84 / 197
新たなる偽証 ~目付・末吉善左衛門利隆の場合~
しおりを挟む
すると今度は泰行ではなく、御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主が目付の末吉善左衛門を呼びに行った。
それと言うのも、泰行がこれまで自ら連れて来た大久保半五郎や吉川一學、それに稲葉正存は皆、中奥役人、つまりはここ中奥にて働いている役人であった。
それに比して末吉善左衛門はと言うと、表向の諸役人である目付であり、つまりは表向にて働いており、その目付である末吉善左衛門を呼び出そうと思えば畢竟、表向へと足を踏み入れなければならない。
だが泰行は見習いとは言え、歴とした中奥役人の一人であり、そうであれば不用意に表向へと足を踏み入れることはご法度であった。
尤も、厳しく制限されているのは中奥役人ではない表向の役人が将軍のプライベートエリアとも言うべき中奥へと立ち入ることであり、その逆、中奥役人が表向へと立ち入ることについては登下城を除いては黙認されているのが実態であった。
しかも今回は、
「目付の末吉善左衛門を召し出せ…」
その将軍・家治の命という立派な「大義名分」があり、そうであれば泰行も堂々と表向に足を踏み入れても何ら問題はない筈であった。
それでも今回は泰行は足を運ばずに御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主に末吉善左衛門を呼ぶのを任せたのは他でもない、それは末吉善左衛門が目付だからだ。
末吉善左衛門の職場である、
「御目付方御用所」
通称、「御目付部屋」は目付の職掌柄、その入室が厳しく制限されており、泰行のような御側御用取次見習いは元より、御側御用取次さえも入室が禁じられていた。いや、それどころか老中や若年寄、それに大目付さえも入室が禁じられており、僅かに奥右筆や表右筆、それに意外にも御側御用取次に附属する肝煎坊主衆などの入室が認められている程度であった。
ちなみに御側御用取次に附属する肝煎坊主が厳しく入室が制限されている目付の職場である「御目付部屋」に立ち入ることが出来るのはひとえに、日記掛を兼務する目付に中奥での出来事を伝えるためであった。
目付には殿中での出来事を記録する日記掛を兼務する者がおり、その殿中には勿論、中奥も含まれる。
しかし、目付はあくまで表向の役人であり、やはり勝手に中奥に立ち入ることは許されていなかった。無論、中奥での出来事を記録するためと称して中奥に立ち入ることは可能であろうが、しかし、一日中、中奥で過ごして、中奥での出来事を記録するのはあまりに非合理というものである。
第一、それでは、目付としての本来の職分に差し障りが出て来る。それと言うのも目付の職分はあくまで旗本や御家人の監察、あるいは今では本来は大目付の職分であった大名の監察までも手を広げており、そうであればそれら監察の職務だけでも忙殺される。
そのような目付が一日中、中奥にそれこそ、
「つくねんと座って…」
そのように中奥の出来事を記録するなど、不可能であった。日記掛はあくまで片手間に処理しなければならない仕事であるからだ。
そこで日記掛の目付は中奥の出来事については御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主よりこれを聞き取り、日記にしたためたのであった。
ちなみに表向の出来事についてもそれは同様で、即ち、表向の出来事については奥右筆、表右筆よりこれを聞き取り、日記にしたためるべく、そのために奥右筆や表右筆にしても同様に、「御目付部屋」への入室が特に許されていたのであった。
ともあれそのような事情があって、目付の末吉善左衛門は泰行に代わって御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主が呼びに行ったのであった。
こうして末吉善左衛門もまた、時斗之間の肝煎坊主の案内によって中奥は御休息之間の下段に面した入側…、廊下へと足を踏み入れ、そしてそこで腰をおろして将軍・家治と向かい合うなり平伏したので、皆ももう何度目であろうか、再び、平伏したのであった。
「一同の者、面を上げぃ…」
家治にしても同様、もう何度目になるであろうか、その言葉を口にして皆の頭を上げさせた。
ともあれ家治は末吉善左衛門に対して、第三者とも言うべき、そして仕事を覚えさせる意味からも、御側御用取次見習いの泰行にこれまでの経緯を伝えさせた上で、
「されば、どちらの証言が正しいのか…、稲葉正明と稲葉正存が両名の申し条が正しいのか、それとも大久保半五郎と吉川一學が両名の申し条が正しいのか、善左衛門よ、腹蔵なく申せ…」
家治は善左衛門に対して「証人」としてその証言を求めたのであった。
「されば…、大久保半五郎と吉川一學の両名が申し条は真っ赤な嘘、偽りにて…」
善左衛門がそう証言したので、それまで己に有利に傾きつつあり、すっかり安堵していた半五郎と一學は善左衛門の今の証言を耳にして、それまでの安堵は一瞬にして吹き飛び、今にも卒倒しかけた。
それとは正反対なのが正明と正存の二人であり、二人は善左衛門の今の証言に深く頷いたものである。
「ほう…、半五郎と一學が申し条は嘘、偽りと申すか?」
家治は善左衛門に対して確かめるように尋ねた。
「御意…」
「さればそなたが、正明や正存共々、半五郎と一學が両名に対して、本丸奥医の池原長仙院を家基が放鷹に従わせしむることをすすめた事実はないと申すのだな?」
「御意…、それどころか大久保半五郎と吉川一學こそが畏れ多くも大納言様がお最期のご放鷹に是非とも本丸奥医の池原長仙院を従わせしめたいと、左様に稲葉越中守と稲葉主計頭に対しまして、それこそ執拗に言い募り、稲葉越中守と稲葉主計頭を大いに困らせましてござりまする…」
善左衛門のその証言に、正明と正存はいよいよもって深く、そして繰り返し頷いたものである。
「それを、そなたは目付として諫めなんだか?」
「無論、諫め申しました。畏れ多くも大納言様がご放鷹に本丸奥医が従い奉りし前例はないと…、なれど大久保半五郎と吉川一學は…」
「目付であるそなたの忠告も無視して、尚も正明と正存に言い募ったと申すか?池原長仙院の家基が放鷹への同行を、それも執拗に…」
「御意。それがしと致しましても、あくまで表向の役人にて…」
「ここ中奥にて勤仕せし半五郎と一學に対しては余り、強い調子で諫めることはできなかったと申すのだな?」
「御意…」
「して結果…、さしずめ正明と正存の方が半五郎と一學の執拗さに根負けしたといったところか?」
家治がそう水を向けると、それに対しては善左衛門のみならず、正明と正存までが「御意」と口にし、三人の声が揃った格好である。
それと言うのも、泰行がこれまで自ら連れて来た大久保半五郎や吉川一學、それに稲葉正存は皆、中奥役人、つまりはここ中奥にて働いている役人であった。
それに比して末吉善左衛門はと言うと、表向の諸役人である目付であり、つまりは表向にて働いており、その目付である末吉善左衛門を呼び出そうと思えば畢竟、表向へと足を踏み入れなければならない。
だが泰行は見習いとは言え、歴とした中奥役人の一人であり、そうであれば不用意に表向へと足を踏み入れることはご法度であった。
尤も、厳しく制限されているのは中奥役人ではない表向の役人が将軍のプライベートエリアとも言うべき中奥へと立ち入ることであり、その逆、中奥役人が表向へと立ち入ることについては登下城を除いては黙認されているのが実態であった。
しかも今回は、
「目付の末吉善左衛門を召し出せ…」
その将軍・家治の命という立派な「大義名分」があり、そうであれば泰行も堂々と表向に足を踏み入れても何ら問題はない筈であった。
それでも今回は泰行は足を運ばずに御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主に末吉善左衛門を呼ぶのを任せたのは他でもない、それは末吉善左衛門が目付だからだ。
末吉善左衛門の職場である、
「御目付方御用所」
通称、「御目付部屋」は目付の職掌柄、その入室が厳しく制限されており、泰行のような御側御用取次見習いは元より、御側御用取次さえも入室が禁じられていた。いや、それどころか老中や若年寄、それに大目付さえも入室が禁じられており、僅かに奥右筆や表右筆、それに意外にも御側御用取次に附属する肝煎坊主衆などの入室が認められている程度であった。
ちなみに御側御用取次に附属する肝煎坊主が厳しく入室が制限されている目付の職場である「御目付部屋」に立ち入ることが出来るのはひとえに、日記掛を兼務する目付に中奥での出来事を伝えるためであった。
目付には殿中での出来事を記録する日記掛を兼務する者がおり、その殿中には勿論、中奥も含まれる。
しかし、目付はあくまで表向の役人であり、やはり勝手に中奥に立ち入ることは許されていなかった。無論、中奥での出来事を記録するためと称して中奥に立ち入ることは可能であろうが、しかし、一日中、中奥で過ごして、中奥での出来事を記録するのはあまりに非合理というものである。
第一、それでは、目付としての本来の職分に差し障りが出て来る。それと言うのも目付の職分はあくまで旗本や御家人の監察、あるいは今では本来は大目付の職分であった大名の監察までも手を広げており、そうであればそれら監察の職務だけでも忙殺される。
そのような目付が一日中、中奥にそれこそ、
「つくねんと座って…」
そのように中奥の出来事を記録するなど、不可能であった。日記掛はあくまで片手間に処理しなければならない仕事であるからだ。
そこで日記掛の目付は中奥の出来事については御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主よりこれを聞き取り、日記にしたためたのであった。
ちなみに表向の出来事についてもそれは同様で、即ち、表向の出来事については奥右筆、表右筆よりこれを聞き取り、日記にしたためるべく、そのために奥右筆や表右筆にしても同様に、「御目付部屋」への入室が特に許されていたのであった。
ともあれそのような事情があって、目付の末吉善左衛門は泰行に代わって御側御用取次に附属する時斗之間の肝煎坊主が呼びに行ったのであった。
こうして末吉善左衛門もまた、時斗之間の肝煎坊主の案内によって中奥は御休息之間の下段に面した入側…、廊下へと足を踏み入れ、そしてそこで腰をおろして将軍・家治と向かい合うなり平伏したので、皆ももう何度目であろうか、再び、平伏したのであった。
「一同の者、面を上げぃ…」
家治にしても同様、もう何度目になるであろうか、その言葉を口にして皆の頭を上げさせた。
ともあれ家治は末吉善左衛門に対して、第三者とも言うべき、そして仕事を覚えさせる意味からも、御側御用取次見習いの泰行にこれまでの経緯を伝えさせた上で、
「されば、どちらの証言が正しいのか…、稲葉正明と稲葉正存が両名の申し条が正しいのか、それとも大久保半五郎と吉川一學が両名の申し条が正しいのか、善左衛門よ、腹蔵なく申せ…」
家治は善左衛門に対して「証人」としてその証言を求めたのであった。
「されば…、大久保半五郎と吉川一學の両名が申し条は真っ赤な嘘、偽りにて…」
善左衛門がそう証言したので、それまで己に有利に傾きつつあり、すっかり安堵していた半五郎と一學は善左衛門の今の証言を耳にして、それまでの安堵は一瞬にして吹き飛び、今にも卒倒しかけた。
それとは正反対なのが正明と正存の二人であり、二人は善左衛門の今の証言に深く頷いたものである。
「ほう…、半五郎と一學が申し条は嘘、偽りと申すか?」
家治は善左衛門に対して確かめるように尋ねた。
「御意…」
「さればそなたが、正明や正存共々、半五郎と一學が両名に対して、本丸奥医の池原長仙院を家基が放鷹に従わせしむることをすすめた事実はないと申すのだな?」
「御意…、それどころか大久保半五郎と吉川一學こそが畏れ多くも大納言様がお最期のご放鷹に是非とも本丸奥医の池原長仙院を従わせしめたいと、左様に稲葉越中守と稲葉主計頭に対しまして、それこそ執拗に言い募り、稲葉越中守と稲葉主計頭を大いに困らせましてござりまする…」
善左衛門のその証言に、正明と正存はいよいよもって深く、そして繰り返し頷いたものである。
「それを、そなたは目付として諫めなんだか?」
「無論、諫め申しました。畏れ多くも大納言様がご放鷹に本丸奥医が従い奉りし前例はないと…、なれど大久保半五郎と吉川一學は…」
「目付であるそなたの忠告も無視して、尚も正明と正存に言い募ったと申すか?池原長仙院の家基が放鷹への同行を、それも執拗に…」
「御意。それがしと致しましても、あくまで表向の役人にて…」
「ここ中奥にて勤仕せし半五郎と一學に対しては余り、強い調子で諫めることはできなかったと申すのだな?」
「御意…」
「して結果…、さしずめ正明と正存の方が半五郎と一學の執拗さに根負けしたといったところか?」
家治がそう水を向けると、それに対しては善左衛門のみならず、正明と正存までが「御意」と口にし、三人の声が揃った格好である。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる