天明繚乱 ~次期将軍の座~

将軍・家治は宿直(とのい)の小姓にやはり宿直(とのい)の留守居の高井(たかい)直熙(なおひろ)を連れて来るよう命じる

　さて、将軍・家治はもう用が済んだとばかり、意知おきともと平蔵を残して、他の者たちを皆、退さがらせると、意知おきとも意知おきともと平蔵に対して、

「今宵こよいは如何いかが致いたす?」

　そう声をかけたのであった。それは他でもない、

「御城おしろに泊とまってゆくか?」

　という意味であった。

　今はもう、夕の七つ半(午後5時頃)を過ぎた頃であったが、しかし、まだ江戸城の全すべての諸門しょもん、所謂いわゆる、「三十六見附みつけ」が閉じる暮六つ(午後6時頃)ではない。

　今からでも十分に下城げじょうに間に合う。

　だが今、下城げじょうしたとしても屋敷やしきに辿たどり着く頃には暮くれの六つ半(午後7時頃)を過ぎる頃やも知れなかった。

　そこで将軍・家治は気を利きかせて、意知おきともと平蔵に対して今夜は御城おしろに泊とまってゆくかと、そう尋ねたのであった。いや、実際にはすすめていたのであった。

　それに対して意知おきとももそのような家治の心こころ遣づかいを察して、

「ご恩命おんめいに甘あまえまして…」

　意知おきともは平蔵と共に御城おしろに泊とまることにし、その旨むね、家治に告げ、家治を満足まんぞく気げな様子でもって頷うなずかせた。

「されば留守居るすいの高井たかい殿よりは明日にでも…」

　話を聴ききましょう…、平蔵は意知おきともにそう囁ささやいた。が、平蔵の声はその顔に似て美声びせいであり、良く通ってしまった。

「留守居るすいの高井たかい殿とは…、高井たかい直熙なおひろがことか?」

　家治よりそう問われた平蔵は、「御意ぎょい」と答えた。

「して、その高井たかい直熙なおひろより何を訊きく所存しょぞんか?」

　平蔵は果たして、将軍・家治に対して答えて良いものか逡巡しゅんじゅんし、助け舟を求めるかのように意知おきともを見た。

　するとそんな平蔵の視線を察した意知おきともは、「畏おそれながら言上ごんじょう仕つかまつりまする…」と切り出し、家治のその問いに答えたのであった。

　即すなわち、家基いえもとがシロタマゴテングタケ、或あるいはドクツルタケで毒殺される前に御台所みだいどころ…、家治の正室せいしつの倫子ともこと、その息女そくじょの萬壽ます姫までがやはりシロタマゴテングタケ、或あるいはドクツルタケで毒殺された可能性に触れたのであった。

「されば畏おそれ多くも大納言だいなごん様のお命を奪うばい奉たてまつったやも知れませぬシロタマゴテングタケ、或あるいはドクツルタケを用意したと思おぼしき町医者の小野おの章以あきしげでござるが、明和5(1768)年に本銀町一丁目の家屋敷を2000両にて購入こうにゅうせし事実が判明はんめい致いたしましてござりまする…、のみならず、その2000両もの代金の受け渡しにつきまして何と、一橋ひとつばし御門ごもん内ないの一橋ひとつばし邸にて行われましたる事実につきましても…」

　意知おきとものその報告に家治は目を剥むき、

「されば…、倫子ともこや萬壽ますはさしずめ…、人体じんたい実験の被験ひけん者しゃにされたと申すかっ!?」

　意知おきともに対して強い調子でそう尋ねたのであった。

「その可能性が極めて高く…」

　意知おきともがそう答えるや、「いや、待て」と家治が制した。

「豊千代とよちよが産まれしは確か、安永2(1773)年の10月…、それも確か5日だったと記憶しておる。されば萬壽ますが身み罷まかりしはそれよりも、およそ八ヶ月程ほど前の2月20日のことにて、倫子ともこが身み罷まかりしは更さらに前、明和8(1771)年の8月20日にて、されば倫子ともこが身み罷まかりし時には勿論もちろんのこと、萬壽ますが身み罷まかりし時にも未いまだ、豊千代とよちよは生まれてはおらなんだぞ?」

　家治はそう疑問を呈ていした。尤もっともな疑問であった。

「如何いかにも上様うえさまの仰おおせの通りなれど…、一橋ひとつばし治済はるさだは恐らくは、いずれは嫡男ちゃくなんをなす、いや、必ずやなしてみせると、左様さように強い意志いしを持ち合わせており、その上、己が子を必ずや、畏おそれ多くも大納言だいなごん様に代わりし次期将軍にしてみせると…」

「やはり強い意志を持っていたと申すか?治済はるさだめは…」

　家治は先回りしてそう尋ねた。

「御意ぎょい…、されば未いまだ己に子の…、男児だんじのない時分じぶんであったとしても、次期将軍でござりました大納言だいなごん様を…、そのお命を奪う計画を立てまするのに早いということはなく…」

「それで治済はるさだめは未いまだ子に…、それも男児だんじに恵めぐまれぬ明和8(1771)年、いや、それよりも更さらに前の明和5(1768)年頃より、治済はるさだめは家基いえもとの殺害計画を練っていたと申すか?」

「恐らくは…、最前さいぜん、申し上げましたる通り、小野おの章以あきしげなる小児しょうに専門の町まち医いの動きが…、それも不自然な金の流れがそれを物もの語がたっておるやに存ぞんじ奉たてまつりまする…」

　意知おきともが叩頭こうとうしつつ、そう答えると、家治は「うむ…」と納得したような声を出したかと思うと、

「それで留守居るすい…、大奥を取り締しまりし留守居るすいから話を聴ききたいと申すのだな?」

　意知おきともに対して確かめるようにそう尋ねたので、意知おきともも、「御意ぎょい」と答えた上で、

「さればその当時の事情を知る…、畏おそれ多くも御台みだい様がご薨去こうきょあそばされましたる明和8(1771)年よりの留守居るすいは今では高井たかい土佐守とさのかみ直熙なおひろと依田よだ豊前守ぶぜんのかみ政次まさつぐの二人のみにて…」

　意知おきともはそうも付け加えた。

「されば依田よだ政次まさつぐにも事情を?」

　家治は当然過ぎる質問を意知おきともに浴あびせた。

「いえ、依田よだ豊前守ぶぜんのかみには…」

「話を聴きくつもりはないと申すか?」

「御意ぎょい…」

「そはまた、何ゆえぞ?」

　家治よりそう問われた意知おきともは果たして打ち明けても良いものか逡巡しゅんじゅんしたが、打ち明けないことには依田よだ政次まさつぐからは話を聴きかないことを将軍・家治は納得しないだろうと、そうと思い定めた意知おきともは打ち明けることにした。

　即すなわち、依田よだ政次まさつぐも倫子ともこや萬壽ます姫の毒殺に関与かんよしている可能性に触ふれたのであった。

「依田よだ政次まさつぐは当代とうだい随一ずいいちと申し上げましても良い程ほどの腕前うでまえの持ち主でありまする、寄合よりあい医いの岡本おかもと玄治げんじの療治りょうじを…、岡本おかもと玄治げんじが畏おそれ多くも御台みだい様や萬壽ます様の療治りょうじを拒こばみましてござりまする…」

　意知おきともはその上で、依田よだ政次まさつぐが岡本おかもと玄治げんじ、こと松山しょうざんの治療ちりょうを拒こばんだのはひとえに岡本おかもと松山しょうざんの実弟じっていが不祥ふしょう事じを起こしたからであり、しかもその不祥ふしょう事じにしても意図いと的てきに仕組しくまれた可能性が高く、且かつ、それを仕組しくんだのは誰あろう遊佐ゆさ信庭のぶにわである可能性が高いことをも、意知おきともは併あわせて家治に打ち明けたのであった。

「それは…、依田よだ政次まさつぐ、いや、依田よだ豊前ぶぜんめまでが一橋ひとつばしに通じておると?」

「確かくたる証あかしは何もありませぬが、なれど…」

　状況的には「真まっ黒くろ」だと意知おきともがそう示唆しさすると、家治も同感どうかんだと言わんばかりい頷うなずいたもので、

「それで…、依田よだ豊前ぶぜんではのうて、高井たかい直熙なおひろから話を聴きこうと申すのだな?」

　家治は意知おきともに対してそう尋ね、問われた意知おきともも「御意ぎょい」と答えた。

　すると家治は暫しばし、考え込こむ素振そぶりを見せたかと思うと、今日の宿直とのいの小姓こしょうを召めし出した。

　今日の宿直とのいの小姓こしょうは角南すなみ主水正もんどのかみ國明くにあきらと山本やまもと伊予守いよのかみ茂孫もちざね、そして一色いっしき靱負佐ゆきえのすけ政方まさかたの3人であった。ちなみに今日の宿直とのいの小姓こしょうの中には頭取とうどりは一人も含ふくまれておらず、それもまた、小納戸こなんどとの違いと言えた。

　即すなわち、今…、天明元(1781)年の4月現在におけるここ江戸城本丸ほんまるは中奥なかおくにて勤仕きんしせし小姓こしょうは頭取とうどり衆しゅうを含ふくめて21人おり、毎日3人が宿直とのいを務つとめることで、1週間交代という「ルーティン」であり、それゆえ宿直とのいの「シフト」に頭取とうどり衆しゅうが1人も含まれない日もあり、今夜が正まさにそうであった。

　その点、小納戸こなんどの場合には今は6人の頭取とうどり衆しゅうが存在するので、毎日2人の小納戸こなんど頭取とうどりが宿直とのいを務つとめることで3日交代という「ルーティン」であり、一介いっかいの小納戸こなんどは56人存在し、毎日4人が宿直とのいを務つとめることで2週間交代という「ルーティン」であった。

　宿直とのいを担になう4人の小納戸こなんどのうち、2人が夕食の毒見どくみを担になう御膳ごぜん掛がかりであり、あとの2人の小納戸こなんどは湯殿ゆどの掛がかりである。この湯殿ゆどの掛がかりとは湯殿ゆどの、つまりは風呂場ふろばにて将軍の体を洗う係であり、2人の小納戸こなんどが将軍の体を糠ぬか袋ぶくろにて体の隅々すみずみまで綺麗きれいに洗って差し上げるのであった。

　ともあれ、将軍・家治の毒殺どくさつを謀はからんと欲ほっしている岩本いわもと正五郎しょうごろうと松下まつした左十郎さじゅうろうは御膳ごぜん掛がかりを担になっていた。

　さて、家治の命めいにより召めし出された3人の小姓こしょう、即すなわち、角南すなみ國明くにあきらと山本やまもと茂孫もちざね、一色いっしき政方まさかたの3人はそろそろ将軍・家治が湯殿ゆどの…、お風呂ふろに行くつもりなので己らが召めし出されたのだと、そう早はや合点がてんした。

　それと言うのも風呂場ふろばで将軍の体を洗って差し上げる者こそ湯殿ゆどの掛がかりの小納戸こなんどだが、湯殿ゆどの…、風呂場ふろばまでの案内役は小姓こしょうであったからだ。

　そして将軍の入浴は夕の七つ半(午後5時頃)と決まっていたので、それが今はもう夕の七つ半(午後5時頃)をとっくの昔に過ぎていたので、3人の小姓こしょうは皆、漸ようやくに出番でばんが来たと、そう言いたげな様子であった。

　だが家治は彼ら3人の小姓こしょうに湯殿ゆどの…、風呂場ふろばまで案内させるために召めし出したわけではなかった。

「されば本日の宿直とのいの留守居るすいは誰であったかの?」

　家治はそれを尋ねるために彼ら3人の小姓こしょうを召めし出したわけで、宿直とのいの留守居るすい如何いかんによっては、その留守居るすいを彼ら3人の小姓こしょうに連れて来させるつもりでいた。

　一方、家治より本日の宿直とのいの留守居るすいは誰かと問われた彼ら3人の小姓こしょうは将軍・家治が何ゆえにそのようなことを訊きくのかと皆、一様いちように内心ないしんでだが、首をかしげたものの、それでも将軍たる家治の「思おぼし召めし」である以上、知っていながら答えないわけにはゆかなかった。

　いや、角南すなみ國明くにあきらと山本やまもと茂孫もちざねは実際、ここ本丸ほんまるの留守居るすいの中でも誰が今日の宿直とのいの当番とうばんなのか知らなかった。

　そんな中、一色いっしき政方まさかたのみ、把握はあくしていた。それと言うのも一色いっしき政方まさかたは祖父そふである安藝守あきのかみ政沅まさひろがかつては広敷ひろしき用人ようにん、つまりは大奥の男子役人であった関係で、その孫の政方まさかたも大奥には強く、それゆえ留守居るすいの宿直とのいの「シフト」についても把握はあくしていた。

　その一色いっしき政方まさかたが、

「されば本日の宿直とのいの留守居るすいは高井たかい土佐守とさのかみにて…」

　そう答えたことから、意知おきともと平蔵は二人共、己の「幸運」に感謝した。

　家治にしても、「ちょうど良い…」とそう思い、実際、口にもすると彼ら3人の小姓こしょうに対して高井たかい土佐守とさのかみこと直熙なおひろをここ中奥なかおくは御休息之間ごきゅうそくのまに連れて来るよう命じた。

　既すでに、入浴の刻限こくげんである夕の七つ半(午後5時頃)はとうの昔に過ぎていたものの、しかし、将軍たる家治の命めいである以上、否いなやはあり得ず、

「ははぁっ、承うけたまわりましてござりまする…」

　3人の小姓こしょうは平伏へいふくして応じたのであった。