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一橋治済は酒井忠休と若年寄の太田資愛への「手入」の時期について話し合う。そして忠崇が真に菊間本間に出られぬ理由とは。
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「されば…、それに備えて今のうちから二人に手入をしておくかのう…」
治済が口にした二人とは勿論、若年寄の太田備後守資愛と米倉丹後守昌晴の二人を指していた。
つまり、太田資愛と米倉昌晴の二人に対しても今のうちから、意知暗殺の現場―、意知が番士に刃を向けられたその現場に際会しては、意知を見捨ててくれる様、手入、即ち、懐柔を図っておく必要があるなと、治済はそう言っていたのだ。
忠休もそうと気付くと、しかし頭を振った。
「太田備後は兎も角、米倉丹後への手入は御控えあそばされた方が…」
忠休が治済にそう忠告すると、治済は「何故だ?」と尋ねた。
「されば…、米倉丹後は成程、加納遠江とは違い申して、少なくとも己が身を挺してまで意知めを守ろうとせし程には意知めと親しい訳ではござりませぬ…」
忠休が「少なくとも」との文節にアクセントを置いた。
すると治済も、「少なくとも、とな?」と喰い付いてきた。
「御意…、されば米倉丹後めはそれ程までには意知めと親しくないというだけで、さりとて敵対している訳でもなく…」
「すると…、今、この段階で下手に米倉丹後に斯かる手入を行おうものなら、米倉丹後は或いはそのことを…、この治済より手入を受けしことを山城めに内報するやも知れず、と?」
治済が先回りして尋ねると、忠休もまたしても「御意」と応じた。
成程、内報―、意知へと「告口」される危険性があるのならば米倉昌晴への「手入」は控えた方が良さそうであった。
「されば太田備後への手入は差支えない訳だの?」
治済は忠休に確かめる様に尋ねた。
太田資愛ならば米倉昌晴とは違い、意知に「告口」する危険性はないのだなと、その点を糺していたのだ。
忠休はそれにも「御意」と応じた上で、豫参の一件を補足し、治済を頷かせた。
「成程のう…、それなれば如何にも太田備後は山城めに良からぬ感情を抱いておろうぞ…」
「御意…、されば仮令、太田備後が畏れ多くも民部卿様より手入を受け申しましたるところで、それを意知めへと内報せし可能性は皆無かと…」
「うむ…、されば早速にも…」
太田資愛へと「手入」を行おうとする治済を忠休が「暫く」と制した。
「されば…、太田備後への手入につきましては直前…、3月に入ってから…、早くとも2月の下旬が宜しかろうと…」
「何故だ?」
「されば今…、正月のこの段階で太田備後へと手入をあそばされましては、小心者の太田備後のこと、意知めに告口こそ致さぬとしても、時が経つにつれて事の重大性に恐れ戦き、気後れするやも知れず…」
「成程…、それで3月…、早くとも2月の下旬が良いという訳だの?太田備後めに余計な恐れを抱かせる暇を与えぬ為に…」
「御意…」
意知暗殺を実行に移す3月よりも遥か前である今、正月のこの段階で小心者の太田資愛に「手入」を行っては、
「時が経つにつれて…」
つまりは意知暗殺の3月が近付くにつれて、資愛は事の重大性に恐れ戦くようになり、結果、資愛を尻込みさせるやも知れず、それよりは3月の直前になってから「手入」を行った方が、資愛に余計な恐れを生じさせずに済む。
「相分かった。されば太田備後には2月の下旬になってから手入を致そうぞ…」
治済がそう宣したので、忠休も「ははぁっ」と応じた。
それから治済は兄・重富と揃って暫し、忠休と談笑に花を咲かせた。その頃にはそれまで船を漕いでいた忠崇も再び目を覚まして談笑に加わった。
こうして忠休・忠崇の父子は夕の七つ半(午後5時頃)まで重富・治済の兄弟と談笑して、夕の七つ半(午後5時頃)に重富・治済の兄弟に見送られて福井藩上屋敷をあとにした。
「やれやれ…、忠休という男、扱い易うて助かったのう…」
重富は忠休・忠崇父子が消えたところで、弟・治済にそう語り掛けた。
「全く…、いや、扱い易うこと、この上なく…」
治済も苦笑してそう応じたので、兄・重富もつられて、「くっくっ」と皮肉な笑み、と言うよりは嘲笑を漏らした。
「何しろ、吾等、兄弟の虚言を真に受けたのだからの…」
それこそが重富の嘲笑の所以であった。
即ち、重富・治済兄弟が忠休・忠崇父子へと語って聞かせた、
「若年寄の忠休が成人嫡子にして将軍・家治への御目見得を済ませた忠崇がそれにもかかわらず、未だ菊間本間に出られない理由について…」
それである。否、虚言であった。
意次が忠崇の才能を恐れて菊間本間に出さぬ様、画策したからだと、重富・治済兄弟は忠休・忠崇付しにそう語って聞かせた訳だが、無論、それは真赤な嘘であった。
それでは真の理由だが、偏に、忠崇の無能さに原因があった。
菊間本間に出るということは「半役人」になることを意味していた。
平日は毎日、交代で菊間本間に詰めては不時の用に備える…、それこそが「半役人」に求められる職責、つまりは菊間本間に詰める者の職責であり、それ故、無能では困るのだ。
酒井忠崇が菊間本間へと出られる「有資格者」であるにもかかわらず、未だ菊間本間に出られぬのも、その無能さ故であった。
否、意次などはむしろ、先例に従い、
「そろそろ酒井忠崇を菊間本間に出しては…」
将軍・家治にそう勧めた程であったが、家治がそれを拒絶したのだ。寵愛する意次からの進言にもかかわらず、であった。
忠崇の無能さについては将軍・家治も御側御用取次を介して御庭番より齎された情報により把握していた。
それ故、家治はその様な酒井忠崇を菊間本間へと出そうものなら、外の者―、菊間本間へと出ている者に迷惑が掛かるとして、忠崇を菊間本間に出さなかったのだ。
治済はそのことを意を通ずる御側御用取次の一人、稲葉正明より齎されて把握しており、しかし、忠休・忠崇父子に対しては、兄・重富とも謀って、捩じ曲げて伝えたのであった。
すると忠休・忠崇父子もそうとも気付かずに、大変耳心地の良い話、否、虚言であった為に何の疑いもせずに真に受けたのであった。
「否…、少し頭を働かせれば偽りだと分かりそうなものを…」
重富はしみじみとした口調でそう告げた。
確かにその通りであった。
如何に意次が将軍・家治より寵愛を受けている老中と雖も、菊間本間へと出られる「有資格者」をその一存で菊間本間へと出させないなど、おおよそ不可能であった。
意次にそこまでの権限はなく、してみると忠崇が菊間本間に出られぬのは将軍・家治の意思に外ならない。
愚息である忠崇は兎も角、若年寄筆頭を勤める父・忠休ならば幕閣である以上、当然、その点に気付いて然るべきだが、しかし重富・治済兄弟の「虚言」が余程に耳に心地が良かったらしく、すっかり失念していたものと見える。
「いやはや…、なれど吾等としては忠休・忠崇の馬鹿さ加減に感謝せねばなりませぬな…」
治済は口許を歪めさせてそう漏らすと、兄・重富も頷いた。
治済はそれから船で一橋家上屋敷へと、それも船着場が併設されている大奥へと戻った。
今日、治済が忠休・忠崇父子と逢う為に、一橋家上屋敷ではなく、兄・重富が当主を務める福井藩上屋敷を選んだのも正にそこに理由があった。
即ち、一橋家上屋敷に、それも表門より若年寄の酒井忠休とその息の忠休を招いては必ずや、秋霜烈日なる家老の水谷勝富を介して将軍・家治へと伝わるに違いなく、治済としてはそれを避けるべく、水谷勝富にも気付かれることなく船で往来出来る福井藩上屋敷へと忠休・忠崇父子を招いたのであった。
それならば忠休・忠崇父子が船で直接に一橋家上屋敷の大奥に併設されている船着場に乗付ければ済む様にも思われるが、しかし忠休・忠崇父子が住まう上屋敷は生憎と一橋家上屋敷や、或いは福井藩上屋敷とは異なり、川に面してはいなかったのだ。
治済が口にした二人とは勿論、若年寄の太田備後守資愛と米倉丹後守昌晴の二人を指していた。
つまり、太田資愛と米倉昌晴の二人に対しても今のうちから、意知暗殺の現場―、意知が番士に刃を向けられたその現場に際会しては、意知を見捨ててくれる様、手入、即ち、懐柔を図っておく必要があるなと、治済はそう言っていたのだ。
忠休もそうと気付くと、しかし頭を振った。
「太田備後は兎も角、米倉丹後への手入は御控えあそばされた方が…」
忠休が治済にそう忠告すると、治済は「何故だ?」と尋ねた。
「されば…、米倉丹後は成程、加納遠江とは違い申して、少なくとも己が身を挺してまで意知めを守ろうとせし程には意知めと親しい訳ではござりませぬ…」
忠休が「少なくとも」との文節にアクセントを置いた。
すると治済も、「少なくとも、とな?」と喰い付いてきた。
「御意…、されば米倉丹後めはそれ程までには意知めと親しくないというだけで、さりとて敵対している訳でもなく…」
「すると…、今、この段階で下手に米倉丹後に斯かる手入を行おうものなら、米倉丹後は或いはそのことを…、この治済より手入を受けしことを山城めに内報するやも知れず、と?」
治済が先回りして尋ねると、忠休もまたしても「御意」と応じた。
成程、内報―、意知へと「告口」される危険性があるのならば米倉昌晴への「手入」は控えた方が良さそうであった。
「されば太田備後への手入は差支えない訳だの?」
治済は忠休に確かめる様に尋ねた。
太田資愛ならば米倉昌晴とは違い、意知に「告口」する危険性はないのだなと、その点を糺していたのだ。
忠休はそれにも「御意」と応じた上で、豫参の一件を補足し、治済を頷かせた。
「成程のう…、それなれば如何にも太田備後は山城めに良からぬ感情を抱いておろうぞ…」
「御意…、されば仮令、太田備後が畏れ多くも民部卿様より手入を受け申しましたるところで、それを意知めへと内報せし可能性は皆無かと…」
「うむ…、されば早速にも…」
太田資愛へと「手入」を行おうとする治済を忠休が「暫く」と制した。
「されば…、太田備後への手入につきましては直前…、3月に入ってから…、早くとも2月の下旬が宜しかろうと…」
「何故だ?」
「されば今…、正月のこの段階で太田備後へと手入をあそばされましては、小心者の太田備後のこと、意知めに告口こそ致さぬとしても、時が経つにつれて事の重大性に恐れ戦き、気後れするやも知れず…」
「成程…、それで3月…、早くとも2月の下旬が良いという訳だの?太田備後めに余計な恐れを抱かせる暇を与えぬ為に…」
「御意…」
意知暗殺を実行に移す3月よりも遥か前である今、正月のこの段階で小心者の太田資愛に「手入」を行っては、
「時が経つにつれて…」
つまりは意知暗殺の3月が近付くにつれて、資愛は事の重大性に恐れ戦くようになり、結果、資愛を尻込みさせるやも知れず、それよりは3月の直前になってから「手入」を行った方が、資愛に余計な恐れを生じさせずに済む。
「相分かった。されば太田備後には2月の下旬になってから手入を致そうぞ…」
治済がそう宣したので、忠休も「ははぁっ」と応じた。
それから治済は兄・重富と揃って暫し、忠休と談笑に花を咲かせた。その頃にはそれまで船を漕いでいた忠崇も再び目を覚まして談笑に加わった。
こうして忠休・忠崇の父子は夕の七つ半(午後5時頃)まで重富・治済の兄弟と談笑して、夕の七つ半(午後5時頃)に重富・治済の兄弟に見送られて福井藩上屋敷をあとにした。
「やれやれ…、忠休という男、扱い易うて助かったのう…」
重富は忠休・忠崇父子が消えたところで、弟・治済にそう語り掛けた。
「全く…、いや、扱い易うこと、この上なく…」
治済も苦笑してそう応じたので、兄・重富もつられて、「くっくっ」と皮肉な笑み、と言うよりは嘲笑を漏らした。
「何しろ、吾等、兄弟の虚言を真に受けたのだからの…」
それこそが重富の嘲笑の所以であった。
即ち、重富・治済兄弟が忠休・忠崇父子へと語って聞かせた、
「若年寄の忠休が成人嫡子にして将軍・家治への御目見得を済ませた忠崇がそれにもかかわらず、未だ菊間本間に出られない理由について…」
それである。否、虚言であった。
意次が忠崇の才能を恐れて菊間本間に出さぬ様、画策したからだと、重富・治済兄弟は忠休・忠崇付しにそう語って聞かせた訳だが、無論、それは真赤な嘘であった。
それでは真の理由だが、偏に、忠崇の無能さに原因があった。
菊間本間に出るということは「半役人」になることを意味していた。
平日は毎日、交代で菊間本間に詰めては不時の用に備える…、それこそが「半役人」に求められる職責、つまりは菊間本間に詰める者の職責であり、それ故、無能では困るのだ。
酒井忠崇が菊間本間へと出られる「有資格者」であるにもかかわらず、未だ菊間本間に出られぬのも、その無能さ故であった。
否、意次などはむしろ、先例に従い、
「そろそろ酒井忠崇を菊間本間に出しては…」
将軍・家治にそう勧めた程であったが、家治がそれを拒絶したのだ。寵愛する意次からの進言にもかかわらず、であった。
忠崇の無能さについては将軍・家治も御側御用取次を介して御庭番より齎された情報により把握していた。
それ故、家治はその様な酒井忠崇を菊間本間へと出そうものなら、外の者―、菊間本間へと出ている者に迷惑が掛かるとして、忠崇を菊間本間に出さなかったのだ。
治済はそのことを意を通ずる御側御用取次の一人、稲葉正明より齎されて把握しており、しかし、忠休・忠崇父子に対しては、兄・重富とも謀って、捩じ曲げて伝えたのであった。
すると忠休・忠崇父子もそうとも気付かずに、大変耳心地の良い話、否、虚言であった為に何の疑いもせずに真に受けたのであった。
「否…、少し頭を働かせれば偽りだと分かりそうなものを…」
重富はしみじみとした口調でそう告げた。
確かにその通りであった。
如何に意次が将軍・家治より寵愛を受けている老中と雖も、菊間本間へと出られる「有資格者」をその一存で菊間本間へと出させないなど、おおよそ不可能であった。
意次にそこまでの権限はなく、してみると忠崇が菊間本間に出られぬのは将軍・家治の意思に外ならない。
愚息である忠崇は兎も角、若年寄筆頭を勤める父・忠休ならば幕閣である以上、当然、その点に気付いて然るべきだが、しかし重富・治済兄弟の「虚言」が余程に耳に心地が良かったらしく、すっかり失念していたものと見える。
「いやはや…、なれど吾等としては忠休・忠崇の馬鹿さ加減に感謝せねばなりませぬな…」
治済は口許を歪めさせてそう漏らすと、兄・重富も頷いた。
治済はそれから船で一橋家上屋敷へと、それも船着場が併設されている大奥へと戻った。
今日、治済が忠休・忠崇父子と逢う為に、一橋家上屋敷ではなく、兄・重富が当主を務める福井藩上屋敷を選んだのも正にそこに理由があった。
即ち、一橋家上屋敷に、それも表門より若年寄の酒井忠休とその息の忠休を招いては必ずや、秋霜烈日なる家老の水谷勝富を介して将軍・家治へと伝わるに違いなく、治済としてはそれを避けるべく、水谷勝富にも気付かれることなく船で往来出来る福井藩上屋敷へと忠休・忠崇父子を招いたのであった。
それならば忠休・忠崇父子が船で直接に一橋家上屋敷の大奥に併設されている船着場に乗付ければ済む様にも思われるが、しかし忠休・忠崇父子が住まう上屋敷は生憎と一橋家上屋敷や、或いは福井藩上屋敷とは異なり、川に面してはいなかったのだ。
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