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宗介が「そうすけ」を開店した経緯と武士の客を嫌う理由 2
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こうして養子の「ラブコール」がピタリと止んだ宗介はと言うと、それまでと変わらぬ日々を送っていた。
即ち、実家で無為徒食を決込んでいた。
いや、完全なる無為徒食と言う訳でもなかった。
それと言うのも宗介は幼少の砌料理に興味を覚え、成長後にはそれを趣味としていた。
いや、男が、それも武家の子弟が料理などと、兄・意致は弟の宗介を激しく叱り、料理をする事に猛反対したものである。
いや、それは本来は父親の役目であっただろう。
だが宗介の父―、意致・宗介・直三郎三兄弟の父である意誠は安永2(1773)年12月に歿しており、爾来、家督を継いだ意致が宗介・直三郎の親代わりであった。
ともあれ宗介としては親代わりである意致に料理をする事に猛反対された事で、益々もって料理にのめり込んだ。宗介は生来のへそ曲がりであったからだ。
それに対して意致もそんな宗介の姿を目の当たりにして、宗介に意見する事はなくなった。さしずめ宗介に料理を諦めさせる事を諦めたと言ったところであろうか。
それどころか意致は宗介に弁当を作ってくれる様、頼むまでになった。
宗介が本格的に包丁を握る様になった天明4(1784)年には兄・意誠は西之丸にて当時はまだ次期将軍であった家斉に御側御用取次として仕えており、つまりは宮仕えの身というヤツであった。
それ故、昼には昼食が給される事になっていたが、しかし実際には御城にて給される昼食たるや、とても食べられる代物ではなかった。
それと言うのも御城に勤める諸役人に給される食事を作る台所役人がその為の食費をけちり、粗末な料理しか作らず、浮いた予算を着服、懐に入れてしまう為だ。
いや、何かと小うるさい存在の目付だけには予算相当額の料理が給されており、その為、目付を除いた諸役人は皆、弁当持参が常識であり、その中には老中や若年寄さえも含まれていた。
本来ならば大問題になってもおかしくはない台所役人の「横領」だが、しかし、台所役人は元々が薄給であり、「横領」しない事にはとてもではないが家計が維持出来ないという現実があり、その事は役人であれば、皆、承知していたので、そこで粗末な料理を給されている目付を除いた老中や若年寄ら諸役人は皆、台所役人のその「横領」も、
「止むを得まい…」
つまりは必要悪として黙認していた。いや、目付にしてもそうであり、しかし、予算相当額の料理にありつける事もあってか、目付にしても見て見ぬフリであった。
その様な次第で意致はどうせ弁当を持参するなら弟に作って貰おうとでも思ったのであろう、宗介に弁当を作ってくれる様、頼む様になった。
いや、意致としては当初は宗介が料理をする事に猛反対した手前、流石にバツが悪かった様で、宗介に断られるのを半ば覚悟していた程であった。
だが宗介はと言うと、意致の案に相違して、その頼みを快諾した。
確かに宗介は兄・意致から料理をする事に猛反対され、そんな宗介を罵倒する事もあり、宗介にしてみれば不愉快な思い出ではあったが、しかしそれはもう昔の話であり、その頃にはもう宗介が屋敷の台所で包丁を握っていても意致は何も言わず、それどころか宗介の許へと舞込む養子の口を宗介自身が悉く蹴飛ばしても小言の一つも言わなかった。
小言を言ったところで無駄だろうというのが意致の境地であったのだろうが、その頃には意致には妻女がいたにもかかわらず、宗介が台所に立つ事に文句を言わず、それは嫂にしても同様であったので、宗介は兄夫婦の御蔭で気楽な毎日を送る事が出来ていた。
そんな宗介にしてみれば、兄・意致の頼みを断る選択肢など元よりなく、快諾したと言う訳だ。
それどころか、
「それなら、石谷様の分もお作りして差上げましょうか?」
宗介はそう提案する程であった。
宗介が口にした「石谷様」とは宗介の弟の直三郎の養父である石谷豊前守清定の事である。
その頃―、天明4(1784)年の時分には直三郎は既に石谷清定の養嗣子に迎えられており、しかも清定の長女を娶っており、所謂、入婿であった。
その直三郎の養父となっていた石谷清定はその頃、やはり西之丸にて家斉に小納戸として仕えており、平素、御側御用取次の意致とは顔を合わせる関係にあった。
宗介もその事は承知していたので、そこで意致に弁当を作るのなら、
「事の序…」
という訳で、石谷清定の分の弁当を作る事をも思い付いたと言う訳だ。意致から清定へと手渡してくれればそれで済むからだ。
それに対して兄・意致はと言うと、流石に即答しかねた。
「いや、こればかりは豊前守殿が意向もある事故…」
清定当人に意向を―、愚弟が弁当を作りたいと言っているのだが良いものかと、それを確かめない事には答え様がないという訳だ。
確かに意致の言う通りであり、そこで宗介はとりあえず兄・意致の弁当だけ作る事にした。
そしてそれから間もなくして、宗介は清定の分の弁当をも作る様になった。
即ち、意致よりその意向を問われた清定は大変恐縮しつつも、
「是非に…」
宗介に弁当を作って貰いたいとの意向を示したのであった。
いや、今から思えば清定には意致からの申出を断るという選択肢はなかったであろう。
何しろその当時の意致はと言うと、次期将軍・家斉の最側近たる御側御用取次の立場にあり、しかもその背後には、
「今を時めく…」
老中・田沼意次が控えていたのだ。
その様な意致から、
「弟が弁当を作りたいと言っているのだが…」
そう持掛けられれば、これを有難く「拝受」するより外にはなかったであろう
尤もその時の宗介はそんな事に思いが至る程には成熟しておらず、
「嬉々として…」
弁当作りに励んだものである。
即ち、実家で無為徒食を決込んでいた。
いや、完全なる無為徒食と言う訳でもなかった。
それと言うのも宗介は幼少の砌料理に興味を覚え、成長後にはそれを趣味としていた。
いや、男が、それも武家の子弟が料理などと、兄・意致は弟の宗介を激しく叱り、料理をする事に猛反対したものである。
いや、それは本来は父親の役目であっただろう。
だが宗介の父―、意致・宗介・直三郎三兄弟の父である意誠は安永2(1773)年12月に歿しており、爾来、家督を継いだ意致が宗介・直三郎の親代わりであった。
ともあれ宗介としては親代わりである意致に料理をする事に猛反対された事で、益々もって料理にのめり込んだ。宗介は生来のへそ曲がりであったからだ。
それに対して意致もそんな宗介の姿を目の当たりにして、宗介に意見する事はなくなった。さしずめ宗介に料理を諦めさせる事を諦めたと言ったところであろうか。
それどころか意致は宗介に弁当を作ってくれる様、頼むまでになった。
宗介が本格的に包丁を握る様になった天明4(1784)年には兄・意誠は西之丸にて当時はまだ次期将軍であった家斉に御側御用取次として仕えており、つまりは宮仕えの身というヤツであった。
それ故、昼には昼食が給される事になっていたが、しかし実際には御城にて給される昼食たるや、とても食べられる代物ではなかった。
それと言うのも御城に勤める諸役人に給される食事を作る台所役人がその為の食費をけちり、粗末な料理しか作らず、浮いた予算を着服、懐に入れてしまう為だ。
いや、何かと小うるさい存在の目付だけには予算相当額の料理が給されており、その為、目付を除いた諸役人は皆、弁当持参が常識であり、その中には老中や若年寄さえも含まれていた。
本来ならば大問題になってもおかしくはない台所役人の「横領」だが、しかし、台所役人は元々が薄給であり、「横領」しない事にはとてもではないが家計が維持出来ないという現実があり、その事は役人であれば、皆、承知していたので、そこで粗末な料理を給されている目付を除いた老中や若年寄ら諸役人は皆、台所役人のその「横領」も、
「止むを得まい…」
つまりは必要悪として黙認していた。いや、目付にしてもそうであり、しかし、予算相当額の料理にありつける事もあってか、目付にしても見て見ぬフリであった。
その様な次第で意致はどうせ弁当を持参するなら弟に作って貰おうとでも思ったのであろう、宗介に弁当を作ってくれる様、頼む様になった。
いや、意致としては当初は宗介が料理をする事に猛反対した手前、流石にバツが悪かった様で、宗介に断られるのを半ば覚悟していた程であった。
だが宗介はと言うと、意致の案に相違して、その頼みを快諾した。
確かに宗介は兄・意致から料理をする事に猛反対され、そんな宗介を罵倒する事もあり、宗介にしてみれば不愉快な思い出ではあったが、しかしそれはもう昔の話であり、その頃にはもう宗介が屋敷の台所で包丁を握っていても意致は何も言わず、それどころか宗介の許へと舞込む養子の口を宗介自身が悉く蹴飛ばしても小言の一つも言わなかった。
小言を言ったところで無駄だろうというのが意致の境地であったのだろうが、その頃には意致には妻女がいたにもかかわらず、宗介が台所に立つ事に文句を言わず、それは嫂にしても同様であったので、宗介は兄夫婦の御蔭で気楽な毎日を送る事が出来ていた。
そんな宗介にしてみれば、兄・意致の頼みを断る選択肢など元よりなく、快諾したと言う訳だ。
それどころか、
「それなら、石谷様の分もお作りして差上げましょうか?」
宗介はそう提案する程であった。
宗介が口にした「石谷様」とは宗介の弟の直三郎の養父である石谷豊前守清定の事である。
その頃―、天明4(1784)年の時分には直三郎は既に石谷清定の養嗣子に迎えられており、しかも清定の長女を娶っており、所謂、入婿であった。
その直三郎の養父となっていた石谷清定はその頃、やはり西之丸にて家斉に小納戸として仕えており、平素、御側御用取次の意致とは顔を合わせる関係にあった。
宗介もその事は承知していたので、そこで意致に弁当を作るのなら、
「事の序…」
という訳で、石谷清定の分の弁当を作る事をも思い付いたと言う訳だ。意致から清定へと手渡してくれればそれで済むからだ。
それに対して兄・意致はと言うと、流石に即答しかねた。
「いや、こればかりは豊前守殿が意向もある事故…」
清定当人に意向を―、愚弟が弁当を作りたいと言っているのだが良いものかと、それを確かめない事には答え様がないという訳だ。
確かに意致の言う通りであり、そこで宗介はとりあえず兄・意致の弁当だけ作る事にした。
そしてそれから間もなくして、宗介は清定の分の弁当をも作る様になった。
即ち、意致よりその意向を問われた清定は大変恐縮しつつも、
「是非に…」
宗介に弁当を作って貰いたいとの意向を示したのであった。
いや、今から思えば清定には意致からの申出を断るという選択肢はなかったであろう。
何しろその当時の意致はと言うと、次期将軍・家斉の最側近たる御側御用取次の立場にあり、しかもその背後には、
「今を時めく…」
老中・田沼意次が控えていたのだ。
その様な意致から、
「弟が弁当を作りたいと言っているのだが…」
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