天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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西之丸中奥御座之間、将軍・家治による次期将軍にして愛息の家基の毒見役の再確認 ~西之丸御膳番小納戸篇~

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 家治いえはる西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょうなかでも郷渡ごうど三郎兵衛さぶろべえを「要注意ようちゅうい」としてチェックするや、つづいて膳番ぜんばん小納戸こなんど再確認さいかくにんへとうつった。

膳番ぜんばん小納戸こなんどたしか、田沼たぬま市左衛門いちざえもん石谷いしがや左門さもんであったな…」

 家治いえはるはそうつぶやいた。

 小納戸こなんどなかでも膳番ぜんばんねる小納戸こなんど定員ていいんは8人であり、これは本丸ほんまる西之丸にしのまるともわらない。

 いま家基いえもと膳番ぜんばんとしてつかえる小納戸こなんど田沼たぬま市左衛門いちざえもんこと市左衛門いちざえもん意致おきむね石谷いしがや左門さもんこと左門さもん清定きよさだの2人のほかに6人、6人の小納戸こなんどくわえた8人である。

 そのなかでも家治いえはる田沼たぬま市左衛門いちざえもん石谷いしがや左門さもんの2人だけを把握はあくしていたのはほかでもない、この2人は家治いえはる自身じしんが「リクエスト」したものだからだ。

 すなわち、7年前ねんまえの明和3(1766)年3月に石谷いしがや左門さもんあらたに西之丸にしのまる小納戸こなんどくわわるや、

石谷いしがや左門さもん膳番ぜんばんに…」

 家治いえはる西之丸にしのまるサイドにそう「リクエスト」をしたのであった。

 家治いえはる石谷いしがや左門さもん膳番ぜんばんねさせようほっしたのはひとえに、

石谷いしがや左門さもん田沼家たぬまけとの所縁ゆかり…」

 それを評価ひょうかしてのことである。

 すなわち、石谷いしがや左門さもん新見しんみ正則まさのり次女じじょを、つまりは田沼たぬま意次おきつぐ実妹じつまいとし新見しんみ正則まさのりとのあいだにもうけた次女じじょめとっており、

田沼家たぬまけ所縁ゆかりのありし石谷いしがや左門さもんなれば見事みごと膳番ぜんばんやく相勤あいつとめてくれようぞ…」

 換言かんげんすれば家基いえもと毒見どくみやく見事みごとつとめてくれるものと、さらに言うならば家基いえもといのちまもってくれるものと、家治いえはるはそうしんじて、石谷いしがや左門さもん膳番ぜんばんのぞんだのであった。

 将軍しょうぐん家治いえはる田沼家たぬまけに、いや意次おきつぐたいする信頼しんらい如何いかふかいか、うかがれよう。

 ともあれ西之丸にしのまるサイドとしては将軍しょうぐん家治いえはる希望きぼうである以上いじょう、これを拒否きょひすることは出来できない。

 が、その時点じてんで―、石谷いしがや左門さもん西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた明和3(1766)年3月の時点じてんすでに8人の膳番ぜんばんねる小納戸こなんどそんしており、そこへあらたに石谷いしがや左門さもん召加めしくわえることになると、だれ一人ひとり膳番ぜんばん必要ひつようがあった。

 そこで西之丸にしのまるサイドとしてはこのさい膳番ぜんばん総入替そういれかえすることにし、そのむね家治いえはるへとつたえた。

 すると家治いえはるはこれをゆるしたうえで、

田沼たぬま市左衛門いちざえもんだけはのこし、そこへ石谷いしがや左門さもんあらたに召加めしくわえ、のこる6人については…、いずれの小納戸こなんど膳番ぜんばんになわせるか、そは適当てきとうめてい…」

 西之丸にしのまるサイドへとかる指示しじしたのであった。

 田沼たぬま市左衛門いちざえもん西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられたのはさらにこれより3年前ねんまえ、宝暦13(1763)年7月のことであり、田沼たぬま市左衛門いちざえもんもまた、家治いえはる希望きぼうによりただちに膳番ぜんばん小納戸こなんどねしめられた。やはり「田沼家たぬまけとの所縁ゆかり」、それも意次おきつぐじつおいであるてん家治いえはる評価ひょうかされてのことである。

 つまり石谷いしがや左門さもん西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた時点じてんにおいてはこの、田沼たぬま市左衛門いちざえもんとそれにほかの5人の小納戸こなんどわせて6人が膳番ぜんばんになっていたのだ。

 さて、西之丸にしのまるサイドでは家治いえはる意向いこうけ、膳番ぜんばんにまず、田沼たぬま市左衛門いちざえもん石谷いしがや左門さもんの2人を「当確とうかく」とし、のこる「6わく」についてだが、まずは夫々それぞれの「同期どうきさくら」より「2わく」ずつ、えらぶことにした。

 田沼たぬま市左衛門いちざえもんは宝暦13(1763)年の7月は15日に西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられたものであるが、このときほかにも曲淵まがりぶち伊左衛門いざえもん景壽かげなが高井たかい準之助はやのすけ實員さねかず、それに村上むらかみ求馬もとめ正武まさたけの3人が西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられ、一方いっぽう石谷いしがや左門さもんは明和3(1766)年3月は27日に河野こうの勘四郎かんしろう通秀みちよし遠山とおやま金次郎きんじろう景保かげやす山本やまもと八郎右衛門はちろうえもん茂珍しげよし阿部あべ繼太郎つぐたろう正保まさやす小出こいで亀次郎かめじろう有福ありよし亀井かめい斧吉清容おのきちきよかたの6人ととも西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた。

 そこで西之丸にしのまるサイドではのこる「4わく」の膳番ぜんばんについて、宝暦13(1763)年7月15日に西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた、つまりは田沼たぬま市左衛門いちざえもんと「同期どうきさくら」より2人、おなじく明和3(1766)年3月27日に西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた、石谷いしがや左門さもんと「同期どうきさくら」より2人、夫々それぞれえらぶことにした。

 結果けっか田沼たぬま市左衛門いちざえもんとは「同期どうきさくらぐみよりは曲淵まがりぶち伊左衛門いざえもん高井たかい隼之助はやのすけが、石谷いしがや左門さもんとは「同期どうきさくらぐみよりは遠山とおやま金次郎きんじろう亀井かめい斧吉おのきち夫々それぞれ膳番ぜんばんえらばれいまいたる。

 こうして「6わく」のうち、「4わく」が「同期どうきさくら」でめられ、のこるは「2わく」。そこで水上興正みずかみおきまさはこののこる「2わく」については田沼たぬま市左衛門いちざえもんたち、さしずめ、

「宝暦13(1763)年7月15日ぐみ

 その先輩せんぱい後輩こうはいより一人ひとりずつえらんだ。

 田沼たぬま市左衛門いちざえもんたち「宝暦13(1763)年7月15日ぐみ」の先輩せんぱいたるのが、それより1年前ねんまえ西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた、

「宝暦12(1762)年12月15日ぐみ

 であり、石場いしば弾正だんじょう政恒まさつねえらばれた。

 一方いっぽう後輩こうはいだが、それは「明和元(1764)年10月8日ぐみ」であり、それも石谷いしがや左門さもん西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられた明和3(1766)年3月27日の時点じてんでは新見しんみ勘左衛門かんざえもん正房まさふさ唯一人ただひとりであった。

 それと言うのもこの新見しんみ勘左衛門かんざえもんとは「同期どうきさくら」、「明和元(1764)年10月8日ぐみ」の西之丸にしのまる小納戸こなんど唯一人ただひとり新見しんみ勘左衛門かんざえもんのぞいてみな西之丸にしのまる小姓こしょうへと「栄転えいてん」をたしたからだ。

小笠原おがさわら大炊頭おおいのかみ政久まさひさ

西尾にしお出雲守いずものかみ教富のりとみ

佐野さの兵庫頭ひょうごのかみ徳行とくゆき

 この3人がそうであり、従六位じゅろくい布衣ほいやく西之丸にしのまる小納戸こなんどから従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶやく西之丸にしのまる小姓こしょうへと「栄転えいてん」をたし、一方いっぽう新見しんみ勘左衛門かんざえもんだけは西之丸にしのまる小納戸こなんど留置とめおかれた。

 もっとも、これは家基いえもと新見しんみ勘左衛門かんざえもん冷遇れいぐうしての処置しょちではない。

 それどころか「厚遇こうぐう」であり、一見いっけん、「栄転えいてん」をたしたかにえる3人こそ、じつ家基いえもとに「冷遇れいぐう」されての「栄転えいてん」であった。

 すなわち、家基いえもとは「明和元(1764)年10月8日ぐみ」のなかでもとりわけ新見しんみ勘左衛門かんざえもん寵愛ちょうあいし、ほかの3人にたいしてはそれほど寵愛ちょうあいせず、なかでも小笠原おがさわら政久まさひさのことはきらっていた。

 そこで家基いえもとは明和3(1766)年3月27日に石谷いしがや左門さもんたちが西之丸にしのまる小納戸こなんど取立とりたてられたのを機会チャンスとばかり、小笠原おがさわら政久おがさわら政久まさひさ西尾にしお教富のりとみ佐野さの徳行とくゆきの3人を西之丸にしのまる小姓こしょうへと「栄転えいてん」、そのじつ、「棚上たなあげ」したのであった。

 小姓こしょう小納戸こなんどではかくこそ小姓こしょうほううえであるものの、主君しゅくんたる将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐんとの「接触せっしょく頻度ひんど」というてんにおいては小納戸こなんどほう小姓こしょうよりも上回うわまわる。

 小納戸こなんどほう小姓こしょうよりも主君しゅくんたる将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐん接触せっしょくする機会きかいおおかったのだ。

 そこで家基いえもと新見しんみ勘左衛門かんざえもんだけを言うなれば、

手許てもとのこし…」

 ほかの3人は小姓こしょうへと「放逐ほうちく」、それでわるければ、

けいしてとおざけた…」

 まさしく「敬遠けいえん」したのであった。

 西之丸にしのまるサイドも、それもそば用取次ようとりつぎ水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさもそのかんの「事情じじょう」は承知しょうちしていたので、そこで新見しんみ勘左衛門かんざえもんをもあらたな膳番ぜんばん召加めしくわえたのであり、いま家治いえはるからの「ご下問かもん」にたいして水上興正みずかみおきまさ即答そくとうしたのも、出来できたのもそのためである。

 いま西之丸にしのまるはここ中奥なかおくにおいて「最高さいこう長官ちょうかん」として君臨くんりんするそば用取次ようとりつぎには水上興正みずかみおきまさと、それに今一人いまひとり佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐにんじられていた。

 が、家治いえはる西之丸にしのまるサイドへと6人の膳番ぜんばん小納戸こなんど人選じんせん丸投まるなげした明和3(1766)年3月27日の時点じてんでは西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ水上興正みずかみおきまさ唯一人ただひとり一方いっぽう佐野さの茂承もちつぐすでそばしゅうではあったが、まだ筆頭ひっとう用取次ようとりつぎ地位ちいにはなく、一介いっかいひらそばぎなかった。

 そこで水上興正みずかみおきまさ一人ひとりで6人の膳番ぜんばん人選じんせんたった次第しだいであり、家治いえはるよりのいまの「ご下問かもん」に即答そくとう出来できたのもそのためであった。

 さて、家治いえはる西之丸にしのまるサイドへと、すなわち、水上興正みずかみおきまさにその人選じんせんを「丸投まるなげ」したため把握はあくしていなかった以上いじょう6人の膳番ぜんばん小納戸こなんどだが、

石場いしば弾正だんじょう政恒まさつね

新見しんみ勘左衛門かんざえもん正房まさふさ

曲淵まがりぶち伊左衛門いざえもん景壽かげなが

高井たかい隼之助はやのすけ實員さねかず

遠山とおやま金次郎きんじろう景保かげやす

亀井かめい斧吉清容おのきちきよかた

 水上興正みずかみおきまさくちよりその6人のがスラスラとげられるや、おもて右筆ゆうひつ吉松よしまつ伊兵衛いへえもそれにわせて分限ぶげんちょうたばり、その6人の分限ぶげんちょう取出とりだすと、すで取出とりだしておいた田沼たぬま市左衛門いちざえもん石谷いしがや左門さもん、この2人の分限ぶげんちょうとも意知おきともわたした。

 すると意知おきともはこの8人の分限ぶげんちょうだれわたすべきか、戸惑とまどった。

 先程さきほど西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょう分限ぶげんちょうについてはその直属ちょくぞく上司じょうしとも言うべき支配しはいやくたる若年寄わかどしよりわたせばく、実際じっさい意知おきともまようことなく西之丸にしのまる若年寄わかどしよりに、それも酒井忠香さかいただかへと分限ぶげんちょうたくした。

 が、小納戸こなんどともなるとすこ厄介やっかいであった。

 それと言うのも小納戸こなんどもまた、ぜん奉行ぶぎょうおなじく若年寄わかどしより支配しはい役職ポストではあるものの、小納戸こなんど中奥役人なかおくやくにんであり、そのてん表向おもてむき役人やくにんぜん奉行ぶぎょうとはことなり、実際じっさいには小納戸こなんど頭取とうどりしゅう支配下しはいかにあった。

 そうであればこの8人分の西之丸にしのまる小納戸こなんど分限ぶげんちょう事実上じじつじょう上司じょうしとも言うべき西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどりしゅうたくすのがすじであるとも言え、たしてこの8人分の分限ぶげんちょう形式上けいしきじょう上司じょうしたる若年寄わかどしよりたくすべきか、それとも事実上じじつじょう上司じょうしたる小納戸こなんど頭取とうどりしゅうたくすべきかで、意知おきともなやんだ。

 あまりに馬鹿馬鹿バカバカしいなやみだが、しかしこのの「順序じゅんじょ」を間違まちがえると、後々あとあとひびく。

 そしてかり西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどりしゅう分限ぶげんちょうたくすとして、その場合ばあいにはここ御座之間ござのま上段じょうだんめんした入側いりがわへと移動いどうする必要ひつようがあった。

 いま、この御座之間ござのま上段じょうだんには西之丸にしのまる小納戸こなんどしゅうはおらず、その入側いりがわにて西之丸にしのまる小納戸こなんどしゅう一人ひとり新見しんみ正則まさのりせがれにして本丸小姓ほんまるこしょう新見しんみ正徧まさゆきともひかえていたからだ。

 意知おきともとしては新見しんみ正則まさのりほう西之丸にしのまる若年寄わかどしより酒井忠香さかいただかよりも分限ぶげんちょうたくやすかった。なにしろ身内みうちだからだ。

 しかしそのためには態々わざわざ入側いりがわへと移動いどうしなければならず、それで意知おきともより分限ぶげんちょうたくされた新見しんみ正則まさのり将軍しょうぐん家治いえはるへとじか手渡てわたしてくれればいが、実際じっさいにはそうはならない。

 新見しんみ正則まさのり意知おきともから分限ぶげんちょうたくされるや、入側いりがわから上段じょうだんへとうつるだろうが、しかしぐには家治いえはるにその分限ぶげんちょうわたさずに、まず直属ちょくぞく上司じょうしたるそば用取次ようとりつぎ、それも佐野さの茂承もちつぐへとわたすであろう。

 そして分限ぶげんちょう佐野さの茂承もちつぐからさらに「先輩せんぱい」の相役あいやく水上興正みずかみおきまさへとまわされ、水上興正みずかみおきまさよりようやくに家治いえはる手許てもととどけられるにちがいない。

 つまり家治いえはるが「お目当めあて」の分限ぶげんちょう態々わざわざ入側いりがわ迂回うかいして家治いえはる手許てもとへととどけられることになり、これまたあまりにも馬鹿馬鹿バカバカしい「時間的じかんてきロス」と言えた。

 意知おきとも家治所望いえはるしょもう分限ぶげんちょうかかえたまま、上段じょうだん末席まっせきにてだれにこの分限ぶげんちょうたくすべきかで逡巡しゅじゅんしていると、そのさま上段じょうだん上座かみざにてながめていた家治いえはるついしびれをれさせた。

意知おきとも、これへ…」

 直接ちょくせつおれ手許てもと分限ぶげんちょうっていと、家治いえはる意知おきともめいじたのだ。

 だが意知おきともとしては如何いか将軍しょうぐん家治いえはるめいいえども、ぐにはおうじられなかった。

 迂闊うかつ意知おきとも将軍しょうぐん家治いえはるへと分限ぶげんちょうわたよう真似マネをすれば、いまここ上段じょうだんにてひかえる老中ろうじゅう若年寄わかどしよりあるいはそば用取次ようとりつぎ場合ばあいによっては身内みうちであるはず新見しんみ正則まさのりからさえも、

ないがしろにしとってからに…」

 そうおもわれるやもれず、それはうらみへと転化てんか昇華しょうかするやもれない。

 それゆえ意知おきとも直接ちょくせつ家治いえはるへと分限ぶげんちょうわたすことを逡巡しゅんじゅんしていたのだ。

 するとここで本丸ほんまる老中ろうじゅう、それも首座しゅざ松平まつだいら武元たけちか意知おきともに「たすぶね」をした。

意知おきともおそおおくも上様うえさま思召おぼしめしぞ…、さればはように上様うえさまにその分限ぶげんちょうわた申上もうしあげるがかろう…、意知おきとも直接ちょくせつ上様うえさま分限ぶげんちょうわた申上もうしあげしところで、だれなんともおもわぬ…」

 武元たけちか意知おきともほう振向ふりむいてそうげた。

 武元たけちが意知おきともへとける表情ひょうじょうまさに、

西之御丸にしのおまるじい…」

 その綽名あだな相応ふさわしい柔和にゅうわなものであった。

 が、意知おきともからいで西之丸にしのまる老中ろうじゅう若年寄わかどしよりへとかおけるや、武元たけちかはそれまでの柔和にゅうわ表情ひょうじょう一変いっぺんさせた。

 武元たけちかは「おに形相ぎょうそう」をかべ、西之丸にしのまる老中ろうじゅう若年寄わかどしよりにらみつつ、

異存いぞんはあるまいの…」

 そうげたのであった。そこには、

意知おきとも直接ちょくせつ上様うえさま分限ぶげんちょうわた申上もうしあげたからともうして、それで意知おきとも嫉妬しっとし、それこそ意地悪いじわるでもいたそうものなら…、いや…、斯様かようじつしからぬ感情かんじょうくだけでもこの武元たけちかゆるさぬぞ…」

 そのよう意図いとめられていたからだ。

 たいする西之丸にしのまる老中ろうじゅう若年寄わかどしよりたちもその、武元たけちかおそろしい形相ぎょうそうまえにしてはおもわうつむいた。

 無論むろん武元たけちかのその「意図いと」についても看取かんしゅし、それゆえ意知おきともへの悪感情あくかんじょうなど芽生めばえさせることも出来できなかった。武元たけちかへの恐怖心きょうふしん意知おきともへの悪感情あくかんじょうはるかに上回うわまわるものがあったからだ。

 武元たけちか西之丸にしのまる老中ろうじゅう若年寄わかどしよりたちの態度たいどからそうとさっしたのか、ふたた柔和にゅうわ表情ひょうじょうへともどらせて意知おきともへと視線しせんもどすや、

意知おきともよ、ささっ…、はようにその分限ぶげんちょう上様うえさまに…」

 意知おきともをそううながしたので、意知おきとももこれでようやくに、

だれはばからず…」

 家治いえはるへと分限ぶげんちょうわたすことが出来できた。

 家治いえはる意知おきともから分限ぶげんちょう受取うけとるや、家基いえもととは正反対せいはんたい、つまりはおとうと重好しげよし真横まよこ方面ほうめん入側いりがわにてひかえる新見しんみ正則まさのり正徧まさゆき父子ふしたいして上段じょうだんはいようめいじてから愈々いよいよ分限ぶげんちょうはじめた。

 そのうち田沼たぬま市左衛門いちざえもん石谷いしがや左門さもん、この2人の分限ぶげんちょうについては家治いえはるはサッと「ななみ」するにとどめた。田沼たぬま市左衛門いちざえもん石谷いしがや左門さもんの2人に問題もんだいがないことは、この2人を膳番ぜんばんに「リクエスト」した当人とうにんである家治いえはる自身じしん一番いちばんかっていたからだ。

 問題もんだいのこる6人についてであり、家治いえはるはこの6人にたして治済はるさだとの「所縁ゆかり」があるのか、それをたしかめるべく今度こんどは、

さらにして…」

 すみからすみまで分限ぶげんちょうとおした。

 その結果けっか分限ぶげんちょうからは治済はるさだの「かげ」は見当みあたらず、それどころか清水しみず重好しげよしの「かげ」を、すなわち「所縁ゆかり」をることが出来できほどであった。

 石場いしば弾正だんじょう亀井かめい斧吉おのきちの2人がそうであり、石場いしば弾正だんじょう実弟じってい采女うねめ定門さだかど清水家臣しみずかしん、それも近習きんじゅうばんとして重好しげよし側近そばちかくにてつかえていたのだ。

 流石さすが水上興正みずかみおきまさ人選じんせんだと、家治いえはるは|舌《した」をいた。

 するとそこへ入側いりがわより上段じょうだんへとうつってたばかりの新見しんみ正則まさのりが「おそれながら…」とってはいるや、

亀井かめい斧吉おのきちでござりまするが、その本家ほんけすじ亀井かめい平三郎へいざぶろう清永きよなが勘定かんじょう奉行ぶぎょう石谷いしがや備後守びんごのかみ清昌きよまさ実弟じってい…、つまりは石谷いしがや左門さもんじつ叔父おじにて…」

 そう補足ほそくしたのであった。それは田沼家たぬまけ、それも意次おきつぐとの「所縁ゆかり」を示唆しさするものであり、家治いえはるおもわず、「真実まことかと?」と正則まさのり聞返ききかえした。

御意ぎょい…」

 正則まさのりがそう即答そくとうしたので、家治いえはるいで水上興正みずかみおきまさほういて、

「それゆえ亀井かめい斧吉おのきち態々わざわざ膳番ぜんばんに?」

 意次おきつぐ信頼しんらいするこの家治いえはる気持きもちを汲取くみとってこの亀井かめい斧吉おのきち膳番ぜんばんえらんでくれたのかと、家治いえはる興正おきまさたずね、すると興正おきまさからも「御意ぎょい」との返事へんじかれた。

 無論むろん、だからと言ってこれで安心あんしん出来できない。治済はるさだはこのさき、8人の膳番ぜんばん小納戸こなんど触手しょくしゅを、ばさないともかぎらないからだ。

 だがいま水上興正みずかみおきまさ人選じんせんめるべきであろう。それに絶妙ぜつみょうなタイミングでの補足ほそく説明せつめいをしてくれた新見しんみ正則まさのりをもめるべきであろう。

 家治いえはる水上興正みずかみおきまさ新見しんみ正則まさのり両人りょうにんたいして、そのはたらきぶりをめた。
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