105 / 116
天明4年閏正月13日の目黒の邊(ほとり)における鷹狩り 前篇
しおりを挟む
将軍・家治が正月4日の鷹狩始に続いて、次に鷹狩りを行ったのはそれから3週間以上経った27日のことであった。
27日は船堀の邊で鷹狩りが行われ、新御番よりは1番組と2番組が鷹狩りに扈従し、それ故、新番士の佐野善左衛門が扈従するのは次の鷹狩りということになる。
次の鷹狩りには新御番よりは佐野善左衛門が属する3番組と共に4番組が扈従するのが順番だからだ。
佐野善左衛門はその為に今日27日の船堀の邊における鷹狩りには参加せず、やはり田安家の下屋敷において松平定信に扮した一橋治済と面会に及んでいた。
定信もとい治済と佐野善左衛門との「密会」は夕の七つ半(午後5時頃)にまで及び、家治もまたその間、殊に夕七つ(午後4時頃)より夕の七つ半(午後5時頃)までの半刻(約1時間)の間、清水家下屋敷において本物の定信と「密会」に及んでいた。
定信に扮した治済は佐野善左衛門を意知暗殺の「尖兵」とすべく、そこで善左衛門を取込もうと、一方、家治はそれとは逆に定信が治済に取込まれぬ様、しっかりと定信の手綱を締めるべく、夫々、「密会」に及んでいたのだ。
さて、その「密会」において、それも定信に扮した治済と佐野善左衛門との「密会」において治済は佐野善左衛門に対して、
「山城めに200両も渡したのだからの、善左衛門が次の鷹狩りにおいて再び、供弓に選ばれるのは間違いなかろうて…」
そう励ましたのであった。
無論、善左衛門もその自信はあったものの、その上、定信までが―、実際には治済が定信を演じているに過ぎないのだが、その定信までが請合ってくれたことで、自信を深めた。
だが佐野善左衛門のその「自信」も翌月の閏正月12日には脆くも打砕かれることとなった。
即ち、閏正月13日には目黒の邊にて鷹狩りが行われることとなり、その前日の12日に供弓の面子が発表されたのだが、そこに佐野善左衛門の名はなかったのだ。
新御番3番組より供弓に選ばれた面子は前回と同じであった。
佐野善左衛門は当然、愕然とした。
そんな佐野善左衛門に対して新番頭の松平忠香が、
「されば筒井左膳は300両も弾んだそうな…」
そう囁いたのであった。
即ち、本来ならば3番組よりは供弓の一人として佐野善左衛門が内定していたにもかかわらず、やはりと言うべきか、その直前になって筒井左膳が田沼意知に300両もの賂を贈った為に、そこで意知は佐野善左衛門よりも多い賂を持参した筒井左膳に乗換え、強権発動、3番組の組頭に命じて供弓の面子を、それも佐野善左衛門から筒井左膳へと差替えさせたというのである。
成程、確かに3番組よりは供弓に選ばれた面子の中に筒井左膳の名があり、筒井左膳が供弓に選ばれた背景にはその様な事情が隠されていたのかと、佐野善左衛門は大いに悔しがった。何しろ、筒井左膳によって弾き飛ばされたも同然であった。
それと同時に佐野善左衛門は己を裏切った意知に対して、憎悪の感情を再発させ、それが昂じて初めて殺意の感情まで芽生えさせたのであった。
かくして佐野善左衛門は意知への殺意を生じさせつつ、翌日の目黒の邊における鷹狩りを迎えたのであった。
その目黒の邊における鷹狩りだが、またしても供弓から漏れた佐野善左衛門にとっては何とも皮肉な結果、さしずめ「釣果」を齎した。
即ち、中々の「大漁」であり、供弓こそ書院番2番組の中田宇兵衛正喜が雑鴨を射止めたに過ぎなかったが、その代わり小納戸が大活躍した。
小納戸の鈴木帯刀正國や内山茂十郎永恭、杉山藤之助正久や岩田平十郎定功、そして石黒官次郎易明の5人が「大活躍」したのであった。
殊に鈴木帯刀は青鴨や小鷺、小鴨を数多、射止めたのであった。
否、そればかりではない。今回は何と御側御用取次の稲葉越中守正明までが鷹狩りに扈従し、その稲葉正明自身も玄鶴を射止めた。
その「戦功認定」に当たる本丸目附だが、その日は井上圖書頭正在であった。
この井上正在による「戦功認定」について、意知は甚だ疑わしく思えてならなかった。
要は外の者の「手柄」であるにもかかわらず、上記、1人の書院番士や、或いは5人の小納戸の「手柄」として、
「すり替えたのではあるまいか…」
意知にはそう思えてならなかった。
否、彼等ばかりではない、御側御用取次の稲葉正明の「手柄」からしても疑わしいものであった。
稲葉正明にはそれ程の技量はないからだ。
にもかかわらず、「戦功認定」に当たる井上正在が弓矢が刺さった玄鶴を発見するや、それを稲葉正明が射止めたものと判定したのであった。
意知はそれが真、稲葉正明の手によるものかどうか、首を傾げたものであり、それは将軍・家治にしても同様であり、
「目附の井上正在が稲葉正明に忖度したのではあるまいか…」
家治にしろ、意知にしろそう思った。
つまりは井上正在が稲葉正明の威を恐れて、或いは取入ろうとして、若しくはその両方からか、敢えて稲葉正明の「手柄」であると認めることにより、正明の「覚え」を目出度くしようとしたのではあるまいか―、そんなところであった。
家治や意知がそう疑うのには「伏線」があった。
それと言うのも今日の目黒の邊における鷹狩りには本来、稲葉正明が扈従する予定はなかった。
それが3日前の10日になって急に稲葉正明が将軍・家治に対して、
「己も偶さかには鷹狩りに扈従したい…」
そう懇願したのであった。
鷹狩りに稲葉正明の様な御側御用取次や、或いは側用人が扈従することは決して珍しいことではなく、そこで家治も稲葉正明の願いを許したのであった。
すると正明は早速、「戦功認定」に当たる目附に口を挟んできたのであった。
本来、目附の中でも安藤郷右衛門惟徳が「戦功認定」を勤める筈であったが、正明はこれを井上正在へと変更させたのであった。
安藤郷右衛門に「戦功認定」に当たらせようとしたのは外ならぬ意知であった。
月番が免除されている為に将軍・家治の鷹狩りに毎回、扈従することが義務付けられている意知はそれ故に、どの目附に「戦功認定」に当たらせるか、目附とも良く相談の上という条件付ながら、その「人選」を任されてもいた。
意知が安藤郷右衛門を選んだのには斯かる背景があり、それを稲葉正明が覆したのであった。
目附は将軍に直接、言上、それも旗本や御家人だけでなく、直属の上司である若年寄は元より、更にその上の老中の非違さえも「告口」することが許されている為に、老中や若年寄からも恐れられている存在であった。
だがその目附も御側御用取次には敵わず、その御側御用取次の稲葉正明の「口出し」についてはさしもの目附も、これを受容れざるを得ない。
それは若年寄の意知にしても同様であり、若年寄と御側御用取次は一応、同格ではあるものの、意知は未だ部屋住の身に過ぎないのに対して、稲葉正明は歴とした大名であった。
それ故、正明の方が意知よりも格上であり、意知もまた、その正明の「口出し」に際会しては黙って引下がらざるを得ない。
斯かる次第で井上正在が今日の目黒の邊における「戦功認定」に当たった訳だが、意知はひどく悔やんだ。
それこそが井上正在の稲葉正明への「忖度」であった。
否、果たして「忖度」があったのかどうか、それは分からない。確たる証はどこにもないからだ。
もしかしたら真っ当なる「戦功認定」やも知れなかったからだ。
だとするならば意知としては迂闊に「忖度」であると、騒ぎ立てることも出来ず、黙っていたのだ。
それは家治にしても同様であった。家治もまた、稲葉正明たちの「手柄」に対する疑問から正明に扈従を許してしまったことを今更ながらも後悔したものの、しかし、その正明たちの「手柄」を疑うに足る確たる証がない以上はやはり迂闊に疑問の声を上げることは厳に慎まねばならなかった。
だが結論から言えば家治や意知の疑問、或いは後悔といったその直感は正しかったのだ。
それと言うのも、稲葉正明は一橋治済の意を受けて今日の目黒の邊における鷹狩りに「立候補」したのであった。
27日は船堀の邊で鷹狩りが行われ、新御番よりは1番組と2番組が鷹狩りに扈従し、それ故、新番士の佐野善左衛門が扈従するのは次の鷹狩りということになる。
次の鷹狩りには新御番よりは佐野善左衛門が属する3番組と共に4番組が扈従するのが順番だからだ。
佐野善左衛門はその為に今日27日の船堀の邊における鷹狩りには参加せず、やはり田安家の下屋敷において松平定信に扮した一橋治済と面会に及んでいた。
定信もとい治済と佐野善左衛門との「密会」は夕の七つ半(午後5時頃)にまで及び、家治もまたその間、殊に夕七つ(午後4時頃)より夕の七つ半(午後5時頃)までの半刻(約1時間)の間、清水家下屋敷において本物の定信と「密会」に及んでいた。
定信に扮した治済は佐野善左衛門を意知暗殺の「尖兵」とすべく、そこで善左衛門を取込もうと、一方、家治はそれとは逆に定信が治済に取込まれぬ様、しっかりと定信の手綱を締めるべく、夫々、「密会」に及んでいたのだ。
さて、その「密会」において、それも定信に扮した治済と佐野善左衛門との「密会」において治済は佐野善左衛門に対して、
「山城めに200両も渡したのだからの、善左衛門が次の鷹狩りにおいて再び、供弓に選ばれるのは間違いなかろうて…」
そう励ましたのであった。
無論、善左衛門もその自信はあったものの、その上、定信までが―、実際には治済が定信を演じているに過ぎないのだが、その定信までが請合ってくれたことで、自信を深めた。
だが佐野善左衛門のその「自信」も翌月の閏正月12日には脆くも打砕かれることとなった。
即ち、閏正月13日には目黒の邊にて鷹狩りが行われることとなり、その前日の12日に供弓の面子が発表されたのだが、そこに佐野善左衛門の名はなかったのだ。
新御番3番組より供弓に選ばれた面子は前回と同じであった。
佐野善左衛門は当然、愕然とした。
そんな佐野善左衛門に対して新番頭の松平忠香が、
「されば筒井左膳は300両も弾んだそうな…」
そう囁いたのであった。
即ち、本来ならば3番組よりは供弓の一人として佐野善左衛門が内定していたにもかかわらず、やはりと言うべきか、その直前になって筒井左膳が田沼意知に300両もの賂を贈った為に、そこで意知は佐野善左衛門よりも多い賂を持参した筒井左膳に乗換え、強権発動、3番組の組頭に命じて供弓の面子を、それも佐野善左衛門から筒井左膳へと差替えさせたというのである。
成程、確かに3番組よりは供弓に選ばれた面子の中に筒井左膳の名があり、筒井左膳が供弓に選ばれた背景にはその様な事情が隠されていたのかと、佐野善左衛門は大いに悔しがった。何しろ、筒井左膳によって弾き飛ばされたも同然であった。
それと同時に佐野善左衛門は己を裏切った意知に対して、憎悪の感情を再発させ、それが昂じて初めて殺意の感情まで芽生えさせたのであった。
かくして佐野善左衛門は意知への殺意を生じさせつつ、翌日の目黒の邊における鷹狩りを迎えたのであった。
その目黒の邊における鷹狩りだが、またしても供弓から漏れた佐野善左衛門にとっては何とも皮肉な結果、さしずめ「釣果」を齎した。
即ち、中々の「大漁」であり、供弓こそ書院番2番組の中田宇兵衛正喜が雑鴨を射止めたに過ぎなかったが、その代わり小納戸が大活躍した。
小納戸の鈴木帯刀正國や内山茂十郎永恭、杉山藤之助正久や岩田平十郎定功、そして石黒官次郎易明の5人が「大活躍」したのであった。
殊に鈴木帯刀は青鴨や小鷺、小鴨を数多、射止めたのであった。
否、そればかりではない。今回は何と御側御用取次の稲葉越中守正明までが鷹狩りに扈従し、その稲葉正明自身も玄鶴を射止めた。
その「戦功認定」に当たる本丸目附だが、その日は井上圖書頭正在であった。
この井上正在による「戦功認定」について、意知は甚だ疑わしく思えてならなかった。
要は外の者の「手柄」であるにもかかわらず、上記、1人の書院番士や、或いは5人の小納戸の「手柄」として、
「すり替えたのではあるまいか…」
意知にはそう思えてならなかった。
否、彼等ばかりではない、御側御用取次の稲葉正明の「手柄」からしても疑わしいものであった。
稲葉正明にはそれ程の技量はないからだ。
にもかかわらず、「戦功認定」に当たる井上正在が弓矢が刺さった玄鶴を発見するや、それを稲葉正明が射止めたものと判定したのであった。
意知はそれが真、稲葉正明の手によるものかどうか、首を傾げたものであり、それは将軍・家治にしても同様であり、
「目附の井上正在が稲葉正明に忖度したのではあるまいか…」
家治にしろ、意知にしろそう思った。
つまりは井上正在が稲葉正明の威を恐れて、或いは取入ろうとして、若しくはその両方からか、敢えて稲葉正明の「手柄」であると認めることにより、正明の「覚え」を目出度くしようとしたのではあるまいか―、そんなところであった。
家治や意知がそう疑うのには「伏線」があった。
それと言うのも今日の目黒の邊における鷹狩りには本来、稲葉正明が扈従する予定はなかった。
それが3日前の10日になって急に稲葉正明が将軍・家治に対して、
「己も偶さかには鷹狩りに扈従したい…」
そう懇願したのであった。
鷹狩りに稲葉正明の様な御側御用取次や、或いは側用人が扈従することは決して珍しいことではなく、そこで家治も稲葉正明の願いを許したのであった。
すると正明は早速、「戦功認定」に当たる目附に口を挟んできたのであった。
本来、目附の中でも安藤郷右衛門惟徳が「戦功認定」を勤める筈であったが、正明はこれを井上正在へと変更させたのであった。
安藤郷右衛門に「戦功認定」に当たらせようとしたのは外ならぬ意知であった。
月番が免除されている為に将軍・家治の鷹狩りに毎回、扈従することが義務付けられている意知はそれ故に、どの目附に「戦功認定」に当たらせるか、目附とも良く相談の上という条件付ながら、その「人選」を任されてもいた。
意知が安藤郷右衛門を選んだのには斯かる背景があり、それを稲葉正明が覆したのであった。
目附は将軍に直接、言上、それも旗本や御家人だけでなく、直属の上司である若年寄は元より、更にその上の老中の非違さえも「告口」することが許されている為に、老中や若年寄からも恐れられている存在であった。
だがその目附も御側御用取次には敵わず、その御側御用取次の稲葉正明の「口出し」についてはさしもの目附も、これを受容れざるを得ない。
それは若年寄の意知にしても同様であり、若年寄と御側御用取次は一応、同格ではあるものの、意知は未だ部屋住の身に過ぎないのに対して、稲葉正明は歴とした大名であった。
それ故、正明の方が意知よりも格上であり、意知もまた、その正明の「口出し」に際会しては黙って引下がらざるを得ない。
斯かる次第で井上正在が今日の目黒の邊における「戦功認定」に当たった訳だが、意知はひどく悔やんだ。
それこそが井上正在の稲葉正明への「忖度」であった。
否、果たして「忖度」があったのかどうか、それは分からない。確たる証はどこにもないからだ。
もしかしたら真っ当なる「戦功認定」やも知れなかったからだ。
だとするならば意知としては迂闊に「忖度」であると、騒ぎ立てることも出来ず、黙っていたのだ。
それは家治にしても同様であった。家治もまた、稲葉正明たちの「手柄」に対する疑問から正明に扈従を許してしまったことを今更ながらも後悔したものの、しかし、その正明たちの「手柄」を疑うに足る確たる証がない以上はやはり迂闊に疑問の声を上げることは厳に慎まねばならなかった。
だが結論から言えば家治や意知の疑問、或いは後悔といったその直感は正しかったのだ。
それと言うのも、稲葉正明は一橋治済の意を受けて今日の目黒の邊における鷹狩りに「立候補」したのであった。
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる