若君様の御側御料人 ~俺の大嫌いな若君様~

ご隠居

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宗介が「そうすけ」を開店した経緯と武士の客を嫌う理由 1

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「なぁ、高橋たかはしさんよぉ…、こんな大金たいきんをくれたところで、あんたのとこのお殿様とのさま…、堀田ほったさまをどうこうして差上さしあげることなんて出来できませんぜ?」

 宗介そうすけ無駄むだであること承知しょうちうえで、それでもなお、その五両もの大金たいきんつつまれているむらさき袱紗ふくさ高橋たかはしさんにかかげてせながらそうげた。

 すると高橋たかはしさんも相変あいかわらずあたまげたまま、つまりは宗介そうすけようともせず、「承知しょうちしております」と即答そくとうした。

 宗介そうすけ最早もはや高橋たかはしさんに五両をかえことあきらめた。高橋たかはしさんはあくまで受取うけとらない姿勢しせいであり、かり無理むりやり受取うけとらせようものなら、誇張こちょうではなしに高橋たかはしさんがはららねばならないことにもなりかねなかったからだ。

 そこで宗介そうすけはらいせにふか溜息ためいきひとつついてると、むらさき袱紗ふくさから御代おだいを、あんじょう、五両の金子きんす取出とりだすと、むらさき袱紗ふくさだけ高橋たかはしさんのふところんだ。

むらさき袱紗ふくさだって馬鹿ばかにならんでしょう…」

 宗介そうすけはそう台詞ゼリフいて屋敷やしきを、堀田ほった屋敷やしきをあとにした。

 駿河台するがだいにある堀田ほった屋敷やしき辞去じきょした宗介そうすけはそのあし小網町こあみちょうにある自分じぶんみせへともどった。

 そうすけ、それが小網町こあみちょうにある宗介そうすけあきなみせ屋号やごうであった。だれにでも、それこそ幼子おさなごにでもおぼえられるようにと、ひらがなである。

 もっとも、客筋きゃくすじ幼子おさなごはいなかった。それと言うのも、宗介そうすけみせけるのは夕の七つ半(午後5時頃)であったからだ。

 宗介そうすけがちょうど職人しょくにん仕事しごとじまいにたる夕の七つ半(午後5時頃)を開店かいてん時間じかんとしたのは客筋きゃくすじとして職人しょくにんんでいたからだ。

 もっと言えば職人しょくにん自分じぶん料理りょうりべてもらいたかったからだ。

 ぎゃく武士ぶし、それも主家しゅけつ、つまりは「ご浪人ろうにん」ではない武士ぶしにはべてもらいたくなかった。絶対ぜったいに。

 宗介そうすけ小網町こあみちょう自分じぶんみせ

「そうすけ」

 その料理屋りょうりやひらいたのはちょうど10年前の享和2(1802)年のことであった。

 宗介そうすけ御三卿ごさんきょう家老かろうつとめた田沼たぬま能登守のとのかみ意誠おきのぶ四男よんなんまれためいえげず、しかし他家たけ養嗣子ようししむかえられるでもなく、実家じっか居候いそうろう決込きめこんでいた。

 いや、養子ようしくちならそれこそ、

いててるほど…」

 あるいは「数多あまた」であった。

 実際じっさい宗介そうすけしたおとうと直三郎なおさぶろう西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどりつとめた石谷いしがや豊前守ぶぜんのかみ清定きよさだ養嗣子ようししとしてむかえられた。

 いや、これで宗介そうすけ阿呆あほうよう知恵ちえおくれだとか、あるいは片輪かたわであったならば、成程なるほど養子ようしくちがないのも当然とうぜんであった。

 だが実際じっさいには宗介そうすけはそのいずれでもない。無論むろん才気煥発さいきかんぱつと言うわけではないが、さりとて愚鈍ぐどんというわけでもなく、からだほう五体ごたい満足まんぞくであった。

 それなら養子ようしくちにはこまらないはずであり、実際じっさい

是非ぜひとも宗介殿そうすけどの当家とうけむかいたたく…」

 そのように、宗介そうすけ養嗣子ようししもらけたいとねが旗本はたもと沢山たくさん田沼たぬまに、それも宗介そうすけあに意致おきむねもとへと日参にっさんした。

 宗介そうすけまれたのは明和7(1770)年のことであり、その1年後ねんご直三郎なおさぶろうまれた。

 それゆえ宗介そうすけ直三郎なおさぶろうよりも1年早ねんはやくに元服げんぷくませたものの、しかし、他家たけへと養子ようしくちつかったのはおとうとである直三郎なおさぶろうほうはやかった。

 いや、宗介そうすけにしても養子ようしくちがなかったわけではけっしてない。

 とりわけ本家ほんけすじたる、その当時とうじ相良さがら藩主はんしゅでもあった老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐそく意知おきとも異例いれいにも部屋住へやずみ若年寄わかどしより取立とりたてられた天明3(1783)年11月の前後ぜんごから、そしてその意知おきともたおれたよく天明4(1784)年3月までのあいだにかけて集中的しゅうちゅうてき養子ようしくち持込もちこまれたものである。

 なかには小藩しょうはんさえもあり、ここで養子ようしくちけていたならば宗介そうすけ今頃いまごろ大名だいみょう嫡子ちゃくしあるいはいえいで大名だいみょうになっていたやもれぬ。

 だが宗介そうすけはそれら養子ようしくちをそれこそ、

ことごとく…」

 蹴飛けとばしたものである。

 それと言うのも彼等かれら魂胆こんたんかっていたからだ。

 宗介そうすけ養子ようしもらようとする彼等かれら旗本はたもとては大名だいみょう魂胆こんたん―、それはズバリ、

宗介そうすけもらけることで、宗介そうすけ本家ほんけすじたる、いまときめく老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐにお近付ちかづきになりたい…」

 それにほかならず、そうなれば、

栄達えいたつおもいのまま…」

 というわけだ。

 いや、田沼たぬま意次おきつぐ分家ぶんけすじたる宗介そうすけもとにすら養子ようしくち舞込まいこむぐらいであったから、とう意次おきつぐもとともなるとそれ以上いじょうであった。

 実際じっさい意知おきとも若年寄わかどしより取立とりたてられるより1年程前ねんほどまえの天明2(1782)年2月にはその当時とうじそば用取次ようとりつぎ要職ようしょくにあった稲葉いなば正明まさあきらそば用取次ようとりつぎとしてのおのれ地位ちいさら確固かっこたるものとすべく、そく正武まさたけ妻女さいじょ意知おきとも養女ようじょむかえたものであり、つづく天明3(1783)年5月には当時とうじすで若年寄わかどしより要職ようしょくにあった太田おおた資愛すけよしさらなる栄達えいたつもとめて末娘すえむすめである三女さんじょ意知おきとも嫡子ちゃくし意次おきつぐからすれば嫡孫ちゃくそんたる龍介りゅうすけもとへととつがせたものであった。

 ともあれ宗介そうすけ立身りっしん出世しゅっせための「人質ひとじち」、あるいは「道具どうぐ」として旗本はたもとや、ては大名だいみょうからもとめられていたと言うわけだ。

 だが宗介そうすけとしてはそんな魂胆こんたんため人質ひとじちになるつもりもなければ、道具どうぐになるつもりもなく、彼等かれらの「ラブコール」をことわつづけたのであった。

 そうして天明4(1784)年3月に意知おきともたおれるや、それをさかい宗介そうすけへの「ラブコール」は徐々じょじょり、そしてそれから2年後の天明6(1786)年に意次おきつぐ失脚しっきゃくするにいたって「ラブコール」は途絶とだえた。

 いや、そればかりかおのれ立身りっしん出世しゅっせため意次おきつぐとのえにしもとめた連中れんちゅう意次おきつぐ失脚しっきゃくするや、まさに、

のひらをかえして…」

 みな一斉いっせい意次おきつぐとのえにし始末しまつであった。

 たとえば太田おおた資愛すけよしがそうで、意知おきとも嫡子ちゃくし龍助りゅうすけもとへととつがせた末娘すえむすめただちに龍助りゅうすけ離縁りえんさせたうえで、それこそ、

何食なにくわぬかおで…」

 豊後ぶんご日出ひじ藩主はんしゅ木下きのした俊懋としまさもとへと再嫁さいかさせ、稲葉いなば正明まさあきらにしてもそれは同様どうようそく正武まさたけよめとしてもらけた意知おきとも養女ようじょ田沼たぬまへとかえし、そのうえ若年寄わかどしよりつとめていた加納かのう久堅ひさかた孫娘まごむすめ正武まさたけ後妻のちぞいむかえたものである。

 ちなみにこの意知おきとも養女ようじょというのがじつ宗介そうすけめいたる。

 すなわち、宗介そうすけあにである意致おきむね次女じじょであり、田鶴たづるという。

 ともあれそのよう次第しだいで、かり宗介そうすけもどこぞの旗本はたもとあるいは大名だいみょう養嗣子ようししとしてむかられても、意次おきつぐ失脚しっきゃく時点じてんでも養嗣子ようしし立場たちばであったならば離縁りえんされ、実家じっかに「返品へんぴん」されていたであろう。実際じっさい老中ろうじゅう水野みずの忠友ただとももとへと養嗣子ようししとしてむかえられていた意知おきともおとうと忠徳ただのりがそうであった。

 それゆえ宗介そうすけは「ラブコール」にこたえなかったおのれ判断はんだんただしかったと再認識さいにんしきすると同時どうじに、あらためて武士ぶしという人種じんしゅ心底信しんそこしんじられないものとさとった。
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