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西之丸中奥御座之間、将軍・家治による次期将軍にして愛息の家基の毒見役の再確認 ~西之丸御膳番小納戸篇~
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家治は西之丸御膳奉行の中でも郷渡三郎兵衛を「要注意」としてチェックするや、続いて御膳番小納戸の再確認へと移った。
「御膳番小納戸は確か、田沼市左衛門と石谷左門であったな…」
家治はそう呟いた。
小納戸の中でも御膳番を兼ねる小納戸の定員は8人であり、これは本丸、西之丸共に変わらない。
今、家基に御膳番として仕える小納戸は田沼市左衛門こと市左衛門意致と石谷左門こと左門清定の2人の外に6人、6人の小納戸を加えた8人である。
その中でも家治が田沼市左衛門と石谷左門の2人だけを把握していたのは外でもない、この2人は家治自身が「リクエスト」したものだからだ。
即ち、7年前の明和3(1766)年3月に石谷左門が新たに西之丸小納戸に加わるや、
「石谷左門を御膳番に…」
家治は西之丸サイドにそう「リクエスト」をしたのであった。
家治が石谷左門に御膳番を兼ねさせ様と欲したのは偏に、
「石谷左門と田沼家との所縁…」
それを評価してのことである。
即ち、石谷左門は新見正則の次女を、つまりは田沼意次が実妹、肇が新見正則との間にもうけた次女を娶っており、
「田沼家と所縁のありし石谷左門なれば見事、御膳番の役を相勤めてくれ様ぞ…」
換言すれば家基の毒見役を見事に勤めてくれるものと、更に言うならば家基の命を守ってくれるものと、家治はそう信じて、石谷左門を御膳番に望んだのであった。
将軍・家治の田沼家に、否、意次に対する信頼が如何に深いか、窺い知れよう。
ともあれ西之丸サイドとしては将軍・家治の希望である以上、これを拒否することは出来ない。
が、その時点で―、石谷左門が西之丸小納戸に取立てられた明和3(1766)年3月の時点で既に8人の御膳番を兼ねる小納戸が存しており、そこへ新たに石谷左門を召加えることになると、誰か一人、御膳番を解く必要があった。
そこで西之丸サイドとしてはこの際、御膳番を総入替することにし、その旨、家治へと伝えた。
すると家治はこれを許した上で、
「田沼市左衛門だけは残し、そこへ石谷左門を新たに召加え、残る6人については…、何れの小納戸に膳番を担わせるか、そは適当に決めて良い…」
西之丸サイドへと斯かる指示を出したのであった。
田沼市左衛門が西之丸小納戸に取立てられたのは更にこれより3年前、宝暦13(1763)年7月のことであり、田沼市左衛門もまた、家治の希望により直ちに御膳番小納戸を兼ねしめられた。やはり「田沼家との所縁」、それも意次の実の甥である点を家治に評価されてのことである。
つまり石谷左門が西之丸小納戸に取立てられた時点においてはこの、田沼市左衛門とそれに外の5人の小納戸の合わせて6人が御膳番を担っていたのだ。
さて、西之丸サイドでは家治の意向を受け、御膳番にまず、田沼市左衛門と石谷左門の2人を「当確」とし、残る「6枠」についてだが、まずは夫々の「同期の櫻」より「2枠」ずつ、選ぶことにした。
田沼市左衛門は宝暦13(1763)年の7月は15日に西之丸小納戸に取立てられたものであるが、この時、外にも曲淵伊左衛門景壽、高井準之助實員、それに村上求馬正武の3人が西之丸小納戸に取立てられ、一方、石谷左門は明和3(1766)年3月は27日に河野勘四郎通秀、遠山金次郎景保、山本八郎右衛門茂珍、阿部繼太郎正保、小出亀次郎有福、亀井斧吉清容の6人と共に西之丸小納戸に取立てられた。
そこで西之丸サイドでは残る「4枠」の御膳番について、宝暦13(1763)年7月15日に西之丸小納戸に取立てられた、つまりは田沼市左衛門と「同期の櫻」より2人、同じく明和3(1766)年3月27日に西之丸小納戸に取立てられた、石谷左門と「同期の櫻」より2人、夫々、選ぶことにした。
結果、田沼市左衛門とは「同期の櫻」組よりは曲淵伊左衛門と高井隼之助が、石谷左門とは「同期の櫻」組よりは遠山金次郎と亀井斧吉が夫々、御膳番に選ばれ今に至る。
こうして「6枠」の内、「4枠」が「同期の櫻」で占められ、残るは「2枠」。そこで水上興正はこの残る「2枠」については田沼市左衛門たち、さしずめ、
「宝暦13(1763)年7月15日組」
その先輩と後輩より一人ずつ選んだ。
田沼市左衛門たち「宝暦13(1763)年7月15日組」の先輩に当たるのが、それより1年前に西之丸小納戸に取立てられた、
「宝暦12(1762)年12月15日組」
であり、石場弾正政恒が選ばれた。
一方、後輩だが、それは「明和元(1764)年10月8日組」であり、それも石谷左門が西之丸小納戸に取立てられた明和3(1766)年3月27日の時点では新見勘左衛門正房唯一人であった。
それと言うのもこの日は新見勘左衛門とは「同期の櫻」、「明和元(1764)年10月8日組」の西之丸小納戸が唯一人、新見勘左衛門を除いて皆、西之丸小姓へと「栄転」を果たしたからだ。
「小笠原大炊頭政久」
「西尾出雲守教富」
「佐野兵庫頭徳行」
この3人がそうであり、従六位布衣役の西之丸小納戸から従五位下諸太夫役の西之丸小姓へと「栄転」を果たし、一方、新見勘左衛門だけは西之丸小納戸に留置かれた。
尤も、これは家基が新見勘左衛門を冷遇しての処置ではない。
それどころか「厚遇」であり、一見、「栄転」を果たしたかに見える3人こそ、実は家基に「冷遇」されての「栄転」であった。
即ち、家基は「明和元(1764)年10月8日組」の中でもとりわけ新見勘左衛門を寵愛し、外の3人に対してはそれ程、寵愛せず、中でも小笠原政久のことは嫌っていた。
そこで家基は明和3(1766)年3月27日に石谷左門たちが西之丸小納戸に取立てられたのを機会とばかり、小笠原政久政久、西尾教富、佐野徳行の3人を西之丸小姓へと「栄転」、その実、「棚上げ」したのであった。
小姓と小納戸では格こそ小姓の方が上であるものの、主君たる将軍、或いは次期将軍との「接触頻度」という点においては小納戸の方が小姓よりも上回る。
小納戸の方が小姓よりも主君たる将軍、或いは次期将軍と接触する機会が多かったのだ。
そこで家基は新見勘左衛門だけを言うなれば、
「手許に残し…」
外の3人は小姓へと「放逐」、それで悪ければ、
「敬して遠ざけた…」
正しく「敬遠」したのであった。
西之丸サイドも、それも御側御用取次の水上美濃守興正もその間の「事情」は承知していたので、そこで新見勘左衛門をも新たな御膳番に召加えたのであり、今の家治からの「ご下問」に対して水上興正が即答したのも、出来たのもその為である。
今、西之丸はここ中奥において「最高長官」として君臨する御側御用取次には水上興正と、それに今一人、佐野右兵衛尉茂承が任じられていた。
が、家治が西之丸サイドへと6人の御膳番小納戸の人選を丸投げした明和3(1766)年3月27日の時点では西之丸御側御用取次は水上興正唯一人、一方、佐野茂承も既に御側衆ではあったが、まだ筆頭の御用取次の地位にはなく、一介の平御側に過ぎなかった。
そこで水上興正が一人で6人の御膳番の人選に当たった次第であり、家治よりの今の「ご下問」に即答出来たのもその為であった。
さて、家治が西之丸サイドへと、即ち、水上興正にその人選を「丸投げ」した為に把握していなかった以上6人の御膳番小納戸だが、
「石場弾正政恒」
「新見勘左衛門正房」
「曲淵伊左衛門景壽」
「高井隼之助實員」
「遠山金次郎景保」
「亀井斧吉清容」
水上興正の口よりその6人の名がスラスラと告げられるや、表右筆の吉松伊兵衛もそれに合わせて分限帳の束を繰り、その6人の分限帳を取出すと、既に取出しておいた田沼市左衛門と石谷左門、この2人の分限帳と共に意知に渡した。
すると意知はこの8人の分限帳を誰に渡すべきか、戸惑った。
先程の西之丸御膳奉行の分限帳についてはその直属の上司とも言うべき支配役たる若年寄に渡せば良く、実際、意知は迷うことなく西之丸若年寄に、それも酒井忠香へと分限帳を託した。
が、小納戸ともなると少し厄介であった。
それと言うのも小納戸もまた、御膳奉行と同じく若年寄支配の役職ではあるものの、小納戸は中奥役人であり、その点、表向役人の御膳奉行とは異なり、実際には小納戸頭取衆の支配下にあった。
そうであればこの8人分の西之丸小納戸の分限帳は事実上の上司とも言うべき西之丸小納戸頭取衆に託すのが筋であるとも言え、果たしてこの8人分の分限帳、形式上の上司たる若年寄に託すべきか、それとも事実上の上司たる小納戸頭取衆に託すべきかで、意知は悩んだ。
余りに馬鹿馬鹿しい悩みだが、しかしこの手の「順序」を間違えると、後々、響く。
そして仮に西之丸小納戸頭取衆に分限帳を託すとして、その場合にはここ御座之間の上段に面した入側へと移動する必要があった。
今、この御座之間上段には西之丸小納戸衆はおらず、その入側にて西之丸小納戸衆の一人、新見正則が倅にして本丸小姓の新見正徧と共に控えていたからだ。
意知としては新見正則の方が西之丸若年寄の酒井忠香よりも分限帳を託し易かった。何しろ身内だからだ。
しかしその為には態々、入側へと移動しなければならず、それで意知より分限帳を託された新見正則が将軍・家治へと直に手渡してくれれば良いが、実際にはそうはならない。
新見正則は意知から分限帳を託されるや、入側から上段へと移るだろうが、しかし直ぐには家治にその分限帳を渡さずに、まず直属の上司たる御側御用取次、それも佐野茂承へと渡すであろう。
そして分限帳は佐野茂承から更に「先輩」の相役、水上興正へと回され、水上興正より漸くに家治の手許に届けられるに違いない。
つまり家治が「お目当て」の分限帳は態々、入側を迂回して家治の手許へと届けられることになり、これまた余りにも馬鹿馬鹿しい「時間的ロス」と言えた。
意知が家治所望の分限帳を抱えたまま、上段の末席にて誰にこの分限帳を託すべきかで逡巡していると、その様を上段の上座にて眺めていた家治が遂に痺れを切れさせた。
「意知、これへ…」
直接、俺の手許に分限帳を持って来いと、家治は意知に命じたのだ。
だが意知としては如何に将軍・家治の命と雖も、直ぐには応じられなかった。
迂闊に意知が将軍・家治へと分限帳を渡す様な真似をすれば、今ここ上段にて控える老中や若年寄、或いは御側御用取次や場合によっては身内である筈の新見正則からさえも、
「蔑ろにしとってからに…」
そう思われるやも知れず、それは怨みへと転化、昇華するやも知れない。
それ故、意知は直接に家治へと分限帳を渡すことを逡巡していたのだ。
するとここで本丸老中、それも首座の松平武元が意知に「助け舟」を出した。
「意知、畏れ多くも上様が思召しぞ…、されば早うに上様にその分限帳を渡し申上げるが良かろう…、意知が直接に上様に分限帳を渡し申上げしところで、誰も何とも思わぬ…」
武元は意知の方を振向いてそう告げた。
武元が意知へと向ける表情は正に、
「西之御丸の爺…」
その綽名に相応しい柔和なものであった。
が、意知から次いで西之丸老中や若年寄へと顔を向けるや、武元はそれまでの柔和な表情を一変させた。
武元は「鬼の形相」を浮かべ、西之丸老中や若年寄を睨みつつ、
「異存はあるまいの…」
そう告げたのであった。そこには、
「意知が直接に上様に分限帳を渡し申上げたからと申して、それで意知に嫉妬し、それこそ意地悪でも致そうものなら…、否…、斯様な実に怪しからぬ感情を抱くだけでもこの武元が許さぬぞ…」
その様な意図が篭められていたからだ。
対する西之丸老中や若年寄たちもその、武元の恐ろしい形相を前にしては思ず俯いた。
無論、武元のその「意図」についても看取し、それ故、意知への悪感情など芽生えさせることも出来なかった。武元への恐怖心が意知への悪感情を遥かに上回るものがあったからだ。
武元も西之丸老中や若年寄たちの態度からそうと察したのか、再び柔和な表情へと戻らせて意知へと視線を戻すや、
「意知よ、ささっ…、早うにその分限帳を上様に…」
意知をそう促したので、意知もこれで漸くに、
「誰憚らず…」
家治へと分限帳を渡すことが出来た。
家治は意知から分限帳を受取るや、家基とは正反対、つまりは弟・重好の真横の方面、入側にて控える新見正則・正徧父子に対して上段に入る様、命じてから愈々、分限帳を繰り始めた。
その内、田沼市左衛門と石谷左門、この2人の分限帳については家治はサッと「斜め読み」するに止めた。田沼市左衛門と石谷左門の2人に問題がないことは、この2人を御膳番に「リクエスト」した当人である家治自身が一番良く分かっていたからだ。
問題は残る6人についてであり、家治はこの6人に果たして治済との「所縁」があるのか、それを確かめるべく今度は、
「目を皿にして…」
隅から隅まで分限帳に目を通した。
その結果、分限帳からは治済の「影」は見当たらず、それどころか清水重好の「影」を、即ち「所縁」を見て取ることが出来た程であった。
石場弾正と亀井斧吉の2人がそうであり、石場弾正が実弟の采女定門は清水家臣、それも近習番として重好の側近くにて仕えていたのだ。
流石は水上興正が人選だと、家治は|舌《した」を巻いた。
するとそこへ入側より上段へと移って来たばかりの新見正則が「畏れながら…」と割って入るや、
「亀井斧吉でござりまするが、その本家筋の亀井平三郎清永は勘定奉行、石谷備後守清昌が実弟…、つまりは石谷左門が実の叔父にて…」
そう補足したのであった。それは田沼家、それも意次との「所縁」を示唆するものであり、家治は思わず、「真実かと?」と正則に聞返した。
「御意…」
正則がそう即答したので、家治は次いで水上興正の方を向いて、
「それ故に亀井斧吉を態々、御膳番に?」
意次を信頼するこの家治の気持ちを良く汲取ってこの亀井斧吉を御膳番に選んでくれたのかと、家治は興正に尋ね、すると興正からも「御意」との返事が聞かれた。
無論、だからと言ってこれで安心は出来ない。治済はこの先、8人の御膳番小納戸に触手を、魔の手を伸ばさないとも限らないからだ。
だが今は水上興正の人選を褒めるべきであろう。それに絶妙なタイミングでの補足説明をしてくれた新見正則をも褒めるべきであろう。
家治は水上興正と新見正則の両人に対して、その働きぶりを褒めた。
「御膳番小納戸は確か、田沼市左衛門と石谷左門であったな…」
家治はそう呟いた。
小納戸の中でも御膳番を兼ねる小納戸の定員は8人であり、これは本丸、西之丸共に変わらない。
今、家基に御膳番として仕える小納戸は田沼市左衛門こと市左衛門意致と石谷左門こと左門清定の2人の外に6人、6人の小納戸を加えた8人である。
その中でも家治が田沼市左衛門と石谷左門の2人だけを把握していたのは外でもない、この2人は家治自身が「リクエスト」したものだからだ。
即ち、7年前の明和3(1766)年3月に石谷左門が新たに西之丸小納戸に加わるや、
「石谷左門を御膳番に…」
家治は西之丸サイドにそう「リクエスト」をしたのであった。
家治が石谷左門に御膳番を兼ねさせ様と欲したのは偏に、
「石谷左門と田沼家との所縁…」
それを評価してのことである。
即ち、石谷左門は新見正則の次女を、つまりは田沼意次が実妹、肇が新見正則との間にもうけた次女を娶っており、
「田沼家と所縁のありし石谷左門なれば見事、御膳番の役を相勤めてくれ様ぞ…」
換言すれば家基の毒見役を見事に勤めてくれるものと、更に言うならば家基の命を守ってくれるものと、家治はそう信じて、石谷左門を御膳番に望んだのであった。
将軍・家治の田沼家に、否、意次に対する信頼が如何に深いか、窺い知れよう。
ともあれ西之丸サイドとしては将軍・家治の希望である以上、これを拒否することは出来ない。
が、その時点で―、石谷左門が西之丸小納戸に取立てられた明和3(1766)年3月の時点で既に8人の御膳番を兼ねる小納戸が存しており、そこへ新たに石谷左門を召加えることになると、誰か一人、御膳番を解く必要があった。
そこで西之丸サイドとしてはこの際、御膳番を総入替することにし、その旨、家治へと伝えた。
すると家治はこれを許した上で、
「田沼市左衛門だけは残し、そこへ石谷左門を新たに召加え、残る6人については…、何れの小納戸に膳番を担わせるか、そは適当に決めて良い…」
西之丸サイドへと斯かる指示を出したのであった。
田沼市左衛門が西之丸小納戸に取立てられたのは更にこれより3年前、宝暦13(1763)年7月のことであり、田沼市左衛門もまた、家治の希望により直ちに御膳番小納戸を兼ねしめられた。やはり「田沼家との所縁」、それも意次の実の甥である点を家治に評価されてのことである。
つまり石谷左門が西之丸小納戸に取立てられた時点においてはこの、田沼市左衛門とそれに外の5人の小納戸の合わせて6人が御膳番を担っていたのだ。
さて、西之丸サイドでは家治の意向を受け、御膳番にまず、田沼市左衛門と石谷左門の2人を「当確」とし、残る「6枠」についてだが、まずは夫々の「同期の櫻」より「2枠」ずつ、選ぶことにした。
田沼市左衛門は宝暦13(1763)年の7月は15日に西之丸小納戸に取立てられたものであるが、この時、外にも曲淵伊左衛門景壽、高井準之助實員、それに村上求馬正武の3人が西之丸小納戸に取立てられ、一方、石谷左門は明和3(1766)年3月は27日に河野勘四郎通秀、遠山金次郎景保、山本八郎右衛門茂珍、阿部繼太郎正保、小出亀次郎有福、亀井斧吉清容の6人と共に西之丸小納戸に取立てられた。
そこで西之丸サイドでは残る「4枠」の御膳番について、宝暦13(1763)年7月15日に西之丸小納戸に取立てられた、つまりは田沼市左衛門と「同期の櫻」より2人、同じく明和3(1766)年3月27日に西之丸小納戸に取立てられた、石谷左門と「同期の櫻」より2人、夫々、選ぶことにした。
結果、田沼市左衛門とは「同期の櫻」組よりは曲淵伊左衛門と高井隼之助が、石谷左門とは「同期の櫻」組よりは遠山金次郎と亀井斧吉が夫々、御膳番に選ばれ今に至る。
こうして「6枠」の内、「4枠」が「同期の櫻」で占められ、残るは「2枠」。そこで水上興正はこの残る「2枠」については田沼市左衛門たち、さしずめ、
「宝暦13(1763)年7月15日組」
その先輩と後輩より一人ずつ選んだ。
田沼市左衛門たち「宝暦13(1763)年7月15日組」の先輩に当たるのが、それより1年前に西之丸小納戸に取立てられた、
「宝暦12(1762)年12月15日組」
であり、石場弾正政恒が選ばれた。
一方、後輩だが、それは「明和元(1764)年10月8日組」であり、それも石谷左門が西之丸小納戸に取立てられた明和3(1766)年3月27日の時点では新見勘左衛門正房唯一人であった。
それと言うのもこの日は新見勘左衛門とは「同期の櫻」、「明和元(1764)年10月8日組」の西之丸小納戸が唯一人、新見勘左衛門を除いて皆、西之丸小姓へと「栄転」を果たしたからだ。
「小笠原大炊頭政久」
「西尾出雲守教富」
「佐野兵庫頭徳行」
この3人がそうであり、従六位布衣役の西之丸小納戸から従五位下諸太夫役の西之丸小姓へと「栄転」を果たし、一方、新見勘左衛門だけは西之丸小納戸に留置かれた。
尤も、これは家基が新見勘左衛門を冷遇しての処置ではない。
それどころか「厚遇」であり、一見、「栄転」を果たしたかに見える3人こそ、実は家基に「冷遇」されての「栄転」であった。
即ち、家基は「明和元(1764)年10月8日組」の中でもとりわけ新見勘左衛門を寵愛し、外の3人に対してはそれ程、寵愛せず、中でも小笠原政久のことは嫌っていた。
そこで家基は明和3(1766)年3月27日に石谷左門たちが西之丸小納戸に取立てられたのを機会とばかり、小笠原政久政久、西尾教富、佐野徳行の3人を西之丸小姓へと「栄転」、その実、「棚上げ」したのであった。
小姓と小納戸では格こそ小姓の方が上であるものの、主君たる将軍、或いは次期将軍との「接触頻度」という点においては小納戸の方が小姓よりも上回る。
小納戸の方が小姓よりも主君たる将軍、或いは次期将軍と接触する機会が多かったのだ。
そこで家基は新見勘左衛門だけを言うなれば、
「手許に残し…」
外の3人は小姓へと「放逐」、それで悪ければ、
「敬して遠ざけた…」
正しく「敬遠」したのであった。
西之丸サイドも、それも御側御用取次の水上美濃守興正もその間の「事情」は承知していたので、そこで新見勘左衛門をも新たな御膳番に召加えたのであり、今の家治からの「ご下問」に対して水上興正が即答したのも、出来たのもその為である。
今、西之丸はここ中奥において「最高長官」として君臨する御側御用取次には水上興正と、それに今一人、佐野右兵衛尉茂承が任じられていた。
が、家治が西之丸サイドへと6人の御膳番小納戸の人選を丸投げした明和3(1766)年3月27日の時点では西之丸御側御用取次は水上興正唯一人、一方、佐野茂承も既に御側衆ではあったが、まだ筆頭の御用取次の地位にはなく、一介の平御側に過ぎなかった。
そこで水上興正が一人で6人の御膳番の人選に当たった次第であり、家治よりの今の「ご下問」に即答出来たのもその為であった。
さて、家治が西之丸サイドへと、即ち、水上興正にその人選を「丸投げ」した為に把握していなかった以上6人の御膳番小納戸だが、
「石場弾正政恒」
「新見勘左衛門正房」
「曲淵伊左衛門景壽」
「高井隼之助實員」
「遠山金次郎景保」
「亀井斧吉清容」
水上興正の口よりその6人の名がスラスラと告げられるや、表右筆の吉松伊兵衛もそれに合わせて分限帳の束を繰り、その6人の分限帳を取出すと、既に取出しておいた田沼市左衛門と石谷左門、この2人の分限帳と共に意知に渡した。
すると意知はこの8人の分限帳を誰に渡すべきか、戸惑った。
先程の西之丸御膳奉行の分限帳についてはその直属の上司とも言うべき支配役たる若年寄に渡せば良く、実際、意知は迷うことなく西之丸若年寄に、それも酒井忠香へと分限帳を託した。
が、小納戸ともなると少し厄介であった。
それと言うのも小納戸もまた、御膳奉行と同じく若年寄支配の役職ではあるものの、小納戸は中奥役人であり、その点、表向役人の御膳奉行とは異なり、実際には小納戸頭取衆の支配下にあった。
そうであればこの8人分の西之丸小納戸の分限帳は事実上の上司とも言うべき西之丸小納戸頭取衆に託すのが筋であるとも言え、果たしてこの8人分の分限帳、形式上の上司たる若年寄に託すべきか、それとも事実上の上司たる小納戸頭取衆に託すべきかで、意知は悩んだ。
余りに馬鹿馬鹿しい悩みだが、しかしこの手の「順序」を間違えると、後々、響く。
そして仮に西之丸小納戸頭取衆に分限帳を託すとして、その場合にはここ御座之間の上段に面した入側へと移動する必要があった。
今、この御座之間上段には西之丸小納戸衆はおらず、その入側にて西之丸小納戸衆の一人、新見正則が倅にして本丸小姓の新見正徧と共に控えていたからだ。
意知としては新見正則の方が西之丸若年寄の酒井忠香よりも分限帳を託し易かった。何しろ身内だからだ。
しかしその為には態々、入側へと移動しなければならず、それで意知より分限帳を託された新見正則が将軍・家治へと直に手渡してくれれば良いが、実際にはそうはならない。
新見正則は意知から分限帳を託されるや、入側から上段へと移るだろうが、しかし直ぐには家治にその分限帳を渡さずに、まず直属の上司たる御側御用取次、それも佐野茂承へと渡すであろう。
そして分限帳は佐野茂承から更に「先輩」の相役、水上興正へと回され、水上興正より漸くに家治の手許に届けられるに違いない。
つまり家治が「お目当て」の分限帳は態々、入側を迂回して家治の手許へと届けられることになり、これまた余りにも馬鹿馬鹿しい「時間的ロス」と言えた。
意知が家治所望の分限帳を抱えたまま、上段の末席にて誰にこの分限帳を託すべきかで逡巡していると、その様を上段の上座にて眺めていた家治が遂に痺れを切れさせた。
「意知、これへ…」
直接、俺の手許に分限帳を持って来いと、家治は意知に命じたのだ。
だが意知としては如何に将軍・家治の命と雖も、直ぐには応じられなかった。
迂闊に意知が将軍・家治へと分限帳を渡す様な真似をすれば、今ここ上段にて控える老中や若年寄、或いは御側御用取次や場合によっては身内である筈の新見正則からさえも、
「蔑ろにしとってからに…」
そう思われるやも知れず、それは怨みへと転化、昇華するやも知れない。
それ故、意知は直接に家治へと分限帳を渡すことを逡巡していたのだ。
するとここで本丸老中、それも首座の松平武元が意知に「助け舟」を出した。
「意知、畏れ多くも上様が思召しぞ…、されば早うに上様にその分限帳を渡し申上げるが良かろう…、意知が直接に上様に分限帳を渡し申上げしところで、誰も何とも思わぬ…」
武元は意知の方を振向いてそう告げた。
武元が意知へと向ける表情は正に、
「西之御丸の爺…」
その綽名に相応しい柔和なものであった。
が、意知から次いで西之丸老中や若年寄へと顔を向けるや、武元はそれまでの柔和な表情を一変させた。
武元は「鬼の形相」を浮かべ、西之丸老中や若年寄を睨みつつ、
「異存はあるまいの…」
そう告げたのであった。そこには、
「意知が直接に上様に分限帳を渡し申上げたからと申して、それで意知に嫉妬し、それこそ意地悪でも致そうものなら…、否…、斯様な実に怪しからぬ感情を抱くだけでもこの武元が許さぬぞ…」
その様な意図が篭められていたからだ。
対する西之丸老中や若年寄たちもその、武元の恐ろしい形相を前にしては思ず俯いた。
無論、武元のその「意図」についても看取し、それ故、意知への悪感情など芽生えさせることも出来なかった。武元への恐怖心が意知への悪感情を遥かに上回るものがあったからだ。
武元も西之丸老中や若年寄たちの態度からそうと察したのか、再び柔和な表情へと戻らせて意知へと視線を戻すや、
「意知よ、ささっ…、早うにその分限帳を上様に…」
意知をそう促したので、意知もこれで漸くに、
「誰憚らず…」
家治へと分限帳を渡すことが出来た。
家治は意知から分限帳を受取るや、家基とは正反対、つまりは弟・重好の真横の方面、入側にて控える新見正則・正徧父子に対して上段に入る様、命じてから愈々、分限帳を繰り始めた。
その内、田沼市左衛門と石谷左門、この2人の分限帳については家治はサッと「斜め読み」するに止めた。田沼市左衛門と石谷左門の2人に問題がないことは、この2人を御膳番に「リクエスト」した当人である家治自身が一番良く分かっていたからだ。
問題は残る6人についてであり、家治はこの6人に果たして治済との「所縁」があるのか、それを確かめるべく今度は、
「目を皿にして…」
隅から隅まで分限帳に目を通した。
その結果、分限帳からは治済の「影」は見当たらず、それどころか清水重好の「影」を、即ち「所縁」を見て取ることが出来た程であった。
石場弾正と亀井斧吉の2人がそうであり、石場弾正が実弟の采女定門は清水家臣、それも近習番として重好の側近くにて仕えていたのだ。
流石は水上興正が人選だと、家治は|舌《した」を巻いた。
するとそこへ入側より上段へと移って来たばかりの新見正則が「畏れながら…」と割って入るや、
「亀井斧吉でござりまするが、その本家筋の亀井平三郎清永は勘定奉行、石谷備後守清昌が実弟…、つまりは石谷左門が実の叔父にて…」
そう補足したのであった。それは田沼家、それも意次との「所縁」を示唆するものであり、家治は思わず、「真実かと?」と正則に聞返した。
「御意…」
正則がそう即答したので、家治は次いで水上興正の方を向いて、
「それ故に亀井斧吉を態々、御膳番に?」
意次を信頼するこの家治の気持ちを良く汲取ってこの亀井斧吉を御膳番に選んでくれたのかと、家治は興正に尋ね、すると興正からも「御意」との返事が聞かれた。
無論、だからと言ってこれで安心は出来ない。治済はこの先、8人の御膳番小納戸に触手を、魔の手を伸ばさないとも限らないからだ。
だが今は水上興正の人選を褒めるべきであろう。それに絶妙なタイミングでの補足説明をしてくれた新見正則をも褒めるべきであろう。
家治は水上興正と新見正則の両人に対して、その働きぶりを褒めた。
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