天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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新たなる偽証 ~目付・末吉善左衛門利隆の場合~

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 すると今度は泰行やすゆきではなく、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうず目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんを呼びに行った。

 それと言うのも、泰行やすゆきがこれまでみずから連れて来た大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがく、それに稲葉いなば正存まさよしは皆、中奥なかおく役人、つまりはここ中奥なかおくにて働いている役人であった。

 それに比して末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはと言うと、表向おもてむきの諸役人である目付めつけであり、つまりは表向おもてむきにて働いており、その目付めつけである末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんを呼び出そうと思えば畢竟ひっきょう表向おもてむきへと足を踏み入れなければならない。

 だが泰行やすゆきは見習いとは言え、れきとした中奥なかおく役人の一人であり、そうであれば不用意に表向おもてむきへと足を踏み入れることはご法度はっとであった。

 もっとも、厳しく制限されているのは中奥なかおく役人ではない表向おもてむきの役人が将軍のプライベートエリアとも言うべき中奥なかおくへと立ち入ることであり、その逆、中奥なかおく役人が表向おもてむきへと立ち入ることについてはとうじょうのぞいては黙認もくにんされているのが実態であった。

 しかも今回は、

目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんし出せ…」

 その将軍・家治の命という立派な「大義たいぎ名分めいぶん」があり、そうであれば泰行やすゆき堂々どうどう表向おもてむきに足を踏み入れても何ら問題はないはずであった。

 それでも今回は泰行やすゆきは足を運ばずに御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうず末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんを呼ぶのを任せたのは他でもない、それは末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん目付めつけだからだ。

 末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんの職場である、

目付めつけがた御用ごようしょ

 通称つうしょう、「目付めつけ部屋べや」は目付めつけ職掌しょくしょうがら、その入室が厳しく制限されており、泰行やすゆきのような御側おそば御用ごよう取次とりつぎ見習いは元より、御側おそば御用ごよう取次とりつぎさえも入室が禁じられていた。いや、それどころか老中や若年寄、それに大目付さえも入室が禁じられており、わずかにおく右筆ゆうひつおもて右筆ゆうひつ、それに意外にも御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする肝煎きもいり坊主ぼうずしゅうなどの入室が認められている程度ていどであった。

 ちなみに御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする肝煎きもいり坊主ぼうずが厳しく入室が制限されている目付めつけの職場である「目付めつけ部屋べや」に立ち入ることが出来るのはひとえに、日記掛を兼務けんむする目付めつけ中奥なかおくでの出来事を伝えるためであった。

 目付めつけには殿中でんちゅうでの出来事できごとを記録する日記掛を兼務けんむする者がおり、その殿中でんちゅうには勿論もちろん中奥なかおくふくまれる。

 しかし、目付めつけはあくまで表向おもてむきの役人であり、やはり勝手に中奥なかおくに立ち入ることは許されていなかった。無論むろん中奥なかおくでの出来事できごとを記録するためとしょうして中奥なかおくに立ち入ることは可能であろうが、しかし、一日中、中奥なかおくで過ごして、中奥なかおくでの出来事できごとを記録するのはあまりに非合理というものである。

 第一、それでは、目付めつけとしての本来の職分しょくぶんに差しさわりが出て来る。それと言うのも目付めつけ職分しょくぶんはあくまで旗本や御家人の監察かんさつ、あるいは今では本来は大目付おおめつけ職分しょくぶんであった大名の監察かんさつまでも手を広げており、そうであればそれら監察かんさつの職務だけでも忙殺ぼうさつされる。

 そのような目付が一日中、中奥なかおくにそれこそ、

「つくねんと座って…」

 そのように中奥なかおく出来事できごとを記録するなど、不可能であった。日記掛はあくまでかた手間てまに処理しなければならない仕事であるからだ。

 そこで日記掛の目付は中奥なかおく出来事できごとについては御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずよりこれを聞き取り、日記にしたためたのであった。

 ちなみに表向おもてむき出来事できごとについてもそれは同様で、すなわち、表向おもてむき出来事できごとについてはおく右筆ゆうひつおもて右筆ゆうひつよりこれを聞き取り、日記にしたためるべく、そのためにおく右筆ゆうひつおもて右筆ゆうひつにしても同様に、「目付めつけ部屋べや」への入室が特に許されていたのであった。

 ともあれそのような事情があって、目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん泰行やすゆきに代わって御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずが呼びに行ったのであった。

 こうして末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんもまた、時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずの案内によって中奥なかおく御休息之間ごきゅうそくのまの下段に面した入側いりがわ…、廊下へと足を踏み入れ、そしてそこで腰をおろして将軍・家治と向かい合うなり平伏へいふくしたので、皆ももう何度目であろうか、再び、平伏へいふくしたのであった。

一同いちどうの者、おもてを上げぃ…」

 家治にしても同様、もう何度目になるであろうか、その言葉を口にして皆の頭を上げさせた。

 ともあれ家治は末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに対して、第三者とも言うべき、そして仕事を覚えさせる意味からも、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ見習いの泰行やすゆきにこれまでの経緯を伝えさせた上で、

「されば、どちらの証言が正しいのか…、稲葉いなば正明まさあきら稲葉いなば正存まさよしが両名の申し条が正しいのか、それとも大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくが両名の申し条が正しいのか、善左衛門ぜんざえもんよ、腹蔵ふくぞうなく申せ…」

 家治は善左衛門ぜんざえもんに対して「証人」としてその証言を求めたのであった。

「されば…、大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの両名が申し条はうそいつわりにて…」

 善左衛門ぜんざえもんがそう証言したので、それまで己に有利にかたむきつつあり、すっかり安堵あんどしていた半五郎はんごろう一學いちがく善左衛門ぜんざえもんの今の証言を耳にして、それまでの安堵あんど一瞬いっしゅんにして吹き飛び、今にも卒倒そっとうしかけた。

 それとは正反対なのが正明まさあきら正存まさよしの二人であり、二人は善左衛門ぜんざえもんの今の証言に深くうなずいたものである。

「ほう…、半五郎はんごろう一學いちがくが申し条はうそいつわりと申すか?」

 家治は善左衛門ぜんざえもんに対して確かめるように尋ねた。

御意ぎょい…」

「さればそなたが、正明まさあきら正存まさよし共々ともども半五郎はんごろう一學いちがくが両名に対して、本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもと放鷹ほうようしたがわせしむることをすすめた事実はないと申すのだな?」

御意ぎょい…、それどころか大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくこそがおそれ多くも大納言だいなごん様がお最期さいごのご放鷹ほうよう是非ぜひとも本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいんしたがわせしめたいと、左様さよう稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ稲葉いなば主計頭かずえのかみに対しまして、それこそ執拗しつように言いつのり、稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ稲葉いなば主計頭かずえのかみを大いに困らせましてござりまする…」

 善左衛門ぜんざえもんのその証言に、正明まさあきら正存まさよしはいよいよもって深く、そしてり返しうなずいたものである。

「それを、そなたは目付めつけとしていさめなんだか?」

無論むろんいさめ申しました。おそれ多くも大納言だいなごん様がご放鷹ほうよう本丸ほんまるおくしたがたてまつりし前例はないと…、なれど大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくは…」

目付めつけであるそなたの忠告も無視して、なお正明まさあきら正存まさよしに言いつのったと申すか?池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもと放鷹ほうようへの同行どうこうを、それも執拗しつように…」

御意ぎょい。それがしといたしましても、あくまで表向おもてむきの役人にて…」

「ここ中奥なかおくにて勤仕きんしせし半五郎はんごろう一學いちがくに対しては余り、強い調子でいさめることはできなかったと申すのだな?」

御意ぎょい…」

「して結果…、さしずめ正明まさあきら正存まさよしの方が半五郎はんごろう一學いちがく執拗しつようさにこんけしたといったところか?」

 家治がそう水を向けると、それに対しては善左衛門ぜんざえもんのみならず、正明まさあきら正存まさよしまでが「御意ぎょい」と口にし、三人の声がそろった格好である。
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