなじく三卿さんきょうやその嫡子ちゃくし近侍きんじするのを職掌しょくしょうとする近習きんじゅうばんともに、その役職ポスト名前なまえのまま、つまりはのみの存在そんざいのまま、「事務じむしょく」として田安たやす屋形やかたにてつかえていた。

 そうであれば小姓こしょうがしらなどという役職ポストすくなくとも当主とうしゅ不在ふざい田安たやす屋形やかたにおいてははいしてもさそうなものであったが、しかし、田安たやす屋形やかたの「女主おんなあるじ」たる寶蓮院ほうれんいんはそうはせず、番頭ばんがしら常見つねみ文左衛門ぶんざえもん竹本たけもと要人かなめあとおおわせ、小姓こしょうがしらがしめたのだ。

 これは次期じき側用人そばようにん意味いみしていた。

 すなわち、番頭ばんがしらなかでも小姓こしょうがしら兼務けんむさせられると、側用人そばようにんへの昇進しょうしん約束やくそくされる。

 それはちょうど御城えどじょうにおいて、小姓組こしょうぐみ番頭ばんがしらかく奥勤おくづとめ実際じっさいにはそば用取次ようとりつぎ意味いみするのとている。

 そして三卿さんきょう屋形やかたにおける側用人そばようにんともなれば、三卿さんきょう大奥おおおくへの出入でいりゆるされることになる。

 田安たやす大奥おおおくあるじでもある寶蓮院ほうれんいん常見つねみ文左衛門ぶんざえもん側用人そばようにんとして大奥おおおくへの出入でいりゆるそうとかんがえるほど常見つねみ文左衛門ぶんざえもんのことをっていたのだ。

 それは配下はいか組頭くみがしらにもあらわれており、通常つうじょう三卿さんきょう番頭ばんがしら直属ちょくぞく部下ぶかとしてはいされる組頭くみがしら通常つうじょう2人であり、事実じじつ中田なかた左兵衛さへえ梶田かじた八郎左衛門はちろうざえもんすが市左衛門いちざえもんの2人が組頭くみがしらとしてはいされていたが、常見つねみ文左衛門ぶんざえもんはと言うと、それよりも1人おおく、古田内記ふるたないき竹中惣蔵たけなかそうぞう、そして幸田こうだ新兵衛しんべえの3人の組頭くみがしらはいされていたのだ。これもまた、側用人そばようにん約束やくそくされた番頭ばんがしら相応ふさわしい人数にんずう組頭くみがしらをと、寶蓮院ほうれんいん配慮はいりょからであった。

 もっとも、それから7年以上いじょうった天明3(1783)年11月のいまもって、常見つねみ文左衛門ぶんざえもん側用人そばようにんへと昇格しょうかくさせられないのはやはり、当主とうしゅ不在ふざいが「ネック」となっているようであった。

 如何いか三卿さんきょう筆頭ひっとう田安たやすいえども、当主とうしゅ不在ふざいでは側用人そばようにん出番でばんはなかろう、というのが幕府ばくふ意向いこうであったのだ。

「さればあるじ一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう福者ぶくしゃにて…、家斉公いえなりこうほかにも御子おこが…、力之助りきのすけぎみ慶之丞けいのすけぎみ好之助こうのすけぎみがおわせられれば…」

 そのうち、家斉いえなりしたおとうとである力之助りきのすけ一橋ひとつばし相続そうぞくさせるとして、のこ慶之丞けいのすけ好之助こうのすけ他家たけへと養子ようしすとして、そのうちの一人ひとりいま当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたである田安たやすへと養子ようしそうかと、それが治済はるさだ意向いこうであると、岩本いわもと喜内きない中田なかた左兵衛さへえげたのであった。

 成程なるほど、いずれ家斉いえなり将軍しょうぐんとなったあかつきにはそれも可能かのうであろう。なにしろ治済はるさだ将軍しょうぐん実父じっぷとなるわけで、その権威けんいをもってすれば、おのれ田安たやすがせることもけっして不可能ふかのうではない。

「そのおりにはだれぞ、信頼しんらい出来できもの側用人そばようにんにと…」

 かり慶之丞けいのすけか、好之助こうのすけか、どちらかに田安たやすがせられるとして、そのおりには中田なかた左兵衛さへえ側用人そばようにんとして田安たやすいだささえてしいと、それが治済はるさだ意向いこうであるとも、岩本いわもと喜内きない中田なかた左兵衛さへえげたのであった。

 これで中田なかた左兵衛さへえも「陥落かんらく」、一橋ひとつばし治済はるさだの「危険きけん遊戯ゆうぎ」への協力きょうりょくちかった。

 のこるはただ一人ひとり用人格ようにんかくこおり奉行ぶぎょう幸田こうだ友之助とものすけであった。

 幸田こうだ友之助とものすけの「攻略こうりゃく」は一番簡単いちばんかんたんであり、

正式せいしき用人ようにんあるいは番頭ばんがしらへの昇進しょうしん…」

 岩本いわもと喜内きないはそれをにおわせるや、幸田こうだ友之助とものすけも、

「あっというに…」

 陥落かんらくしたものであり、やはり一橋ひとつばし治済はるさだの「危険きけん遊戯ゆうぎ」への協力きょうりょくちかったものである。

 幸田こうだ友之助とものすけはそのうえで、いま田安たやす下屋敷しもやしき奉行ぶぎょう山口やまぐち傳兵衛でんべえ辻村つじむら幸十郎こじゅうろう、そして高橋たかはし源太左衛門げんたざえもんの3人であり、そのうち辻村つじむら幸十郎こうじゅうろう縁者えんじゃであると、岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけおしえた。

 すなわち、幸田こうだ友之助とものすけ実弟じっていにして西之丸にしのまる小十人こじゅうにん組頭くみがしら原田はらだ覺左衛門かくざえもん工紬よしつむ一人娘ひとりむすめ、つまりは幸田こうだ友之助とものすけめいおっとである辻村つじむら平十郎へいじゅうろう久豊ひさとよちちこそが、下屋敷しもやしき奉行ぶぎょう一人ひとり辻村つじむら幸十郎こじゅうろうであったのだ。

 幸田こうだ友之助とものすけ辻村つじむら幸十郎こうじゅうろうとはおな田安たやすにてつかえる縁者えんじゃということもあり、したしく付合つきあっているとのことであった。

「さればつぎ辻村つじむら幸十郎こうじゅうろうにもこえけ…、山口やまぐち傳兵衛でんべえ高橋たかはし源太左衛門げんたざえもんをもれてまいりましょうぞ…」

 幸田こうだ友之助とものすけはそう提案ていあんした。

 つぎ下屋敷しもやしき奉行ぶぎょう辻村つじむら幸十郎こうじゅうろう山口やまぐち傳兵衛でんべえ高橋たかはし源太左衛門げんたざえもんの3人を岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ引合ひきあわせると言うのである。

 岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけにとって―、だれよりも一橋ひとつばし治済はるさだにとって幸田こうだ友之助とものすけのその提案ていあんは、

ねがったり…」

 であろう。

 すると岩本いわもと喜内きないつぎの「会合かいごう」の日時にちじについては、

追々おいおい…」

 として、持参じさんした「菓子折かしおり」を中田なかた左兵衛さへえらに差出さしだした。

 中田なかた左兵衛さへえ一同いちどう代表だいひょうしてふたけると、そこにはしの「切餅きりもち」が25個もぎっしりとめられていた。

気張きばったな…」

 中田なかた左兵衛さへえらはしの25個もの「切餅きりもち」をたりにしてみな、そうおもった。
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