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天明3年12月3日、木下川の邊(ほとり)の鷹狩り ~木下川村の淨光寺における昼餉の騒動~ 4
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成程、大田善大夫の言分にも一理はあった。
即ち、これまで鷹狩りにおいて鳥を射止めた故に褒美を、時服を下賜される番士と言えば、通例は小姓組番士と書院番士、一人ずつ、或いはそれに新番士や小十人組番士がこれまた、各一人ずつ、といった具合であり、同じ番より、例えば小姓組番より複数、二人以上の番士が時服を下賜された例はなかった。
池田修理もそれ故に、四羽の雁のうち半分に当たる二羽もの雁を仕留めたのが新番の番士とあっては如何にも具合が悪い―、新番よりは4番組の森彌五郎定救の外に、3番組の佐野善左衛門までが見事、雁を仕留めたことにより、将軍・家治より褒美を、時服を下賜されることになり、それでは小十人組番士に悪いと考え、そこで本来、佐野善左衛門が仕留めた雁を小十人組番士が仕留めたことにし、そこで池田修理は小十人組番より、
「適当に…」
澤吉次郎の名を挙げたのではあるまいか…、均衡を考えて、とはつまりはそういうことであった。
すると池田修理も己の判断―、戦功認定に自信が持てなくなって来、大田善大夫もそうと察すると、それを良いことに、
「いや、佐野善左衛門…、見事なる腕前、流石に佐野越前守盛綱侯が嫡流だけある…」
大田善大夫は佐野善左衛門をそう持上げてみせたのであった。
大田善大夫のその「ヨイショ」は佐野善左衛門の自尊心を大いに擽るものであった。
「佐野越前守盛綱の嫡流である…」
それは佐野善左衛門にとって最大のアイデンティティであるからだ。寄る辺とも言えるであろう。
大田善大夫はその点を捉えて、もっと言えば佐野善左衛門のその「血筋」を持上げて、佐野善左衛門の弓の腕前を褒め上げてみせたものだから、佐野善左衛門が大いに自尊心を擽られたのも当然であった。
だが冷静に考えてみれば、血筋と弓矢の腕前とは何ら関連性はない。
由緒正しき血筋を誇ろうとも、弓矢の技量は、
「からっきし…」
という者は数多おり、その逆もまた然り、由緒正しき血筋は誇らずとも、弓矢の技量に秀でた者もこれまた、
「数多…」
であった。
松本岩次郎もその点を捉えて反論した。
「血筋と弓矢の技量とは何ら関係はござるまいて…」
松本岩次郎は呆れた様子でそう反論したかと思うと、
「それに…、血筋と申しても、佐野越前某なぞ、所詮は田舎侍ではござろう…、然様なる田舎侍の、それこそ黴臭い血筋が何だと申すのやら…」
そう追撃ちをかけたのであった。
松本岩次郎のその「追撃ち」は佐野善左衛門の自尊心を木端微塵、粉々にするものであった。
「今一度、申してみぃ…」
佐野善左衛門は松本岩次郎を睨み据えつつ、低い声でもって怒りのオーラを発した。
それで松本岩次郎を震え上がらせようとしたのやも知れぬが、しかし生憎と、佐野善左衛門のその様な「こけおどし」に松本岩次郎が震え上がることはなく、それどころか、
「何度でも申そう…、そこもとが誇る佐野越前某なぞ、黴臭い田舎侍に過ぎぬということよ…」
佐野善左衛門を更にそう侮辱したのであった。しかも外の番士たちの面前にて、謂わば、
「満座にて…」
佐野善左衛門を侮辱したのであった。
もし佐野善左衛門がこのまま黙ってこの場をやり過ごせば、
「臆病者…」
外の番士たちからその「レッテル」を貼られることとなり、それは番士にとっては正に、万死に値する。
佐野善左衛門が咄嗟に、それも、
「条件反射的に…」
刀の柄に手をやったのも、番士としては至極、当然のことであった。
それに対して、松本岩次郎もまた、刀の柄に手をやり、これもまた、
「至極、当然…」
であった。
これで―、佐野善左衛門に今にも斬られるやも知れぬと、それを怖れて前言撤回、これまでの佐野善左衛門に対する侮辱を詫びる様では、今度は逆に松本岩次郎が、
「臆病者…」
その「レッテル」を貼られることになるからだ。
斯して、佐野善左衛門と松本岩次郎は双方、刀の柄に手をやり、今にも斬り合いを演じようとしていたところに将軍・家治が意知や松平康郷たちを随えて駆け付けたということらしかった。
小納戸頭取の稲葉正存の話によればつまりはそういうことであった。
稲葉正存も外の番士たち―、小姓組番、書院番の両番頭や新番頭、小十人頭とその配下の組頭や番士たちと共に境内にて青空の下、昼餉を摂っていた為に、佐野善左衛門と松本岩次郎の諍い、否、斬り合い一歩手前の一部始終を目撃していたのだ。
稲葉正存は一橋治済と意を通ずる御側御用取次の稲葉正明の縁者、分家筋に当たり、それ故、稲葉正存は小納戸頭取という、中奥においては御側御用取次に次ぐ要職にあり乍、将軍・家治の食事には一切、関与させては貰えなかった。
それは今の様な鷹狩りでの昼餉においてもそうであった。
無論、鷹狩りには参加させて貰えるものの、昼餉においては将軍・家治の食する昼餉の毒見は元より、給仕や配膳に至るまで関与させて貰えなかったのだ。
家治は家基の件以来、まずは側近である、それも将軍たる己の食事に関与する可能性のある小納戸頭取や小姓頭取、小姓や小納戸に至る全ての「家系」を洗出し、
「僅かでも…」
一橋治済との「所縁」が見受けられようものなら、食事に関しては排除した。
稲葉正存もそうして将軍・家治に「排除」された一人であり、それ故、今の様に鷹狩りにおいて昼餉ともなると、外の表向の番士たちと昼餉を共にするしかなく、将軍・家治の昼餉に関しては一切、関与出来なかった。
否、それ故に、稲葉正存は佐野善左衛門と松本岩次郎の斯かる「諍い」の一部始終を目撃する機会に恵まれたとも言える。
即ち、これまで鷹狩りにおいて鳥を射止めた故に褒美を、時服を下賜される番士と言えば、通例は小姓組番士と書院番士、一人ずつ、或いはそれに新番士や小十人組番士がこれまた、各一人ずつ、といった具合であり、同じ番より、例えば小姓組番より複数、二人以上の番士が時服を下賜された例はなかった。
池田修理もそれ故に、四羽の雁のうち半分に当たる二羽もの雁を仕留めたのが新番の番士とあっては如何にも具合が悪い―、新番よりは4番組の森彌五郎定救の外に、3番組の佐野善左衛門までが見事、雁を仕留めたことにより、将軍・家治より褒美を、時服を下賜されることになり、それでは小十人組番士に悪いと考え、そこで本来、佐野善左衛門が仕留めた雁を小十人組番士が仕留めたことにし、そこで池田修理は小十人組番より、
「適当に…」
澤吉次郎の名を挙げたのではあるまいか…、均衡を考えて、とはつまりはそういうことであった。
すると池田修理も己の判断―、戦功認定に自信が持てなくなって来、大田善大夫もそうと察すると、それを良いことに、
「いや、佐野善左衛門…、見事なる腕前、流石に佐野越前守盛綱侯が嫡流だけある…」
大田善大夫は佐野善左衛門をそう持上げてみせたのであった。
大田善大夫のその「ヨイショ」は佐野善左衛門の自尊心を大いに擽るものであった。
「佐野越前守盛綱の嫡流である…」
それは佐野善左衛門にとって最大のアイデンティティであるからだ。寄る辺とも言えるであろう。
大田善大夫はその点を捉えて、もっと言えば佐野善左衛門のその「血筋」を持上げて、佐野善左衛門の弓の腕前を褒め上げてみせたものだから、佐野善左衛門が大いに自尊心を擽られたのも当然であった。
だが冷静に考えてみれば、血筋と弓矢の腕前とは何ら関連性はない。
由緒正しき血筋を誇ろうとも、弓矢の技量は、
「からっきし…」
という者は数多おり、その逆もまた然り、由緒正しき血筋は誇らずとも、弓矢の技量に秀でた者もこれまた、
「数多…」
であった。
松本岩次郎もその点を捉えて反論した。
「血筋と弓矢の技量とは何ら関係はござるまいて…」
松本岩次郎は呆れた様子でそう反論したかと思うと、
「それに…、血筋と申しても、佐野越前某なぞ、所詮は田舎侍ではござろう…、然様なる田舎侍の、それこそ黴臭い血筋が何だと申すのやら…」
そう追撃ちをかけたのであった。
松本岩次郎のその「追撃ち」は佐野善左衛門の自尊心を木端微塵、粉々にするものであった。
「今一度、申してみぃ…」
佐野善左衛門は松本岩次郎を睨み据えつつ、低い声でもって怒りのオーラを発した。
それで松本岩次郎を震え上がらせようとしたのやも知れぬが、しかし生憎と、佐野善左衛門のその様な「こけおどし」に松本岩次郎が震え上がることはなく、それどころか、
「何度でも申そう…、そこもとが誇る佐野越前某なぞ、黴臭い田舎侍に過ぎぬということよ…」
佐野善左衛門を更にそう侮辱したのであった。しかも外の番士たちの面前にて、謂わば、
「満座にて…」
佐野善左衛門を侮辱したのであった。
もし佐野善左衛門がこのまま黙ってこの場をやり過ごせば、
「臆病者…」
外の番士たちからその「レッテル」を貼られることとなり、それは番士にとっては正に、万死に値する。
佐野善左衛門が咄嗟に、それも、
「条件反射的に…」
刀の柄に手をやったのも、番士としては至極、当然のことであった。
それに対して、松本岩次郎もまた、刀の柄に手をやり、これもまた、
「至極、当然…」
であった。
これで―、佐野善左衛門に今にも斬られるやも知れぬと、それを怖れて前言撤回、これまでの佐野善左衛門に対する侮辱を詫びる様では、今度は逆に松本岩次郎が、
「臆病者…」
その「レッテル」を貼られることになるからだ。
斯して、佐野善左衛門と松本岩次郎は双方、刀の柄に手をやり、今にも斬り合いを演じようとしていたところに将軍・家治が意知や松平康郷たちを随えて駆け付けたということらしかった。
小納戸頭取の稲葉正存の話によればつまりはそういうことであった。
稲葉正存も外の番士たち―、小姓組番、書院番の両番頭や新番頭、小十人頭とその配下の組頭や番士たちと共に境内にて青空の下、昼餉を摂っていた為に、佐野善左衛門と松本岩次郎の諍い、否、斬り合い一歩手前の一部始終を目撃していたのだ。
稲葉正存は一橋治済と意を通ずる御側御用取次の稲葉正明の縁者、分家筋に当たり、それ故、稲葉正存は小納戸頭取という、中奥においては御側御用取次に次ぐ要職にあり乍、将軍・家治の食事には一切、関与させては貰えなかった。
それは今の様な鷹狩りでの昼餉においてもそうであった。
無論、鷹狩りには参加させて貰えるものの、昼餉においては将軍・家治の食する昼餉の毒見は元より、給仕や配膳に至るまで関与させて貰えなかったのだ。
家治は家基の件以来、まずは側近である、それも将軍たる己の食事に関与する可能性のある小納戸頭取や小姓頭取、小姓や小納戸に至る全ての「家系」を洗出し、
「僅かでも…」
一橋治済との「所縁」が見受けられようものなら、食事に関しては排除した。
稲葉正存もそうして将軍・家治に「排除」された一人であり、それ故、今の様に鷹狩りにおいて昼餉ともなると、外の表向の番士たちと昼餉を共にするしかなく、将軍・家治の昼餉に関しては一切、関与出来なかった。
否、それ故に、稲葉正存は佐野善左衛門と松本岩次郎の斯かる「諍い」の一部始終を目撃する機会に恵まれたとも言える。
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