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一橋治済の束の間の安息 ~家治暗殺前夜~
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治済は窮屈な思いをしていた。それも無理からぬことではあった。何しろ今…、宵五つ(午後8時頃)を過ぎた今、ここ一橋御門内にある自邸とも言うべき一橋邸の周囲が大番組によってそれこそ、
「びっしりと…」
誇張なしに取り囲まれていたからだ。家老の田沼意致と水谷勝富からの報せにより、自邸…、一橋邸を取り囲んでいるのは大番組の、それも二番組と三番組とのことであった。
これではロクに、密談もできない。いや、如何に幕府の武官五番方の中でもトップに位置する大番組と雖も、邸内の会話の模様まで把握できるとも思えなかったが、しかし、将軍・家治のことである。大番組の他にも、
「御庭番…」
それを邸内に忍び込ませている恐れがあり得た。例え、その恐れが治済の杞憂であったとしても、用心に越したことはない。
治済は例の評定を終えた後、目付によって辰ノ口にある評定所より、ここ一橋御門内にある自邸…、一橋邸へと連行された次第であった。
尤も、「ツキ」もあった。それと言うのも、治済を連行した目付の中に、
「村上三十郎正清」
「井上図書頭正在」
「末吉善左衛門利隆」
この3人が含まれていたことであった。
正確には、評定所にて、将軍・家治より治済と、それに重好に対して、まずは目付による厳重なる監視下に置くとの断が下されるやいなや、村上三十郎が、
「班分け」
それを行ったのであった。即ち、己とそれに井上正在と末吉善左衛門、それに、
「柳生主膳正久通」
「跡部兵部良久」
その2人を加えた5人でもって、治済の監視に当たることとし、そして残る4人…、
「大久保喜右衛門忠昌」
「蜷川相模守親文」
「堀帯刀秀隆」
「安藤郷右衛門惟徳」
以上の4人で重好の監視に当たることとした…、そのように村上三十郎が「班分け」を行ったのであった。
村上三十郎が「班分け」を行うことができたのは、
「目付衆の筆頭ゆえ…」
ひとえにそれに尽きるだろう。
村上三十郎は日記掛と服忌掛を兼ねており、目付衆の中でもこの日記掛と服忌掛を兼ねている者が筆頭とされる。
その村上三十郎の「班分け」に対して、井上正在が真っ先に応じてみせた。
井上正在は勘定所見廻掛を兼務しており、目付衆の中では村上三十郎に次ぐ、
「ナンバーツー」
に位置していた。この「勘定所見廻掛」を兼ねている者が目付衆の「ナンバーツー」であり、それゆえ目付衆の「ナンバーワン」である村上三十郎の「班分け」に、「ナンバーツー」である井上正在が即座に賛同してみせたことから、この「班分け」は直ちに確定した。
尤も、そこには…、村上三十郎によるその「班分け」には、
「一橋治済を守る…」
その思惑が隠されていた。
村上三十郎は実は一橋家と「縁」があった。
それと言うのも、村上三十郎の次男・長十郎兼昵が大番士であった野々山彦右衛門兼幸の養嗣子として迎えられたのだが、彦右衛門も列なるこの野々山一族は実は一橋家と「縁」、それも「太い縁」で結ばれていたのだ。
野々山一族は次男以下が一橋家に仕えるケースが多く、それゆえ野々山家はさしずめ、一橋家における「譜代」のような立場であった。
その野々山一族に列なる彦右衛門の許へと、村上三十郎は次男の長十郎を養子に出したことから、長十郎の養父となった彦右衛門を通じて、一橋家と、
「昵懇の間柄…」
そのような関係となった。
してみると、長十郎は実父、村上三十郎と一橋家との正に、
「架け橋」
となったわけだが、その「架け橋」であった長十郎は今年…、天明元(1781)年の正月に37歳の若さで病死してしまった。
そこで野々山家は…、長十郎が養嗣子として迎えられたその野々山家は今は、長十郎の末期養子の伴五郎兼明が継ぎ、これで村上三十郎と一橋家とは、長十郎という「架け橋」を喪ってしまったことから、関係が途切れるかに思われた。
しかし、実際には村上三十郎と一橋家とは今でも、それも前よりも更に縁を太くし、村上三十郎は一橋家との「架け橋」にして、次男の長十郎の死に際会しても、一橋家との縁が途切れることはなく、今でも交流が続いていた。
その村上三十郎は今日…、4月2日の評定所の式日において、他の8人の目付衆と共に「監察役」として評定に陪席しては、評定の行方を見守り、その席で、極めて異例ではあるが、出座した将軍・家治が治済と重好に対して蟄居、謹慎を命ずると同時に、目付の監視下に置くとの断を下すや、それを聞いた村上三十郎は、
「一橋治済を救わねば…」
咄嗟にその意識が働いたからこそ、自らを含めたこの5人でもって治済の「監視」に当たることとしたのだ。
その「人選」についてだが、井上正在や、更に末吉善左衛門までが己と…、村上三十郎と同じく一橋家と「縁」があり、そしてそのことを村上三十郎も把握していればこそ、村上三十郎はこの2人も己と共に治済の、
「監視役」
として、組み入れたのであった。
それに対して井上正在にしろ、末吉善左衛門にしろ、
「一橋治済の監視役に当たりたい…」
そう望んでいたので、そんな2人にとって、村上三十郎によるその「班分け」は正に、
「願ったり…」
であり、それゆえ井上正在は即座に村上三十郎のその「班分け」を支持表明、末吉善左衛門にしても何度も頷いてみせたのであった。
ところで井上正在と末吉善左衛門、この2人と一橋家との「縁」だが、井上正在の場合は村上三十郎と同じく、野々山一族を介してであった。
即ち、井上正在の叔母…、父・猪之助正武の妹が野々山一族に列なる弾右衛門兼起の許えと嫁していたのだ。
しかもこの、井上正在の叔母の嫁ぎ先である弾右衛門、その実弟は現在、一橋家にて仕えており、野々山市郎右衛門兼驍がそれであった。
斯かる事情から、井上正在も村上三十郎と同じく、野々山一族を介して一橋家と「縁」があった。
一方、末吉善左衛門の場合は猪飼家を通じて、であった。
一橋家においては野々山家の他に、猪飼家が「譜代の臣」の位置付けであり、末吉善左衛門はその猪飼一族に列なる五郎左衛門正高の娘を娶っていた。
いや、一橋家との「縁」という観点からすれば、この末吉善左衛門が一番、一橋家と「縁」が深いと言えようか。
それと言うのも、末吉善左衛門が娶った猪飼五郎左衛門正高の娘…、その猪飼一族はと言うと、主に次男以下が一橋家に仕えている野々山一族とは違い、嫡男も一橋家に仕えていたからだ。
猪飼五郎兵衛正胤がそうで、五郎兵衛は治済の父・宗尹が一橋家の当主であった頃より一橋邸にて仕えていたのだが、この五郎兵衛、養嗣子とは言え、大番組頭まで務め上げた猪飼五郎兵衛政䋗の嫡男であった。
五郎兵衛正胤は養父・五郎兵衛政䋗の死後、猪飼家を継いだ後も暫くの間は一橋邸にて仕えていた。
いや、正確には今…、天明元(1781)年の4月2日現在も、一橋邸にて仕えていた。
尤も、五郎兵衛正胤の今の身分は一応、
「新番士」
であった。幕府の所謂、武官五番方の一つである新番組の番士であり、それも松浦越中守信桯が番頭を務める三番組の番士であった。
五郎兵衛正胤が新番士として番入り…、就職を果たしたのは今…、天明元(1781)年のそれも4月2日からちょうど12年前に当たる明和6(1769)年の4月2日のことであった。
いや、それとて新番士に番入り…、就職を果たしたと言うよりは、大番士からの異動であった。
五郎兵衛正胤は更にそれより13年前の宝暦6(1756)年の10月に大番士として番入り…、就職を果たしたのであり、つまりこの宝暦6(1756)年の10月を境に、五郎兵衛は自動的に一橋家の陪臣としての身分から離れた筈であった。
それが治済たっての希望により、五郎兵衛正胤は大番士としての身分の側ら、引き続き、一橋家の陪臣としての身分をも持ち続け、つまりは五郎兵衛正胤は二重|身分》身分、言うなれば、大番士と一橋家の陪臣の、
「二束の草鞋…」
それを履き続けたわけであり、そしてそれは今…、新番士となっている天明元(1781)年の4月2日現在に至る。
そして五郎兵衛正胤はここ一橋邸に詰めることもあった。何しろ五郎兵衛は一介の陪臣から今や、小十人頭に取り立てられていたからだ。
それゆえ五郎兵衛正胤は一橋邸の小十人頭として、この一橋邸にて宿直を務めることもあり、今夜が正にそうであった。
この他、末吉善左衛門の岳父となった五郎左衛門正高の実弟…、善左衛門の妻女の叔父の久右衛門正表、さらに妻女にとって二人の兄…、茂左衛門正義と三郎左衛門正倫兄弟もまた、一橋邸にて仕えており、とりわけ茂左衛門正義は長柄奉行の重職にあった。
事程左様に、猪飼家は一橋家との「縁」が深く、末吉善左衛門はその猪飼一族に列なる五郎左衛門の娘を娶ることにより、善左衛門もまた、一橋家との「縁」を深めたのであった。
それゆえ、「一橋治済を救わねば…」とのその想いは、村上三十郎、井上正在、そしてこの末吉善左衛門に共通し、村上三十郎が治済の、
「監視役」
その実、「アドバイス役」として、己の他に井上正在、末吉善左衛門を配したのは至極当然の成り行きと言えた。
ちなみにあとの2人…、柳生主膳正久通と跡部兵部良久は…、村上三十郎がこの2人をも治済の「監視役」として配したのはほんのおまけ…、それこそ、
「グリコのおまけ…」
そのような意識からであった。
村上三十郎としては本来ならば、治済の監視役、その実、「アドバイス役」は己と同じく一橋家と縁のある井上正在と末吉善左衛門の3人で分かち合いたい欲望に駆られた。
だが目付衆は10人、いや、目付の一人である山川下総守貞幹が昨日…、天明元(1781)年の4月1日に甲斐國の治水事業を監督すべく、同地へと出張、赴いたために、今は目付衆は9人であり、しかし、ちょうどその3分の1に当たる3人だけで、治済の監視役に当たるというのは如何にも不自然であり、例え、村上三十郎が3人だけで…、己と井上正在、そして末吉善左衛門の3人だけで治済の監視役に当たると、そう「班分け」したとしてもその直後、
「3人では如何にも少ない、あと、1人か2人、召し加えるが良いぞ…」
将軍・家治よりそう「ダメ出し」を喰らう恐れがあり得たからだ。
いや、その「ダメ出し」だけならばまだ良い。村上三十郎自身があと、1人か2人、見繕う余地があるからだ。
最悪なのは将軍・家治自身が勝手に…、それこそ、
「アトランダムに…」
1人か2人の目付を、ある意味、
「真の意味で…」
治済を監視させる1人か2人の目付を選んでしまう場合、或いは目付自身が、「それなれば…」と自ら手を上げてしまう場合…、その恐れが十二分にあり得、そしてその1人か2人の目付が例えば、目付衆の中でも村上三十郎や井上正在に次ぐ、つまりは「ナンバースリー」の大久保喜右衛門忠昌や、或いは目付衆の中では五番手ながら、目端の利く蜷川相模守親文だった場合は最悪である。
大久保喜右衛門や蜷川親文の、
「目を盗んで…」
治済に「アドバイス」を…、例えば、今後は邸内にても密談などは控えるように、などとそのような「アドバイス」を与えることは不可能であるからだ。
これで大久保喜右衛門や蜷川親文も一橋家と「縁」があれば何ら問題はなかったのだが、生憎、世の中そこまで都合良く出来てはおらず、大久保喜右衛門にしろ、蜷川親文にしろ絶対に、治済の監視役として加わってもらっては、村上三十郎としては、いや、村上三十郎のみならず、井上正在や末吉善左衛門にしても非常に困るのであった。
そこで村上三十郎は先手を打つ格好で柳生久通と跡部兵部をも治済の監視役として加えたのであった。
それと言うのも、柳生久通と跡部兵部の2人なれば、
「毒にも薬にもなるまいて…」
そのためであった。
村上三十郎がそのように…、柳生久通と跡部兵部の2人を、
「毒にも薬にもなるまいて…」
そう思ったのはひとえにこの2人が新人、所謂、「ルーキー」であったからだ。
柳生久通にしろ、跡部兵部にしろ、去年…、それも正確には5ヶ月前に目付に就いたばかりのバリバリの「ルーキー」であり、そうであれば、
「御し易い…」
というものであった。実際、柳生久通が特にそうで、久通はかつては…、家基が次期将軍として西之丸にいた頃には家基の剣術の相手、つまりは師範として、
「それなりに…」
仕事をこなしていたわけだが、それが畑違いの目付ともなると、その実力…、目付としての実力には疑問符をつけざるを得なかった。
いや、久通は目付に就いてからまだ5ヶ月しか経ってはおらず、それゆえ速断は禁物なのやも知れなかったが、それでも、
「細か過ぎて大局を見られない…」
というのが衆目の一致するところであった。
その点、跡部兵部は久通よりは幾分か、いや、それどころかだいぶ目端が利き、それでも久通と同様、「ルーキー」であるので、
「どうとでもなる…」
村上三十郎はその想いから、柳生久通と跡部兵部の2人をも、治済の監視役として加えたのであった。これで最早、これ以上、治済の監視役が増えることはあるまいと、村上三十郎はそう確信し、実際、その通りになった。何しろ、残る4人の目付は重好の監視役として振り分けられたわけだから、治済の監視役がこれ以上、増える筈がなかった。
実際、村上三十郎たちは治済を一橋御門内にある一橋邸まで、それこそ護送する格好で送り届けるや、村上三十郎は柳生久通と跡部兵部の2人に対しては、邸の外で待つよう命じた上で、己は井上正在と末吉善左衛門の2人を引き連れて邸内へと入ると、そこで治済とその一族郎党に対して、暫くの間…、少なくとも監視が解かれるまでの間は例え邸内であったとしても密談などはしないようにと、そう「アドバイス」をしたのであった。
尚、その際、柳生久通は村上三十郎の命にもかかわらず、邸内へと同道しようとして、村上三十郎が一喝しかけたところで、意外にも跡部兵部が柳生久通を制してくれたので、村上三十郎が一喝する手間が省けた。どうやら跡部兵部はその目端で、
「ここは大人しゅう、外で待つのが得策…」
咄嗟にそう判断したようであった。
ともあれ、治済としてはこの村上三十郎らの配慮…、適切なる「アドバイス」のお蔭で救われたわけである。
仮に、村上三十郎らの「アドバイス」…、
「暫くの間、密談は避けるように…」
その「アドバイス」を受けなかったならば、即ち、村上三十郎たち一橋家と所縁のある目付ではなしに、他の、一橋家とは何の所縁もない目付によって、辰ノ口の評定所から自邸…、一橋邸へと護送されたならば、あまつさえ、その目付が邸内まで付いて来たならばと、治済はそれを想像しただけでも身震いした。
目付によって監視されているとも知らない家臣が治済に対して…、その背後では目付が目を光らせているとも知らずにペラペラと余計なことを話してしまう恐れがあり得たからだ。
例えば、池原良誠斬殺事件の真相、或いは、家基の毒殺の真相、それどころか最悪、倫子や萬壽姫の毒殺の真相までペラペラと「お喋り」をされてしまう恐れが、
「無きにしも非ず」
それであり、その場合には目付に、それも一橋家とは所縁のない目付に聞かれた場合、その時点で治済は終わり、所謂、
「ジ・エンド」
であった。まさかに目付までも「消す」わけにはゆかないからだ。
それゆえ己を「監視」…、真っ先に「監視役」を買って出てくれた村上三十郎に対して、治済は大いに感謝し、また、井上正在や末吉善左衛門に対しても同様に、大いに感謝したものであり、仮に、いや、もう間もなくだが、治済の実子、豊千代が晴れて西之丸入り、正式に次期将軍になった暁には真っ先にこの3人を取り立てるつもりでいた。
「びっしりと…」
誇張なしに取り囲まれていたからだ。家老の田沼意致と水谷勝富からの報せにより、自邸…、一橋邸を取り囲んでいるのは大番組の、それも二番組と三番組とのことであった。
これではロクに、密談もできない。いや、如何に幕府の武官五番方の中でもトップに位置する大番組と雖も、邸内の会話の模様まで把握できるとも思えなかったが、しかし、将軍・家治のことである。大番組の他にも、
「御庭番…」
それを邸内に忍び込ませている恐れがあり得た。例え、その恐れが治済の杞憂であったとしても、用心に越したことはない。
治済は例の評定を終えた後、目付によって辰ノ口にある評定所より、ここ一橋御門内にある自邸…、一橋邸へと連行された次第であった。
尤も、「ツキ」もあった。それと言うのも、治済を連行した目付の中に、
「村上三十郎正清」
「井上図書頭正在」
「末吉善左衛門利隆」
この3人が含まれていたことであった。
正確には、評定所にて、将軍・家治より治済と、それに重好に対して、まずは目付による厳重なる監視下に置くとの断が下されるやいなや、村上三十郎が、
「班分け」
それを行ったのであった。即ち、己とそれに井上正在と末吉善左衛門、それに、
「柳生主膳正久通」
「跡部兵部良久」
その2人を加えた5人でもって、治済の監視に当たることとし、そして残る4人…、
「大久保喜右衛門忠昌」
「蜷川相模守親文」
「堀帯刀秀隆」
「安藤郷右衛門惟徳」
以上の4人で重好の監視に当たることとした…、そのように村上三十郎が「班分け」を行ったのであった。
村上三十郎が「班分け」を行うことができたのは、
「目付衆の筆頭ゆえ…」
ひとえにそれに尽きるだろう。
村上三十郎は日記掛と服忌掛を兼ねており、目付衆の中でもこの日記掛と服忌掛を兼ねている者が筆頭とされる。
その村上三十郎の「班分け」に対して、井上正在が真っ先に応じてみせた。
井上正在は勘定所見廻掛を兼務しており、目付衆の中では村上三十郎に次ぐ、
「ナンバーツー」
に位置していた。この「勘定所見廻掛」を兼ねている者が目付衆の「ナンバーツー」であり、それゆえ目付衆の「ナンバーワン」である村上三十郎の「班分け」に、「ナンバーツー」である井上正在が即座に賛同してみせたことから、この「班分け」は直ちに確定した。
尤も、そこには…、村上三十郎によるその「班分け」には、
「一橋治済を守る…」
その思惑が隠されていた。
村上三十郎は実は一橋家と「縁」があった。
それと言うのも、村上三十郎の次男・長十郎兼昵が大番士であった野々山彦右衛門兼幸の養嗣子として迎えられたのだが、彦右衛門も列なるこの野々山一族は実は一橋家と「縁」、それも「太い縁」で結ばれていたのだ。
野々山一族は次男以下が一橋家に仕えるケースが多く、それゆえ野々山家はさしずめ、一橋家における「譜代」のような立場であった。
その野々山一族に列なる彦右衛門の許へと、村上三十郎は次男の長十郎を養子に出したことから、長十郎の養父となった彦右衛門を通じて、一橋家と、
「昵懇の間柄…」
そのような関係となった。
してみると、長十郎は実父、村上三十郎と一橋家との正に、
「架け橋」
となったわけだが、その「架け橋」であった長十郎は今年…、天明元(1781)年の正月に37歳の若さで病死してしまった。
そこで野々山家は…、長十郎が養嗣子として迎えられたその野々山家は今は、長十郎の末期養子の伴五郎兼明が継ぎ、これで村上三十郎と一橋家とは、長十郎という「架け橋」を喪ってしまったことから、関係が途切れるかに思われた。
しかし、実際には村上三十郎と一橋家とは今でも、それも前よりも更に縁を太くし、村上三十郎は一橋家との「架け橋」にして、次男の長十郎の死に際会しても、一橋家との縁が途切れることはなく、今でも交流が続いていた。
その村上三十郎は今日…、4月2日の評定所の式日において、他の8人の目付衆と共に「監察役」として評定に陪席しては、評定の行方を見守り、その席で、極めて異例ではあるが、出座した将軍・家治が治済と重好に対して蟄居、謹慎を命ずると同時に、目付の監視下に置くとの断を下すや、それを聞いた村上三十郎は、
「一橋治済を救わねば…」
咄嗟にその意識が働いたからこそ、自らを含めたこの5人でもって治済の「監視」に当たることとしたのだ。
その「人選」についてだが、井上正在や、更に末吉善左衛門までが己と…、村上三十郎と同じく一橋家と「縁」があり、そしてそのことを村上三十郎も把握していればこそ、村上三十郎はこの2人も己と共に治済の、
「監視役」
として、組み入れたのであった。
それに対して井上正在にしろ、末吉善左衛門にしろ、
「一橋治済の監視役に当たりたい…」
そう望んでいたので、そんな2人にとって、村上三十郎によるその「班分け」は正に、
「願ったり…」
であり、それゆえ井上正在は即座に村上三十郎のその「班分け」を支持表明、末吉善左衛門にしても何度も頷いてみせたのであった。
ところで井上正在と末吉善左衛門、この2人と一橋家との「縁」だが、井上正在の場合は村上三十郎と同じく、野々山一族を介してであった。
即ち、井上正在の叔母…、父・猪之助正武の妹が野々山一族に列なる弾右衛門兼起の許えと嫁していたのだ。
しかもこの、井上正在の叔母の嫁ぎ先である弾右衛門、その実弟は現在、一橋家にて仕えており、野々山市郎右衛門兼驍がそれであった。
斯かる事情から、井上正在も村上三十郎と同じく、野々山一族を介して一橋家と「縁」があった。
一方、末吉善左衛門の場合は猪飼家を通じて、であった。
一橋家においては野々山家の他に、猪飼家が「譜代の臣」の位置付けであり、末吉善左衛門はその猪飼一族に列なる五郎左衛門正高の娘を娶っていた。
いや、一橋家との「縁」という観点からすれば、この末吉善左衛門が一番、一橋家と「縁」が深いと言えようか。
それと言うのも、末吉善左衛門が娶った猪飼五郎左衛門正高の娘…、その猪飼一族はと言うと、主に次男以下が一橋家に仕えている野々山一族とは違い、嫡男も一橋家に仕えていたからだ。
猪飼五郎兵衛正胤がそうで、五郎兵衛は治済の父・宗尹が一橋家の当主であった頃より一橋邸にて仕えていたのだが、この五郎兵衛、養嗣子とは言え、大番組頭まで務め上げた猪飼五郎兵衛政䋗の嫡男であった。
五郎兵衛正胤は養父・五郎兵衛政䋗の死後、猪飼家を継いだ後も暫くの間は一橋邸にて仕えていた。
いや、正確には今…、天明元(1781)年の4月2日現在も、一橋邸にて仕えていた。
尤も、五郎兵衛正胤の今の身分は一応、
「新番士」
であった。幕府の所謂、武官五番方の一つである新番組の番士であり、それも松浦越中守信桯が番頭を務める三番組の番士であった。
五郎兵衛正胤が新番士として番入り…、就職を果たしたのは今…、天明元(1781)年のそれも4月2日からちょうど12年前に当たる明和6(1769)年の4月2日のことであった。
いや、それとて新番士に番入り…、就職を果たしたと言うよりは、大番士からの異動であった。
五郎兵衛正胤は更にそれより13年前の宝暦6(1756)年の10月に大番士として番入り…、就職を果たしたのであり、つまりこの宝暦6(1756)年の10月を境に、五郎兵衛は自動的に一橋家の陪臣としての身分から離れた筈であった。
それが治済たっての希望により、五郎兵衛正胤は大番士としての身分の側ら、引き続き、一橋家の陪臣としての身分をも持ち続け、つまりは五郎兵衛正胤は二重|身分》身分、言うなれば、大番士と一橋家の陪臣の、
「二束の草鞋…」
それを履き続けたわけであり、そしてそれは今…、新番士となっている天明元(1781)年の4月2日現在に至る。
そして五郎兵衛正胤はここ一橋邸に詰めることもあった。何しろ五郎兵衛は一介の陪臣から今や、小十人頭に取り立てられていたからだ。
それゆえ五郎兵衛正胤は一橋邸の小十人頭として、この一橋邸にて宿直を務めることもあり、今夜が正にそうであった。
この他、末吉善左衛門の岳父となった五郎左衛門正高の実弟…、善左衛門の妻女の叔父の久右衛門正表、さらに妻女にとって二人の兄…、茂左衛門正義と三郎左衛門正倫兄弟もまた、一橋邸にて仕えており、とりわけ茂左衛門正義は長柄奉行の重職にあった。
事程左様に、猪飼家は一橋家との「縁」が深く、末吉善左衛門はその猪飼一族に列なる五郎左衛門の娘を娶ることにより、善左衛門もまた、一橋家との「縁」を深めたのであった。
それゆえ、「一橋治済を救わねば…」とのその想いは、村上三十郎、井上正在、そしてこの末吉善左衛門に共通し、村上三十郎が治済の、
「監視役」
その実、「アドバイス役」として、己の他に井上正在、末吉善左衛門を配したのは至極当然の成り行きと言えた。
ちなみにあとの2人…、柳生主膳正久通と跡部兵部良久は…、村上三十郎がこの2人をも治済の「監視役」として配したのはほんのおまけ…、それこそ、
「グリコのおまけ…」
そのような意識からであった。
村上三十郎としては本来ならば、治済の監視役、その実、「アドバイス役」は己と同じく一橋家と縁のある井上正在と末吉善左衛門の3人で分かち合いたい欲望に駆られた。
だが目付衆は10人、いや、目付の一人である山川下総守貞幹が昨日…、天明元(1781)年の4月1日に甲斐國の治水事業を監督すべく、同地へと出張、赴いたために、今は目付衆は9人であり、しかし、ちょうどその3分の1に当たる3人だけで、治済の監視役に当たるというのは如何にも不自然であり、例え、村上三十郎が3人だけで…、己と井上正在、そして末吉善左衛門の3人だけで治済の監視役に当たると、そう「班分け」したとしてもその直後、
「3人では如何にも少ない、あと、1人か2人、召し加えるが良いぞ…」
将軍・家治よりそう「ダメ出し」を喰らう恐れがあり得たからだ。
いや、その「ダメ出し」だけならばまだ良い。村上三十郎自身があと、1人か2人、見繕う余地があるからだ。
最悪なのは将軍・家治自身が勝手に…、それこそ、
「アトランダムに…」
1人か2人の目付を、ある意味、
「真の意味で…」
治済を監視させる1人か2人の目付を選んでしまう場合、或いは目付自身が、「それなれば…」と自ら手を上げてしまう場合…、その恐れが十二分にあり得、そしてその1人か2人の目付が例えば、目付衆の中でも村上三十郎や井上正在に次ぐ、つまりは「ナンバースリー」の大久保喜右衛門忠昌や、或いは目付衆の中では五番手ながら、目端の利く蜷川相模守親文だった場合は最悪である。
大久保喜右衛門や蜷川親文の、
「目を盗んで…」
治済に「アドバイス」を…、例えば、今後は邸内にても密談などは控えるように、などとそのような「アドバイス」を与えることは不可能であるからだ。
これで大久保喜右衛門や蜷川親文も一橋家と「縁」があれば何ら問題はなかったのだが、生憎、世の中そこまで都合良く出来てはおらず、大久保喜右衛門にしろ、蜷川親文にしろ絶対に、治済の監視役として加わってもらっては、村上三十郎としては、いや、村上三十郎のみならず、井上正在や末吉善左衛門にしても非常に困るのであった。
そこで村上三十郎は先手を打つ格好で柳生久通と跡部兵部をも治済の監視役として加えたのであった。
それと言うのも、柳生久通と跡部兵部の2人なれば、
「毒にも薬にもなるまいて…」
そのためであった。
村上三十郎がそのように…、柳生久通と跡部兵部の2人を、
「毒にも薬にもなるまいて…」
そう思ったのはひとえにこの2人が新人、所謂、「ルーキー」であったからだ。
柳生久通にしろ、跡部兵部にしろ、去年…、それも正確には5ヶ月前に目付に就いたばかりのバリバリの「ルーキー」であり、そうであれば、
「御し易い…」
というものであった。実際、柳生久通が特にそうで、久通はかつては…、家基が次期将軍として西之丸にいた頃には家基の剣術の相手、つまりは師範として、
「それなりに…」
仕事をこなしていたわけだが、それが畑違いの目付ともなると、その実力…、目付としての実力には疑問符をつけざるを得なかった。
いや、久通は目付に就いてからまだ5ヶ月しか経ってはおらず、それゆえ速断は禁物なのやも知れなかったが、それでも、
「細か過ぎて大局を見られない…」
というのが衆目の一致するところであった。
その点、跡部兵部は久通よりは幾分か、いや、それどころかだいぶ目端が利き、それでも久通と同様、「ルーキー」であるので、
「どうとでもなる…」
村上三十郎はその想いから、柳生久通と跡部兵部の2人をも、治済の監視役として加えたのであった。これで最早、これ以上、治済の監視役が増えることはあるまいと、村上三十郎はそう確信し、実際、その通りになった。何しろ、残る4人の目付は重好の監視役として振り分けられたわけだから、治済の監視役がこれ以上、増える筈がなかった。
実際、村上三十郎たちは治済を一橋御門内にある一橋邸まで、それこそ護送する格好で送り届けるや、村上三十郎は柳生久通と跡部兵部の2人に対しては、邸の外で待つよう命じた上で、己は井上正在と末吉善左衛門の2人を引き連れて邸内へと入ると、そこで治済とその一族郎党に対して、暫くの間…、少なくとも監視が解かれるまでの間は例え邸内であったとしても密談などはしないようにと、そう「アドバイス」をしたのであった。
尚、その際、柳生久通は村上三十郎の命にもかかわらず、邸内へと同道しようとして、村上三十郎が一喝しかけたところで、意外にも跡部兵部が柳生久通を制してくれたので、村上三十郎が一喝する手間が省けた。どうやら跡部兵部はその目端で、
「ここは大人しゅう、外で待つのが得策…」
咄嗟にそう判断したようであった。
ともあれ、治済としてはこの村上三十郎らの配慮…、適切なる「アドバイス」のお蔭で救われたわけである。
仮に、村上三十郎らの「アドバイス」…、
「暫くの間、密談は避けるように…」
その「アドバイス」を受けなかったならば、即ち、村上三十郎たち一橋家と所縁のある目付ではなしに、他の、一橋家とは何の所縁もない目付によって、辰ノ口の評定所から自邸…、一橋邸へと護送されたならば、あまつさえ、その目付が邸内まで付いて来たならばと、治済はそれを想像しただけでも身震いした。
目付によって監視されているとも知らない家臣が治済に対して…、その背後では目付が目を光らせているとも知らずにペラペラと余計なことを話してしまう恐れがあり得たからだ。
例えば、池原良誠斬殺事件の真相、或いは、家基の毒殺の真相、それどころか最悪、倫子や萬壽姫の毒殺の真相までペラペラと「お喋り」をされてしまう恐れが、
「無きにしも非ず」
それであり、その場合には目付に、それも一橋家とは所縁のない目付に聞かれた場合、その時点で治済は終わり、所謂、
「ジ・エンド」
であった。まさかに目付までも「消す」わけにはゆかないからだ。
それゆえ己を「監視」…、真っ先に「監視役」を買って出てくれた村上三十郎に対して、治済は大いに感謝し、また、井上正在や末吉善左衛門に対しても同様に、大いに感謝したものであり、仮に、いや、もう間もなくだが、治済の実子、豊千代が晴れて西之丸入り、正式に次期将軍になった暁には真っ先にこの3人を取り立てるつもりでいた。
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