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一橋治済の「最も危険な遊戯」 ~抱込み工作篇~ 2
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11月27日、昼の九つ半(午後1時頃)を回った頃、ここ神田佐柄木町にある料理茶屋の百川の暖簾を3人の男達、それも結構な身形の侍が潜った。
即ち、何れも御三卿の家臣であり、番頭の中田左兵衛と物頭の金森五郎右衛門、そして用人格の郡奉行・幸田友之助であった。
中田左兵衛が過日、口にした「いつもの処」とはここ、百川を指していたのだ。
岩本喜内と密会に及ぶ際にはこの百川を使っていた。
女将も心得たもので、女中を随えさせて中田左兵衛らを出迎えると、腰のものを女中に預からせた上で、岩本喜内が待つ座敷へと案内した。
いや、今日は岩本喜内の外に今一人、久田縫殿助の姿もあった。
中田左兵衛らにとって久田縫殿助とはこれが初対面であったので、左兵衛らは座敷に入るや、そこに岩本喜内の外に見慣れない久田縫殿助の姿まであったので、左兵衛らは皆、「おや?」という顔をした。
岩本喜内も左兵衛らのこの反応は予期していたので、左兵衛らが取敢えず腰を落着けたところで久田縫殿助を紹介した。
即ち、一橋家の物頭にして、一橋家きっての知恵者、それも治済の「懐刀」であることを紹介したのであった。
それに対して左兵衛らも、「左様でござったか…」と合点すると、左兵衛らも一人ずつ、この一橋治済の「懐刀」である久田縫殿助に挨拶した。
「この久田縫殿助は物頭故、ちょうど金森殿と立場が同じでござるな…」
金森五郎右衛門が久田縫殿助と挨拶を交わし終えたところで、岩本喜内はそう口を挟んだ。
それに対して金森五郎右衛門も、「正しく…」と心底、そう応じた。
金森五郎右衛門は己と立場が同じの、つまりは御三卿物頭の役職にあるこの久田縫殿助という男に親近感を覚えた。
すると久田縫殿助は流石、治済の「懐刀」と呼ばれるだけのことはある、実に、
「ソツのない…」
反応を示した。
「同じく物頭とは申せ、御三卿筆頭の田安様が物頭と、一橋家の物頭とでは畢竟、田安様が物頭が格上と申すものにて…」
久田縫殿助はそう謙遜してみせたのだ。
それに対して金森五郎右衛門はと言うと、内心では久田縫殿助のその「謙遜」を真に受け、大いに頷きつつも、それとは裏腹に、
「いやいや、左様に謙遜なされずとも良い…」
久田縫殿助にそう声をかけたものである。
すると久田縫殿助もそんな金森五郎右衛門に対して、「ははぁっ」と平伏してみせたものである。
こうして久田縫殿助を中田左兵衛らに「披露」したところで、岩本喜内は早速、本題に入った。
即ち、治済の「危険な遊戯》を明かした上で、その「危険な遊戯」に手を貸してくれるよう、つまりは協力を求めたのであった。
これに対して中田左兵衛らも流石に事が事だけに協力するに躊躇を覚えずにはいられなかった。
中田左兵衛らが躊躇するのも当然であり、岩本喜内も、それに久田縫殿助も左兵衛らのこの反応は予期していた。
そこで岩本喜内はまず、金森五郎右衛門に水を向けた。
「金森殿は…、田沼意次に怨みがござろう?」
岩本喜内にそう水を向けられた金森五郎右衛門は思わず、ハッとしたものの、しかしその通りであったので、条件反射的に頷いていた。
田沼意次への怨み、それはズバリ、郡上騒動の一件―、美濃郡上藩を領していた金森家が、それも金森兵部少輔頼錦が藩内にて発生した一揆、所謂、宝暦郡上騒動の責を問われて改易された一件である。
この時、金森家を裁く為に開かれた評定―、評定所における五手掛吟味を指揮したのが御側御用取次であった田沼意次であったのだ。
そして今は御三卿の田安家にて物頭を勤める金森五郎右衛門はその改易された金森家《かなもりけ》の流を汲む。
具体的には金森家二代目の出雲守可重の流を汲み、可重の六男、金森左兵衛重義のそのまた四男である金森八左衛門可邑が孫こそが、今、岩本喜内や久田縫殿助の前にいる金森五郎右衛門なのである。
それ故、金森五郎右衛門は本家である大名の金森家の庶流のそのまた庶流も良いところなのだが、本家たる金森家を改易に追いやった田沼意次のことを今もって怨んでいた。
そのことは―、田沼意次への怨みは岩本喜内も金森五郎右衛門当人より度々、聞かされてきた。
それは完全に逆恨みも良いところであったが、「天下」を狙う一橋治済としては、そしてそんな治済を担ぐ岩本喜内や久田縫殿助といった一橋家臣、それも生抜の一橋家臣にとっては大変、好都合であった。
「我が主、一橋民部卿は今でも大変、金森家がことは惜しいと思われての…、何しろ右府様以来の名族故のう…」
岩本喜内はしみじみそう言った。
確かに金森家と言えば織田信長以来の名家、名族であった。
「いや、それ故に我が主、一橋民部卿は何とか金森家は再興出来ぬものかと日々、思われておってのう…、いや、御嫡子にあらせられし豊千代君…、今は家斉公は将軍家御養君にお成りあそばされたことでもあるしのう…」
治済が倅の豊千代こと家斉が次期将軍となったからには、そして晴れてその家斉が将軍となった暁には家斉の実父たる治済が一言、家斉に囁けば金森家の再興、つまりは大名への復帰も夢ではないと、岩本喜内は金森五郎右衛門にそう匂わせたのだ。
「その折には…、仮にだが、金森家再興の暁には五郎右衛門殿、そこもとを藩主にと、我が主、一橋民部卿は斯様に思召されてのう…」
岩本喜内は目を細めた。
金森家が再び、大名として復帰出来た場合、新藩主は田安物頭の金森五郎右衛門をと、治済はその様に考えていると、岩本喜内は五郎右衛門にそう告げた。
まともに考えれば、まともな頭脳の持主ならば、直ぐに、あり得ない話だと気付くであろう。
その点、金森五郎右衛門は今年―、天明3(1783)年で御齢71を迎えただけあって、流石に分別はあった。
つまりは、あり得ない話だと気付いた。
「いや…、仮に大名への再興が許されたとしても、その折には本家の靱負がおりましょうぞ…」
仮に金森家が大名として再興が許されたとして、その際には改易となった金森頼錦が庶子である金森靱負頼興こそが、藩主に相応しい…、金森五郎右衛門はそう反論した。
それがまともな反応であった。
だが岩本喜内はそんなまともな反応を示す金森五郎右衛門の理性を打砕いた。
「確かに…、なれど金森靱負殿は父、兵部少輔様が罪に坐して改易せられし身なれば…」
金森靱負は謂わば、「前科持」であり、その様な靱負が新藩主に果たして相応しいか…、岩本喜内はそう示唆した。
「それに何より、血筋という観点からすれば、金森殿、そこもとしかおるまいて…」
岩本喜内のその言葉に、金森五郎右衛門は内心、大いに頷いた。
即ち、改易となった大名の金森本家にはその分家として5家、4家の金森家とそれに酒井家が存する。
その中でも、今、岩本喜内や久田縫殿助の前にいるこの金森五郎右衛門は、
「一番色濃く…」
金森本家の「血」を受継いでいた。
即ち、金森五郎右衛門は金森本家の二代目・出雲守可重の玄孫に当たるのだ。
これは金森本家に当て嵌めれば、六代目の出雲守頼旹に相当する。
金森五郎右衛門は金森本家の分家、庶流ではあるが、しかし、その間―、金森五郎右衛門が高祖父の金森可重から金森五郎右衛門に至るまでの間、養嗣子などは迎えず、つまり直系にて繋いで来たのだ。
具体的には金森可重が六男・左兵衛重義、その左兵衛重義が四男の八左衛門可邑、そして八左衛門可邑が嫡子にして五郎右衛門可言が父・五郎右衛門可多へと至った。
金森五郎右衛門が父・五郎右衛門可多は父―、五郎右衛門可言にとっては祖父の八左衛門可邑に先立ち、つまりは歿した為に、そこで金森家の家督は五郎右衛門可多が嫡子の主膳可道が八左衛門可邑の所謂、
「嫡孫承祖…」
として継いだ。
その主膳可道も嫡子に恵まれぬまま歿した為に、そこで弟である五郎右衛門可言が金森家を継ぎ、今に至るという訳だ。
田安物頭の金森五郎右衛門可言が改易となった大名の金森本家の「血」を、
「一番色濃く…」
受継いでいるというのは斯かる事情により、本家の靱負頼興よりも「色濃い」ものであった。
また、外の分家にしても同様で、中には養嗣子を、それも他家より養嗣子を迎えて繋いだ例もあり、その点でもこの金森五郎右衛門可言は一番、
「色濃く…」
金森本家の「血」を受継いでいると言えた。
「されば血筋は大事ぞ…」
金森五郎右衛門可言こそが、大名として再興後の金森家の新藩主に相応しい…、岩本喜内は金森五郎右衛門可言当人を前にしてそう示唆したかと思うと、
「いや、血筋や由緒とは無縁の、どこぞの馬の骨とも分からぬ、それこそ盗賊も同然の卑賤なる田沼意次なればこそ、金森家の由緒をも…、如何に金森家が名家、名族かも理解できず、また、理解しようともせずに、改易などと愚挙を犯したのであろうが…」
更にそう付加えて、金森五郎右衛門の僅かばかりの理性を完璧に打砕いたのであった。
即ち、金森五郎右衛門は一橋治済のその「危険な遊戯」への協力を誓ったのであった。
すると岩本喜内は続いて、田安番頭の中田左兵衛の「攻略」に取掛かった。
岩本喜内は、「そうそう…」と思い出したかの様に切出したかと思うと、中田左兵衛の方へと身体を向け、
「我が主、一橋民部卿はそこもとが事も気にかけておってのう…、いや、田安番頭は常見文左衛門が一枚看板だと、専らの評判だそうだが…」
そう告げた。
常見文左衛門直與とは相役、同僚である田安番頭の中田左兵衛にしてみれば大変、不本意な「評判」ではあるものの、しかし、事実であったので認めざるを得なかった。
確かに、中田左兵衛と常見文左衛門とは同じ番頭、御三卿家臣の中でも番方、武官の最高位に位置する番頭ではあるものの、しかし、中田左兵衛は常見文左衛門に圧され勝ちであった。
それは偏に、田安屋形の「女主」である寶蓮院に気に入られていることに由来する。
常見文左衛門は田安家の始祖・宗武がまだ幼名の小次郎を名乗っていた時分より、伽として宗武もとい小次郎に近似していたのだ。
常見文左衛門は宗武もとい小次郎の伽として、小次郎に大いに気に入られた。
その小次郎が元服して宗武と名乗る様になってからも、常見文左衛門は、
「引続き…」
宗武からの寵愛を得、のみならず、宗武が室、所謂、
「御簾中…」
として迎えられた寶蓮院からも気に入られる様になった。
そのことを―、常見文左衛門が田安宗武・寶蓮院夫妻から寵愛を受けていた証として、常見文左衛門は番方、武官の最高位である番頭に取立てられ、更にこれは宗武、続いて二代目である治察も歿した後、安永5(1776)年正月のことであるが、常見文左衛門は小姓頭まで兼ねさせられ、のみならず配下の組頭も2人から3人へと増やされたのだ。
これはその直前、安永4(1775)年に側用人―、御三卿家臣の中でも役方、文官においては家老に次ぐ側用人の竹本要人正美が歿した為である。
竹本要人は側用人として小姓頭をも兼務していたので、そこで寶蓮院は常見文左衛門に小姓頭を兼ねさせることにしたのだ。
この小姓頭という役職は小姓衆の筆頭であり、しかし、当主不在の田安家においては一見、不要の様にも思える。
何しろ、小姓頭は小姓衆と共に、御三卿の当主や、或いはその嫡子に近侍するのをその職掌としており、しかし今、田安家においてはそもそも、肝心要の当主がおらず、これでは小姓頭を筆頭に、小姓が仕えるべき者が存在しないことになる。
事実、小姓衆は、それに小姓と同じく御三卿やその嫡子に近侍するのを職掌とする近習番と共に、その役職の名前のまま、つまりは名のみの存在のまま、「事務職」として田安屋形にて仕えていた。
そうであれば小姓頭などという役職は少なくとも当主不在の田安屋形においては廃しても良さそうなものであったが、しかし、田安屋形の「女主」たる寶蓮院はそうはせず、番頭の常見文左衛門に竹本要人の後を襲わせ、小姓頭を継がしめたのだ。
これは次期側用人を意味していた。
即ち、番頭の中でも小姓頭を兼務させられると、側用人への昇進が約束される。
それはちょうど御城において、小姓組番頭格奥勤が実際には御側御用取次を意味するのと似ている。
そして御三卿屋形における側用人ともなれば、御三卿大奥への出入も許されることになる。
田安大奥の主でもある寶蓮院は常見文左衛門に側用人として大奥への出入を許そうと考える程に常見文左衛門のことを買っていたのだ。
それは配下の組頭にも現れており、通常、御三卿番頭に直属の部下として配される組頭は通常2人であり、事実、中田左兵衛も梶田八郎左衛門と菅市左衛門の2人が組頭として配されていたが、常見文左衛門はと言うと、それよりも1人多く、古田内記と竹中惣蔵、そして幸田新兵衛の3人の組頭が配されていたのだ。これもまた、側用人が約束された番頭に相応しい人数の組頭をと、寶蓮院の配慮からであった。
尤も、それから7年以上も経った天明3(1783)年11月の今もって、常見文左衛門を側用人へと昇格させられないのはやはり、当主不在が「ネック」となっている様であった。
如何に御三卿筆頭の田安家と雖も、当主不在では側用人の出番はなかろう、というのが幕府の意向であったのだ。
「されば我が主、一橋民部卿は子福者にて…、家斉公の外にも御子が…、力之助君や慶之丞君、好之助君がおわせられれば…」
そのうち、家斉の直ぐ下の弟である力之助に一橋家を相続させるとして、残る慶之丞と好之助は他家へと養子に出すとして、そのうちの一人を今は当主不在の明屋形である田安家へと養子に出そうかと、それが治済の意向であると、岩本喜内は中田左兵衛に告げたのであった。
成程、いずれ家斉が将軍となった暁にはそれも可能であろう。何しろ治済は将軍の実父となる訳で、その権威をもってすれば、己の子に田安家を継がせることも決して不可能ではない。
「その折には誰ぞ、信頼出来る者を側用人にと…」
仮に慶之丞か、好之助か、どちらかに田安家を継がせられるとして、その折には中田左兵衛に側用人として田安家を継いだ我が子を支えて欲しいと、それが治済の意向であるとも、岩本喜内は中田左兵衛に告げたのであった。
これで中田左兵衛も「陥落」、一橋治済の「危険な遊戯」への協力を誓った。
残るは唯一人、用人格の郡奉行、幸田友之助であった。
幸田友之助の「攻略」は一番簡単であり、
「正式な用人、或いは番頭への昇進…」
岩本喜内はそれを匂わせるや、幸田友之助も、
「あっという間に…」
陥落したものであり、やはり一橋治済の「危険な遊戯」への協力を誓ったものである。
幸田友之助はその上で、今の田安家の下屋敷奉行が山口傳兵衛、辻村幸十郎、そして高橋源太左衛門の3人であり、その内、辻村幸十郎が縁者であると、岩本喜内と久田縫殿助に教えた。
即ち、幸田友之助の実弟にして西之丸小十人組頭の原田覺左衛門工紬が一人娘、つまりは幸田友之助の姪の夫である辻村平十郎久豊の父こそが、下屋敷奉行の一人、辻村幸十郎であったのだ。
幸田友之助は辻村幸十郎とは同じ田安家にて仕える縁者ということもあり、親しく付合っているとのことであった。
「されば次は辻村幸十郎にも声を掛け…、山口傳兵衛と高橋源太左衛門をも連れて参りましょうぞ…」
幸田友之助はそう提案した。
次は下屋敷奉行の辻村幸十郎と山口傳兵衛、高橋源太左衛門の3人を岩本喜内と久田縫殿助に引合わせると言うのである。
岩本喜内と久田縫殿助にとって―、誰よりも一橋治済にとって幸田友之助のその提案は、
「願ったり…」
であろう。
すると岩本喜内は次の「会合」の日時については、
「追々…」
として、持参した「菓子折」を中田左兵衛らに差出した。
中田左兵衛が一同を代表して蓋を開けると、そこには剥き出しの「切餅」が25個もぎっしりと詰められていた。
「気張ったな…」
中田左兵衛らは剥き出しの25個もの「切餅」を目の当たりにして皆、そう思った。
即ち、何れも御三卿の家臣であり、番頭の中田左兵衛と物頭の金森五郎右衛門、そして用人格の郡奉行・幸田友之助であった。
中田左兵衛が過日、口にした「いつもの処」とはここ、百川を指していたのだ。
岩本喜内と密会に及ぶ際にはこの百川を使っていた。
女将も心得たもので、女中を随えさせて中田左兵衛らを出迎えると、腰のものを女中に預からせた上で、岩本喜内が待つ座敷へと案内した。
いや、今日は岩本喜内の外に今一人、久田縫殿助の姿もあった。
中田左兵衛らにとって久田縫殿助とはこれが初対面であったので、左兵衛らは座敷に入るや、そこに岩本喜内の外に見慣れない久田縫殿助の姿まであったので、左兵衛らは皆、「おや?」という顔をした。
岩本喜内も左兵衛らのこの反応は予期していたので、左兵衛らが取敢えず腰を落着けたところで久田縫殿助を紹介した。
即ち、一橋家の物頭にして、一橋家きっての知恵者、それも治済の「懐刀」であることを紹介したのであった。
それに対して左兵衛らも、「左様でござったか…」と合点すると、左兵衛らも一人ずつ、この一橋治済の「懐刀」である久田縫殿助に挨拶した。
「この久田縫殿助は物頭故、ちょうど金森殿と立場が同じでござるな…」
金森五郎右衛門が久田縫殿助と挨拶を交わし終えたところで、岩本喜内はそう口を挟んだ。
それに対して金森五郎右衛門も、「正しく…」と心底、そう応じた。
金森五郎右衛門は己と立場が同じの、つまりは御三卿物頭の役職にあるこの久田縫殿助という男に親近感を覚えた。
すると久田縫殿助は流石、治済の「懐刀」と呼ばれるだけのことはある、実に、
「ソツのない…」
反応を示した。
「同じく物頭とは申せ、御三卿筆頭の田安様が物頭と、一橋家の物頭とでは畢竟、田安様が物頭が格上と申すものにて…」
久田縫殿助はそう謙遜してみせたのだ。
それに対して金森五郎右衛門はと言うと、内心では久田縫殿助のその「謙遜」を真に受け、大いに頷きつつも、それとは裏腹に、
「いやいや、左様に謙遜なされずとも良い…」
久田縫殿助にそう声をかけたものである。
すると久田縫殿助もそんな金森五郎右衛門に対して、「ははぁっ」と平伏してみせたものである。
こうして久田縫殿助を中田左兵衛らに「披露」したところで、岩本喜内は早速、本題に入った。
即ち、治済の「危険な遊戯》を明かした上で、その「危険な遊戯」に手を貸してくれるよう、つまりは協力を求めたのであった。
これに対して中田左兵衛らも流石に事が事だけに協力するに躊躇を覚えずにはいられなかった。
中田左兵衛らが躊躇するのも当然であり、岩本喜内も、それに久田縫殿助も左兵衛らのこの反応は予期していた。
そこで岩本喜内はまず、金森五郎右衛門に水を向けた。
「金森殿は…、田沼意次に怨みがござろう?」
岩本喜内にそう水を向けられた金森五郎右衛門は思わず、ハッとしたものの、しかしその通りであったので、条件反射的に頷いていた。
田沼意次への怨み、それはズバリ、郡上騒動の一件―、美濃郡上藩を領していた金森家が、それも金森兵部少輔頼錦が藩内にて発生した一揆、所謂、宝暦郡上騒動の責を問われて改易された一件である。
この時、金森家を裁く為に開かれた評定―、評定所における五手掛吟味を指揮したのが御側御用取次であった田沼意次であったのだ。
そして今は御三卿の田安家にて物頭を勤める金森五郎右衛門はその改易された金森家《かなもりけ》の流を汲む。
具体的には金森家二代目の出雲守可重の流を汲み、可重の六男、金森左兵衛重義のそのまた四男である金森八左衛門可邑が孫こそが、今、岩本喜内や久田縫殿助の前にいる金森五郎右衛門なのである。
それ故、金森五郎右衛門は本家である大名の金森家の庶流のそのまた庶流も良いところなのだが、本家たる金森家を改易に追いやった田沼意次のことを今もって怨んでいた。
そのことは―、田沼意次への怨みは岩本喜内も金森五郎右衛門当人より度々、聞かされてきた。
それは完全に逆恨みも良いところであったが、「天下」を狙う一橋治済としては、そしてそんな治済を担ぐ岩本喜内や久田縫殿助といった一橋家臣、それも生抜の一橋家臣にとっては大変、好都合であった。
「我が主、一橋民部卿は今でも大変、金森家がことは惜しいと思われての…、何しろ右府様以来の名族故のう…」
岩本喜内はしみじみそう言った。
確かに金森家と言えば織田信長以来の名家、名族であった。
「いや、それ故に我が主、一橋民部卿は何とか金森家は再興出来ぬものかと日々、思われておってのう…、いや、御嫡子にあらせられし豊千代君…、今は家斉公は将軍家御養君にお成りあそばされたことでもあるしのう…」
治済が倅の豊千代こと家斉が次期将軍となったからには、そして晴れてその家斉が将軍となった暁には家斉の実父たる治済が一言、家斉に囁けば金森家の再興、つまりは大名への復帰も夢ではないと、岩本喜内は金森五郎右衛門にそう匂わせたのだ。
「その折には…、仮にだが、金森家再興の暁には五郎右衛門殿、そこもとを藩主にと、我が主、一橋民部卿は斯様に思召されてのう…」
岩本喜内は目を細めた。
金森家が再び、大名として復帰出来た場合、新藩主は田安物頭の金森五郎右衛門をと、治済はその様に考えていると、岩本喜内は五郎右衛門にそう告げた。
まともに考えれば、まともな頭脳の持主ならば、直ぐに、あり得ない話だと気付くであろう。
その点、金森五郎右衛門は今年―、天明3(1783)年で御齢71を迎えただけあって、流石に分別はあった。
つまりは、あり得ない話だと気付いた。
「いや…、仮に大名への再興が許されたとしても、その折には本家の靱負がおりましょうぞ…」
仮に金森家が大名として再興が許されたとして、その際には改易となった金森頼錦が庶子である金森靱負頼興こそが、藩主に相応しい…、金森五郎右衛門はそう反論した。
それがまともな反応であった。
だが岩本喜内はそんなまともな反応を示す金森五郎右衛門の理性を打砕いた。
「確かに…、なれど金森靱負殿は父、兵部少輔様が罪に坐して改易せられし身なれば…」
金森靱負は謂わば、「前科持」であり、その様な靱負が新藩主に果たして相応しいか…、岩本喜内はそう示唆した。
「それに何より、血筋という観点からすれば、金森殿、そこもとしかおるまいて…」
岩本喜内のその言葉に、金森五郎右衛門は内心、大いに頷いた。
即ち、改易となった大名の金森本家にはその分家として5家、4家の金森家とそれに酒井家が存する。
その中でも、今、岩本喜内や久田縫殿助の前にいるこの金森五郎右衛門は、
「一番色濃く…」
金森本家の「血」を受継いでいた。
即ち、金森五郎右衛門は金森本家の二代目・出雲守可重の玄孫に当たるのだ。
これは金森本家に当て嵌めれば、六代目の出雲守頼旹に相当する。
金森五郎右衛門は金森本家の分家、庶流ではあるが、しかし、その間―、金森五郎右衛門が高祖父の金森可重から金森五郎右衛門に至るまでの間、養嗣子などは迎えず、つまり直系にて繋いで来たのだ。
具体的には金森可重が六男・左兵衛重義、その左兵衛重義が四男の八左衛門可邑、そして八左衛門可邑が嫡子にして五郎右衛門可言が父・五郎右衛門可多へと至った。
金森五郎右衛門が父・五郎右衛門可多は父―、五郎右衛門可言にとっては祖父の八左衛門可邑に先立ち、つまりは歿した為に、そこで金森家の家督は五郎右衛門可多が嫡子の主膳可道が八左衛門可邑の所謂、
「嫡孫承祖…」
として継いだ。
その主膳可道も嫡子に恵まれぬまま歿した為に、そこで弟である五郎右衛門可言が金森家を継ぎ、今に至るという訳だ。
田安物頭の金森五郎右衛門可言が改易となった大名の金森本家の「血」を、
「一番色濃く…」
受継いでいるというのは斯かる事情により、本家の靱負頼興よりも「色濃い」ものであった。
また、外の分家にしても同様で、中には養嗣子を、それも他家より養嗣子を迎えて繋いだ例もあり、その点でもこの金森五郎右衛門可言は一番、
「色濃く…」
金森本家の「血」を受継いでいると言えた。
「されば血筋は大事ぞ…」
金森五郎右衛門可言こそが、大名として再興後の金森家の新藩主に相応しい…、岩本喜内は金森五郎右衛門可言当人を前にしてそう示唆したかと思うと、
「いや、血筋や由緒とは無縁の、どこぞの馬の骨とも分からぬ、それこそ盗賊も同然の卑賤なる田沼意次なればこそ、金森家の由緒をも…、如何に金森家が名家、名族かも理解できず、また、理解しようともせずに、改易などと愚挙を犯したのであろうが…」
更にそう付加えて、金森五郎右衛門の僅かばかりの理性を完璧に打砕いたのであった。
即ち、金森五郎右衛門は一橋治済のその「危険な遊戯」への協力を誓ったのであった。
すると岩本喜内は続いて、田安番頭の中田左兵衛の「攻略」に取掛かった。
岩本喜内は、「そうそう…」と思い出したかの様に切出したかと思うと、中田左兵衛の方へと身体を向け、
「我が主、一橋民部卿はそこもとが事も気にかけておってのう…、いや、田安番頭は常見文左衛門が一枚看板だと、専らの評判だそうだが…」
そう告げた。
常見文左衛門直與とは相役、同僚である田安番頭の中田左兵衛にしてみれば大変、不本意な「評判」ではあるものの、しかし、事実であったので認めざるを得なかった。
確かに、中田左兵衛と常見文左衛門とは同じ番頭、御三卿家臣の中でも番方、武官の最高位に位置する番頭ではあるものの、しかし、中田左兵衛は常見文左衛門に圧され勝ちであった。
それは偏に、田安屋形の「女主」である寶蓮院に気に入られていることに由来する。
常見文左衛門は田安家の始祖・宗武がまだ幼名の小次郎を名乗っていた時分より、伽として宗武もとい小次郎に近似していたのだ。
常見文左衛門は宗武もとい小次郎の伽として、小次郎に大いに気に入られた。
その小次郎が元服して宗武と名乗る様になってからも、常見文左衛門は、
「引続き…」
宗武からの寵愛を得、のみならず、宗武が室、所謂、
「御簾中…」
として迎えられた寶蓮院からも気に入られる様になった。
そのことを―、常見文左衛門が田安宗武・寶蓮院夫妻から寵愛を受けていた証として、常見文左衛門は番方、武官の最高位である番頭に取立てられ、更にこれは宗武、続いて二代目である治察も歿した後、安永5(1776)年正月のことであるが、常見文左衛門は小姓頭まで兼ねさせられ、のみならず配下の組頭も2人から3人へと増やされたのだ。
これはその直前、安永4(1775)年に側用人―、御三卿家臣の中でも役方、文官においては家老に次ぐ側用人の竹本要人正美が歿した為である。
竹本要人は側用人として小姓頭をも兼務していたので、そこで寶蓮院は常見文左衛門に小姓頭を兼ねさせることにしたのだ。
この小姓頭という役職は小姓衆の筆頭であり、しかし、当主不在の田安家においては一見、不要の様にも思える。
何しろ、小姓頭は小姓衆と共に、御三卿の当主や、或いはその嫡子に近侍するのをその職掌としており、しかし今、田安家においてはそもそも、肝心要の当主がおらず、これでは小姓頭を筆頭に、小姓が仕えるべき者が存在しないことになる。
事実、小姓衆は、それに小姓と同じく御三卿やその嫡子に近侍するのを職掌とする近習番と共に、その役職の名前のまま、つまりは名のみの存在のまま、「事務職」として田安屋形にて仕えていた。
そうであれば小姓頭などという役職は少なくとも当主不在の田安屋形においては廃しても良さそうなものであったが、しかし、田安屋形の「女主」たる寶蓮院はそうはせず、番頭の常見文左衛門に竹本要人の後を襲わせ、小姓頭を継がしめたのだ。
これは次期側用人を意味していた。
即ち、番頭の中でも小姓頭を兼務させられると、側用人への昇進が約束される。
それはちょうど御城において、小姓組番頭格奥勤が実際には御側御用取次を意味するのと似ている。
そして御三卿屋形における側用人ともなれば、御三卿大奥への出入も許されることになる。
田安大奥の主でもある寶蓮院は常見文左衛門に側用人として大奥への出入を許そうと考える程に常見文左衛門のことを買っていたのだ。
それは配下の組頭にも現れており、通常、御三卿番頭に直属の部下として配される組頭は通常2人であり、事実、中田左兵衛も梶田八郎左衛門と菅市左衛門の2人が組頭として配されていたが、常見文左衛門はと言うと、それよりも1人多く、古田内記と竹中惣蔵、そして幸田新兵衛の3人の組頭が配されていたのだ。これもまた、側用人が約束された番頭に相応しい人数の組頭をと、寶蓮院の配慮からであった。
尤も、それから7年以上も経った天明3(1783)年11月の今もって、常見文左衛門を側用人へと昇格させられないのはやはり、当主不在が「ネック」となっている様であった。
如何に御三卿筆頭の田安家と雖も、当主不在では側用人の出番はなかろう、というのが幕府の意向であったのだ。
「されば我が主、一橋民部卿は子福者にて…、家斉公の外にも御子が…、力之助君や慶之丞君、好之助君がおわせられれば…」
そのうち、家斉の直ぐ下の弟である力之助に一橋家を相続させるとして、残る慶之丞と好之助は他家へと養子に出すとして、そのうちの一人を今は当主不在の明屋形である田安家へと養子に出そうかと、それが治済の意向であると、岩本喜内は中田左兵衛に告げたのであった。
成程、いずれ家斉が将軍となった暁にはそれも可能であろう。何しろ治済は将軍の実父となる訳で、その権威をもってすれば、己の子に田安家を継がせることも決して不可能ではない。
「その折には誰ぞ、信頼出来る者を側用人にと…」
仮に慶之丞か、好之助か、どちらかに田安家を継がせられるとして、その折には中田左兵衛に側用人として田安家を継いだ我が子を支えて欲しいと、それが治済の意向であるとも、岩本喜内は中田左兵衛に告げたのであった。
これで中田左兵衛も「陥落」、一橋治済の「危険な遊戯」への協力を誓った。
残るは唯一人、用人格の郡奉行、幸田友之助であった。
幸田友之助の「攻略」は一番簡単であり、
「正式な用人、或いは番頭への昇進…」
岩本喜内はそれを匂わせるや、幸田友之助も、
「あっという間に…」
陥落したものであり、やはり一橋治済の「危険な遊戯」への協力を誓ったものである。
幸田友之助はその上で、今の田安家の下屋敷奉行が山口傳兵衛、辻村幸十郎、そして高橋源太左衛門の3人であり、その内、辻村幸十郎が縁者であると、岩本喜内と久田縫殿助に教えた。
即ち、幸田友之助の実弟にして西之丸小十人組頭の原田覺左衛門工紬が一人娘、つまりは幸田友之助の姪の夫である辻村平十郎久豊の父こそが、下屋敷奉行の一人、辻村幸十郎であったのだ。
幸田友之助は辻村幸十郎とは同じ田安家にて仕える縁者ということもあり、親しく付合っているとのことであった。
「されば次は辻村幸十郎にも声を掛け…、山口傳兵衛と高橋源太左衛門をも連れて参りましょうぞ…」
幸田友之助はそう提案した。
次は下屋敷奉行の辻村幸十郎と山口傳兵衛、高橋源太左衛門の3人を岩本喜内と久田縫殿助に引合わせると言うのである。
岩本喜内と久田縫殿助にとって―、誰よりも一橋治済にとって幸田友之助のその提案は、
「願ったり…」
であろう。
すると岩本喜内は次の「会合」の日時については、
「追々…」
として、持参した「菓子折」を中田左兵衛らに差出した。
中田左兵衛が一同を代表して蓋を開けると、そこには剥き出しの「切餅」が25個もぎっしりと詰められていた。
「気張ったな…」
中田左兵衛らは剥き出しの25個もの「切餅」を目の当たりにして皆、そう思った。
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