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天明3年12月13日の「密会」 序章 ~松平定信、一橋治済に気づかれぬよう蠣殻町にある清水家の下屋敷へと潜入す 後篇~

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 定信さだのぶ船着場ふなつきばへとつうずるかくとびらみずから、

「そっと…」

 なるべくおとてないようけ、そしておなようとびらめた。

 それから定信さだのぶはゆっくりと船着場ふなつきばへとすすんだ。

 船着場ふなつきばにはすでふねが、屋形船やかたぶね一艘いっそう接岸せつがんしており、定信さだのぶ近付ちかづくにつれ、なかから一人ひとり身形みなり武士ぶし姿すがたせた。清水家老しみずかろう本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただである。

 定信さだのぶ本多ほんだ昌忠まさただかお見知みしっており、すなわち、

間違まちがいなく、清水家老しみずかろうである…」

 そう認識にんしきしていたので、安心あんしんして屋形船やかたぶねへと乗込のりこめる。

 だがこれがおなじく清水家老しみずかろうでも吉川よしかわ攝津守せっつのかみ從弼よりすけだとそうはいかない。

 それと言うのも定信さだのぶ吉川從弼よしかわよりすけかおらないからだ。

 それゆえ定信さだのぶとしても屋形船やかたぶねなかから吉川從弼よしかわよりすけ姿すがたせても本多ほんだ昌忠まさただときように、

安心あんしんして…」

 屋形船やかたぶねには乗込のりこめない。

 定信さだのぶにしてみれば吉川從弼よしかわよりすけかおらない以上いじょう吉川從弼よしかわよりすけが、

たしかに清水家老しみずかろうである…」

 その確証かくしょうてなかったからだ。それどころか、

あるいは清水家老しみずかろう吉川從弼よしかわよりすけしょうする一橋ひとつばししんやもれぬ…」

 定信さだのぶをそのようにもうたがわせた。

 そこで本多ほんだ昌忠まさただみずか定信さだのぶ出迎でむかえることとし、それこそが今日きょうの「平日登城へいじつとじょう」を相役あいやく吉川從弼よしかわよりすけわってもらった理由りゆうであった。

 船着場ふなつきばいた定信さだのぶ本多ほんだ昌忠まさただいざなわれ、屋形船やかたぶねへと乗込のりこんだ。

 それから定信さだのぶ屋形やかたなかはいり、定信さだのぶつづいてはいった本多ほんだ昌忠まさただかいった。

 本多ほんだ昌忠まさただ定信さだのぶかいうなり、

本日ほんじつはどうも…」

 招待しょうたいおうじてくれて感謝かんしゃすると、その意味いみ定信さだのぶ平伏へいふくしてせた。

「あっ、いや、手前てまえこそ宮内卿様くないきょうさままねきにあずかり…」

 定信さだのぶはそう謝意しゃいくちにして昌忠まさただあたまげるよううながした。

 感謝かんしゃというてんでは定信さだのぶこそ宮内卿様くないきょうさまこと清水しみず重好しげよし感謝かんしゃせねばならなかったからだ。

 なにしろ重好しげよし将軍しょうぐん家治いえはる定信さだのぶとの「面会めんかい」を用意セッティングしてくれたからだ。

「ときに…、吉川殿よしかわどのまいられるのであろうな?」

 定信さだのぶ昌忠まさただあたまげさせるや、そうたずねた。

 これからしばらくのあいだであろうが、将軍しょうぐん家治いえはる鷹狩たかがりのたびに、定信さだのぶ家治いえはる予定よていであった。

 家治いえはる鷹狩たかがりの帰途きと清水家しみずけ下屋敷しもやしき立寄たちより、そこで定信さだのぶとも予定よていであるが、そのさい定信さだのぶ清水家老しみずかろうむかえられて、それもいまように、

一橋ひとつばし治済はるさだ気付きづかれぬようひそかに…」

 ふねむかえられて清水家しみずけ下屋敷しもやしきりをたすという、これまた手筈てはずになっていた。

 だがそのさい毎回まいかい本多ほんだ昌忠まさただ定信さだのぶむかえにおとずれるわけにはまいらぬ。

 いや、そのが―、家治いえはる鷹狩たかがりの毎回まいかい本多ほんだ昌忠まさただ清水屋形しみずやかたにて留守るすあずかるでもあるならば、それもいだろう。

 だが実際じっさいにはそう都合つごうくはいかないだろう。

 今日きょうよう本来ほんらい本多ほんだ昌忠まさただが「平日登城へいじつとじょう」の当番とうばんすなわち、吉川從弼よしかわよりすけ留守るすあずかる当番とうばんであるその家治いえはる鷹狩たかがりがおこなわれる可能性かのうせいもありた。

 そのときふたたび「風邪かぜ」という格好かっこう仮病けびょうもちいて「平日登城へいじつとじょう」を吉川從弼よしかわよりすけへとわってもらようなことがあれば、一橋ひとつばし家老かろうもとより、田安家老たやすかろうという地位ちい安住あんじゅうし、「まご自慢じまん」が唯一ゆいいつたのしみの戸川とがわ逵和みちともからもうたがわれるであろう。

 そこで吉川從弼よしかわよりすけにも定信さだのぶむかえにおとずれる、その「当番とうばん」をたしてもらわねばならず、しかし定信さだのぶいま、この段階だんかいでは吉川從弼よしかわよりすけかおらないので、そこで今日きょう家治いえはるとの「密会みっかい」の吉川從弼よしかわよりすけ陪席ばいせきさせる手筈てはずとなっていた。

 家治いえはる定信さだのぶとの「密会みっかい」の吉川從弼よしかわよりすけ陪席ばいせきさせることで、定信さだのぶ吉川從弼よりかわよりすけかおしか把握はあくさせるためであった。

 そうすれば定信さだのぶとしては今度こんど吉川從弼よしかわよりすけむかえにおとずれても、つまりは吉川從弼よしかわよりすけ仕立したてたふねにも安心あんしんして乗込のりこめるというものであった。

 かくして定信さだのぶ昌忠まさただたいして、吉川從弼よしかわよりすけるのだろうなと、そうたしかめたわけで、それにたいして昌忠まさただも「御意ぎょい」と首肯しゅこうした。

 定信さだのぶ昌忠まさただせた屋形船やかたぶねはそれからゆっくりと蠣殻町かきがらちょうにある清水家しみずけ下屋敷しもやしき目指めざして、それも川辺かわべめんした「清水しみず大奥おおおく」を目指めざしてすすんだ。

 そうして屋形船やかたぶねが「清水しみず大奥おおおく」へとつうずる船着場ふなつきばいたのはひるの九つ半(午後1時頃)であった。

 船着場ふなつきばにはおんな姿すがたがあった。清水家しみずけ大奥おおおく中年寄ちゅうどしより富江とみえであった。

 清水家しみずけ上屋敷かみやしき大奥おおおく差配さはいするのが上臈じょうろう年寄どしより薗橋そのはしならば、下屋敷しみゃしき大奥おおおく差配さはいするのがこの富江とみえであった。

 その富江とみえみずか定信さだのぶを、それに昌忠まさただをも出迎でむかえたのは、富江とみえ案内あんないがなければ如何いか定信さだのぶいえど大奥おおおくには、「清水しみず大奥おおおく」にはあしれることが出来できないからだ。

 さて、定信さだのぶ昌忠まさただともに「清水しみず大奥おおおく」へとあしれると、そこには3人のおんなたちがいた。

 大奥おおおく所謂いわゆる、「おんなその」であるので、おんながいても別段べつだん不自然ふしぜんではない、いや、むしろそれが自然しぜんであった。

 だがいま定信さだのぶにとってはおんな存在そんざいきわめて危険リスキーと言えた。

「このおんなたちのくちから、このおれ存在そんざいが…、ひそかに清水しみず大奥おおおく潜入せんにゅうしたことが一橋ひとつばし治済はるさだへとつたわるのではあるまいか…」

 定信さだのぶはズバリ、それをおそれていたのだ。

 すると富江とみえ定信さだのぶ彼女かのじょたち3人の女中じょちゅうける視線しせんからそうとさっしたらしく、

「さればものたちはみな一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまとはなん所縁ゆかりもなく…」

 一橋ひとつばし治済はるさだ定信さだのぶのことが「筒抜つつぬけになる心配しんぱいはないと、定信さだのぶにそう「保証ほしょう」した。

 どうやら富江とみえもまた、今日きょうの「密会みっかい」の趣旨しゅしについては心得こころえているらしい。

 富江とみえはそのうえ彼女かのじょたち3人の女中じょちゅうについて、こと「身許みもと」のたしかさについて、定信さだのぶ説明せつめい紹介しょうかいした。

 すなわち、3人の女中じょちゅうのうち2人は富江とみえめいであった。

 富江とみえ清水しみず重好しげよし近習きんじゅうばんとしてつかえる人見ひとみ甚四郎じんしろう思義かねよし実妹じつまいであり、あに甚四郎じんしろうとも長年ながねん清水しみずやかたにて、それも上屋敷かみやしき大奥おおおくにてつかえ、いまでは下屋敷しもやしき大奥おおおく差配さはいする中年寄ちゅうどしよりにまで昇進しょうしんげた。

 そのかん富江とみえ一橋ひとつばし治済はるさだとはいささかも所縁ゆかりつくらず、それはあに人見ひとみ甚四郎じんしろうにしても同様どうようで、甚四郎じんしろう妻女さいじょとのあいだにもうけた二人ふたりむすめ美代みよ知香ちか清水しみず大奥おおおくにてつかえさせており、その美代みよ知香ちかこそがいま定信さだのぶまえひかえる3人の女中じょちゅうのうちの2人であった。

 そしてのこる1人だが、松江まつえなる女中じょちゅうであり、鷹匠たかじょうとして将軍しょうぐん家治いえはるつかえる伊藤いとう十右衛門じゅうえもん政満まさみつ叔母おばであり、伊藤いとう十右衛門じゅうえもん実弟じってい―、伊藤いとう十右衛門じゅうえもんとも松江まつえにとってはもう一人ひとりおいたる伊藤いとう四郎左衛門しろうざえもん政定まささだ清水家臣しみずかしん、それも鷹匠たかじょう家系かけい相応ふさわしく鷹匠たかじょうとして重好しげよし側近そばちかくにつかえていた。

 それゆえ、この松江まつえもまた、おいである伊藤いとう四郎左衛門しろうざえもん共々ともども

露程つゆほども…」

 一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかりはないと断言だんげん出来できた。

 いや松江まつえ場合ばあいはそれどころか、田安たやすとの所縁ゆかりがあるほどであり、なん定信さだのぶもっと信頼しんらいする侍女じじょのうちの一人ひとり杉江すぎえ実妹じつまいであったのだ。

 かつては田安たやすやかたにて「賢丸まさまる」と名乗なのっていた定信さだのぶ養育よういくがかりつとめた杉江すぎえ実妹じつまいこそが松江まつえであったのだ。

 杉江すぎえはそれゆえに、やはり賢丸まさまるもとい定信さだのぶ養育よういくがかりつとめた美和みわ瀧江たきえともに、白河しらかわ松平家まつだいらけ養嗣子ようししとしてむかえられた定信さだのぶ付随つきしたが格好かっこう白河しらかわ松平家まつだいらけへと、その上屋敷かみやしき大奥おおおくへとはいり、いまでは築地つきじ木挽町こびきちょうにある下屋敷しもやしき大奥おおおくにて定信さだのぶの「許婚いいなずけ」である隼姫はやひめつかえていたわけだ。

 定信さだのぶはその杉江すぎえ実妹じつまい松江まつえであると、富江とみえよりそうかされて、心底しんそこおどろいた。

「いや…、世間せけんとはじつせまいものよ…」

 定信さだのぶはしみじみとそう実感じっかんさせられると同時どうじに、それなればと、

杉江すぎえもまた、美代みよ知香ちかおなじく、いや、それ以上いじょう一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかり皆無かいむであろう…」

 そう安心あんしんさせられもした。

「さればわたくしめはいったん上屋敷かみやしきへともどりまする…」

 富江とみえはそうげ、定信さだのぶくびかしげさせた。

「そはまた何故なにゆえに?」

 定信さだのぶ富江とみえたずねた。

無論むろんあるじ宮内卿様くないきょうさま簾中れんじゅうさま…、貞子ていしさま御二人おふたりむか申上もうしあげるべく…」

 富江とみえはそうこたえると、重好しげよし下屋敷しもやしきおとずれるさいにはかならずと言ってほどに、妻女さいじょ貞子ていしを「同伴どうはん」することを定信さだのぶ打明うちあけた。

 重好しげよしもまた定信さだのぶおとらずの「愛妻家あいさいか」であり、息抜いきぬきのため上屋敷かみやしき下屋敷しもやしきへとまいおりにはかならふねを、それも定信さだのぶ乗船じょうせんしたよう屋形船やかたぶね使つかうそうな。

 そのさい重好しげよしはこれまた、

かならず…」

 妻女さいじょ貞子ていしともなうそうな。

 貞子ていし重好しげよしとはちがい、平日へいじつ自由じゆう御城えどじょうへと登城とじょう出来できではない。日々ひび大半たいはん清水しみず上屋敷かみやしき大奥おおおくにてらさなければならず、その意味いみ貞子ていし完全かんぜんに、

かごとり…」

 そう表現ひょうげん出来できた。

 重好しげよし貞子ていしおっととして、貞子ていしのそのような「うえ」は勿論もちろん承知しょうちしており、それと同時どうじにそのような「うえ」におおいにあわれみもした。

 そこで重好しげよし貞子ていしなぐさめる意味いみもあり、息抜いきぬきとしょうしては貞子ていしれて上屋敷かみやしき屋形船やかたぶね下屋敷しもやしきへとまいるのだ。

 そうすることで貞子ていしにはすこしでも「そと空気くうき」をわせられるからだ。

 実際じっさいかわかぜ貞子ていしこころおおいにたした。

 こうして重好しげよし息抜いきぬきとしょうして下屋敷しもやしきへとまいさいにはつね妻女さいじょ貞子ていしともない、屋形船やかたぶね仕立したててまいわけだが、そのため屋形船やかたぶね接岸せつがんさせる船着場ふなつきばすべ大奥おおおくめんしていた。

 清水家しみずけにはここ蠣殻町かきがらちょうにある下屋敷しもやしきほかにも芝海手しばうみて下戸塚しもとつか夫々それぞれ下屋敷しもやしきあてがわれていた。

 重好しげよしはその芝海手しばうみて下戸塚しもとつか双方そうほう下屋敷しもやしきにも妻女さいじょ貞子ていしれてまいることがあるので、双方そうほう下屋敷しもやしきもまた、ここ蠣殻町かきがらちょうにある下屋敷しもやしき同様どうよう表向おもてむき大奥おおおくとにかれていた。

 下屋敷しもやしきにて重好しげよし貞子ていしとも休息きゅうそくするさいおとこのいる表向おもてむき貞子ていしわけにはゆかず、重好しげよし指図さしずにより、表向おもてむき大奥おおおくとに仕切しきらせたのであった。

 そして重好しげよしの「指図さしず」はこれだけにとどまらず、芝海手しばうみて下戸塚しもとつか双方そうほう下屋敷しもやしきはこれまた、

「ここ蠣殻町かきがらちょうにある下屋敷しもやしき同様どうよう…」

 屋形船やかたぶね接岸せつがんさせる船着場ふなつきば大奥おおおくめんさせたのであった。

 貞子ていしが、そしてそのおっと重好しげよしにしてもそうだが、下船げせん、「おんなその」である大奥おおおくへと直行ちょっこう出来できようにとの、重好しげよし配慮はいりょからであり、ここにも重好しげよし愛妻あいさいぶりがれた。

「さればそのよう宮内卿様くないきょうさま今日きょうかぎり、簾中れんじゅうさまをおれあそばされずに御一人おひとりにて下屋敷しもやしきへと、おはこびあそばされましては、家中かちゅううたがものがあるやもれず…」

 重好しげよしの「真意しんい」をうたが家臣かしんがいるかもれない―、富江とみえのその言葉ことばはひいては清水家臣しみずかしんなかにも、

一橋ひとつばし治済はるさだいきがかかっているものまぎんでいるやもれず…」

 そのものくちから一橋ひとつばし治済はるさだへとつたわるやもれぬと、それをも示唆しさするものであった。

 定信さだのぶもその示唆しさするところに気付きづくと、「よもや…」とそのてん富江とみえただした。

 すると富江とみえは「残念ざんねんながら…」と切出きりだすと、

「されば…、たとえば徒頭かちがしら小栗おぐり殿どのは…、小栗おぐり太郎左衛門たろうざえもん正長まさなが実弟じってい一橋ひとつばし家臣かしん養嗣子ようししにて…、それに小十人こじゅうにんがしら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん盛宣もりよしおいにして、おそおおくも上様うえさま側近そばちかくに小納戸こなんどとしてつかたてまつりし黒川くろかわ内匠たくみ殿どの妻女さいじょはかの、岩本いわもと内膳正ないぜんのかみ殿どのむすめにて…」

 一橋ひとつばし所縁ゆかりのある家臣かしんげたのであった。

「さればものたちより…」

 今日きょうかぎって重好しげよし何故なぜ一人ひとり下屋敷しもやしきへとあしはこんだ…、そのことが一橋ひとつばし治済はるさだへとつたわるやもれぬと、富江とみえ定信さだのぶ示唆しさしたのであった。

 これには定信さだのぶおもわずうならされた。

徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらもうさば、主君しゅくん御守おまももうすのが職掌しょくしょうではござるまいか…」

 それゆえ主君しゅくんが、この場合ばあい重好しげよし外出がいしゅつするともなると、当然とうぜん徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら重好しげよしの「SP」として扈従こしょうすることになる。

 そして、いつもは妻女さいじょ貞子ていしれて下屋敷しもやしきへとまい主君しゅくん重好しげよしが、今日きょうかぎって貞子ていしれずに下屋敷しもやしきへとまいったとなれば、成程なるほど主君しゅくん重好しげよしの「SP」である徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらはそれを疑問ぎもんおもうであろうし、それが一橋ひとつばし治済はるさだいきがかかっているものともなれば尚更なおさらであろう。そのうえかならずや一橋ひとつばし治済はるさだへと「ご注進ちゅうしん」におよぶにちがいない。

 定信さだのぶはそのてん指摘してきすると、富江とみえうなずいた。

「されば宮内卿様くないきょうさま簾中れんじゅうさまとも屋形船やかたぶねにて下屋敷しもやしきへと、おはこびあそばされまするおりには、徒頭かちがしらにしろ小十人こじゅうにんがしらにしろ、流石さすが遠慮えんりょ申付もうしつけられ…」

 富江とみえがそうげると、定信さだのぶもそれはそうだろうとおもった。

 これで重好しげよし一人ひとり外出がいしゅつするならば、徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらが「SP」として扈従こしょうすることになる。

 だがそこに簾中れんじゅう―、妻女さいじょ貞子ていしがいるとなればはなしべつである。

 徒頭かちがしらにしろ小十人こじゅうにんがしらにしろ表向おもてむき役人やくにんであるので「SP」として警護けいごして差上さしあげられるのはおとこである主君しゅくん重好しげよしのみであり、その妻女さいじょおんなである貞子ていしまで「SP」として警護けいごして差上さしあげる権限けんげんはなかった。

 いや主君しゅくん重好しげよし徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら妻女さいじょ貞子ていしをも警備けいびすることを、つまりは扈従こしょうゆるせばはなしべつだが、そうでないかぎり、主君しゅくん重好しげよし妻女さいじょ貞子ていし外出がいしゅつさいして、徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらがそれこそ、

ってはいる…」

 そのよう格好かっこ扈従こしょうするわけにはゆかなかった。

 そして徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらなか一橋ひとつばし治済はるさだいきのかかっているものふくまれている可能性かのうせいがある以上いじょう重好しげよし彼等かれら扈従こしょうゆるすともおもえなかった。

 もっとも、だからと言って重好しげよし貞子夫妻ていしふさい外出がいしゅつするさいだれ扈従こしょうしないというわけでは勿論もちろんない。

 なにしろ天下てんが将軍家しょうぐんけである三卿さんきょうたる清水しみず重好しげよしとその妻女さいじょ貞子ていしである。二人ふたりだけで外出がいしゅつさせるなど、そのよう無用心ぶようじんきわまりないことはさせられまい。

「されば普段ふだんは…、宮内卿様くないきょうさま簾中れんじゅうさま下屋敷しもやしきへと、おはこびになられるさいには廣敷用人ひろしきようにん扈従こしょうを?」

 定信さだのぶ富江とみえにそうたずねた。

 成程なるほど定信さだのぶがそうかんがえるのは自然しぜんであった。

 三卿さんきょう大奥おおおくにては男子だんし役人やくにんである、それも役方やくかた文官ぶんかん廣敷用人ひろしきようにん番方ばんかた武官ぶかんである廣敷ひろしき番頭ばんがしらをもねていた。

 それゆえ簾中れんじゅうさま―、三卿さんきょう正室せいしつ外出がいしゅつするともなると、この廣敷用人ひろしきようにんが「SP」として、すなわち、廣敷ひろしき番頭ばんがしらとして簾中れんじゅうさま御守おまも申上もうしあげるべく扈従こしょうすることになる。

 定信さだのぶかつては三卿さんきょう田安たやすにてらしていたので、そのあたりの事情じじょうにはつうじており、それゆえにそうたずねたわけだが、しかし、富江とみえあん相違そういしてかぶりった。

「されば普段ふだん側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん殿どのか、用人ようにん大久保おおくぼ半之助はんのすけ殿どの扈従こしょう相勤あいつとめまする…」

 富江とみえのそのこたえに定信さだのぶくびかしげた。

当家とうけにも廣敷用人ひろしきようにんはおられよう?」

 定信さだのぶのそのいにたいして富江とみえも「左様さよう…」とまずは首肯しゅこうし、そのうえで、

「されば簾中れんじゅう様附さまづき廣敷用人ひろしきようにんとして小早川甚五郎こばやかわじんごろう上野うえの郷右衛門ごうえもんがおりまするが、なれど…」

 そうつづけたものだから、定信さだのぶも「よもや…」とおうじて富江とみえを、そのとおりだと言わんばかりにうなずかせた。

「よもや…、その二人ふたりまでもが一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさま所縁ゆかりが?」

左様さよう…、されば小早川甚五郎こばやかわじんごろうむすめ小姓こしょう組番ぐみばんであられた加藤かとう傳右衛門でんえもん殿どの養女ようじょとしてそだてられ…、この加藤かとう傳右衛門でんえもん殿どの同時どうじ養嗣子ようししとして、横尾よこお六右衛門ろくえもん殿どの三男さんなんむかえられ…」

「よこお…」

 定信さだのぶはその苗字みょうじには聞覚ききおぼえがあった。

左様さよう…、さればかつて、一橋ひとつばしにて用人ようにん相勤あいつとめし横尾よこお六右衛門ろくえもん昭平殿てるひらどのにて…」

 富江とみえ説明せつめいけて、定信さだのぶも「ああ…」とおもした。

 いや、これでたとえば松平まつだいらだの、酒井さかいだの、内藤ないとうだのと、ありふれた苗字みょうじであれば定信さだのぶもその存在そんざい意識いしきしていなかったであろう。

 だが「横尾よこお」なるめずらしい苗字みょうじかげ定信さだのぶ記憶きおく片隅かたすみとどめていたのだ。

「つまり…、小早川甚五郎こばやかわじんごろうむすめ一橋ひとつばし家臣かしんせがれともに、加藤かとうなる小姓こしょう組番ぐみばん手許てもとそだてられたと?」

 定信さだのぶがそうまとめたので、富江とみえうなずき、

「それゆえ小早川甚五郎こばやかわじんごろう一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまとは所縁ゆかりがあるやもれず…」

 重好しげよしもそのてんにかかり、妻女さいじょ貞子ていしとの外出がいしゅつ小早川甚五郎こばやかわじんごろうには扈従こしょうおおけられないのだそうな。

 そしておなじことは上野うえの郷右衛門ごうえもんこと郷右衛門ごうえもん猷景のりかげおい―、実兄じっけいにして小十人こじゅうにん組頭くみがしら上野うえの左大夫さだゆう資郷すけさと嫡子ちゃくし四郎三郎しろさぶろう資善すけたか一橋ひとつばし家臣かしん成田なりた喜太郎きたろう政永まさながむすめめとっており、それゆえ、この上野うえの郷右衛門ごうえもんにしてもやはり、一橋ひとつばし治済はるさだ所縁ゆかりがあり、

一橋ひとつばし治済はるさだいきがかかっている…」

 その危険性リスクかんがえられた。

成程なるほど…、それにしてもからぬのは何故なにゆえ宮内卿様くないきょうさま態々わざわざ一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさま所縁ゆかりもの徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらあるいは廣敷用人ひろしきようにんに、お取立とりたてあそばされたので?貴殿きでんがこの定信さだのぶたいして斯様かよう彼等かれら身許みもとを…、一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまとの所縁ゆかりについて一々いちいち説明せつめいもうされたからには宮内卿様くないきょうさま当然とうぜん、そのことは把握はあくあそばされておるのであろう?」

左様さよう…、いえ、いて申上もうしあげれば順序じゅんじょぎゃくにて…」

順序じゅんじょぎゃくとは?」

「されば…、宮内卿様くないきょうさま彼等かれら徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら廣敷用人ひろしきようにんへと、お取立とりたてあそばされたおりにはまだ、一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまとの所縁ゆかりはなく…」

「まさか…、宮内卿様くないきょうさま彼等かれら徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら廣敷用人ひろしきようにんへと…、それこそ宮内卿様くないきょうさま簾中れんじゅうさま側近そばちかくにつかえし役職やくしょくへと取立とりたてたあとに、一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまおのれ陣営じんえい取込とりこもうと、家臣かしんを…、一橋ひとつばし家臣かしんかいして所縁ゆかりつむいだと?」

一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまむねのうちまではこの富江とみえにも…、そして宮内卿様くないきょうさまにもかりかねまするが、なれどその可能性かのうせいきにしもあらず…」

「そこで宮内卿様くないきょうさま簾中れんじゅうさま外出がいしゅつ…、下屋敷しもやしきへと、おはこびあそばされるさいには用心ようじんために、廣敷用人ひろしきようにんには…、小早川甚五郎こばやかわじんごろう上野うえの郷右衛門ごうえもんには扈従こしょうおおけられず、そこで側用人そばようにん用人ようにん扈従こしょうを?」

左様さよう…、されば側用人そばようにん本目ほんめ殿どの用人ようにん大久保おおくぼ殿どの一橋ひとつばしとの所縁ゆかりがなく…、ことに大久保おおくぼ殿どの主君しゅくん宮内卿様くないきょうさまたいして徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら廣敷用人ひろしきようにんそろって、その役目やくめ拝命はいめいせしのち一橋ひとつばし家臣かしん所縁ゆかりを、すなわち、一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさま所縁ゆかりちたることを、上申じょうしんなされ…」

成程なるほど…、大久保おおくぼなる用人ようにん調しらべたることであったか…」

左様さよう…、されば宮内卿くないきょうさま大久保おおくぼ殿どのと、それに側用人そばようにん本目ほんめ殿どのには安心あんしんして扈従こしょうおおけられると…」

「さもろう…、それが今日きょうかぎって宮内卿様くないきょうさま御一人おひとりにて下屋敷しもやしきへと、おはこびあそばされるようなことがあらば、かる一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさま所縁ゆかりのある徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら扈従こしょうすることになりかねず…、なにしろそれが徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら職掌しょくしょうなれば、宮内卿様くないきょうさまとて彼等かれら扈従こしょうことわることは中々なかなかむずかしく、そこでいつもどおり…、一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまとはなん所縁ゆかりのない側用人そばようにん用人ようにん扈従こしょうさせるべく、簾中れんじゅうさまともにこの下屋敷しもやしきへと、おはこびになられると…」

左様さよう…、いえ、それにこの富江とみえも…」

「おお、左様さようでござったな…、いや、上臈じょうろう薗橋殿そのはしどのがおられるとうかがったが?」

如何いかにも…、なれど薗橋殿そのはしどの此度こたび密会みっかい趣旨しゅしについては呑込のみこんではおりませなんだ…」

 薗橋そのはし清水家しみずけ上臈じょうろうとして、中年寄ちゅうどしよりおのれよりもかくたかいが、しかし、実務じつむにはつうじておらず、それゆえ清水家しみずけ大奥おおおく事実上じじつじょう取仕切とりしきっているのは中年寄ちゅうどしよりたるこのおのれである…、富江とみえいまのその言葉ことばにはそのような「自負心じふしん」がかくれしていた。

 こうして富江とみえは「大奥おおおく」に定信さだのぶたちをのこして、定信さだのぶとそれに清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただ乗船じょうせんした屋形船やかたぶね清水家しみずけ上屋敷かみやしきへと、その大奥おおおくへとかった。上屋敷かみやしき大奥おおおくもまた、川辺かわべめんしていたからだ。
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