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天明4年閏正月13日の目黒の邊(ほとり)における鷹狩り 前篇

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 将軍しょうぐん家治いえはる正月しょうがつ4日の鷹狩たかがりはじめつづいて、つぎ鷹狩たかがりをおこなったのはそれから3週間しゅうかん以上いじょうった27日のことであった。

 27日は船堀ふなぼりほとり鷹狩たかがりがおこなわれ、しんばんよりは1番組ばんぐみと2番組ばんぐみ鷹狩たかがりに扈従こしょうし、それゆえ新番士しんばんし佐野さの善左衛門ぜんざえもん扈従こしょうするのはつぎ鷹狩たかがりということになる。

 つぎ鷹狩たかがりにはしんばんよりは佐野さの善左衛門ぜんざえもんぞくする3番組ばんぐみともに4番組ばんぐみ扈従こしょうするのが順番じゅんばんだからだ。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそのため今日きょう27日の船堀ふなぼりほとりにおける鷹狩たかがりには参加さんかせず、やはり田安家たやすけ下屋敷しもやしきにおいて松平まつだいら定信さだのぶふんした一橋ひとつばし治済はるさだ面会めんかいおよんでいた。

 定信さだのぶもとい治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもんとの「密会みっかい」はゆうの七つ半(午後5時頃)にまでおよび、家治いえはるもまたそのかんことに夕七つ(午後4時頃)よりゆうの七つ半(午後5時頃)までの半刻はんとき(約1時間)のあいだ清水家しみずけ下屋敷しもやしきにおいて本物ほんもの定信さだのぶと「密会みっかい」におよんでいた。

 定信さだのぶふんした治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知暗殺おきともあんさつの「尖兵せんぺい」とすべく、そこで善左衛門ぜんざえもん取込とりこもうと、一方いっぽう家治いえはるはそれとはぎゃく定信さだのぶ治済はるさだ取込とりこまれぬよう、しっかりと定信さだのぶ手綱たづなめるべく、夫々それぞれ、「密会みっかい」におよんでいたのだ。

 さて、その「密会みっかい」において、それも定信さだのぶふんした治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもんとの「密会みっかい」において治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいして、

山城おきともめに200両もわたしたのだからの、善左衛門ぜんざえもんつぎ鷹狩たかがりにおいてふたたび、供弓ともゆみえらばれるのは間違まちがいなかろうて…」

 そうはげましたのであった。

 無論むろん善左衛門ぜんざえもんもその自信じしんはあったものの、そのうえ定信さだのぶまでが―、実際じっさいには治済はるさだ定信さだのぶえんじているにぎないのだが、その定信さだのぶまでが請合うけあってくれたことで、自信じしんふかめた。

 だが佐野さの善左衛門ぜんざえもんのその「自信じしん」も翌月よくげつうるう正月しょうがつ12日にはもろくも打砕うちくだかれることとなった。

 すなわち、うるう正月しょうがつ13日には目黒めぐろほとりにて鷹狩たかがりがおこなわれることとなり、その前日ぜんじつの12日に供弓ともゆみ面子メンバー発表はっぴょうされたのだが、そこに佐野さの善左衛門ぜんざえもんはなかったのだ。

 しんばん3番組ばんぐみより供弓ともゆみえらばれた面子メンバー前回ぜんかいおなじであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん当然とうぜん愕然がくぜんとした。

 そんな佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいして新番頭しんばんがしら松平まつだいら忠香ただよしが、

「されば筒井左膳つついさぜんは300両もはずんだそうな…」

 そうささやいたのであった。

 すなわち、本来ほんらいならば3番組ばんぐみよりは供弓ともゆみ一人ひとりとして佐野さの善左衛門ぜんざえもん内定ないていしていたにもかかわらず、やはりと言うべきか、その直前ちょくぜんになって筒井左膳つついさぜん田沼たぬま意知おきともに300両ものまいないおくったために、そこで意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんよりもおおまいない持参じさんした筒井左膳つついさぜん乗換のりかえ、強権きょうけん発動はつどう、3番組ばんぐみ組頭くみがしらめいじて供弓ともゆみ面子メンバーを、それも佐野さの善左衛門ぜんざえもんから筒井左膳つついさぜんへと差替さしかえさせたというのである。

 成程なるほどたしかに3番組ばんぐみよりは供弓ともゆみえらばれた面子メンバーなか筒井左膳つついさぜんがあり、筒井左膳つついさぜん供弓ともゆみえらばれた背景はいけいにはそのよう事情じじょうかくされていたのかと、佐野さの善左衛門ぜんざえもんおおいにくやしがった。なにしろ、筒井左膳つついさぜんによってはじばされたも同然どうぜんであった。

 それと同時どうじ佐野さの善左衛門ぜんざえもんおのれ裏切うらぎった意知おきともたいして、憎悪ぞうお感情かんじょう再発さいはつさせ、それがこうじてはじめて殺意さつい感情かんじょうまで芽生めばえさせたのであった。

 かくして佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきともへの殺意さついしょうじさせつつ、翌日よくじつ目黒めぐろほとりにおける鷹狩たかがりをむかえたのであった。

 その目黒めぐろほとりにおける鷹狩たかがりだが、またしても供弓ともゆみかられた佐野さの善左衛門ぜんざえもんにとってはなんとも皮肉ひにく結果けっか、さしずめ「釣果ちょうか」をもたらした。

 すなわち、中々なかなかの「大漁たいりょう」であり、供弓ともゆみこそ書院番しょいんばん2番組ばんぐみ中田なかた宇兵衛うへえ正喜まさよし雑鴨くさぐさのかも射止いとめたにぎなかったが、そのわり小納戸こなんど大活躍だいかつやくした。

 小納戸こなんど鈴木すずき帯刀正國たてわきまさくに内山うちやま茂十郎もじゅうろう永恭ながのり杉山すぎやま藤之助とうのすけ正久まさひさ岩田いわた平十郎へいじゅうろう定功さだとし、そして石黒いしぐろ官次郎かんじろう易明やすあきの5人が「大活躍だいかつやく」したのであった。

 こと鈴木すずき帯刀たてわき青鴨あおがも小鷺こさぎ小鴨こがも数多あまた射止いとめたのであった。

 いや、そればかりではない。今回こんかいなんそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらまでが鷹狩たかがりに扈従こしょうし、その稲葉いなば正明まさあきら自身じしん玄鶴げんかく射止いとめた。

 その「戦功認定せんこうにんてい」にたる本丸ほんまる目附めつけだが、その井上いのうえ圖書頭ずしょのかみ正在まさありであった。

 この井上正在いのうえまさありによる「戦功認定せんこうにんてい」について、意知おきともはなはうたがわしくおもえてならなかった。

 ようほかものの「手柄てがら」であるにもかかわらず、上記じょうき、1人の書院番しょいんばんや、あるいは5人の小納戸こなんどの「手柄てがら」として、

「すりえたのではあるまいか…」

 意知おきともにはそうおもえてならなかった。

 いや彼等かれらばかりではない、そば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらの「手柄てがら」からしてもうたがわしいものであった。

 稲葉いなば正明まさあきらにはそれほど技量ぎりょうはないからだ。

 にもかかわらず、「戦功認定せんこうにんてい」にたる井上正在いのうえまさあり弓矢ゆみやさった玄鶴げんかく発見はっけんするや、それを稲葉いなば正明まさあきら射止いとめたものと判定はんていしたのであった。

 意知おきともはそれがまこと稲葉いなば正明まさあきによるものかどうか、くびかしげたものであり、それは将軍しょうぐん家治いえはるにしても同様どうようであり、

目附めつけ井上正在いのうえまさあり稲葉いなば正明まさあきら忖度そんたくしたのではあるまいか…」

 家治いえはるにしろ、意知おきともにしろそうおもった。

 つまりは井上正在いのうえまさあり稲葉いなば正明まさあきらおそれて、あるいは取入とりいろうとして、しくはその両方りょうほうからか、えて稲葉いなば正明まさあきらの「手柄てがら」であるとみとめることにより、正明まさあきらの「おぼえ」を目出度めでたくしようとしたのではあるまいか―、そんなところであった。

 家治いえはる意知おきともがそううたがうのには「伏線ふくせん」があった。

 それと言うのも今日きょう目黒めぐろほとりにおける鷹狩たかがりには本来ほんらい稲葉いなば正明まさあきら扈従こしょうする予定よていはなかった。

 それが3日前の10日になってきゅう稲葉いなば正明まさあきら将軍しょうぐん家治いえはるたいして、

おのれたまさかには鷹狩たかがりに扈従こしょうしたい…」

 そう懇願こんがんしたのであった。

 鷹狩たかがりに稲葉いなば正明まさあきらようそば用取次ようとりつぎや、あるいは側用人そばようにん扈従こしょうすることはけっしてめずらしいことではなく、そこで家治いえはる稲葉いなば正明まさあきらねがいをゆるしたのであった。

 すると正明まさあきら早速さっそく、「戦功認定せんこうにんてい」にたる目附めつけくちはさんできたのであった。

 本来ほんらい目附めつけなかでも安藤あんどう郷右衛門ごうえもん惟徳これのりが「戦功認定せんこうにんてい」をつとめるはずであったが、正明まさあきらはこれを井上正在いのうえまさありへと変更へんこうさせたのであった。

 安藤あんどう郷右衛門ごうえもんに「戦功認定せんこうにんてい」にたらせようとしたのはほかならぬ意知おきともであった。

 月番つきばん免除めんじょされているため将軍しょうぐん家治いえはる鷹狩たかがりに毎回まいかい扈従こしょうすることが義務付ぎむづけられている意知おきともはそれゆえに、どの目附めつけに「戦功認定せんこうにんてい」にたらせるか、目附めつけとも相談そうだんうえという条件付じょうけんつきながら、その「人選じんせん」をまかされてもいた。

 意知おきとも安藤あんどう郷右衛門ごうえもんえらんだのにはかる背景はいけいがあり、それを稲葉いなば正明まさあきらくつがえしたのであった。

 目附めつけ将軍しょうぐん直接ちょくせつ言上ごんじょう、それも旗本はたもと御家人ごけにんだけでなく、直属ちょくぞく上司じょうしである若年寄わかどしよりもとより、さらにそのうえ老中ろうじゅう非違ひいさえも「告口つげぐち」することがゆるされているために、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりからもおそれられている存在そんざいであった。

 だがその目附めつけそば用取次ようとりつぎにはかなわず、そのそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらの「口出くちだし」についてはさしもの目附めつけも、これを受容うけいれざるをない。

 それは若年寄わかどしより意知おきともにしても同様どうようであり、若年寄わかどしよりそば用取次ようとりつぎ一応いちおう同格どうかくではあるものの、意知おきともいま部屋へやずみぎないのにたいして、稲葉いなば正明まさあきられきとした大名だいみょうであった。

 それゆえ正明まさあきらほう意知おきともよりも格上かくうえであり、意知おきとももまた、その正明まさあきらの「口出くちだし」に際会さいかいしてはだまって引下ひきさがらざるをない。

 かる次第しだい井上正在いのうえまさあり今日きょう目黒めぐろほとりにおける「戦功認定せんこうにんてい」にたったわけだが、意知おきともはひどくやんだ。

 それこそが井上正在いのうえまさあり稲葉いなば正明まさあきらへの「忖度そんたく」であった。

 いやたして「忖度そんたく」があったのかどうか、それはからない。かくたるあかしはどこにもないからだ。

 もしかしたらとうなる「戦功認定せんこうにんてい」やもれなかったからだ。

 だとするならば意知おきともとしては迂闊うかつに「忖度そんたく」であると、さわてることも出来できず、だまっていたのだ。

 それは家治いえはるにしても同様どうようであった。家治いえはるもまた、稲葉いなば正明まさあきらたちの「手柄てがら」にたいする疑問ぎもんから正明まさあきら扈従こしょうゆるしてしまったことを今更いまさらながらも後悔こうかいしたものの、しかし、その正明まさあきらたちの「手柄てがら」をうたがうにかくたるあかしがない以上いじょうはやはり迂闊うかつ疑問ぎもんこえげることはげんつつしまねばならなかった。

 だが結論けつろんから言えば家治いえはる意知おきとも疑問ぎもんあるいは後悔こうかいといったその直感ちょっかんただしかったのだ。

 それと言うのも、稲葉いなば正明まさあきら一橋ひとつばし治済はるさだけて今日きょう目黒めぐろほとりにおける鷹狩たかがりに「立候補りっこうほ」したのであった。
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