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安永2(1773)年12月19日、一橋家老・田沼能登守意誠の死、そして後任の一橋家老に作事奉行の新庄能登守直宥が内定す。
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安永2(1773)年12月19日、一橋家老の田沼能登守意誠が歿した。それは丁度、治済が大目付の松平對馬守忠郷を取込んでから1週間後のことであった。
将軍・家治は田沼意誠の死を大いに歎き、悲しんだ。意誠には一橋家老として大いに「期待」していたからだ。
家治が意誠に寄せていた「期待」、それは言うまでもなく、治済の「監視役」としてであった。
「意誠ならば、治済の邪なる陰謀を防いでくれようぞ…」
家基の暗殺を阻止してくれるに違いないと、そう信じていたからだ。
それが歿してしまったので、家治は大いに歎き悲しんだのだ。
だがいつまでも歎き悲しんでばかりもいられない。早急に後任の一橋家老を見繕わねばならないからだ。
意誠が歿した今、一橋家老は設樂兵庫頭貞好唯一人、これは治済にとっては非常に「自由度」が増すことを物語っていた。
何しろ「監視役」が1人に減った訳で、その分、治済は大いに、
「羽が伸ばせる…」
というものであった。
それと言うのも、御三卿の「監視役」たる家老には毎日、御城に登城する義務があったからだ。
それ故、御三卿家老の定員は2人な訳である。
監視対象たる御三卿が登城しようと、しまいと、家老が2人いれば、監視に差支えはない。
だがこれで家老が1人しかいないとなればどうなるか。
御三卿家老は毎日登城する義務があるので、その家老が1人しかいないとなると、家老が登城している間は御三卿の上屋敷には家老は存在しなくなる。
御三卿当人は、その一人である治済は家老とは異なり、登城勝手次第、つまりは登城するのもしないのも自由である。
そこで家老が登城している間、治済は上屋敷で大いに羽を伸ばせるという訳だ。
否、ただ羽を伸ばすだけならまだ良い。
だが実際には治済のことである。家老の「目」が届かないことを良いことに、必ずや良からぬ企みを企てるに、もっと言えば家基暗殺計画の陰謀を廻らすに違いなかった。
そこで家治としてはいつまでも意誠の死を歎いてばかりもいられずに、早急にその後任を決める必要に迫られていたのだ。
その点、政事は非情とも言えた。
そんな家治とは逆に治済は家治よりも長く、意誠の死を歎き悲しんだものである。
何しろ意誠は実際には家治が期待していた通りの働きぶりは示せていなかったからだ。
即ち、病の為に治済の「監視役」としては機能していなかった。
だからこそ、意誠は毎日の登城は相役の設樂貞好に一任せざるを得ず、自身は上屋敷内の組屋敷、その一角にある家老専用の屋敷にて療養していた訳だが、これでは治済の「監視役」など、まともに勤まる筈もない。
事実、治済は忠郷を取込むに際しても、登城せずに設樂貞好を見送った後、意誠の目を盗んで上屋敷を脱出しては洲崎にある料理茶屋の升屋へと足を運び、そこで忠郷を「接待漬け」にして、これを取込むことに成功したのだ。
斯かる次第で、治済としてはこの状態が、つまりは意誠が病の為に家老としての職務がまともに果たせない状態がそれこそ、
「永遠に…」
続けば良いと思っていた。家基暗殺計画を遂行する上ではその方が都合が良いからだ。
否、将軍・家治としても、意誠が病の為に家老としての、治済の「監視役」としての職務がまともに果たせていないことには気付いていた。
それでも快復を信じてその職になし置いた訳だが、これで仮に意誠でなければ、家治もとっくの昔に家老の職を許し、別の者を家老として一橋家に送込んでいたところであった。
家治がそこまで意誠のことを想っていたのは自が寵愛する意次の実弟であるからに外ならない。
強い云い方をすれば「依怙贔屓」であり、家治もそれは重々承知していた。
将軍たる者、「依怙贔屓」は許されまい。人事ともなると尚更であった。
家治としては、意誠が病の為に、治済の監視役を果たせないと把握した時点で、意誠には一橋家老の職を許すべきであった。
何しろ、治済による家基暗殺の危険が差迫っていたからだ。
意誠自身も病の為に家老としての職務が果たせないと悟るや、家治に対し、相役の設樂貞好を介して、「進退伺」を提出していた。
病の為に家老の職を辞することを家治に請うた訳だが、しかし家治は情に負け、これを許さなかったのだ。
それ故、家治は意誠が歿したと知るや、確かに大いに歎き悲しんだものだが、しかしそれとは裏腹に、
「これで心置きなく、意誠に代えて別の者を家老に任ずることが出来る…」
そう思うと、意誠の死に安堵、ホッとしてもいた。
その意味で意誠の死を心の底から悼んでいたのは実に皮肉な話だが、一橋治済と言えた。
さて、田沼意誠の後任の一橋家老についてだが、人事権は一応、老中にあった。御三卿家老は老中支配の御役だからだ。
だが実際には人事担当の奥右筆にあった。奥右筆は老中や若年寄のさしずめ、「政務担当秘書官」であり、表向の政庁においてはこの奥右筆の意見が老中や若年寄を左右する。これを俗に
「奥右筆の腹が閣老の腹になる…」
そう称する。
今回の、意誠の後任の一橋家老の人事についてもそれは当て嵌まり、老中に命じられて人事担当の奥右筆が組頭を介して、後任候補者の「リスト」を老中に提出した。即ち、
「作事・普請・小普請の下三奉行」
及び、小納戸頭取衆を後任の一橋家老の候補者として挙げたのであった。
御三卿家老の前職として多いのは小普請奉行と小納戸頭取であり、それに作事・普請の奉行が続く。
幕政は何よりも前例が重視される。
それは人事においてもそうであり、人事担当の奥右筆は故に老中に対して斯かる答申を為したのであった。
すると老中の中でも唯一の奥兼帯、中奥への出入が許されている田沼意次が人事担当の奥右筆より提出が為されたその後任の一橋家老の候補者リストを携えて中奥へと渡ると、それをそのまま将軍・家治へと捧呈した。
仮令、老中、或いは若年寄支配の御役でも、将軍に近侍する中奥役人の人事であれば、老中は今の様に人事担当の奥右筆にその候補者リストの作成を命じ、それをそのまま将軍へと渡す。
そして将軍はその候補者リストを基にして、御側御用取次と談合の上、人事を決める。
さて、そこで御三卿家老だが、御三卿家老は老中支配の御役にして、且つ表向役人であった。
だが御三卿家老の職掌そのものは中奥役人に准ずるものがあった。
何しろ、監視役とは申せ、将軍家である御三卿の御側近くに仕えることに違いはないからだ。
御三卿家老は表向役人であり乍、その詰所は表向ではなく、中奥にあることも、中奥役人に准ずる御役であることを物語っていた。
それ故、老中も自が支配にあるにもかかわらず、殊、御三卿家老に限って言えば、その人事を中奥役人のそれと同じく中奥サイドへと、即ち、将軍とその最側近の御側御用取次に委ねる。
斯かる次第で、将軍・家治が意誠の後任の一橋家老の人事について老中より、それも奇しくも意誠の実兄でもある意次より人事担当の奥右筆の手による「候補者リスト」が手渡されると、それを基に御側御用取次と共に協議に入った。
御側御用取次の一人、稲葉越中守正明は秘かに一橋治済と通じていた。
その治済にしても意誠の後任の一橋家老が将軍・家治と御側御用取次の協議により決まることは把握していた。
それでも治済は稲葉正明に対しては、その協議について特に何らの指示も与えてはいなかった。
治済は正明と通じているのである。そうであれば、
「この治済の手足となってくれる―、治済と所縁のある者が後任の一橋家老に選ばれる様、家治との協議を主導しろ…」
正明にその様に命じてもおかしくはなかった。否、むしろそれが自然と言えた。
だが治済は実際には正明にその様な指図を与えることはなく、それどころか、
「家治が意の儘に任せるが良かろう…」
正明にそう伝えたのだ。
治済にとって正明は謂わば、「秘密兵器」と言えた。
何しろ正明は将軍・家治の最側近だからだ。
その正明と通じていれば、治済としても家基の暗殺がやり易くなるというものである。
そうであれば治済としては家老の人事で、それを決める協議の場において、「秘密兵器」とも言うべき正明に下手に立回らせて、結果、
「正明め…、治済と通じておるのではあるまいか…」
家治にそう疑われては元も子もない。
そこで治済は正明に対して、後任の一橋家老を決める協議においては、家治に一任する様、つまりは下手に動かぬ様、釘を刺したのであった。
正明もそんな治済の意を汲んで、下手に動く様なことはなかった。
それどころか、如何にも家治の忠実なる側近であるかの様に振舞った。
それは家治から「候補者リスト」に挙げられていた小納戸頭取衆の山本備後守茂詔について正明へと下問が為された時のことである。
「されば山本備後が実弟、野澤新三郎茂政なる者、一橋家にて民部卿殿に小姓として近侍しており…、斯かる者を弟に持つ山本備後を家老に据えられましては、山本備後も弟の野澤新三郎同様、民部卿殿が昵近の臣に成下がる恐れが…」
これでは到底、治済の監視役としての勤めは果たせないと、家治にそう応えてみせたことから、家治は正明に絶大なる信頼を寄せた。
小納戸頭取衆の山本茂詔と一橋小姓の野澤新三郎とが実の兄弟であることは、正明も中奥の最高長官たる御側御用取次として当然、把握していた。
中奥役人の中でも小納戸頭取衆と言えば、御側御用取次に次ぐ重職であり、その家族関係は御側御用取次ならば把握していた、
正明はそこで、山本茂詔と野澤新三郎とが実の兄弟であることを敢えて家治に告げることで、家治からの絶大なる信頼を勝ち得たのだ。そうすれば、
「愈々以て…」
家基の暗殺が容易になるからだ。つまりは治済の為になる。
一方、家治はそうとも気付かずに正明を忠義の臣と見誤り、ともあれ山本茂詔を「候補」から外した。
家治はその上で、本丸目附の経験者を家老として一橋家へと、治済の許へと送込むつもりでいた。
それと言うのも、今回の一橋家老には、
「家基暗殺の阻止…」
それを期待していたからだ。
無論、だからと言って新たな一橋家老に対して、
「治済に家基暗殺の兆候があるので、治済の一挙手一投足に厳重に目を光らせよ…」
などと、直接的に命じる訳にはいかない。それでも、
「治済の日々の言動、家老として注意深く見守って貰いたい…」
その程度であれば家治も命じられる。
その際、目附の経験は役に立つに違いなく、家治はそこで、目附の経験者を新たな一橋家老として起用するつもりでいたのだ。
その場合、小納戸頭取衆は候補から外れる。
それと言うのも小納戸頭取衆は中奥にて昇進を遂げ、故に表向の空気を吸ったことのない、謂わば「純粋培養」組であり、畢竟、表向の御役である目附の経験はない。
その点、作事・普請・小普請の下三奉行であれば、目附の経験を持つ者が含まれており、
「作事奉行の新庄能登守直宥」
「普請奉行の青山但馬守成存」
この2人がそうであった。
そこで家治は目附としての経歴が長い方を選ぶことにし、それは新庄直宥であった。
人事担当が作成した「候補者リスト」にはこれまでの職歴も添付されており、それによると、青山成存が宝暦11年12月15日から翌年の宝暦12年12月15日の丸一年、目附を勤めた後、佐渡奉行へと異動、栄転を果たしたのに対して、新庄直宥はと言うと、明和元年9月から明和6年11月まで5年以上に亘って目附を勤め、その後、今の作事奉行へと栄転、それも大栄転を果たした。
しかも新庄直宥は目附在職中の明和5年2月には小普請奉行にも准ぜられており、如何に優秀かが分かる。
無論、新庄直宥のこれまでの人事は、その任免権者は家治その人であるが、家治も一々、覚えてはいなかった。
それでも職歴を眺める内、家治も新庄直宥のことを思い出し、
「優秀な男であったの…」
それも思い出した。
かくして家治は田沼意致の後任の一橋家老には新庄直宥を充てることにした。
将軍・家治は田沼意誠の死を大いに歎き、悲しんだ。意誠には一橋家老として大いに「期待」していたからだ。
家治が意誠に寄せていた「期待」、それは言うまでもなく、治済の「監視役」としてであった。
「意誠ならば、治済の邪なる陰謀を防いでくれようぞ…」
家基の暗殺を阻止してくれるに違いないと、そう信じていたからだ。
それが歿してしまったので、家治は大いに歎き悲しんだのだ。
だがいつまでも歎き悲しんでばかりもいられない。早急に後任の一橋家老を見繕わねばならないからだ。
意誠が歿した今、一橋家老は設樂兵庫頭貞好唯一人、これは治済にとっては非常に「自由度」が増すことを物語っていた。
何しろ「監視役」が1人に減った訳で、その分、治済は大いに、
「羽が伸ばせる…」
というものであった。
それと言うのも、御三卿の「監視役」たる家老には毎日、御城に登城する義務があったからだ。
それ故、御三卿家老の定員は2人な訳である。
監視対象たる御三卿が登城しようと、しまいと、家老が2人いれば、監視に差支えはない。
だがこれで家老が1人しかいないとなればどうなるか。
御三卿家老は毎日登城する義務があるので、その家老が1人しかいないとなると、家老が登城している間は御三卿の上屋敷には家老は存在しなくなる。
御三卿当人は、その一人である治済は家老とは異なり、登城勝手次第、つまりは登城するのもしないのも自由である。
そこで家老が登城している間、治済は上屋敷で大いに羽を伸ばせるという訳だ。
否、ただ羽を伸ばすだけならまだ良い。
だが実際には治済のことである。家老の「目」が届かないことを良いことに、必ずや良からぬ企みを企てるに、もっと言えば家基暗殺計画の陰謀を廻らすに違いなかった。
そこで家治としてはいつまでも意誠の死を歎いてばかりもいられずに、早急にその後任を決める必要に迫られていたのだ。
その点、政事は非情とも言えた。
そんな家治とは逆に治済は家治よりも長く、意誠の死を歎き悲しんだものである。
何しろ意誠は実際には家治が期待していた通りの働きぶりは示せていなかったからだ。
即ち、病の為に治済の「監視役」としては機能していなかった。
だからこそ、意誠は毎日の登城は相役の設樂貞好に一任せざるを得ず、自身は上屋敷内の組屋敷、その一角にある家老専用の屋敷にて療養していた訳だが、これでは治済の「監視役」など、まともに勤まる筈もない。
事実、治済は忠郷を取込むに際しても、登城せずに設樂貞好を見送った後、意誠の目を盗んで上屋敷を脱出しては洲崎にある料理茶屋の升屋へと足を運び、そこで忠郷を「接待漬け」にして、これを取込むことに成功したのだ。
斯かる次第で、治済としてはこの状態が、つまりは意誠が病の為に家老としての職務がまともに果たせない状態がそれこそ、
「永遠に…」
続けば良いと思っていた。家基暗殺計画を遂行する上ではその方が都合が良いからだ。
否、将軍・家治としても、意誠が病の為に家老としての、治済の「監視役」としての職務がまともに果たせていないことには気付いていた。
それでも快復を信じてその職になし置いた訳だが、これで仮に意誠でなければ、家治もとっくの昔に家老の職を許し、別の者を家老として一橋家に送込んでいたところであった。
家治がそこまで意誠のことを想っていたのは自が寵愛する意次の実弟であるからに外ならない。
強い云い方をすれば「依怙贔屓」であり、家治もそれは重々承知していた。
将軍たる者、「依怙贔屓」は許されまい。人事ともなると尚更であった。
家治としては、意誠が病の為に、治済の監視役を果たせないと把握した時点で、意誠には一橋家老の職を許すべきであった。
何しろ、治済による家基暗殺の危険が差迫っていたからだ。
意誠自身も病の為に家老としての職務が果たせないと悟るや、家治に対し、相役の設樂貞好を介して、「進退伺」を提出していた。
病の為に家老の職を辞することを家治に請うた訳だが、しかし家治は情に負け、これを許さなかったのだ。
それ故、家治は意誠が歿したと知るや、確かに大いに歎き悲しんだものだが、しかしそれとは裏腹に、
「これで心置きなく、意誠に代えて別の者を家老に任ずることが出来る…」
そう思うと、意誠の死に安堵、ホッとしてもいた。
その意味で意誠の死を心の底から悼んでいたのは実に皮肉な話だが、一橋治済と言えた。
さて、田沼意誠の後任の一橋家老についてだが、人事権は一応、老中にあった。御三卿家老は老中支配の御役だからだ。
だが実際には人事担当の奥右筆にあった。奥右筆は老中や若年寄のさしずめ、「政務担当秘書官」であり、表向の政庁においてはこの奥右筆の意見が老中や若年寄を左右する。これを俗に
「奥右筆の腹が閣老の腹になる…」
そう称する。
今回の、意誠の後任の一橋家老の人事についてもそれは当て嵌まり、老中に命じられて人事担当の奥右筆が組頭を介して、後任候補者の「リスト」を老中に提出した。即ち、
「作事・普請・小普請の下三奉行」
及び、小納戸頭取衆を後任の一橋家老の候補者として挙げたのであった。
御三卿家老の前職として多いのは小普請奉行と小納戸頭取であり、それに作事・普請の奉行が続く。
幕政は何よりも前例が重視される。
それは人事においてもそうであり、人事担当の奥右筆は故に老中に対して斯かる答申を為したのであった。
すると老中の中でも唯一の奥兼帯、中奥への出入が許されている田沼意次が人事担当の奥右筆より提出が為されたその後任の一橋家老の候補者リストを携えて中奥へと渡ると、それをそのまま将軍・家治へと捧呈した。
仮令、老中、或いは若年寄支配の御役でも、将軍に近侍する中奥役人の人事であれば、老中は今の様に人事担当の奥右筆にその候補者リストの作成を命じ、それをそのまま将軍へと渡す。
そして将軍はその候補者リストを基にして、御側御用取次と談合の上、人事を決める。
さて、そこで御三卿家老だが、御三卿家老は老中支配の御役にして、且つ表向役人であった。
だが御三卿家老の職掌そのものは中奥役人に准ずるものがあった。
何しろ、監視役とは申せ、将軍家である御三卿の御側近くに仕えることに違いはないからだ。
御三卿家老は表向役人であり乍、その詰所は表向ではなく、中奥にあることも、中奥役人に准ずる御役であることを物語っていた。
それ故、老中も自が支配にあるにもかかわらず、殊、御三卿家老に限って言えば、その人事を中奥役人のそれと同じく中奥サイドへと、即ち、将軍とその最側近の御側御用取次に委ねる。
斯かる次第で、将軍・家治が意誠の後任の一橋家老の人事について老中より、それも奇しくも意誠の実兄でもある意次より人事担当の奥右筆の手による「候補者リスト」が手渡されると、それを基に御側御用取次と共に協議に入った。
御側御用取次の一人、稲葉越中守正明は秘かに一橋治済と通じていた。
その治済にしても意誠の後任の一橋家老が将軍・家治と御側御用取次の協議により決まることは把握していた。
それでも治済は稲葉正明に対しては、その協議について特に何らの指示も与えてはいなかった。
治済は正明と通じているのである。そうであれば、
「この治済の手足となってくれる―、治済と所縁のある者が後任の一橋家老に選ばれる様、家治との協議を主導しろ…」
正明にその様に命じてもおかしくはなかった。否、むしろそれが自然と言えた。
だが治済は実際には正明にその様な指図を与えることはなく、それどころか、
「家治が意の儘に任せるが良かろう…」
正明にそう伝えたのだ。
治済にとって正明は謂わば、「秘密兵器」と言えた。
何しろ正明は将軍・家治の最側近だからだ。
その正明と通じていれば、治済としても家基の暗殺がやり易くなるというものである。
そうであれば治済としては家老の人事で、それを決める協議の場において、「秘密兵器」とも言うべき正明に下手に立回らせて、結果、
「正明め…、治済と通じておるのではあるまいか…」
家治にそう疑われては元も子もない。
そこで治済は正明に対して、後任の一橋家老を決める協議においては、家治に一任する様、つまりは下手に動かぬ様、釘を刺したのであった。
正明もそんな治済の意を汲んで、下手に動く様なことはなかった。
それどころか、如何にも家治の忠実なる側近であるかの様に振舞った。
それは家治から「候補者リスト」に挙げられていた小納戸頭取衆の山本備後守茂詔について正明へと下問が為された時のことである。
「されば山本備後が実弟、野澤新三郎茂政なる者、一橋家にて民部卿殿に小姓として近侍しており…、斯かる者を弟に持つ山本備後を家老に据えられましては、山本備後も弟の野澤新三郎同様、民部卿殿が昵近の臣に成下がる恐れが…」
これでは到底、治済の監視役としての勤めは果たせないと、家治にそう応えてみせたことから、家治は正明に絶大なる信頼を寄せた。
小納戸頭取衆の山本茂詔と一橋小姓の野澤新三郎とが実の兄弟であることは、正明も中奥の最高長官たる御側御用取次として当然、把握していた。
中奥役人の中でも小納戸頭取衆と言えば、御側御用取次に次ぐ重職であり、その家族関係は御側御用取次ならば把握していた、
正明はそこで、山本茂詔と野澤新三郎とが実の兄弟であることを敢えて家治に告げることで、家治からの絶大なる信頼を勝ち得たのだ。そうすれば、
「愈々以て…」
家基の暗殺が容易になるからだ。つまりは治済の為になる。
一方、家治はそうとも気付かずに正明を忠義の臣と見誤り、ともあれ山本茂詔を「候補」から外した。
家治はその上で、本丸目附の経験者を家老として一橋家へと、治済の許へと送込むつもりでいた。
それと言うのも、今回の一橋家老には、
「家基暗殺の阻止…」
それを期待していたからだ。
無論、だからと言って新たな一橋家老に対して、
「治済に家基暗殺の兆候があるので、治済の一挙手一投足に厳重に目を光らせよ…」
などと、直接的に命じる訳にはいかない。それでも、
「治済の日々の言動、家老として注意深く見守って貰いたい…」
その程度であれば家治も命じられる。
その際、目附の経験は役に立つに違いなく、家治はそこで、目附の経験者を新たな一橋家老として起用するつもりでいたのだ。
その場合、小納戸頭取衆は候補から外れる。
それと言うのも小納戸頭取衆は中奥にて昇進を遂げ、故に表向の空気を吸ったことのない、謂わば「純粋培養」組であり、畢竟、表向の御役である目附の経験はない。
その点、作事・普請・小普請の下三奉行であれば、目附の経験を持つ者が含まれており、
「作事奉行の新庄能登守直宥」
「普請奉行の青山但馬守成存」
この2人がそうであった。
そこで家治は目附としての経歴が長い方を選ぶことにし、それは新庄直宥であった。
人事担当が作成した「候補者リスト」にはこれまでの職歴も添付されており、それによると、青山成存が宝暦11年12月15日から翌年の宝暦12年12月15日の丸一年、目附を勤めた後、佐渡奉行へと異動、栄転を果たしたのに対して、新庄直宥はと言うと、明和元年9月から明和6年11月まで5年以上に亘って目附を勤め、その後、今の作事奉行へと栄転、それも大栄転を果たした。
しかも新庄直宥は目附在職中の明和5年2月には小普請奉行にも准ぜられており、如何に優秀かが分かる。
無論、新庄直宥のこれまでの人事は、その任免権者は家治その人であるが、家治も一々、覚えてはいなかった。
それでも職歴を眺める内、家治も新庄直宥のことを思い出し、
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