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松平定信に扮した一橋治済は更に佐野善左衛門を嗾(けしか)ける。
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「それよりも今は山城めの暗殺に注力したい…」
治済がそう告げると、久田縫殿助と岩本喜内は同時に「ははぁっ」と応じた。
「明日は15日…、されば月次御礼なれば村上半左衛門が参るであろうぞ…」
月次御礼をはじめとする式日には村上半左衛門はここから目と鼻の先にある田沼家の上屋敷を脱出し、ここ一橋屋敷に参っては、留守を預かる久田縫殿助や、或いは岩本喜内などに田沼家の内情を告口するのを「日課」としていた。
月次御礼をはじめとする式日にはいつもは交替で御城に登城する御三卿家老も二人揃って登城する。
つまりは式日においては家老は屋敷を留守にするのだ。
ここ一橋屋敷を例に取れば、式日には林忠篤と共に、
「何かと小煩い…」
水谷勝富も屋敷を留守にするという訳で、そこで村上半左衛門も水谷勝富の目を気にせずに、屋敷を訪れることが出来る。
「されば明日、村上半左衛門が参ったならば、余が帰るまで、ここ大奥にて半左衛門を足止めしておけ…」
治済は久田縫殿助と岩本喜内にそう命じた。
果たしてその翌日の12月15日、治済が予期した通り、村上半左衛門が一橋屋敷に参ったので、岩本喜内が村上半左衛門を大奥へと案内した。
そこで岩本喜内は村上半左衛門に対して、
「上様…、主君・治済が貴殿に逢いたがっているので、主君が帰るまでここで待つように…」
治済よりの言伝を託したものだから半左衛門は狂喜した。
治済が家老の林忠篤と水谷勝富と共に屋敷に帰邸したのは昼の四つ半(午前11時頃)を四半刻(約30分)も回った頃であった。
月次御礼は昼四つ(午前10時頃)を四半刻(約30分)も過ぎた頃より始まり、将軍はまずは中奥の御座之間にて御三卿との拝謁に臨む。
つまり治済にしてみれば最初に将軍に逢えるという訳だ。
いや、今はそこに次期将軍の家斉も含まれていた。治済は家治とそれに我子である家斉に逢った次第である。
治済はすると、もう用は済んだ、長居は無用とばかり下城し、そして帰邸に及んだのであった。それが昼の四つ半(午前11時頃)を四半刻(約30分)も回った頃であった。
その前に村上半左衛門がここ一橋屋敷の門を潜った訳で、家老の林忠篤は元より、水谷勝富さえも村上半左衛門の来邸は知らず、否、だからこそ林忠篤や水谷勝富、とりわけ勝富さえも足を踏み入れられぬ「大奥」にて村上半左衛門を待たせておいたのだ。
そこで治済は村上半左衛門と面会に及んだ。
村上半左衛門とは久方ぶりであった。
治済は村上半左衛門を手懐けるに際しては無論、密かにだが半左衛門と面会に及ぶこと度々であったが、ここ数年は、殊に家基を死に追いやってからは直に逢うことはなかった。
それが久方ぶりに逢った訳で、村上半左衛門が大いに喜んだのも当然であった。
何しろ大名家の陪臣の分際で御三卿に逢うなどとは、本来はあり得ないことであるからだ。
「久方ぶりよのう…、いや、この治済も半左衛門に逢おう、逢おうとはいつも思うておったのだが、中々にその機会に恵まれなくてのう…、いや、済まなんだ…」
治済は半左衛門に「無沙汰」を詫びて半左衛門を大いに恐縮させた。
「勿体無きお言葉…」
半左衛門は感動の余り、声を震わせた。
「おお、ちょうど昼餉の頃合故、湯漬でも…」
治済はそう告げると、真横の襖に向かって拍手を送った。
するとその瞬間、まるで「自動ドア」の様に襖が左右に開かれたかと思うと、これまた治済の「懐刀」とも言うべき侍女の雛が顔を覗かせた。雛は両手でもって膳を掲げており、それを半左衛門の前に置くと、足早にその場を退がり、襖は再び、「自動ドア」宜しく閉じられた。
「ささっ、遠慮なく食するが良かろう…」
半左衛門は治済にそう勧められても流石に躊躇した。勿論、毒でも入っているのではないかと、そう疑っている訳ではない。
御三卿を前にして、果たして昼餉にありついても良いものかと、それを躊躇していたのだ。
治済も半左衛門のその様な胸中は手に取る様に分かった。
それでも治済はその上で敢えて、
「なに、毒など入ってはおらぬ故、心安く食するが良かろう…」
その様な「冗談」を飛ばしてみせた。否、治済の場合は決して「冗談」には聞こえない憾みがあった。
ともあれ半左衛門は、「いえ、決して左様なことを疑い申している訳では…」と慌てた様子でそう否定してみせた。
「分かっておるわ。今のはほんの戯言に過ぎぬわ…、半左衛門がこの治済に遠慮して昼餉を食するのを躊躇うておることぐらい、この治済とて分からぬではない…、なれど真、この治済に構わず昼餉を食するが良かろう…、さっ、冷めぬうちに…」
治済にそうまで勧められては、これ以上の拝辞は却って無礼に当たるので、半左衛門は「それでは遠慮のう…」と箸を手に取った。
こうして半左衛門が昼餉に手を付けると、治済は「そうそう…」と半左衛門に声をかけた。
「食べながらで構わぬので聞いて欲しいことがあるのだが…、半左衛門は佐野善左衛門なる男に聞覚えがあるかのう…」
治済にそう声をかけられた半左衛門はそれでも一応、礼儀として箸を置くと、その名を反芻した。半左衛門には聞覚えのある名であり、やがて「ああ…」と声を上げると、
「もしや、新番士の佐野善左衛門のことにて?」
半左衛門は治済に確かめる様に尋ねた。
「左様…、やはり存じておったか…」
「はぁ…、何しろ新番士であるにもかかわらず、いきなり布衣役の、それも花形とも申すべき小普請組支配、或いは新番頭の職を望んだ者にて…」
意知にそう陳情したものだから、意知も、それに陳情を取次いだ己も流石に呆れたことがあり、それ故、その名を覚えていたと、半左衛門は治済にそう打明けた。
「して、その佐野善左衛門が如何致しましたので?」
半左衛門は治済の真意を尋ねた。
「うむ…、さればそう遠くないうちに、また佐野善左衛門を半左衛門の許へと…、否…、田沼家の上屋敷へと陳情に出向せる故、その折には半左衛門が佐野善左衛門の相手をしてやってはくれまいか…」
「相手を…、それは私めが佐野善左衛門を主君・山城に取次げと仰せにて?」
「否、その逆ぞ…」
「逆?」
「左様…、主君・山城は逢いたくはないと、左様、佐野善左衛門を冷たく、あしらって欲しいのだ…」
「そはまた、如何に…」
首を傾げる村上半左衛門に対して、治済はその「真意」を半左衛門に「耳打ち」した。
それから治済と半左衛門の「密談」は一刻(約2時間)にも及び、半左衛門は、
「例の如く…」
ここ大奥より一橋屋敷を脱出し、田沼家の上屋敷へと戻った。
それから6日後の12月21日、将軍・家治は今度は南本所新田へと鷹狩りに赴いたので、治済もその日に合わせて再び、松平定信に扮して田安家の下屋敷にて佐野善左衛門と逢った。
「本日は…、本日、上様が御放鷹に扈従せし新番組は1番組と2番組故、3番組に属せしそなたは次の御放鷹に扈従することになるのう…」
治済は善左衛門にそう語りかけた。
如何にもその通りであり、善左衛門は「御意…」と応じた。
今日の鷹狩りおいては新番よりは1番組と2番組が出動、扈従していたので、順番に従えば次の鷹狩りにおいては新番よりは3番組と4番組が扈従する予定であった。
「否…、今日はもう、師走の21日故、今年はもう、鷹狩りはないやも知れぬな…」
確かに、次の鷹狩りまでは10日以上の間があった。
「だとするならば次は来年…、と申しても、もう二週間もないがの…、正月の鷹狩始になるかのう…」
これもまた治済の言う通りであった。
正月のそれも大抵は4日に鷹狩始、つまりは将軍の今年初めての鷹狩りが催される。
今年、天明3(1783)年も正月4日に鷹狩りの「スポット」とも言うべき木下川の畔にて鷹狩始が挙行された。
そして鷹狩始は全ての番方が、つまりは大番、書院番、小姓組番、新番、小十人組番の所謂、五番方が参加することになる。
佐野善左衛門が属する新番を例に取るならば本来、扈従する3番組と4番組だけではない、5番組や6番組、更には以前に扈従したばかりの1番組や2番組も再び扈従することになる。
「されば…、鷹狩始ともなれば、いつも以上に腕が鳴ると申すものであろう?」
善左衛門は治済にそう水を向けられたので、「御意」と即答した。
一々、御尤もであった。番方…、武官である上は鷹狩り、それも大番までが参加する鷹狩始ともなれば、いつも以上に腕が鳴るというものである。
普段の鷹狩りにおいては大番が参加することは滅多にない。否、ないと断言しても良かろう。
だが鷹狩始においてはその大番までが、それも上方在番によりこの江戸を留守にしている組を除く全ての組が参加するのだ。
つまりは鷹狩始は普段の鷹狩りよりも「参加者」が多いという訳で、そんな中で活躍すれば、要は獲物を仕留められれば、将軍に己の存在をアピール、印象付けられるというもので、それはそのまま立身出世に繋がるやも知れなかった。
「また、供弓に選ばれれば良いがのう…」
治済はしみじみとした口調でそう言った。
確かに、将軍に己の存在をアピールするには供弓に選ばれるのが一番であった。
供弓として将軍の御前にて見事、獲物を仕留めて見せればこれに優るものはない。
だがそう容易く供弓に選ばれるものではない。
供弓に選ばれたいと、そう希望するのは佐野善左衛門に限らないからだ。
それどころか番士であれば誰もが皆、供弓に選ばれたいと願うであろう。供弓とはそれ程までに「花形」と言えた。
さてそこで佐野善左衛門の場合であるが、再び供弓に選ばれるかと問われれば、その可能性は限りなく低かった。否、それどころか「ゼロ」と言えよう。
何しろ前回、前々回の12月3日の木下川の畔の鷹狩りにおいて佐野善左衛門は名誉ある供弓に選ばれたにもかかわらず、将軍・家治の御前において無様な醜態を晒したからだ。
その様な佐野善左衛門が再び供弓に選ばれるとは、それも鷹狩始における供弓に選ばれるとは到底、思われなかった。
それは善左衛門自身が一番良く自覚しているところであった。
「さればどうであろうかのう…、そなたは気が進まぬであろうが、この際、山城めに挨拶をしては…」
「えっ…、御若年寄の田沼様に?」
「左様…、山城めは成程、如何にも前回、前々回の鷹狩りにおいて、そなたの手柄を横取りせし卑劣漢なれど、上様の御寵愛が篤いこともまた、紛れもなき事実にて…、さればこの際、山城めに仁義を切ってはどうかのう…」
「供弓への御推挙を賜りたい、と?左様に陳情せよと仰せられまするので?」
「うむ…、新番はそなたも存じておろうが若年寄支配なれば、供弓の選定に当たって若年寄の推挙があれば大いに役立つであろうぞ…」
確かにその通りであった。それも若年寄の中でも、
「今をときめく…」
意知の推挙があれば…、具体的には、
「3番組よりは佐野善左衛門を供弓の一人に加えてやって欲しい…」
意知よりその様な推挙が3番組になされれば、ほぼ決まりと言えよう。
「どうだな…、善は急げと申す…、今日という訳には参らぬであろうが、明日の22日にも田沼家を訪れてはどうかのう…」
「明日、でござりまするか?」
「左様…、されば山城めが對客日…、登城前に陳情客の相手をしてやる對客日は今日21日の後は25日だけだが、下城後、屋敷に帰ってから陳情客の相手をしてやる逢客に関しては、特に定めはない故にな…、否、明日はそなたは当番であったのう…」
善左衛門の明日の勤務は昼八つ(午後2時頃)から宵五つ(午後8時頃)までの当番であったかと、治済はそれを思い出すと、
「されば明日は無理だのう…」
独り言の様にそう呟いた。
確かにその通りであった。
若年寄が勤務を終えて下城するのはどんなに早くとも昼八つ(午後2時頃)であったからだ。その時、善左衛門は既に勤務に入っており、これでは下城後の意知に陳情することは不可能であった。
「されば明後日はどうかの…、今日が朝番、明日は当番ともなれば、明後日は宵番なれば…」
宵番の勤務は宵五つ(午後8時頃)から翌日の暁八つ(午前2時頃)までであり、成程、それなら下城後の意知に陳情することも可能であろう。
「成程…、されば明後日の23日にも田沼様に陳情を致しまする…」
善左衛門が素直にそう応ずると、治済も「それが良い」と応じた上で、
「さればその翌日…、24日にもその結果を聞かせてはくれまいかの…」
善左衛門にそう持掛けたのであった。
「えっ?24日に、でござりまするか?」
「左様…、23日の昼八つ(午後2時頃)か、或いは昼の八つ半(午後3時頃)に山城めに陳情を終えたそなたは宵五つ(午後8時頃)より勤めに入るであろう?そしてその翌24日の暁八つ(午前2時頃)までがそなたの勤めであろう…、さればその後でぐっすりと休んでだな、24日の左様、今時分…、昼の八つ半(午後3時頃)にまたここで逢おうではあるまいか…、陳情の結果が気になるでのう…」
「御心遣い、痛み入りまする…、されば御厚意に甘えまして、明々後日の24日の昼の八つ半(午後3時頃)にまた、ここで…」
善左衛門が素直にそう応じてくれたので、治済も満足気に頷いた。
治済がそう告げると、久田縫殿助と岩本喜内は同時に「ははぁっ」と応じた。
「明日は15日…、されば月次御礼なれば村上半左衛門が参るであろうぞ…」
月次御礼をはじめとする式日には村上半左衛門はここから目と鼻の先にある田沼家の上屋敷を脱出し、ここ一橋屋敷に参っては、留守を預かる久田縫殿助や、或いは岩本喜内などに田沼家の内情を告口するのを「日課」としていた。
月次御礼をはじめとする式日にはいつもは交替で御城に登城する御三卿家老も二人揃って登城する。
つまりは式日においては家老は屋敷を留守にするのだ。
ここ一橋屋敷を例に取れば、式日には林忠篤と共に、
「何かと小煩い…」
水谷勝富も屋敷を留守にするという訳で、そこで村上半左衛門も水谷勝富の目を気にせずに、屋敷を訪れることが出来る。
「されば明日、村上半左衛門が参ったならば、余が帰るまで、ここ大奥にて半左衛門を足止めしておけ…」
治済は久田縫殿助と岩本喜内にそう命じた。
果たしてその翌日の12月15日、治済が予期した通り、村上半左衛門が一橋屋敷に参ったので、岩本喜内が村上半左衛門を大奥へと案内した。
そこで岩本喜内は村上半左衛門に対して、
「上様…、主君・治済が貴殿に逢いたがっているので、主君が帰るまでここで待つように…」
治済よりの言伝を託したものだから半左衛門は狂喜した。
治済が家老の林忠篤と水谷勝富と共に屋敷に帰邸したのは昼の四つ半(午前11時頃)を四半刻(約30分)も回った頃であった。
月次御礼は昼四つ(午前10時頃)を四半刻(約30分)も過ぎた頃より始まり、将軍はまずは中奥の御座之間にて御三卿との拝謁に臨む。
つまり治済にしてみれば最初に将軍に逢えるという訳だ。
いや、今はそこに次期将軍の家斉も含まれていた。治済は家治とそれに我子である家斉に逢った次第である。
治済はすると、もう用は済んだ、長居は無用とばかり下城し、そして帰邸に及んだのであった。それが昼の四つ半(午前11時頃)を四半刻(約30分)も回った頃であった。
その前に村上半左衛門がここ一橋屋敷の門を潜った訳で、家老の林忠篤は元より、水谷勝富さえも村上半左衛門の来邸は知らず、否、だからこそ林忠篤や水谷勝富、とりわけ勝富さえも足を踏み入れられぬ「大奥」にて村上半左衛門を待たせておいたのだ。
そこで治済は村上半左衛門と面会に及んだ。
村上半左衛門とは久方ぶりであった。
治済は村上半左衛門を手懐けるに際しては無論、密かにだが半左衛門と面会に及ぶこと度々であったが、ここ数年は、殊に家基を死に追いやってからは直に逢うことはなかった。
それが久方ぶりに逢った訳で、村上半左衛門が大いに喜んだのも当然であった。
何しろ大名家の陪臣の分際で御三卿に逢うなどとは、本来はあり得ないことであるからだ。
「久方ぶりよのう…、いや、この治済も半左衛門に逢おう、逢おうとはいつも思うておったのだが、中々にその機会に恵まれなくてのう…、いや、済まなんだ…」
治済は半左衛門に「無沙汰」を詫びて半左衛門を大いに恐縮させた。
「勿体無きお言葉…」
半左衛門は感動の余り、声を震わせた。
「おお、ちょうど昼餉の頃合故、湯漬でも…」
治済はそう告げると、真横の襖に向かって拍手を送った。
するとその瞬間、まるで「自動ドア」の様に襖が左右に開かれたかと思うと、これまた治済の「懐刀」とも言うべき侍女の雛が顔を覗かせた。雛は両手でもって膳を掲げており、それを半左衛門の前に置くと、足早にその場を退がり、襖は再び、「自動ドア」宜しく閉じられた。
「ささっ、遠慮なく食するが良かろう…」
半左衛門は治済にそう勧められても流石に躊躇した。勿論、毒でも入っているのではないかと、そう疑っている訳ではない。
御三卿を前にして、果たして昼餉にありついても良いものかと、それを躊躇していたのだ。
治済も半左衛門のその様な胸中は手に取る様に分かった。
それでも治済はその上で敢えて、
「なに、毒など入ってはおらぬ故、心安く食するが良かろう…」
その様な「冗談」を飛ばしてみせた。否、治済の場合は決して「冗談」には聞こえない憾みがあった。
ともあれ半左衛門は、「いえ、決して左様なことを疑い申している訳では…」と慌てた様子でそう否定してみせた。
「分かっておるわ。今のはほんの戯言に過ぎぬわ…、半左衛門がこの治済に遠慮して昼餉を食するのを躊躇うておることぐらい、この治済とて分からぬではない…、なれど真、この治済に構わず昼餉を食するが良かろう…、さっ、冷めぬうちに…」
治済にそうまで勧められては、これ以上の拝辞は却って無礼に当たるので、半左衛門は「それでは遠慮のう…」と箸を手に取った。
こうして半左衛門が昼餉に手を付けると、治済は「そうそう…」と半左衛門に声をかけた。
「食べながらで構わぬので聞いて欲しいことがあるのだが…、半左衛門は佐野善左衛門なる男に聞覚えがあるかのう…」
治済にそう声をかけられた半左衛門はそれでも一応、礼儀として箸を置くと、その名を反芻した。半左衛門には聞覚えのある名であり、やがて「ああ…」と声を上げると、
「もしや、新番士の佐野善左衛門のことにて?」
半左衛門は治済に確かめる様に尋ねた。
「左様…、やはり存じておったか…」
「はぁ…、何しろ新番士であるにもかかわらず、いきなり布衣役の、それも花形とも申すべき小普請組支配、或いは新番頭の職を望んだ者にて…」
意知にそう陳情したものだから、意知も、それに陳情を取次いだ己も流石に呆れたことがあり、それ故、その名を覚えていたと、半左衛門は治済にそう打明けた。
「して、その佐野善左衛門が如何致しましたので?」
半左衛門は治済の真意を尋ねた。
「うむ…、さればそう遠くないうちに、また佐野善左衛門を半左衛門の許へと…、否…、田沼家の上屋敷へと陳情に出向せる故、その折には半左衛門が佐野善左衛門の相手をしてやってはくれまいか…」
「相手を…、それは私めが佐野善左衛門を主君・山城に取次げと仰せにて?」
「否、その逆ぞ…」
「逆?」
「左様…、主君・山城は逢いたくはないと、左様、佐野善左衛門を冷たく、あしらって欲しいのだ…」
「そはまた、如何に…」
首を傾げる村上半左衛門に対して、治済はその「真意」を半左衛門に「耳打ち」した。
それから治済と半左衛門の「密談」は一刻(約2時間)にも及び、半左衛門は、
「例の如く…」
ここ大奥より一橋屋敷を脱出し、田沼家の上屋敷へと戻った。
それから6日後の12月21日、将軍・家治は今度は南本所新田へと鷹狩りに赴いたので、治済もその日に合わせて再び、松平定信に扮して田安家の下屋敷にて佐野善左衛門と逢った。
「本日は…、本日、上様が御放鷹に扈従せし新番組は1番組と2番組故、3番組に属せしそなたは次の御放鷹に扈従することになるのう…」
治済は善左衛門にそう語りかけた。
如何にもその通りであり、善左衛門は「御意…」と応じた。
今日の鷹狩りおいては新番よりは1番組と2番組が出動、扈従していたので、順番に従えば次の鷹狩りにおいては新番よりは3番組と4番組が扈従する予定であった。
「否…、今日はもう、師走の21日故、今年はもう、鷹狩りはないやも知れぬな…」
確かに、次の鷹狩りまでは10日以上の間があった。
「だとするならば次は来年…、と申しても、もう二週間もないがの…、正月の鷹狩始になるかのう…」
これもまた治済の言う通りであった。
正月のそれも大抵は4日に鷹狩始、つまりは将軍の今年初めての鷹狩りが催される。
今年、天明3(1783)年も正月4日に鷹狩りの「スポット」とも言うべき木下川の畔にて鷹狩始が挙行された。
そして鷹狩始は全ての番方が、つまりは大番、書院番、小姓組番、新番、小十人組番の所謂、五番方が参加することになる。
佐野善左衛門が属する新番を例に取るならば本来、扈従する3番組と4番組だけではない、5番組や6番組、更には以前に扈従したばかりの1番組や2番組も再び扈従することになる。
「されば…、鷹狩始ともなれば、いつも以上に腕が鳴ると申すものであろう?」
善左衛門は治済にそう水を向けられたので、「御意」と即答した。
一々、御尤もであった。番方…、武官である上は鷹狩り、それも大番までが参加する鷹狩始ともなれば、いつも以上に腕が鳴るというものである。
普段の鷹狩りにおいては大番が参加することは滅多にない。否、ないと断言しても良かろう。
だが鷹狩始においてはその大番までが、それも上方在番によりこの江戸を留守にしている組を除く全ての組が参加するのだ。
つまりは鷹狩始は普段の鷹狩りよりも「参加者」が多いという訳で、そんな中で活躍すれば、要は獲物を仕留められれば、将軍に己の存在をアピール、印象付けられるというもので、それはそのまま立身出世に繋がるやも知れなかった。
「また、供弓に選ばれれば良いがのう…」
治済はしみじみとした口調でそう言った。
確かに、将軍に己の存在をアピールするには供弓に選ばれるのが一番であった。
供弓として将軍の御前にて見事、獲物を仕留めて見せればこれに優るものはない。
だがそう容易く供弓に選ばれるものではない。
供弓に選ばれたいと、そう希望するのは佐野善左衛門に限らないからだ。
それどころか番士であれば誰もが皆、供弓に選ばれたいと願うであろう。供弓とはそれ程までに「花形」と言えた。
さてそこで佐野善左衛門の場合であるが、再び供弓に選ばれるかと問われれば、その可能性は限りなく低かった。否、それどころか「ゼロ」と言えよう。
何しろ前回、前々回の12月3日の木下川の畔の鷹狩りにおいて佐野善左衛門は名誉ある供弓に選ばれたにもかかわらず、将軍・家治の御前において無様な醜態を晒したからだ。
その様な佐野善左衛門が再び供弓に選ばれるとは、それも鷹狩始における供弓に選ばれるとは到底、思われなかった。
それは善左衛門自身が一番良く自覚しているところであった。
「さればどうであろうかのう…、そなたは気が進まぬであろうが、この際、山城めに挨拶をしては…」
「えっ…、御若年寄の田沼様に?」
「左様…、山城めは成程、如何にも前回、前々回の鷹狩りにおいて、そなたの手柄を横取りせし卑劣漢なれど、上様の御寵愛が篤いこともまた、紛れもなき事実にて…、さればこの際、山城めに仁義を切ってはどうかのう…」
「供弓への御推挙を賜りたい、と?左様に陳情せよと仰せられまするので?」
「うむ…、新番はそなたも存じておろうが若年寄支配なれば、供弓の選定に当たって若年寄の推挙があれば大いに役立つであろうぞ…」
確かにその通りであった。それも若年寄の中でも、
「今をときめく…」
意知の推挙があれば…、具体的には、
「3番組よりは佐野善左衛門を供弓の一人に加えてやって欲しい…」
意知よりその様な推挙が3番組になされれば、ほぼ決まりと言えよう。
「どうだな…、善は急げと申す…、今日という訳には参らぬであろうが、明日の22日にも田沼家を訪れてはどうかのう…」
「明日、でござりまするか?」
「左様…、されば山城めが對客日…、登城前に陳情客の相手をしてやる對客日は今日21日の後は25日だけだが、下城後、屋敷に帰ってから陳情客の相手をしてやる逢客に関しては、特に定めはない故にな…、否、明日はそなたは当番であったのう…」
善左衛門の明日の勤務は昼八つ(午後2時頃)から宵五つ(午後8時頃)までの当番であったかと、治済はそれを思い出すと、
「されば明日は無理だのう…」
独り言の様にそう呟いた。
確かにその通りであった。
若年寄が勤務を終えて下城するのはどんなに早くとも昼八つ(午後2時頃)であったからだ。その時、善左衛門は既に勤務に入っており、これでは下城後の意知に陳情することは不可能であった。
「されば明後日はどうかの…、今日が朝番、明日は当番ともなれば、明後日は宵番なれば…」
宵番の勤務は宵五つ(午後8時頃)から翌日の暁八つ(午前2時頃)までであり、成程、それなら下城後の意知に陳情することも可能であろう。
「成程…、されば明後日の23日にも田沼様に陳情を致しまする…」
善左衛門が素直にそう応ずると、治済も「それが良い」と応じた上で、
「さればその翌日…、24日にもその結果を聞かせてはくれまいかの…」
善左衛門にそう持掛けたのであった。
「えっ?24日に、でござりまするか?」
「左様…、23日の昼八つ(午後2時頃)か、或いは昼の八つ半(午後3時頃)に山城めに陳情を終えたそなたは宵五つ(午後8時頃)より勤めに入るであろう?そしてその翌24日の暁八つ(午前2時頃)までがそなたの勤めであろう…、さればその後でぐっすりと休んでだな、24日の左様、今時分…、昼の八つ半(午後3時頃)にまたここで逢おうではあるまいか…、陳情の結果が気になるでのう…」
「御心遣い、痛み入りまする…、されば御厚意に甘えまして、明々後日の24日の昼の八つ半(午後3時頃)にまた、ここで…」
善左衛門が素直にそう応じてくれたので、治済も満足気に頷いた。
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