天明繚乱 ~次期将軍の座~

長谷川平蔵の「勘働き」

　それから意知おきともは平蔵に頼みごとをした。

「あの、曲渕まがりぶち殿に訊きいて貰もらいたいことがあるんですがね…」

「何です?」

「留守居るすいの高井たかい土佐守とさのかみ直熙なおひろの屋敷やしきの所在地を訊きいて欲しいんですよ…、いや、曲渕まがりぶち殿に分かればの話ですが…」

「大奥に関する聞き込みのためですね?」

　平蔵がそう勘かんを働かせた。

「ええ。仮に、仮にですが、御台みだい様や萬壽ます姫様までもが治済はるさだの毒牙どくがにかかったとなれば…、治済はるさだの手にかかったとなれば、大奥を監督かんとくする立場の留守居るすいならば何か知っているのではないかと…」

「御台みだい様や萬壽ます姫様が薨去こうきょされた経緯けいいについて、ですね?」

「ええ。例えば、その当時の、御台みだい様や萬壽ます姫様に附ついていた中ちゅう年寄どしよりが誰であるのか…」

「つまり…、御台みだい様や萬壽ます姫様の食事の毒見どくみをされたのが誰であるのか、と?」

「ええ。それに遊佐ゆさ信庭のぶにわが治療ちりょう団に加わった経緯けいいについて…」

「意知おきともさんから聞いた話によれば、留守居るすいの駒木根こまきね様が遊佐ゆさ信庭のぶにわも加えてやれと、そう天の声を降らせたとか…」

「ええ。ですが肝心かんじんの駒木根こまきね様はもう既すでに亡なく…」

「でも当時の相役あいやくで、今でも生き残ってる高井様なら何か知っているかも知れねぇと?」

「ええ、正まさしく…、でも生憎あいにく、その高井がどこに屋敷やしきを構かまえているのか、そこまではこの俺にも分かりませんで…」

「そこで俺から曲渕まがりぶち殿に頼めば良いわけですね?」

「そうです。尤もっとも、曲渕まがりぶち殿が果たして高井の屋敷やしきの所在地をご存知ぞんじかどうか、そこまでは分かりませんが…」

「まぁ、とりあえず訊きくだけは訊きいてみましょう」

　平蔵はそう請うけ合あうと、

「それじゃあまた、どこかで落ち合いますか?」

　意知おきともにそう尋ねた。これでスマホでもあれば、わざわざ落ち合わずとも、スマホで知らせてくれればそれで十分であったが、生憎あいにく、この時代にはまだスマホのような文明の利器りきは存在していなかったので、落ち合う必要があった。

「それじゃあ…、比丘尼びくに橋のたもとでどうです?」

　意知おきともはそう提案した。益五郎ますごろうが池原いけはら良誠よしのぶを斬殺ざんさつした実行犯とも言うべき下手人げしゅにんを見失った場所であり、且かつ、その下手人げしゅにんが例の、意次が治済はるさだへと送った紫の袱紗ふくさを落とした場所でもある。

「分かりました。俺も一度はこの目で確かめておきたい場所ですからね」

　平蔵はそう応じた。

　それから意知おきともと平蔵は春木はるき屋を出た。勘定かんじょうはほぼ無理やり意知おきともがもった。強引ごういんに支払ったと言うべきか。ともあれ意知おきともは御代おだいと、それに二階の奥おく座敷ざしきを貸してくれたことへの「こころづけ」も弾はずんだ。

　さて、そうして春木はるき屋を出た意知おきともと平蔵は和泉いずみ橋ばしを渡って、岩本町方面へと出ると、右折うせつして筋違すじかい御門ごもん橋ばしや昌平しょうへい橋ばしのある八ツ小路方面へと歩き、そして筋違すじかい御門ごもん橋ばしとは正まさに真ま向むかいにある須田すだ町で左折させつした。

　そこは神田かんだの須田すだ町から日本橋は室町むろまち一丁目へと、更さらに言うなら日本橋へと通ずる一本道であり、その途次とじ、日本橋本町二丁目と三丁目の十字じゅうじ路ろで右折うせつして本町一丁目へと、金座きんざのある本町一丁目へと目指して歩けば、そこはもう北町奉行所の出入り口とも言うべき常盤ときわ橋ばし御門ごもんが目の前であり、意知おきともと平蔵はその十字じゅうじ路ろのところまで一緒いっしょに歩いた。

　その十字じゅうじ路ろまでの途次とじ…、日本橋本町二丁目と三丁目の十字じゅうじ路ろの手前てまえ、正確には本町二丁目と三丁目の十字じゅうじ路ろの手前てまえにある十軒じっけん店だな本石ほんごく町二丁目と三丁目の十字じゅうじ路ろ、そのまた手前てまえにある本銀町二丁目と三丁目の十字じゅうじ路ろ、今川いまがわ橋ばし跡のすぐ先で平蔵は急に立ち止まった。

「どうしたんです?」

　意知おきとももつられて立ち止まると、平蔵に尋ねた。

「いや…、ここを右に曲がれば本銀ほんぎん町一丁目に通ずるんですよね…」

　確かに平蔵の言う通りだが、それが何だと言うんだ…、意知おきともは思わずそう声をかけようと寸前すんぜん、平蔵の言わんとするところに気付いて思わず、「あっ」と声を上げた。すると平蔵もその通りだと言わんばかりに頷うなずいてみせた。

「本銀ほんぎん町一丁目と言えば、小野おの章以あきしげの診療しんりょう所じょがある…」

　意知おきともはそのことを平蔵に教えながらも、すっかり忘れていた。

「ええ。でもそれだけじゃなさそうですよ…」

　平蔵は思わせぶりにそう言うと、再ふたたび、歩き始めた。それもその、小野おの章以あきしげの診療しんりょう所じょのある本銀ほんぎん町一丁目へと通ずる本銀町二丁目と三丁目の十字じゅうじ路ろで右折うせつしたので、|意知おきとももそれに倣ならって再ふたたび歩き始めると、平蔵と肩かたを並ならべつつ、尋ねた。

「どういうことです?」

「もうすぐ分かりますよ…」

　平蔵はやはり思わせぶりにそう答えるのみであり、意知おきとももそれ以上、平蔵の真意しんいを尋ねることはせずに黙だまって従したがうことにした。

　やがて本銀ほんぎん町一丁目にさしかかると、しかし平蔵は立ち止まらずに更さらに真まっ直すぐに歩いて竜閑りゅうかん橋ばしのたもとまで歩き、そしてそこで立ち止まると、「意知おきともさん」と声をかけてきた。

「はい」

「この竜閑りゅうかん橋ばしから少し離れてますけど、それでも真正面まっしょうめんには一石いっこく橋ばしがあるでしょう…」

　平蔵は指ゆび差さして意知おきともにそう告げた。確かに平蔵の指ゆび差さした先には一石いっこく橋ばしがあり、更さらに言うならその途次とじには常盤ときわ橋ばし御門ごもんもあった。

「ええ。確かに…」

　だがそれが何だと言うのだ…、意知おきともはそう思ったが、しかし平蔵のことゆえ、きっと何か思惑おもわくがあってのことに違いないと、意知おきともは辛抱しんぼう強く話の続きを聞くことにした。

「で、一石いっこく橋ばしのその先、それも真まっ直すぐに行った先には比丘尼びくに橋ばしがあるんですよね…」

　それで意知おきともも漸ようやくに平蔵が何を言いたいのか気付いた。

「まさか…、池原さんを斬殺ざんさつした下手人げしゅにんは小野おの章以あきしげの診療しんりょう所じょに逃にげ込こんだと?」

　意知おきともがズバリ尋ねると、平蔵は「ご名答めいとう」と応じた。

「比丘尼びくに橋ばしにて益五郎ますごろうを振り切った下手人げしゅにんはさらに一石いっこく橋ばしを駆かけ抜ぬけ、そしてこの竜閑りゅうかん橋ばしへと…、本銀ほんぎん町一丁目…、いや、小野おの章以あきしげの診療しんりょう所じょとは目と鼻の先の竜閑りゅうかん橋ばしまでさらに駆かけ抜ぬけ、そして竜閑りゅうかん橋ばしのたもとまで来ると、右に曲がって、そして…」

「ええ。小野おの章以あきしげの診療しんりょう所じょへと転ころがり込こんだと…、その可能性はあるとはおもいませんか?」

　平蔵に問われた意知おきともは、「ある」と即答そくとうした。

「だとしたら、下手へたに町方まちかたがこの周囲をうろつけば…、小野おの章以あきしげの行動を監視かんしすべく、下手へたにうろつこうものなら、小野おの章以あきしげを警戒けいかいさせてしまうかも知れませんよね…」

　確かに平蔵の言う通りであった。流石さすがに京都西町奉行まで務つとめ上げた長谷川はせがわ備中守びっちゅうのかみ宣雄のぶおの血を引いているだけのことはある。

「でも、小野おの章以あきしげの行動を監視かんしすることも欠かかせないわけで…、何かの動きを見せるかも知れませんから…、そこで見張みはり所じょを設けてはとどうかと思うんですがね…」

「見張みはり所じょ、ですか…」

「ええ。そこからなら、小野おの章以あきしげに怪あやしまれずにその行動を監視かんしできるというもので…」

「成程なるほど、それは良い考えだ…」

　意知おきともは心底しんそこ、そう言った。すると平蔵にもそれが通じたらしく、

「それじゃあこの旨むね…、見張みはり所の件を曲渕まがりぶち殿に頼んでも構かまいませんか?」

　平蔵は意知おきともに対して律儀りちぎにも了解りょうかいを求めてきた。

「無論むろんです。いや、私の方からお願いすべきことですよ」

　意知おきともはそう言うと、平蔵に対して深々ふかぶかと頭を下げ、これにはさしもの平蔵も大いに恐縮きょうしゅくしたものである。

　さて、それから意知おきともと平蔵は常盤ときわ橋ばし御門ごもんへと目指してその一石いっこく橋ばし方面へと歩き、そして二人は常盤ときわ橋ばし御門ごもん外で別れ、意知おきともは更さらにそのまま真まっ直すぐに一石いっこく橋ばしを目指して歩き、一方、平蔵は常盤ときわ橋ばしを渡って御門ごもんを潜くぐると、そのまま一気に北町奉行所へと直行ちょっこうした。