131 / 197
意知は表番医師の遊佐信庭が小野章以の共犯者だといよいよもって確信する。そして多紀元悳の「やんわり」とした脅し
しおりを挟む
それにしても依田政次は一体、何ゆえに一橋治済と手を結ぶことにしたのか、その理由が意知には分からなかった。
尤も、どんなに考えたところで今、ここで結論は出まいと、意知は目の前に横たわる問題、さしずめ本題へと戻ることにした。
目の前に横たわる問題…、本題とは他でもない、家基の死の真相、もっと言えば殺害の真相である。
「ともあれ、元悳先生たちは西之丸の御側御用取次の小笠原殿や、それに野々山なる書院組頭に阻まれて、大納言様の療治を断念されたわけですね?」
意知は元悳確かめるように尋ねたわけだが、元悳からは予期せぬ返答があった。
「いえ、実はその後で我ら奥医…、本丸の奥医は打ち揃うて御膳番の御小納戸の大久保殿と吉川殿の許へと押しかけまして、畏れ多くも大納言様の療治に我ら本丸の奥医を召し加えて頂くことが無理なれば、せめて当代随一と申しても過言ではない寄合医の岡本玄治を大納言様の療治に加えて頂き度、この旨、上様にお取り次ぎをと…」
本丸の奥医師を差配する本丸にて小納戸として御膳番を兼務する大久保半五郎と吉川一學の二人にそう陳情し、大久保半五郎と吉川一學の二人はそれを受けて、二人にとっての直属の上司とも言うべき小納戸頭取衆に話を、元悳たち本丸奥医師のこの陳情を上げ、さらに小納戸頭取衆から彼らのやはり直属の上司、それも中奥の支配者とも言うべき御側御用取次にこの陳情を上げて、御側御用取次から上様こと将軍・家治へとこの陳情が伝えられたということらしかった。
「それで結果は?」
意知は単刀直入に尋ねた。
「されば畏れ多くも上様におかせられましては、我ら本丸奥医の願出を至当と認められ…」
「それで天の声が降り、岡本先生の療治入りが認められたと?」
意知がそう水を向けると、「そればかりではありません」との元悳からの返答があったので、
「と言うことは…、元悳先生たち、本丸の奥医師の療治入りも認められたと?」
意知はさらにそう水を向け、元悳を頷かせた。
「それで…、さしもの小笠原殿も岡本先生は元より、元悳先生たち本丸の奥医師が大納言様の療治に加わることを拒否できず、元悳先生たちの西之丸入りが…、即ち、大納言様への療治を認められたと…」
天の声、それも将軍・家治の「声」ともあらば、如何に小笠原信喜が家基の御側御用取次であろうとも、この将軍・家治の「声」を拒絶することは不可能であっただろう。
「尤も、2月24日の朝のことでござりましたが…」
元悳はそう自嘲気味に付け加えた。2月24日とは他でもない、家基の命日に当たり、家基はその日の巳の刻の半ば…、即ち昼の四つ半(午前11時頃)過ぎに薨去したのであり、つまり元悳たち本丸の奥医師に加えて岡本松山の家基治療チーム入りが認められたのは家基が死ぬほんの少し前ということになる。
元悳が自嘲気味に付け加えたのも頷けた。
「それでも…、大納言様が薨去されるまでの間、元悳先生たちは必死で大納言様の救命に当たられたわけでしょうから…」
意知はフォローするようにそう言った。
「ええ、それは勿論。なれど…」
元悳はそこで言葉を区切ると、その先を言い淀む様子を覗かせたので、「なれど、何です?」と意知がその先を促した。
すると元悳はまだ若干の躊躇を見せつつも、その先を続けた。
「なれど、遊佐先生の冷笑にあいながらの救命でござったが…」
「冷笑…」
元悳たち本丸奥医師に加えて、岡本松山が必死で家基を救おうと奮闘していた最中に、こともあろうに遊佐信庭が冷笑を浮かべていたとは、これで最早、遊佐信庭が家基殺害の共犯者…、家基殺害に使われたと思しき兇器とも言うべき毒キノコであるシロテングタケ、或いはドクツルタケを用意したに違いない小児医の小野章以の共犯者であることは疑いようのない事実だと、意知はそう確信した。
遊佐信庭にしても小野章以同様、一橋家と…、治済と何らかの関わりがあり、そこで治済の実子である豊千代を将軍にすべく、治済に手を貸したのではあるまいか。
即ち、次期将軍たる家基の殺害である。将軍・家治の嫡男である家基がいる限りは未来永劫、豊千代に将軍職が回ってくることはあり得なかった。
そこで治済は家基の殺害を決意、だが家基にただ一服盛るだけでは芸がないと、清水重好に疑いがかかるような細工を思いついたのだろう。
それこそが遅効性にして致死性のある毒を用いての殺害であった。すぐには毒の効果が現出しないのがポイントであった。
いや、理想としては家基があくまで病死として処理されることであり、重好に家基殺害の疑いがかかる細工が効力を発揮するのは家基は実は殺害されたものとバレた時のための、
「保険」
そのような意味合いであったのだろう。
ともあれ治済はかねてより付き合いがあったに違いない、小児医の小野章以に話を持ちかけたのではあるまいか。
即ち、遅効性にして致死性のある毒を作るか、見つけてこいと、治済は小野章以に対してそう持ちかけたのだろう。
それに対して小野章以は多額の報酬とひきかえにこれを受けたか、或いは治済の方から多額の報酬とのセットで話を持ちかけたか、ともあれ小野章以は治済より多額の報酬とひきかえに家基を殺害するための道具として使用されるその、遅効性にして致死性のある毒を見つけることにした。
だが小野章以一人の力では中々にそのようなある意味、
「都合の良い…」
毒を見つけることは出来ず、そこで小野章以は本草学に通じている田村善之を頼ったのであろう。
小野章以は善之に対して、
「小児の誤飲事故の防止…」
などと如何にも尤もらしい口実にて善之に対して教えを請うたに違いない。
それに対して善之も薄々、「ヤバイ」と知りつつ、それでも小野章以の頼みとあらば断り切れず、これに応ずる格好で、遅効性にして致死性のある毒として、シロタマゴテングタケとドクツルタケの存在を教えたのであろう。何しろ小野章以はこの躋寿館に毎年50両もの醵金…、資金援助を行っているのである。その出処は勿論、治済より受け取った、それも毎年保証されている「報酬」の一部であったが、しかし、金に「色」がついているわけではない。
その毎年50両もの醵金のお蔭でこの躋寿館が成り立っていると言っても過言ではないだろう。そしてその恩恵は善之も受けている筈であった。
それと言うのも善之は本草学を更に究めるべく、この躋寿館に講師の立場として通っていた。講師として医者の卵に本草学を授けつつ、己自身も更に本草学を究める…、そのためにはこの躋寿館に所蔵されているであろう本草学の「テキスト」は善之が本草学を究める上で、そして若い医者の卵に本草学を授けるためにも正に、
「必要不可欠」
と言えたが、その「テキスト」にしても、躋寿館が少なくない額でもって購入したものであり、そしてその購入原資は他ならぬ小野章以からの毎年50両にも上る醵金であった。
そうであれば善之としてもその小野章以からの頼み、それもただの質問とあらば、答えないわけにはゆかなかっただろう。
ともあれそうして遅効性にして致死性のある毒としてシロタマゴテングタケとドクツルタケの存在を知った小野章以は直ちにその存在を治済に対して告げたと思われる。それも主に、越前において自生していることも合わせて。
それに対して治済は、
「これは好都合…」
そう思ったに違いない。何しろ越前と言えば福井、そして福井藩主は治済の実兄の重富である。協力を求めるのにこれ程、好都合なことはないだろう。
治済は恐らく、重富に対して何もかも打ち明けた上で協力を求めたのではあるまいか。即ち、
「家基を殺す道具として毒キノコであるシロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケ、それを兇器に用いようと思っている。幸い、その毒キノコは兄者が治めている越前において自生しているとのことなので、ついては領内にてシロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケを採らせては貰えまいか…」
治済は重富に対してそのように頼んだのではあるまいか。
それに対して重富も弟のためならばと、それに弟・治済の子である豊千代が将軍になれれば己も栄達が期待できると、そんな打算も働いたに違いない。
ともあれ重富は実弟の治済が望む通り、領内にて毒キノコであるシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケの収穫を許したのではあるまいか。
いや、もしかしたら重富の方でそれらを用意して治済に渡したのやも知れぬ。
ともあれそうして毒キノコを…、シロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケを手に入れた治済はそれを今度は小野章以と同じく一橋家…、治済と縁がある表番医師の遊佐卜庵信庭へと渡してこれで実験を…、まずは将軍・家治の正室の倫子を被験者としての人体実験を命じたのではあるまいか…。
意知はそこまで考えて、はたと気付いた。それは、将軍、或いは次期将軍の食事について小納戸が毒見をするように、将軍の正室や、或いは息女の食事についても、
「毒見をする女中がいるのではあるまいか…」
意知はそのことに気付いたのであった。だとするならば、大奥にも治済の「共犯者」がいると考えるべきであった。そう考えないことには将軍正室の倫子や、或いはその息女の萬壽姫に毒入りの…、シロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケを食べさせることは不可能だからだ。
「どうかされましたか?」
善之が意知の様子を案じて尋ねた。
「いえ…、御台様や、それに姫君様のお食事について…、果たして誰が毒見をするものかと、それを考えておりまして…」
意知がそう答えると、善之は、それにこの場にいる他の全ての者も意知の今の言葉の意味するところを察した。
「されば…、大奥の中にも一橋の息のかかった者がいるとお考えで?」
元悳がズバリ尋ねた。
「ええ」
「それでしたら…、毒見をせしは確か、中年寄ではなかったかと…」
元悳は流石に広敷…、大奥における病人の治療をも掌ってきたことがあるだけに詳しかった。
「中年寄…、ですか…」
意知が聞き返すと元悳は頷いた。
「それでその中年寄ですが…、御台様が薨去される前、それも直前の中年寄が誰であったかは…」
意知がさらにそう尋ねると、元悳は申し訳なさそうな表情を浮かべて、
「そこまでは…」
そう応じて知らないことを示唆した。
それでも元悳は、「当時の御留守居様に訊けば、或いは分かるやも知れませぬ」と答えた上で、
「されば萬壽姫様が薨去される直前の、萬壽姫様附の中年寄が誰であったのかも…」
そう付け加えた。
「萬壽姫様附…、と言うことは御台様附の中年寄もいるというわけですか?」
意知は新たに浮かんだ疑問を元悳にぶつけて己の無知を晒した。
それに対して元悳はしかし、意知の無知を嗤うことなく丁寧に説明してくれた。
即ち、大奥においては将軍とその正室である御台所、この両者が存在する場合には将軍附の女中と御台所附の女中が存在し、つまりは将軍附の年寄、御台所附の年寄といった具合にそれぞれ女中が存在するというわけだ。
さてそこで中年寄だが、これは将軍附の女中にはない役職とのことであり、御台所附、あるいは将軍の姫君附の女中にのみ存在する役職とのことであった。将軍の姫君にしても御台所と同様、姫君附の女中が存在するとのことであり、つまり将軍・家治の正室の倫子やその息女の萬壽姫が生きていた頃には倫子附、萬壽姫附のそれぞれ女中が存在したわけだ。
そして倫子や萬壽姫が食するものについても当然、それぞれの中年寄が行うこととなる。
「されば大奥を監督せし御留守居様なれば覚えておいでかも…」
元悳はそう繰り返した。
「されば…、高井土佐守様か、或いは依田豊前守様に訊けば分かるやも知れぬ、と?」
意知が確かめるようにそう尋ねると、元悳は頷いた。
無論、一橋治済の共犯者である可能性が高い依田政次に訊くなど、さしずめ自殺行為であり、意知としてはもう一人の留守居である高井直熙にそのことも併せて訊くつもりであった。
最早、この躋寿館にて聞き込むべきことはとりあえず聞き込んだと、そう判断した意知は腰を上げた。
「もう、お帰りになられるので?」
元悳が意知を引き留めるようにそう声をかけてきた。
「ええ、訊きたいことはとりあえず訊き申したゆえ…、それに小野先生は本日もここへ…、この躋寿館に往診に参られるのでござろう?」
家基を死に追いやった毒キノコであるシロテングタケ、或いはドクツルタケを用意したと思しき小野章以と今、顔を合わせるのは如何にもまずい。
無論、小野章以の方は意知の顔を知らず、いや、意知とて小野章以の顔を知らず、それなら別段、鉢合わせしたところで問題はないだろうが、それでも出来ればそれは避けたいというのが意知の本音であり、それゆえ意知はまだ小野章以が来ないうちに腰を上げたのであった。
すると元悳にもそれが通じたらしく、「左様でござるか…」とそれ以上、意知を引き留めず、元悳はその上で、
「左様で…、いや、また何かありましたら遠慮なく…」
意知に対してそう厚意を示してくれた。尤も、それは純粋な親切心からでは決してなかった。
元悳は続けて、
「されば仮にでござるが…、小野先生が捕縛されるようなことに相成りますれば、何卒、ご公儀よりのご支援を賜り度…」
そう付け加えるのを忘れなかった。要はこれまでこの躋寿館に醵金…、資金援助をしてくれていた小野章以を捕まえるなら、これからは小野章以に代わって幕府の方で面倒を見て欲しい…、金を出してくれと、そういうことであった。
元悳はさらに、
「無論、小野先生には意知様の探索につきましては内聞にしておきますゆえ…」
やんわりとだが、しかし、しっかりと脅しをかけるのも忘れなかった。今、小野章以に探索のことが伝われば如何にもまずい。意知の急所とも言え、元悳にしてもそれが分かっていたからこそ、そのように脅しをかけてきたのだ。
そして今の意知には元悳の脅しをかわすだけの力はなく、
「されば父・意次とも良く相談の上…」
そう答えるのが精一杯であり、一方、元悳にしてもとりあえずはそれで満足することにした。これ以上、意知を追い詰めるような真似をすれば最悪、元も子もなくなる恐れがあると、本能的にそう悟ったからだ。老獪な元悳らしい判断と言えた。
尤も、どんなに考えたところで今、ここで結論は出まいと、意知は目の前に横たわる問題、さしずめ本題へと戻ることにした。
目の前に横たわる問題…、本題とは他でもない、家基の死の真相、もっと言えば殺害の真相である。
「ともあれ、元悳先生たちは西之丸の御側御用取次の小笠原殿や、それに野々山なる書院組頭に阻まれて、大納言様の療治を断念されたわけですね?」
意知は元悳確かめるように尋ねたわけだが、元悳からは予期せぬ返答があった。
「いえ、実はその後で我ら奥医…、本丸の奥医は打ち揃うて御膳番の御小納戸の大久保殿と吉川殿の許へと押しかけまして、畏れ多くも大納言様の療治に我ら本丸の奥医を召し加えて頂くことが無理なれば、せめて当代随一と申しても過言ではない寄合医の岡本玄治を大納言様の療治に加えて頂き度、この旨、上様にお取り次ぎをと…」
本丸の奥医師を差配する本丸にて小納戸として御膳番を兼務する大久保半五郎と吉川一學の二人にそう陳情し、大久保半五郎と吉川一學の二人はそれを受けて、二人にとっての直属の上司とも言うべき小納戸頭取衆に話を、元悳たち本丸奥医師のこの陳情を上げ、さらに小納戸頭取衆から彼らのやはり直属の上司、それも中奥の支配者とも言うべき御側御用取次にこの陳情を上げて、御側御用取次から上様こと将軍・家治へとこの陳情が伝えられたということらしかった。
「それで結果は?」
意知は単刀直入に尋ねた。
「されば畏れ多くも上様におかせられましては、我ら本丸奥医の願出を至当と認められ…」
「それで天の声が降り、岡本先生の療治入りが認められたと?」
意知がそう水を向けると、「そればかりではありません」との元悳からの返答があったので、
「と言うことは…、元悳先生たち、本丸の奥医師の療治入りも認められたと?」
意知はさらにそう水を向け、元悳を頷かせた。
「それで…、さしもの小笠原殿も岡本先生は元より、元悳先生たち本丸の奥医師が大納言様の療治に加わることを拒否できず、元悳先生たちの西之丸入りが…、即ち、大納言様への療治を認められたと…」
天の声、それも将軍・家治の「声」ともあらば、如何に小笠原信喜が家基の御側御用取次であろうとも、この将軍・家治の「声」を拒絶することは不可能であっただろう。
「尤も、2月24日の朝のことでござりましたが…」
元悳はそう自嘲気味に付け加えた。2月24日とは他でもない、家基の命日に当たり、家基はその日の巳の刻の半ば…、即ち昼の四つ半(午前11時頃)過ぎに薨去したのであり、つまり元悳たち本丸の奥医師に加えて岡本松山の家基治療チーム入りが認められたのは家基が死ぬほんの少し前ということになる。
元悳が自嘲気味に付け加えたのも頷けた。
「それでも…、大納言様が薨去されるまでの間、元悳先生たちは必死で大納言様の救命に当たられたわけでしょうから…」
意知はフォローするようにそう言った。
「ええ、それは勿論。なれど…」
元悳はそこで言葉を区切ると、その先を言い淀む様子を覗かせたので、「なれど、何です?」と意知がその先を促した。
すると元悳はまだ若干の躊躇を見せつつも、その先を続けた。
「なれど、遊佐先生の冷笑にあいながらの救命でござったが…」
「冷笑…」
元悳たち本丸奥医師に加えて、岡本松山が必死で家基を救おうと奮闘していた最中に、こともあろうに遊佐信庭が冷笑を浮かべていたとは、これで最早、遊佐信庭が家基殺害の共犯者…、家基殺害に使われたと思しき兇器とも言うべき毒キノコであるシロテングタケ、或いはドクツルタケを用意したに違いない小児医の小野章以の共犯者であることは疑いようのない事実だと、意知はそう確信した。
遊佐信庭にしても小野章以同様、一橋家と…、治済と何らかの関わりがあり、そこで治済の実子である豊千代を将軍にすべく、治済に手を貸したのではあるまいか。
即ち、次期将軍たる家基の殺害である。将軍・家治の嫡男である家基がいる限りは未来永劫、豊千代に将軍職が回ってくることはあり得なかった。
そこで治済は家基の殺害を決意、だが家基にただ一服盛るだけでは芸がないと、清水重好に疑いがかかるような細工を思いついたのだろう。
それこそが遅効性にして致死性のある毒を用いての殺害であった。すぐには毒の効果が現出しないのがポイントであった。
いや、理想としては家基があくまで病死として処理されることであり、重好に家基殺害の疑いがかかる細工が効力を発揮するのは家基は実は殺害されたものとバレた時のための、
「保険」
そのような意味合いであったのだろう。
ともあれ治済はかねてより付き合いがあったに違いない、小児医の小野章以に話を持ちかけたのではあるまいか。
即ち、遅効性にして致死性のある毒を作るか、見つけてこいと、治済は小野章以に対してそう持ちかけたのだろう。
それに対して小野章以は多額の報酬とひきかえにこれを受けたか、或いは治済の方から多額の報酬とのセットで話を持ちかけたか、ともあれ小野章以は治済より多額の報酬とひきかえに家基を殺害するための道具として使用されるその、遅効性にして致死性のある毒を見つけることにした。
だが小野章以一人の力では中々にそのようなある意味、
「都合の良い…」
毒を見つけることは出来ず、そこで小野章以は本草学に通じている田村善之を頼ったのであろう。
小野章以は善之に対して、
「小児の誤飲事故の防止…」
などと如何にも尤もらしい口実にて善之に対して教えを請うたに違いない。
それに対して善之も薄々、「ヤバイ」と知りつつ、それでも小野章以の頼みとあらば断り切れず、これに応ずる格好で、遅効性にして致死性のある毒として、シロタマゴテングタケとドクツルタケの存在を教えたのであろう。何しろ小野章以はこの躋寿館に毎年50両もの醵金…、資金援助を行っているのである。その出処は勿論、治済より受け取った、それも毎年保証されている「報酬」の一部であったが、しかし、金に「色」がついているわけではない。
その毎年50両もの醵金のお蔭でこの躋寿館が成り立っていると言っても過言ではないだろう。そしてその恩恵は善之も受けている筈であった。
それと言うのも善之は本草学を更に究めるべく、この躋寿館に講師の立場として通っていた。講師として医者の卵に本草学を授けつつ、己自身も更に本草学を究める…、そのためにはこの躋寿館に所蔵されているであろう本草学の「テキスト」は善之が本草学を究める上で、そして若い医者の卵に本草学を授けるためにも正に、
「必要不可欠」
と言えたが、その「テキスト」にしても、躋寿館が少なくない額でもって購入したものであり、そしてその購入原資は他ならぬ小野章以からの毎年50両にも上る醵金であった。
そうであれば善之としてもその小野章以からの頼み、それもただの質問とあらば、答えないわけにはゆかなかっただろう。
ともあれそうして遅効性にして致死性のある毒としてシロタマゴテングタケとドクツルタケの存在を知った小野章以は直ちにその存在を治済に対して告げたと思われる。それも主に、越前において自生していることも合わせて。
それに対して治済は、
「これは好都合…」
そう思ったに違いない。何しろ越前と言えば福井、そして福井藩主は治済の実兄の重富である。協力を求めるのにこれ程、好都合なことはないだろう。
治済は恐らく、重富に対して何もかも打ち明けた上で協力を求めたのではあるまいか。即ち、
「家基を殺す道具として毒キノコであるシロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケ、それを兇器に用いようと思っている。幸い、その毒キノコは兄者が治めている越前において自生しているとのことなので、ついては領内にてシロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケを採らせては貰えまいか…」
治済は重富に対してそのように頼んだのではあるまいか。
それに対して重富も弟のためならばと、それに弟・治済の子である豊千代が将軍になれれば己も栄達が期待できると、そんな打算も働いたに違いない。
ともあれ重富は実弟の治済が望む通り、領内にて毒キノコであるシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケの収穫を許したのではあるまいか。
いや、もしかしたら重富の方でそれらを用意して治済に渡したのやも知れぬ。
ともあれそうして毒キノコを…、シロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケを手に入れた治済はそれを今度は小野章以と同じく一橋家…、治済と縁がある表番医師の遊佐卜庵信庭へと渡してこれで実験を…、まずは将軍・家治の正室の倫子を被験者としての人体実験を命じたのではあるまいか…。
意知はそこまで考えて、はたと気付いた。それは、将軍、或いは次期将軍の食事について小納戸が毒見をするように、将軍の正室や、或いは息女の食事についても、
「毒見をする女中がいるのではあるまいか…」
意知はそのことに気付いたのであった。だとするならば、大奥にも治済の「共犯者」がいると考えるべきであった。そう考えないことには将軍正室の倫子や、或いはその息女の萬壽姫に毒入りの…、シロタマゴテングタケか、或いはドクツルタケを食べさせることは不可能だからだ。
「どうかされましたか?」
善之が意知の様子を案じて尋ねた。
「いえ…、御台様や、それに姫君様のお食事について…、果たして誰が毒見をするものかと、それを考えておりまして…」
意知がそう答えると、善之は、それにこの場にいる他の全ての者も意知の今の言葉の意味するところを察した。
「されば…、大奥の中にも一橋の息のかかった者がいるとお考えで?」
元悳がズバリ尋ねた。
「ええ」
「それでしたら…、毒見をせしは確か、中年寄ではなかったかと…」
元悳は流石に広敷…、大奥における病人の治療をも掌ってきたことがあるだけに詳しかった。
「中年寄…、ですか…」
意知が聞き返すと元悳は頷いた。
「それでその中年寄ですが…、御台様が薨去される前、それも直前の中年寄が誰であったかは…」
意知がさらにそう尋ねると、元悳は申し訳なさそうな表情を浮かべて、
「そこまでは…」
そう応じて知らないことを示唆した。
それでも元悳は、「当時の御留守居様に訊けば、或いは分かるやも知れませぬ」と答えた上で、
「されば萬壽姫様が薨去される直前の、萬壽姫様附の中年寄が誰であったのかも…」
そう付け加えた。
「萬壽姫様附…、と言うことは御台様附の中年寄もいるというわけですか?」
意知は新たに浮かんだ疑問を元悳にぶつけて己の無知を晒した。
それに対して元悳はしかし、意知の無知を嗤うことなく丁寧に説明してくれた。
即ち、大奥においては将軍とその正室である御台所、この両者が存在する場合には将軍附の女中と御台所附の女中が存在し、つまりは将軍附の年寄、御台所附の年寄といった具合にそれぞれ女中が存在するというわけだ。
さてそこで中年寄だが、これは将軍附の女中にはない役職とのことであり、御台所附、あるいは将軍の姫君附の女中にのみ存在する役職とのことであった。将軍の姫君にしても御台所と同様、姫君附の女中が存在するとのことであり、つまり将軍・家治の正室の倫子やその息女の萬壽姫が生きていた頃には倫子附、萬壽姫附のそれぞれ女中が存在したわけだ。
そして倫子や萬壽姫が食するものについても当然、それぞれの中年寄が行うこととなる。
「されば大奥を監督せし御留守居様なれば覚えておいでかも…」
元悳はそう繰り返した。
「されば…、高井土佐守様か、或いは依田豊前守様に訊けば分かるやも知れぬ、と?」
意知が確かめるようにそう尋ねると、元悳は頷いた。
無論、一橋治済の共犯者である可能性が高い依田政次に訊くなど、さしずめ自殺行為であり、意知としてはもう一人の留守居である高井直熙にそのことも併せて訊くつもりであった。
最早、この躋寿館にて聞き込むべきことはとりあえず聞き込んだと、そう判断した意知は腰を上げた。
「もう、お帰りになられるので?」
元悳が意知を引き留めるようにそう声をかけてきた。
「ええ、訊きたいことはとりあえず訊き申したゆえ…、それに小野先生は本日もここへ…、この躋寿館に往診に参られるのでござろう?」
家基を死に追いやった毒キノコであるシロテングタケ、或いはドクツルタケを用意したと思しき小野章以と今、顔を合わせるのは如何にもまずい。
無論、小野章以の方は意知の顔を知らず、いや、意知とて小野章以の顔を知らず、それなら別段、鉢合わせしたところで問題はないだろうが、それでも出来ればそれは避けたいというのが意知の本音であり、それゆえ意知はまだ小野章以が来ないうちに腰を上げたのであった。
すると元悳にもそれが通じたらしく、「左様でござるか…」とそれ以上、意知を引き留めず、元悳はその上で、
「左様で…、いや、また何かありましたら遠慮なく…」
意知に対してそう厚意を示してくれた。尤も、それは純粋な親切心からでは決してなかった。
元悳は続けて、
「されば仮にでござるが…、小野先生が捕縛されるようなことに相成りますれば、何卒、ご公儀よりのご支援を賜り度…」
そう付け加えるのを忘れなかった。要はこれまでこの躋寿館に醵金…、資金援助をしてくれていた小野章以を捕まえるなら、これからは小野章以に代わって幕府の方で面倒を見て欲しい…、金を出してくれと、そういうことであった。
元悳はさらに、
「無論、小野先生には意知様の探索につきましては内聞にしておきますゆえ…」
やんわりとだが、しかし、しっかりと脅しをかけるのも忘れなかった。今、小野章以に探索のことが伝われば如何にもまずい。意知の急所とも言え、元悳にしてもそれが分かっていたからこそ、そのように脅しをかけてきたのだ。
そして今の意知には元悳の脅しをかわすだけの力はなく、
「されば父・意次とも良く相談の上…」
そう答えるのが精一杯であり、一方、元悳にしてもとりあえずはそれで満足することにした。これ以上、意知を追い詰めるような真似をすれば最悪、元も子もなくなる恐れがあると、本能的にそう悟ったからだ。老獪な元悳らしい判断と言えた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる