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偽証
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家治は顔を上げた大久保半五郎と吉川一學に対して、
「さればそこにおる意知より、そなたらに対して糺したき儀があるそうな…、されば何事も包み隠さずに申すが良いぞ…」
意知の訊問に対して正直に答えろと命じたのであった。すると大久保半五郎と吉川一學は、
「承知仕りましてござりまする…」
そう声を揃えて将軍・家治を頷かせた。
それから家治は意知に対してやはり目でもって訊問を促したので、これに対して意知も勿論、そうと察すると家治に対して改めて叩頭した後、体を二人の方へと向けて訊問を始めた。
「されば今は亡き、畏れ多くも大納言様が最期のご放鷹について尋ねる…」
意知はそう前置きした後、ここ本丸にて将軍・家治に仕える奥医師の池原良誠が何ゆえに、西之丸の盟主とも言うべき次期将軍たる家基の放鷹…、鷹狩りに従ったのか、その理由、経緯を尋ねたのであった。
そして意知の問いには大久保半五郎が答えた。
「さればその儀につきましては稲葉様…、いえ、稲葉主計頭が命にて…」
大久保半五郎はここが御前…、将軍・家治の前であることを思い出して、慌ててそう、「稲葉様」から「稲葉主計頭」と言い直したのであった。
ちなみに、大久保半五郎が口にした、「稲葉主計頭」とは、半五郎や一學にとっての直属の上司に当たる小納戸頭取衆の稲葉主計頭正存であった。
将軍・家治も無論、そのことは承知していたので、すぐに、
「正存が?」
そう反応したのであった。小納戸頭取衆とは言え、所詮は数多の中奥役人の一人に過ぎない。
にもかかわらず、今のように例えば従五位下の諸大夫役であれば、家治はその苗字と官職名を聞いただけで、諱をピタリと言い当ててみせることができるのであった。
これは即ち、家治が中奥役人についてその細部まで把握しているとのアピールになり、ひいては畏怖につながる。
家治が従五位下の諸大夫役であれば諱を、従六位の布衣役以下であれば通称を、それぞれ呼びかける背景にはそのように周囲に対して畏怖の感情を植え付けさせる狙いも込められていたのだ。
そして家治のその狙いは成功しており、今も家治が「正存」と、それも即座に諱を言い当ててみせたことから、皆、家治に対してある種の畏れを感じた。意知も勿論、その一人であり、温厚な家治にある種の凄味をも感じた。
ともあれ家治が「正存」とその諱を言い当ててみせると、大久保半五郎も家治のその記憶力にある種の畏怖を感じつつ、「御意」と答えた。
「されば直ちに、正存を召し出すべし…」
家治がそう口にしただけで、やはり泰行が家治に対して叩頭して断りを入れてから立ち上がると、再び、御休息之間をあとにした。家治は誰に対して命じたわけでもなかったが、しかし、御側御用取次見習いの泰行の立場からすれば、一々、家治からの「ご指名」を待っていては駄目なのである。
御側御用取次見習いである以上、将軍・家治が今のように何か要望を口にすれば、一々、「ご指名」を受けるのを待たずして、自ら動かねばならないのだ。それでこその見習いであるのだ。
さて、小納戸頭取衆の一人である稲葉主計頭正存が泰行の案内にて、下段に面した入側…、廊下へと足を踏み入れるや、ここでまたしても先程の再現、つまりは皆の平伏と相成った。
正存が平伏したのを皮切りに、他の者たちも一斉に平伏したのであった。
家治にしてもそれは同様で、
「一同の者、面を上げぃ…」
再び、皆に対してそう命じたのであった。
そうして皆が同時に頭を上げると、家治は正存に対して、
「さて、正存…」
そう切り出したのであった。
「ははっ」
「そなた、家基が最期の放鷹の折、余に仕えし奥医の池原長仙院をその放鷹に従わせしむるよう、そこな奥医を差配せし御膳番の小納戸の大久保半五郎と吉川一學に命じたそうだが、それに相違ないか?」
家治は扇子でもって、正存の隣に座る半五郎と一學の両名を指し示しながら尋ねた。今回は意知に任せずに、家治自ら、訊問に当たるつもりのようだった。
さて、家治の今の質問に対して正存はしかし、「いえ、滅相もござりませぬ」と否定したのであった。
「されば左様な覚えはないと申すか?」
家治は正存に対して念押しするように尋ねた。
それに対して正存も即座に、「御意」と答えた。
家治は正存のその答えに対して、「左様か…」と納得する風を装いつつ、
「半五郎、一學」
家治はそう二人の名を…、通称を呼びかけて、二人に「ははっ」と同時に声を揃えさせた。
「今、聞いての通りぞ…」
お前たち二人は嘘をついたのか…、家治はそう示唆した。それに対して二人もそうと気付くと、
「滅相もござりませぬっ!」
二人にしても正存同様、そう声を揃えたものであった。
「ふむ…、なれば何れかが嘘をついていることになるのう…」
家治はそう呟いた。
「畏れながら…」
やはり半五郎がそう切り出したので、家治も「許す」と告げて発言を促した。
「さればその場には、御側御用取次の稲葉越中守も同席しておりましたるゆえ、稲葉越中にも…」
是非、訊いて欲しい…、半五郎はそう示唆したのであった。
「何と…、正明が同席していたとなると…、そなたらは談部屋にて正存より奥医が件を…、家基が最期の放鷹に、ここ本丸にて余に仕えし奥医の池原長仙院を従わせる件を持ちかけられたと申すか?」
家治が確かめるようにそう尋ねると、半五郎と一學はやはり、「御意」と声を揃えた。
「ふむ…、正明、覚えがあるか?」
家治はすぐ隣に控える稲葉正明に対して尋ねた。
「ははっ。確かに、談部屋にて畏れ多くも大納言様がお最期のご放鷹に本丸奥医の池原長仙院を従わせしむる件につき、稲葉主計と、大久保半五郎、吉川一學が談合致し、その場にはそれがしも同席致しましてござりまする…」
正明がそう答えると、半五郎と一學はホッとした表情を浮かべた。どうやら己の主張の正当性が裏付けられたと、そう合点したようであったが、しかし、それは早合点というものであった。
「なれど、話が…、大久保半五郎と吉川一學が申し条は正しく、あべこべにて…」
あべこべ…、正明の口からその一言が飛び出し、半五郎と一學はハッとした表情へと変化を遂げた。
「あべこべとな?」
家治もその一言が大いに気になり聞き返した。
「御意」
「そはまた、如何な意味ぞ?」
「正しく言葉通りの意味にて…、されば池原長仙院を従わせしむる件につきまして、これを申し立てましたるは大久保半五郎と池原長仙院にて…」
正明がそう答えると、半五郎も一學も最早、呆然とした様子であった。
「さればそこにおる意知より、そなたらに対して糺したき儀があるそうな…、されば何事も包み隠さずに申すが良いぞ…」
意知の訊問に対して正直に答えろと命じたのであった。すると大久保半五郎と吉川一學は、
「承知仕りましてござりまする…」
そう声を揃えて将軍・家治を頷かせた。
それから家治は意知に対してやはり目でもって訊問を促したので、これに対して意知も勿論、そうと察すると家治に対して改めて叩頭した後、体を二人の方へと向けて訊問を始めた。
「されば今は亡き、畏れ多くも大納言様が最期のご放鷹について尋ねる…」
意知はそう前置きした後、ここ本丸にて将軍・家治に仕える奥医師の池原良誠が何ゆえに、西之丸の盟主とも言うべき次期将軍たる家基の放鷹…、鷹狩りに従ったのか、その理由、経緯を尋ねたのであった。
そして意知の問いには大久保半五郎が答えた。
「さればその儀につきましては稲葉様…、いえ、稲葉主計頭が命にて…」
大久保半五郎はここが御前…、将軍・家治の前であることを思い出して、慌ててそう、「稲葉様」から「稲葉主計頭」と言い直したのであった。
ちなみに、大久保半五郎が口にした、「稲葉主計頭」とは、半五郎や一學にとっての直属の上司に当たる小納戸頭取衆の稲葉主計頭正存であった。
将軍・家治も無論、そのことは承知していたので、すぐに、
「正存が?」
そう反応したのであった。小納戸頭取衆とは言え、所詮は数多の中奥役人の一人に過ぎない。
にもかかわらず、今のように例えば従五位下の諸大夫役であれば、家治はその苗字と官職名を聞いただけで、諱をピタリと言い当ててみせることができるのであった。
これは即ち、家治が中奥役人についてその細部まで把握しているとのアピールになり、ひいては畏怖につながる。
家治が従五位下の諸大夫役であれば諱を、従六位の布衣役以下であれば通称を、それぞれ呼びかける背景にはそのように周囲に対して畏怖の感情を植え付けさせる狙いも込められていたのだ。
そして家治のその狙いは成功しており、今も家治が「正存」と、それも即座に諱を言い当ててみせたことから、皆、家治に対してある種の畏れを感じた。意知も勿論、その一人であり、温厚な家治にある種の凄味をも感じた。
ともあれ家治が「正存」とその諱を言い当ててみせると、大久保半五郎も家治のその記憶力にある種の畏怖を感じつつ、「御意」と答えた。
「されば直ちに、正存を召し出すべし…」
家治がそう口にしただけで、やはり泰行が家治に対して叩頭して断りを入れてから立ち上がると、再び、御休息之間をあとにした。家治は誰に対して命じたわけでもなかったが、しかし、御側御用取次見習いの泰行の立場からすれば、一々、家治からの「ご指名」を待っていては駄目なのである。
御側御用取次見習いである以上、将軍・家治が今のように何か要望を口にすれば、一々、「ご指名」を受けるのを待たずして、自ら動かねばならないのだ。それでこその見習いであるのだ。
さて、小納戸頭取衆の一人である稲葉主計頭正存が泰行の案内にて、下段に面した入側…、廊下へと足を踏み入れるや、ここでまたしても先程の再現、つまりは皆の平伏と相成った。
正存が平伏したのを皮切りに、他の者たちも一斉に平伏したのであった。
家治にしてもそれは同様で、
「一同の者、面を上げぃ…」
再び、皆に対してそう命じたのであった。
そうして皆が同時に頭を上げると、家治は正存に対して、
「さて、正存…」
そう切り出したのであった。
「ははっ」
「そなた、家基が最期の放鷹の折、余に仕えし奥医の池原長仙院をその放鷹に従わせしむるよう、そこな奥医を差配せし御膳番の小納戸の大久保半五郎と吉川一學に命じたそうだが、それに相違ないか?」
家治は扇子でもって、正存の隣に座る半五郎と一學の両名を指し示しながら尋ねた。今回は意知に任せずに、家治自ら、訊問に当たるつもりのようだった。
さて、家治の今の質問に対して正存はしかし、「いえ、滅相もござりませぬ」と否定したのであった。
「されば左様な覚えはないと申すか?」
家治は正存に対して念押しするように尋ねた。
それに対して正存も即座に、「御意」と答えた。
家治は正存のその答えに対して、「左様か…」と納得する風を装いつつ、
「半五郎、一學」
家治はそう二人の名を…、通称を呼びかけて、二人に「ははっ」と同時に声を揃えさせた。
「今、聞いての通りぞ…」
お前たち二人は嘘をついたのか…、家治はそう示唆した。それに対して二人もそうと気付くと、
「滅相もござりませぬっ!」
二人にしても正存同様、そう声を揃えたものであった。
「ふむ…、なれば何れかが嘘をついていることになるのう…」
家治はそう呟いた。
「畏れながら…」
やはり半五郎がそう切り出したので、家治も「許す」と告げて発言を促した。
「さればその場には、御側御用取次の稲葉越中守も同席しておりましたるゆえ、稲葉越中にも…」
是非、訊いて欲しい…、半五郎はそう示唆したのであった。
「何と…、正明が同席していたとなると…、そなたらは談部屋にて正存より奥医が件を…、家基が最期の放鷹に、ここ本丸にて余に仕えし奥医の池原長仙院を従わせる件を持ちかけられたと申すか?」
家治が確かめるようにそう尋ねると、半五郎と一學はやはり、「御意」と声を揃えた。
「ふむ…、正明、覚えがあるか?」
家治はすぐ隣に控える稲葉正明に対して尋ねた。
「ははっ。確かに、談部屋にて畏れ多くも大納言様がお最期のご放鷹に本丸奥医の池原長仙院を従わせしむる件につき、稲葉主計と、大久保半五郎、吉川一學が談合致し、その場にはそれがしも同席致しましてござりまする…」
正明がそう答えると、半五郎と一學はホッとした表情を浮かべた。どうやら己の主張の正当性が裏付けられたと、そう合点したようであったが、しかし、それは早合点というものであった。
「なれど、話が…、大久保半五郎と吉川一學が申し条は正しく、あべこべにて…」
あべこべ…、正明の口からその一言が飛び出し、半五郎と一學はハッとした表情へと変化を遂げた。
「あべこべとな?」
家治もその一言が大いに気になり聞き返した。
「御意」
「そはまた、如何な意味ぞ?」
「正しく言葉通りの意味にて…、されば池原長仙院を従わせしむる件につきまして、これを申し立てましたるは大久保半五郎と池原長仙院にて…」
正明がそう答えると、半五郎も一學も最早、呆然とした様子であった。
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