若君様の御側御料人 ~俺の大嫌いな若君様~

ご隠居

文字の大きさ
4 / 6

宗介が「そうすけ」を開店した経緯と武士の客を嫌う理由 2

しおりを挟む
 こうして養子ようしの「ラブコール」がピタリとんだ宗介そうすけはと言うと、それまでとわらぬ日々ひびおくっていた。

 すなわち、実家じっか無為むい徒食としょく決込きめこんでいた。

 いや、完全かんぜんなる無為むい徒食としょくと言うわけでもなかった。

 それと言うのも宗介そうすけ幼少ようしょうみぎり料理りょうり興味きょうみおぼえ、成長せいちょうにはそれを趣味しゅみとしていた。

 いや、おとこが、それも武家ぶけ子弟してい料理りょうりなどと、あに意致おきむねおとうと宗介そうすけはげしくしかり、料理りょうりをすること猛反対もうはんたいしたものである。

 いや、それは本来ほんらい父親ちちおや役目やくめであっただろう。

 だが宗介そうすけちち―、意致おきむね宗介そうすけ直三郎なおさぶろう三兄弟さんきょうだいちちである意誠おきのぶは安永2(1773)年12月に歿ぼっしており、爾来じらい家督かとくいだ意致おきむね宗介そうすけ直三郎なおさぶろうおやわりであった。

 ともあれ宗介そうすけとしてはおやわりである意致おきむね料理りょうりをすること猛反対もうはんたいされたことで、益々ますますもって料理りょうりにのめりんだ。宗介そうすけ生来せいらいのへそがりであったからだ。

 それにたいして意致おきむねもそんな宗介そうすけ姿すがたたりにして、宗介そうすけ意見いけんすることはなくなった。さしずめ宗介そうすけ料理りょうりあきらめさせることあきらめたと言ったところであろうか。

 それどころか意致おきむね宗介そうすけ弁当べんとうつくってくれるようたのむまでになった。

 宗介そうすけ本格的ほんかくてき包丁ほうちょうにぎようになった天明4(1784)年にはあに意誠おきのぶ西之丸にしのまるにて当時とうじはまだ次期じき将軍しょうぐんであった家斉いえなりそば用取次ようとりつぎとしてつかえており、つまりは宮仕みやづかえのというヤツであった。

 それゆえひるには昼食ちゅうしょくきゅうされることになっていたが、しかし実際じっさいには御城えどじょうにてきゅうされる昼食ちゅうしょくたるや、とてもべられる代物シロモノではなかった。

 それと言うのも御城えどじょうつとめる諸役人しょやくにんきゅうされる食事しょくじつく台所だいどころ役人やくにんがそのため食費しょくひをけちり、粗末そまつ料理りょうりしかつくらず、いた予算よさん着服ちゃくふくふところれてしまうためだ。

 いや、なにかとうるさい存在そんざい目付めつけだけには予算よさん相当額そうとうがく料理りょうりきゅうされており、そのため目付めつけのぞいた諸役人しょやくにんみな弁当べんとう持参じさん常識じょうしきであり、そのなかには老中ろうじゅう若年寄わかどしよりさえもふくまれていた。

 本来ほんらいならば大問題だいもんだいになってもおかしくはない台所だいどころ役人やくにんの「横領おうりょう」だが、しかし、台所だいどころ役人やくにん元々もともと薄給はっきゅうであり、「横領おうりょう」しないことにはとてもではないが家計かけい維持出来いじできないという現実げんじつがあり、そのこと役人やくにんであれば、みな承知しょうちしていたので、そこで粗末そまつ料理りょうりきゅうされている目付めつけのぞいた老中ろうじゅう若年寄わかどしより諸役人しょやくにんみな台所だいどころ役人やくにんのその「横領おうりょう」も、

むをまい…」

 つまりは必要悪ひつようあくとして黙認もくにんしていた。いや、目付めつけにしてもそうであり、しかし、予算よさん相当額そうとうがく料理りょうりにありつけることもあってか、目付めつけにしてもぬフリであった。

 そのよう次第しだい意致おきむねはどうせ弁当べんとう持参じさんするならおとうとつくってもらおうとでもおもったのであろう、宗介そうすけ弁当べんとうつくってくれるようたのようになった。

 いや、意致おきむねとしては当初とうしょ宗介そうすけ料理りょうりをすること猛反対もうはんたいした手前てまえ流石さすがにバツがわるかったようで、宗介そうすけことわられるのをなか覚悟かくごしていたほどであった。

 だが宗介そうすけはと言うと、意致おきむねあん相違そういして、そのたのみを快諾かいだくした。

 たしかに宗介そうすけあに意致おきむねから料理りょうりをすること猛反対もうはんたいされ、そんな宗介そうすけ罵倒ばとうすることもあり、宗介そうすけにしてみれば不愉快ふゆかいおもではあったが、しかしそれはもうむかしはなしであり、そのころにはもう宗介そうすけ屋敷やしき台所だいどころ包丁ほうちょうにぎっていても意致おきむねなにも言わず、それどころか宗介そうすけもとへと舞込まいこ養子ようしくち宗介そうすけ自身じしんことごと蹴飛けとばしても小言こごとひとつも言わなかった。

 小言こごとったところで無駄むだだろうというのが意致おきむね境地きょうちであったのだろうが、そのころには意致おきむねには妻女さいじょがいたにもかかわらず、宗介そうすけ台所だいどころこと文句もんくを言わず、それはあによめにしても同様どうようであったので、宗介そうすけあに夫婦ふうふかげ気楽きらく毎日まいにちおくこと出来できていた。

 そんな宗介そうすけにしてみれば、あに意致おきむねたのみをことわ選択肢せんたくしなどもとよりなく、快諾かいだくしたと言うわけだ。

 それどころか、

「それなら、石谷いしがやさまぶんもおつくりして差上さしあげましょうか?」

 宗介そうすけはそう提案ていあんするほどであった。

 宗介そうすけくちにした「石谷いしがやさま」とは宗介そうすけおとうと直三郎なおさぶろう養父ようふである石谷いしがや豊前守ぶぜんのかみ清定きよさだことである。

 そのころ―、天明4(1784)年の時分じぶんには直三郎なおさぶろうすで石谷いしがや清定きよさだ養嗣子ようししむかえられており、しかも清定きよさだ長女ちょうじょめとっており、所謂いわゆる入婿いりむこであった。

 その直三郎なおさぶろう養父ようふとなっていた石谷いしがや清定きよさだはそのころ、やはり西之丸にしのまるにて家斉いえなり小納戸こなんどとしてつかえており、平素へいそそば用取次ようとりつぎ意致おきむねとはかおわせる関係かんけいにあった。

 宗介そうすけもそのこと承知しょうちしていたので、そこで意致おきむね弁当べんとうつくるのなら、

ことついで…」

 というわけで、石谷いしがや清定きよさだぶん弁当べんとうつくことをもおもいたと言うわけだ。意致おきむねから清定きよさだへと手渡てわたしてくれればそれでむからだ。

 それにたいしてあに意致おきむねはと言うと、流石さすが即答そくとうしかねた。

「いや、こればかりは豊前守ぶぜんのかみ殿どの意向いこうもある事故ことゆえ…」

 清定当人きよさだとうにん意向いこうを―、愚弟ぐてい弁当べんとうつくりたいと言っているのだがいものかと、それをたしかめないことにはこたようがないというわけだ。

 たしかに意致おきむねの言うとおりであり、そこで宗介そうすけはとりあえずあに意致おきむね弁当べんとうだけつくことにした。

 そしてそれからもなくして、宗介そうすけ清定きよさだぶん弁当べんとうをもつくようになった。

 すなわち、意致おきむねよりその意向いこうわれた清定きよさだ大変たいへん恐縮きょうしゅくしつつも、

是非ぜひに…」

 宗介そうすけ弁当べんとうつくってもらいたいとの意向いこうしめしたのであった。

 いや、いまからおもえば清定きよさだには意致おきむねからの申出もうしでことわるという選択肢せんたくしはなかったであろう。

 なにしろその当時とうじ意致おきむねはと言うと、次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり最側近さいそっきんたるそば用取次ようとりつぎ立場たちばにあり、しかもその背後はいごには、

いまときめく…」

 老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐひかえていたのだ。

 そのよう意致おきむねから、

おとうと弁当べんとうつくりたいと言っているのだが…」

 そう持掛もちかけられれば、これを有難ありがたく「拝受はいじゅ」するよりほかにはなかったであろう

 もっともそのとき宗介そうすけはそんなことおもいがいたほどには成熟せいじゅくしておらず、

嬉々ききとして…」

 弁当作べんとうづくりにはげんだものである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

小日本帝国

ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。 大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく… 戦線拡大が甚だしいですが、何卒!

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

月弥総合病院

僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

処理中です...