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天明4年閏正月13日の目黒の邊(ほとり)における鷹狩り 後篇

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愚息ぐそくめにもすこしくはれの舞台ぶたいを…」

 この一言ひとこと切欠きっかけであった。

 こえぬし田安たやす番頭ばんがしら中田なかた左兵衛さへえ正綱まさつなであり、要約ようやくすれば、

鷹狩たかがりにおいて愚息ぐそく宇兵衛うへえ正喜まさよし供弓ともゆみとして活躍かつやくさせてやりたい…」

 つまりはそれであり、一橋ひとつばし治済はるさだへの「陳情ちんじょう」であった。

 それにたいして治済はるさだはと言うと、中田なかた左兵衛さへえの「陳情ちんじょう」をいてやらなければならない義理ぎり、いや、義務ぎむがあった。

 なにしろ治済はるさだ定信さだのぶふんして佐野さの善左衛門ぜんざえもんうべく、ようおのれ定信さだのぶであると佐野さの善左衛門ぜんざえもんしんませるべく、その「舞台ぶたい」として用意よういした田安家たやすけ下屋敷しもやしきであるが、田安たやす番頭ばんがしらである中田なかた左兵衛さへえ協力きょうりょくがあればこそ、であった。

 中田なかた左兵衛さへえ治済はるさだために、田安家たやすけに、こと女主おんなあるじ寶蓮院ほうれんいん気付きづかれぬようちからくしてくれたかげで、治済はるさだなん気兼きがねもなしに、田安家たやすけ下屋敷しもやしき勝手かって使つかうことが出来できたのであった。

 そうであれば治済はるさだとしてはそんな中田なかた左兵衛さへえからのたのみとあらばなんとしてでもかなえてやらなければならなかった。

 そこで治済はるさだはまず、中田なかた宇兵衛うへえ供弓ともゆみえらばれるようちからくすことからはじめた。

 さいわいにも中田なかた宇兵衛うへえ弓矢ゆみや技量ぎりょうすぐれ、供弓ともゆみの「有資格者ゆうしかくしゃ」と言えた。

 もっとも、中田なかた宇兵衛うへえぞくする本丸ほんまる書院番しょいんばん2番組ばんぐみ人材じんざいめぐまれており、中田なかた宇兵衛うへえほどの「腕前うでまえ」のものならばめずらしくもなかった。

 実際じっさい当初とうしょ、2番組ばんぐみ組頭くみがしらである安部あべ又四郎またしろう信門のぶかどえらんだ供弓ともゆみなかには中田なかた宇兵衛うへえはなかった。

 そこで治済はるさだ安部あべ又四郎またしろうに「圧力あつりょく」をけたのであった。

 これまたさいわいなことに、安部あべ又四郎またしろうもまた一橋家ひとつばしけとは「所縁ゆかり」があった。

 すなわち、安部あべ又四郎またしろう二人ふたり実妹じつまい一橋家ひとつばしけとは「所縁ゆかり」のある高尾家たかおけ野々山家ののやまけ夫々それぞれとついでいたために、治済はるさだはその「所縁ゆかり」をたよりに、安部あべ又四郎またしろうにも「触手しょくしゅ」をばし、これを手懐てなずけておいたのだ。

 そして供弓ともゆみの「選抜せんばつ」だが、安部あべ又四郎またしろうよう組頭くみがしら実質的じっしつてき決定権けっていけんがあり、そこで治済はるさだ安部あべ又四郎またしろう中田なかた宇兵衛うへえ供弓ともゆみえらんでくれるようたのんだのであった。

 じつはこのとき安部あべ又四郎またしろうまよっていたのだ。

 それと言うのも安部あべ又四郎またしろう定員ていいんが5人の供弓ともゆみなかで4人までは、

「スンナリと…」

 められたものの、のこる「1わく」について、島村しまむら市三郎いちさぶろう俊密としひき中田なかた宇兵衛うへえかでなやんでいたのだ。

 しくも島村しまむら市三郎いちさぶろう中田なかた宇兵衛うへえおなじく田安家臣たやすかしんせがれであり、それも用人ようにん島村しまむら惣左衛門そうざえもん俊久としひさせがれであった。

 そこで安部あべ又四郎またしろう治済はるさだよりの「依頼いらい」をけて、のこる「1わく」については中田なかた宇兵衛うへええらんだのであった。

 さて治済はるさだつぎなる「課題かだい」はその中田なかた宇兵衛うへえ供弓ともゆみとして見事みごと獲物えもの仕留しとめさせることであった。

 中田なかた宇兵衛うへえ実力じつりょく獲物えもの仕留しとめられれば、それにしたことはない。

 だが中田なかた宇兵衛うへえ実力じつりょく獲物えもの仕留しとめられる保証ほしょうはどこにもなかった。

 中田なかた宇兵衛うへえにはなんとしてでも供弓ともゆみとして「活躍かつやく」してもらわなければならない治済はるさだとしては宇兵衛うへえの「実力じつりょく」だけをてにすることは出来できなかった。

 そこで治済はるさだ今度こんどおのれつうずるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらうごかすことにしたのだ。

 それこそが稲葉いなば正明まさあきらの「立候補りっこうほ」であり、

おのれたまさかには鷹狩たかがりに扈従こしょうしたい…」

 将軍しょうぐん家治いえはるたいしてそう「名乗なのり」をげさせたのであった。

 こうして鷹狩たかがりに扈従こしょうすることとなった稲葉いなば正明まさあきら早速さっそく、「戦功認定せんこうにんてい」にたる目附めつけについてくちはさみ、井上いのうえ圖書頭ずしょのかみ正在まさありえらんだのであった。

 これもまた、治済はるさだけてのものであった。

 井上正在いのうえまさありもまた一橋家ひとつばしけとは「所縁ゆかり」のものであったので、そこで治済はるさだ稲葉いなば正明まああきらに「戦功認定せんこうにんてい」にたる目附めつけとして井上正在いのうえまさありえらばせたのであった。

 井上正在いのうえまさありじつ叔母おばはまたしても一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりのある野々山家ののやまけとついでおり、正在まさありじつむすめにしても同様どうようであった。

 そこで治済はるさだはこの井上正在いのうえまさありについてもすで手懐てなずけており、しかも将軍しょうぐん家治いえはるにはそのことに気付きづかれてはいなかったのだ。

 かくして中田なかた宇兵衛うへえの「手柄てがら」はその実力じつりょくによるものではなく、稲葉いなば正明まさあきら井上正在いのうえまさありとの「合作がっさく」によるものであった。

 具体的ぐたいてきにはこうである。

 将軍しょうぐん家治いえはるぜんにおいて供弓ともゆみたちは勢子せこによって追立おいたてられた獲物えもの目掛めがけて一斉いっせい弓矢ゆみやはなつ。

 その直後ちょくご、「戦功認定せんこうにんてい」にたる目附めつけ井上正在いのうえまさあり真先まっさきにその方角ほうがくへとはしり、するとそこには射落いおとされた獲物えものが―、雑鴨くさぐさのかもをはじめ、青鴨あおがも小鴨こがも小鷺こさぎ玄鶴げんかくなどがあった。

 すると井上正在いのうえまさありはそのなかでも一羽いちわ雑鴨くさぐさのかもけた。

 その雑鴨くさぐさのかもさっていた弓矢ゆみやはねにはやはりと言うべきか、

しょ羽太はぶと

 そのがあしらわれていた。

 これは書院番しょいんばん番組ばんぐみ羽太はぶと清左衛門せいざえもん正忠まさただはなったであることを意味いみしていた。

 その雑鴨くさぐさのかもさっていたということは、つまりは羽太はぶと清左衛門せいざえもん仕留しとめたことを意味いみしていた。

 そこで井上正在いのうえまさありはその引抜ひきぬいたかとおもうと、あらかじめ中田なかた宇兵衛うへえよりあずかっていたをその雑鴨くさぐさのかもあらためて「疵口きずぐち目掛めがけて押込おしこんだのであった。

 このかん井上正在いのうえまさありの「工作こうさく」がバレないようにと、稲葉いなば正明まさあきらが「たて」となっていた。稲葉いなば正明まさあきら井上正在いのうえまさありとも獲物えもの射落いおとされた方角ほうがくへとはしり、そして正在まさありの「たて」となった。

 ところで井上正在いのうえまさありの「工作こうさく」だが、これにとどまらなかった。

 中田なかた宇兵衛うへえともに5人の小納戸こなんどと、それに稲葉いなば正明まさあきらまでも獲物えもの仕留しとめることに成功せいこうしたわけだが、しかしこれもじつ井上正在いのうえまさありの「工作こうさく」による。

 いや、5人の小納戸こなんどなかでも杉山すぎやま藤之助とうのすけ正久まさひさだけは間違まちがいなく、その当人とうにん実力じつりょくによる。

 杉山すぎやま藤之助とうのすけだけはその実力じつりょくにより雑鴨くさぐさのかも青鴨あおがも仕留しとめたのであるが、あとの4人の小納戸こなんどとそれに稲葉いなば正明まさあきらについては井上正在いのうえまさありの「工作こうさく」によりその「戦功せんこう」がみとめられたにぎない。

 それでは何故なにゆえ井上正在いのうえまさあり中田なかた宇兵衛うへえだけにとどまらず、稲葉いなば正明まさあきらたちのためにもかる「工作こうさく」をほどこしたのかと言うと、それは勿論もちろん治済はるさだけてのものであった。

中田なかた宇兵衛うへえため井上正在いのうえまさあり工作こうさくさせるなら…」

 けの駄賃だちんよろしく、治済はるさだ稲葉いなば正明まさあきらたちのためにも―、正明まさあきらたちにもはなたせてやろうと、そこで井上正在いのうえまさありに「工作こうさく」させることにしたのだ。

 治済はるさだがいつもおのれ便宜べんぎはかってくれる稲葉いなば正明まさあきらはなたせてやろうとかんがえたのは当然とうぜんとして、4人の小納戸こなんどすなわち、鈴木すずき帯刀正國たてわきまさくに内山うちやま茂十郎もじゅうろう永恭ながのり岩田いわた平十郎へいじゅうろう定功さだとし石黒いしぐろ官次郎かんじろう易明やすあきの4人の小納戸こなんどにまではなたせてやろうとかんがえたのはほかでもない、彼等かれらもまた一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりものであったからだ。

 こと石黒いしぐろ官次郎かんじろうなどは一橋家ひとつばしけ家老かろうはやし忠篤ただあつ実弟じっていであったのだ。

 おな家老かろうでも秋霜烈日しゅうそうれつじつなるつとめぶりの水谷勝富みずのやかつとみとはことなり、はやし忠篤ただあつ治済はるさだじつ忠実ちゅうじつなる「番犬ばんけん」であり、そこで治済はるさだ忠篤ただあつのその忠実ちゅうじつなる「番犬ばんけん」ぶりにむくいるべく、その実弟じっていである石黒いしぐろ官次郎かんじろうはなたせることにしたのであった。

 そこには雑鴨くさぐさのかもほかにも青鴨あおがも小鴨こがも小鷺こさぎ玄鶴げんかく射落いおとされており、それらとりっていたはねには、

しょうとう新見大炊しんみおおい

しょう水野相模みずのさがみ

なん大久保おおくぼ半五郎はんごろう

なん吉川一學よしかわいちがく

 それらのがあしらわれていた。

 たとえば「しょうとう新見大炊しんみおおい」だが、これは小姓頭取こしょうとうどり新見しんみ大炊頭おおいのかみ正徧まさゆきあらわしていた。

 つまり新見しんみ正徧まさゆきという意味いみであり、その青鴨あおがも小鴨こがも小鷺こさぎさっていたので、新見しんみ正徧まさゆき仕留しとめた獲物えものであることを意味いみしていた。

 そこで井上正在いのうえまさありはそれらの獲物えものから新見しんみ正徧まさゆき引抜ぬきぬくと、これまたあらかじ鈴木すずき帯刀たてわきよりあずかっていた

なん鈴木すずき帯刀たてわき

 はねにそうあしらわれていたふたたび、「疵口きずぐち目掛めがけて押込おしこんだのであった。

 井上正在いのうえまさありおな要領ようりょう次々つぎつぎ獲物えものから引抜ひきぬいては内山うちやま茂十郎もじゅうろう岩田いわた平十郎へいじゅうろう石黒いしぐろ官次郎かんじろうからもあらかじあずかっておいたと、すりえたのであった。

 そして最後さいご一番いちばんえた玄鶴げんかくには、

少老しょうろう田沼たぬま山城やましろ

 そのはねにあしらわれたさっていた。

 これは少老しょうろうこと若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきとも仕留しとめた玄鶴げんかくであることを意味いみしており、井上正在いのうえまさあり勿論もちろん、その玄鶴げんかくから引抜ひきぬくと、いや、それにらずたたると、稲葉いなば正明まさあきらをその玄鶴げんかくの「疵口きずぐち」へと押込おしこんだのであった。

 かくして稲葉いなば正明まさあきらたちは「手柄てがら」をてられたわけで、それは不正ふせいきわみであったものの、しかし生憎あいにく稲葉いなば正明まさあきら井上正在いのうえまさあり不正ふせいしょうするものはなにもなかったので、中田なかた宇兵衛うへえらには後日ごじつ将軍しょうぐん家治いえはるより褒美ほうびしなおくられることに相成あいなったのだ。

 それだけではない。治済はるさだ稲葉いなば正明まさあきら井上正在いのうえまさありけしかけての、それらの不正ふせい逆用ぎゃくよう逆手さかてったのだ。

此度こたび目黒めぐろほとりにおける鷹狩たかがりだが、そば用取次ようとりつぎ稲葉いなばさま随行ずいこうなされたゆえただしく戦功認定せんこうにんていおこなわれたようだ…」

 治済はるさだ松平まつだいら忠香ただよしかいいて佐野さの善左衛門ぜんざえもんにそう吹込ふきこんだのであった。

 すなわち、今回こんかい目黒めぐろほとりにおける鷹狩たかがりには稲葉いなば正明まさあきらひからせていたために、さしもの田沼たぬま意知おきとももその専横せんおうがままならず、ただしい戦功認定せんこうにんていおこなわれた―、田安たやす番頭ばんがしら中田なかた左兵衛さへえそく宇兵衛うへえ手柄てがらただしく評価ひょうかされたのがそのなによりのあかしであり、これでかり稲葉いなば正明まさあきらがいなければ、中田なかた宇兵衛うへえ手柄てがら間違まちがいなく意知おきともによってにぎつぶされ、そのうえ意知おきともおのれいきかった番士ばんし手柄てがらとしたにちがいない―、治済はるさだ松平まつだいら忠香ただよしめいじて佐野さの善左衛門ぜんざえもんにそう吹込ふきこませたのであった。

 治済はるさだのその虚言きょげん田安贔屓たやすびいき佐野さの善左衛門ぜんざえもんにはじつみみ心地ごこちいものであり、なんうたがいもせずに額面通がくめんどおりに受止うけとめたのであった。
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