天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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表番医師・遊佐信庭が小野章以の共犯者である可能性が浮上する 3

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「やはり…、遊佐ゆさ先生が小野先生に対して、御台みだい様と萬壽ます姫様、このお二人の診療しんりょう記録を渡したということでしょうか…」

 玄通げんつうがそう尋ねた。それに対して元悳もとのりは「そう考えてつかえあるまい」と即答そくとうした。意知おきともも同意見であった。そう考えないことには遊佐ゆさ信庭のぶにわのそのあやしげな行動に説明がつかないからだ。

「ところで、池原いけはら先生は…」

 玄通げんつうさらにそう質問をかさねたので、「池原いけはら先生?」と元悳もとのりは首をかしげつつ、聞き返した。玄通げんつうの疑問が理解できなかったと見え、それは意知おきともにしても同様であった。

「いや、池原いけはら先生は御台みだい様や萬壽ます姫様の療治りょうじには加わらなかったのかと、そう思いまして…」

 玄通げんつうがそう補足ほそくしたので、それで元悳もとのりも、そして意知おきともようやくに玄通げんつうの疑問がめた。

池原いけはら先生が本丸ほんまるおく医師いしに取り立てられたのは安永4(1775)年のそれも11月のことだ」

 意知おきとも玄通げんつうの疑問に答えた。

「安永4(1775)年…、ってことはすで御台みだい様も萬壽ます姫様も亡くなられた後におく医師いしに取り立てられたわけですか。池原いけはら先生は…」

左様さよう…、さればそれ以前には池原いけはら先生は御城おしろには足を踏み入れることさえゆるされず…、いや、さらに2年前の安永2(1773)年におそれ多くも上様に拝謁はいえつすべく御城おしろに…、それも本丸ほんまるへと登城とじょうせしも、それはくれ…、12月のことであり…」

「12月…、萬壽ます姫様はその年の2月20日に亡くなられたわけだから、やはり萬壽ます姫様が亡くなられた後…、勿論もちろん御台みだい様も亡くなられた後に御城おしろ登城とじょうしたというわけですか…」

 玄通げんつう意知おきともの言葉をそう引き取ってみせたので、意知おきともも「左様さよう」と答えると、

「されば池原いけはら先生が小野先生の共犯者である可能性はあり得んのだ…」

 そう付け加えた。すると玄通げんつうあわてた様子で、「とんでもない」と答えた。

池原いけはら先生を疑ったことなど一度たりともありませんよ…」

 玄通げんつうはそう付け加えることも忘れなかった。それも意知おきともるように、であった。

 いや、玄通げんつうろうとしたその相手は意知おきともと言うよりは田沼家、それも意知おきともの実父の意次であったやも知れぬ。

 それと言うのも池原いけはら先生こと池原いけはら良誠よしのぶ見出みいだしたのは他ならぬ田沼意次であったからだ。

 玄通げんつうはその池原いけはら良誠よしのぶ御台みだい様こと倫子ともこや、その息女そくじょ萬壽ます姫の治療ちりょうには加わらなかったのかと、そう尋ねることで、池原いけはら良誠よしのぶ小野おの章以あきしげの共犯者の可能性があるのではと、そう示唆しさしたわけで、それに対して意知おきとも敏感びんかんにそうと察して、あっさりとその可能性が…、池原いけはら良誠よしのぶ小野おの章以あきしげの共犯者である可能性がないことを意知おきともによってあかしてられてしまったがために、玄通げんつうあわてて、「軌道きどう修正しゅうせい」をはかったというわけだ。すなわち、

池原いけはら先生を疑ったことなど一度たりともありませんよ…」

 そう軌道きどう修正しゅうせいはかり、そこには池原いけはら良誠よしのぶ見出みいだした意次にろうとの意図いとめられていた。

 池原いけはら良誠よしのぶ自身はすでにこの世にないいものの、それでも池原いけはら良誠よしのぶを意次が見出みいだしたというその「事実」は今もって生きており、それゆえそんな池原いけはら良誠よしのぶ小野おの章以あきしげの共犯者ではないかと疑ったことが、それはひいては家基いえもと殺しの共犯者ではないかと、そう疑うことにもつながるそのことが意知おきともを通じて父・意次へと伝わろうものなら、

「ヤバい…」

 玄通げんつう咄嗟とっさにそう判断したからこそ、池原いけはら良誠よしのぶを疑ったことなど一度もありませんよと、意知おきともに、ひいては意次にろうとしたわけだ。

 意知おきともにはそんな玄通げんつうの気持ちが手に取るように分かるだけに、やれやれと内心、苦笑させられたものんである。

 これが向こう見ずな「バサラ」の鷲巣わしのす益五郎ますごろうなれば絶対にることなどしなかったであろう。第一、そのような発想させなかったはずであろう。そこが玄通げんつう益五郎ますごろうとの違い、それも最大の違いであり、してみると玄通げんつうはあくまで益五郎ますごろうと比べればの話だが、

「常識人」

 ということになるのやも知れなかった。

 ともあれ、先入せんにゅうかんを持たないのは大事だ。すなわち、

「意次が見出みいだした池原いけはら良誠よしのぶ小野おの章以あきしげの共犯者であるはずがない…」

 家基いえもと毒殺につながる倫子ともこ毒殺や、さら萬壽ます姫毒殺の共犯者であるはずがない、というのは先入せんにゅうかんに他ならない。

 無論むろん池原いけはら良誠よしのぶが共犯者である可能性…、ことに倫子ともこ毒殺や萬壽ます姫毒殺の共犯者である可能性は物理的にないわけだが、それでも一度は疑ってみること、その姿勢しせいきわめて大事である。

 先入せんにゅうかんとはすなわ予断よだん、ひいては偏見へんけんつながり、探索たんさく…、捜査そうさあやまらせるまさに、

大敵たいてき

 それに他ならないからだ。

 そこで意知おきとも自戒じかいめて遊佐ゆさ信庭のぶにわ以外にも果たして共犯者が…、小野おの章以あきしげの共犯者がいるのではないか、その可能性もあるのではないかと、元悳もとのり示唆しさしたのだが、その可能性は今度は元悳もとのりによってあっさりと否定されてしまった。

最前さいぜん、申し上げました通り、おそれ多くも御台みだい様、それに萬壽ます姫様の療治りょうじの記録を取りしは遊佐ゆさ卜庵ぼくあんにて…、しかもおそれ多くも大納言だいなごん様がお最期さいご看取みとりし者の中にも…」

 元悳もとのりがそう示唆しさしたので、意知おきともは思わず声を上げていた。

「もしかして…、遊佐ゆさ先生が看取みとったとっ!?おそれ多くも大納言だいなごん様がお最期さいごを…」

 意知おきともさきまわりしてそう尋ねると、元悳もとのりうなずき、その上で、

無論むろん遊佐ゆさ卜庵ぼくあん一人のみならず…」

 そう補足ほそくした。

 確かにそれはそうだろう。何しろ大納言だいなごん様こと家基いえもとは次期将軍であった。その家基いえもと看取みとった医師いし遊佐ゆさ信庭のぶにわただ一人ひとりとは考えにくかった。

 実際、家基いえもと最期さいご看取みとったのは遊佐ゆさ信庭のぶにわの他にも数多あまたおり、例えば、その当時の西之丸にしのまるおく医師いしがそうであり、すなわち、

吉田よしだ桃源院とうげんいん法印ほういんこと吉田よしだ善正よしまさ

もり養春院ようしゅんいん法印ほういんこともり當定まささだ

小川おがわ玄達げんたつ法眼ほうげんこと小川おがわ子雍たねやす

おか甫庵ほあん法眼ほうげんことおか壽考としなか

山添やまぞえ宗允そういん法眼ほうげんこと山添やまぞえ直辰なおとき

河野こうの良以よしもち法眼ほうげんこと河野こうの通久みちひさ

井上いのうえ良泉りょうせん法眼ほうげんこと井上いのうえ玄高はるたか

 この7人が遊佐ゆさ信庭のぶにわと共に家基いえもと最期さいご看取みとったそうな。

「ところで本丸ほんまるからは?」

 本丸ほんまるおく医師いし家基いえもと最期さいご看取みとらなかったのか、もっと言えば家基いえもと治療ちりょうに当たらなかったのかと、意知おきとも元悳もとのりにそう示唆しさしたのであった。

 それに対して元悳もとのりかぶりを振ってみせた。

「それが…、本丸のおく医師いし大納言だいなごん様の枕頭ちんとうには近づけず…」

 枕頭ちんとうに近づけない、ということは治療ちりょうに当たらせてもらえなかったという意味に他ならない。

「えっ…、なれどおそれ多くも御台みだい様や萬壽ます姫様は…、本丸ほんまるの大奥におわされた御台みだい様や萬壽ます姫様の療治りょうじには本丸ほんまるおく医師いしのみならず、西之丸にしのまるおく医師いしや、果ては記録係と称しておもてばん医師いしからもただ一人ひとり遊佐ゆさ先生もその療治りょうじくわわられたそうで…、それなれば此度こたび西之丸にしのまるにおわされた大納言だいなごん様の療治りょうじにつきても…、西之丸にしのまるおく医師いし大納言だいなごん様の療治りょうじに当たるのは当然として、本丸ほんまるおく医師いし大納言だいなごん様の療治りょうじくわわったとしても別段べつだん不自然ふしぜんではない…、いや、むしろそうすべきでは?」

 意知おきとも元悳もとのりにそう疑問をぶつけた。

たしかに意知おきとも様のおおせの通りなのですが、どうにも聞くところによりますと西之丸にしのまるおく医師いしが拒否したそうで…」

「拒否したって…、本丸ほんまるおく医師いし大納言だいなごん様の療治りょうじくわわることを、ですか?それを西之丸にしのまるおく医師いしが拒否したと?」

 意知おきともがそう聞き返すと、元悳もとのりうなずいた。
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