天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋治済の束の間の安息 ~家治暗殺前夜~

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 治済はるさだ窮屈きゅうくつな思いをしていた。それも無理むりからぬことではあった。何しろ今…、宵五つ(午後8時頃)を過ぎた今、ここ一橋ひとつばし門内もんないにある自邸じていとも言うべき一橋ひとつばし邸の周囲が大番組によってそれこそ、

「びっしりと…」

 誇張こちょうなしに取りかこまれていたからだ。家老かろう田沼たぬま意致おきむね水谷みずのや勝富かつとみからのしらせにより、自邸じてい…、一橋ひとつばし邸を取りかこんでいるのは大番組の、それも二番組と三番組とのことであった。

 これではロクに、密談みつだんもできない。いや、如何いかに幕府の武官ぶかん五番方の中でもトップに位置いちする大番組といえども、邸内ていないの会話の模様もようまで把握はあくできるとも思えなかったが、しかし、将軍・家治のことである。大番組の他にも、

庭番にわばん…」

 それを邸内ていないしのませている恐れがあり得た。例え、その恐れが治済はるさだ杞憂きゆうであったとしても、用心ようじんしたことはない。

 治済はるさだは例の評定ひょうじょうを終えた後、目付めつけによってたつぐちにある評定ひょうじょうしょより、ここ一橋ひとつばし門内もんないにある自邸じてい…、一橋ひとつばし邸へと連行れんこうされた次第しだいであった。

 もっとも、「ツキ」もあった。それと言うのも、治済はるさだ連行れんこうした目付めつけの中に、

村上むらかみ三十郎さんじゅうろう正清まさきよ

井上いのうえ図書頭ずしょのかみ正在まさあり

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん利隆としたか

 この3人がふくまれていたことであった。

 正確せいかくには、評定ひょうじょうしょにて、将軍・家治より治済はるさだと、それに重好しげよしに対して、まずは目付めつけによる厳重げんじゅうなる監視かんしに置くとのだんくだされるやいなや、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうが、

はんけ」

 それを行ったのであった。すなわち、己とそれに井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん、それに、

柳生やぎゅう主膳正しゅぜんのかみ久通ひさみち

跡部あとべ兵部ひょうぶ良久よしひさ

 その2人を加えた5人でもって、治済はるさだ監視かんしに当たることとし、そして残る4人…、

大久保おおくぼ喜右衛門きえもん忠昌ただまさ

蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶん

ほり帯刀たてわき秀隆ひでたか

安藤あんどう郷右衛門ごうえもん惟徳これのり

 以上の4人で重好しげよし監視かんしに当たることとした…、そのように村上むらかみ三十郎さんじゅうろうが「はんけ」を行ったのであった。

 村上むらかみ三十郎さんじゅうろうが「はんけ」を行うことができたのは、

目付めつけしゅう筆頭ひっとうゆえ…」

 ひとえにそれにきるだろう。

 村上むらかみ三十郎さんじゅうろう日記にっきがかり服忌ぶっきがかりねており、目付めつけしゅうの中でもこの日記にっきがかり服忌ぶっきがかりねている者が筆頭ひっとうとされる。

 その村上むらかみ三十郎さんじゅうの「はんけ」に対して、井上いのうえ正在まさありさきおうじてみせた。

 井上いのうえ正在まさあり勘定かんじょうしょまわりがかり兼務けんむしており、目付めつけしゅうの中では村上むらかみ三十郎さんじゅうろうぐ、

「ナンバーツー」

 に位置いちしていた。この「勘定かんじょうしょまわりがかり」をねている者が目付めつけしゅうの「ナンバーツー」であり、それゆえ目付めつけしゅうの「ナンバーワン」である村上むらかみ三十郎さんじゅうろうの「はんけ」に、「ナンバーツー」である井上いのうえ正在まさあり即座そくざ賛同さんどうしてみせたことから、この「はんけ」はただちに確定かくていした。

 もっとも、そこには…、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうによるその「はんけ」には、

一橋ひとつばし治済はるさだを守る…」

 その思惑おもわくかくされていた。

 村上むらかみ三十郎さんじゅうろうは実は一橋ひとつばし家と「えん」があった。

 それと言うのも、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうの次男・長十郎ちょうじゅうろう兼昵かねちかが大番士であった野々山ののやま彦右衛門ひこえもん兼幸かねよし養嗣子ようししとしてむかえられたのだが、彦右衛門ひこえもんつらなるこの野々山ののやま一族は実は一橋ひとつばし家と「縁」、それも「太い縁」でむすばれていたのだ。

 野々山ののやま一族は次男以下が一橋ひとつばし家につかえるケースが多く、それゆえ野々山ののやま家はさしずめ、一橋ひとつばし家における「譜代ふだい」のような立場であった。

 その野々山ののやま一族につらなる彦右衛門ひこえもんもとへと、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうは次男の長十郎ちょうじゅうろうを養子に出したことから、長十郎ちょうじゅうろう養父ようふとなった彦右衛門ひこえもんを通じて、一橋ひとつばし家と、

昵懇じっこんあいだがら…」

 そのような関係となった。

 してみると、長十郎ちょうじゅうろうは実父、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう一橋ひとつばし家とのまさに、

はし

 となったわけだが、その「はし」であった長十郎ちょうじゅうろうは今年…、天明元(1781)年の正月に37歳の若さで病死してしまった。

 そこで野々山ののやま家は…、長十郎ちょうじゅうろう養嗣子ようししとしてむかえられたその野々山ののやま家は今は、長十郎ちょうじゅうろう末期まつご養子ようし伴五郎ばんごろう兼明かねあきらぎ、これで村上むらかみ三十郎さんじゅうろう一橋ひとつばし家とは、長十郎ちょうじゅうろうという「はし」をうしなってしまったことから、関係が途切とぎれるかに思われた。

 しかし、実際には村上むらかみ三十郎さんじゅうろう一橋ひとつばし家とは今でも、それも前よりもさらに縁を太くし、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう一橋ひとつばし家との「はし」にして、次男の長十郎ちょうじゅうろうの死に際会さいかいしても、一橋ひとつばし家との縁が途切とぎれることはなく、今でも交流が続いていた。

 その村上むらかみ三十郎さんじゅうろうは今日…、4月2日の評定ひょうじょうしょ式日しきじつにおいて、他の8人の目付めつけしゅうと共に「監察かんさつ役」として評定ひょうじょう陪席ばいせきしては、評定ひょうじょう行方ゆくえまもり、その席で、きわめて異例いれいではあるが、出座しゅつざした将軍・家治が治済はるさだ重好しげよしに対して蟄居ちっきょ謹慎きんしんを命ずると同時に、目付めつけ監視かんしに置くとのだんを下すや、それを聞いた村上むらかみ三十郎さんじゅうろうは、

一橋ひとつばし治済はるさだを救わねば…」

 咄嗟とっさにその意識いしきが働いたからこそ、みずからをふくめたこの5人でもって治済はるさだの「監視かんし」に当たることとしたのだ。

 その「人選じんせん」についてだが、井上いのうえ正在まさありや、さら末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんまでが己と…、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうと同じく一橋ひとつばし家と「縁」があり、そしてそのことを村上むらかみ三十郎さんじゅうろう把握はあkしていればこそ、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうはこの2人も己と共に治済はるさだの、

監視かんし役」

 として、組み入れたのであった。

 それに対して井上いのうえ正在まさありにしろ、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんにしろ、

一橋ひとつばし治済はるさだ監視かんし役に当たりたい…」

 そう望んでいたので、そんな2人にとって、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうによるその「はんけ」はまさに、

ねがったり…」

 であり、それゆえ井上いのうえ正在まさあり即座そくざ村上むらかみ三十郎さんじゅうろうのその「はんけ」を支持しじ表明ひょうめい末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんにしても何度もうなずいてみせたのであった。

 ところで井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん、この2人と一橋ひとつばし家との「縁」だが、井上いのうえ正在まさありの場合は村上むらかみ三十郎さんじゅうろうと同じく、野々山ののやま一族をかいしてであった。

 すなわち、井上いのうえ正在まさあり叔母おば…、父・猪之助いのすけ正武まさたけの妹が野々山ののやま一族につらなる弾右衛門だんえもん兼起かねおきもとえとしていたのだ。

 しかもこの、井上いのうえ正在まさあり叔母おばとつさきである弾右衛門だんえもん、その実弟じっていは現在、一橋ひとつばし家にてつかえており、野々山ののやま市郎右衛門いちろうえもん兼驍かねたけがそれであった。

 かる事情から、井上いのうえ正在まさあり村上むらかみ三十郎さんじゅうろうと同じく、野々山ののやま一族をかいして一橋ひとつばし家と「縁」があった。

 一方、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんの場合は猪飼いかい家を通じて、であった。

 一橋ひとつばし家においては野々山ののやま家の他に、猪飼いかい家が「譜代ふだいの臣」の位置いち付けであり、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはその猪飼いかい一族につらなる五郎左衛門ごろうざえもん正高まさたかの娘をめとっていた。

 いや、一橋ひとつばし家との「縁」という観点かんてんからすれば、この末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんが一番、一橋ひとつばし家と「縁」が深いと言えようか。

 それと言うのも、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんめとった猪飼いかい五郎左衛門ごろうざえもん正高まさたかの娘…、その猪飼いかい一族はと言うと、おもに次男以下が一橋ひとつばし家につかえている野々山ののやま一族とは違い、嫡男ちゃくなん一橋ひとつばし家につかえていたからだ。

 猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ正胤まさたねがそうで、五郎兵衛ごろべえ治済はるさだの父・宗尹むねただ一橋ひとつばし家の当主とうしゅであった頃より一橋ひとつばし邸にてつかえていたのだが、この五郎兵衛ごろべえ養嗣子ようししとは言え、大番おおばんくみがしらまでつとげた猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ政䋗まさつな嫡男ちゃくなんであった。

 五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね養父ようふ五郎兵衛ごろべえ政䋗まさつな死後しご猪飼いかい家をいだ後もしばらくの間は一橋ひとつばし邸にてつかえていた。

 いや、正確には今…、天明元(1781)年の4月2日現在も、一橋ひとつばし邸にてつかえていた。

 もっとも、五郎兵衛ごろべえ正胤まさたねの今の身分は一応、

新番しんばん

 であった。幕府の所謂いわゆる武官ぶかん五番ごばん方の一つであるしん番組ばんぐみ番士ばんしであり、それも松浦まつうら越中守えっちゅうのかみ信桯のぶきよ番頭ばんがしらつとめる三番組の番士ばんしであった。

 五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね新番しんばんとしてばんり…、就職しゅうしょくたしたのは今…、天明元(1781)年のそれも4月2日からちょうど12年前に当たる明和6(1769)年の4月2日のことであった。

 いや、それとて新番しんばんばんり…、就職しゅうしょくたしたと言うよりは、大番おおばんからの異動いどうであった。

 五郎兵衛ごろべえ正胤まさたねさらにそれより13年前の宝暦6(1756)年の10月に大番おおばんとしてばんり…、就職しゅうしょくたしたのであり、つまりこの宝暦6(1756)年の10月をさかいに、五郎兵衛ごろべえは自動的に一橋ひとつばし家の陪臣ばいしんとしての身分みぶんからはなれたはずであった。

 それが治済はるさだたっての希望により、五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね大番おおばんとしての身分のかたわら、引き続き、一橋ひとつばし家の陪臣ばいしんとしての身分みぶんをも持ち続け、つまりは五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね二重にじゅう|身分》身分みぶん、言うなれば、大番おおばん一橋ひとつばし家の陪臣ばいしんの、

二束にそく草鞋わらじ…」

 それをき続けたわけであり、そしてそれは今…、新番しんばんとなっている天明元(1781)年の4月2日現在にいたる。

 そして五郎兵衛ごろべえ正胤まさたねはここ一橋ひとつばし邸にめることもあった。何しろ五郎兵衛ごろべえ一介いっかい陪臣ばいしんから今や、十人じゅうにんがしらに取り立てられていたからだ。

 それゆえ五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね一橋ひとつばし邸の十人じゅうにんがしらとして、この一橋ひとつばし邸にて宿直とのいつとめることもあり、今夜がまさにそうであった。

 この他、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん岳父がくふとなった五郎左衛門ごろうざえもん正高まさたか実弟じってい…、善左衛門ぜんざえもん妻女さいじょ叔父おじ久右衛門きゅうえもん正表まさあきら、さらに妻女さいじょにとって二人の兄…、茂左衛門もざえもん正義まさよし三郎左衛門さぶろうざえもん正倫まさとも兄弟もまた、一橋ひとつばし邸にてつかえており、とりわけ茂左衛門もざえもん正義まさよし長柄ながえ奉行ぶぎょう重職じゅうしょくにあった。

 事程ことほど左様さように、猪飼いかい家は一橋ひとつばし家との「縁」が深く、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはその猪飼いかい一族につらなる五郎左衛門ごろうざえもんの娘をめとることにより、善左衛門ぜんざえもんもまた、一橋ひとつばし家との「縁」を深めたのであった。

 それゆえ、「一橋ひとつばし治済はるさだを救わねば…」とのその想いは、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう井上いのうえ正在まさあり、そしてこの末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん共通きょうつうし、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう治済はるさだの、

監視かんし役」

 その実、「アドバイス役」として、己の他に井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはいしたのは至極しごく当然とうぜんきと言えた。

 ちなみにあとの2人…、柳生やぎゅう主膳正しゅぜんのかみ久通ひさみち跡部あとべ兵部ひょうぶ良久よしひさは…、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうがこの2人をも治済はるさだの「監視かんし役」としてはいしたのはほんのおまけ…、それこそ、

「グリコのおまけ…」

 そのような意識いしきからであった。

 村上むらかみ三十郎さんじゅうろうとしては本来ほんらいならば、治済はるさだ監視かんし役、その実、「アドバイス役」は己と同じく一橋ひとつばし家と縁のある井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんの3人でかちいたい欲望よくぼうられた。

 だが目付めつけしゅうは10人、いや、目付めつけの一人である山川やまかわ下総守しもうさのかみ貞幹さだもとが昨日…、天明元(1781)年の4月1日に甲斐國かいのくに治水ちすい事業を監督かんとくすべく、同地へと出張しゅっちょうおもむいたために、今は目付めつけしゅうは9人であり、しかし、ちょうどその3分の1に当たる3人だけで、治済はるさだ監視かんし役に当たるというのは如何いかにも不自然であり、例え、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうが3人だけで…、己と井上いのうえ正在まさあり、そして末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんの3人だけで治済はるさだ監視かんし役に当たると、そう「はんけ」したとしてもその直後ちょくご

「3人では如何いかにも少ない、あと、1人か2人、くわえるが良いぞ…」

 将軍・家治よりそう「ダメ出し」をらうおそれがあり得たからだ。

 いや、その「ダメ出し」だけならばまだ良い。村上むらかみ三十郎さんじゅうろう自身じしんがあと、1人か2人、つくろ余地よちがあるからだ。

 最悪なのは将軍・家治自身じしんが勝手に…、それこそ、

「アトランダムに…」

 1人か2人の目付めつけを、ある意味、

しんの意味で…」

 治済はるさだ監視かんしさせる1人か2人の目付めつけを選んでしまう場合、あるいは目付めつけ自身じしんが、「それなれば…」とみずから手を上げてしまう場合…、そのおそれが十二分じゅうにぶんにあり得、そしてその1人か2人の目付めつけが例えば、目付めつけしゅうの中でも村上むらかみ三十郎さんじゅうろう井上いのうえ正在まさありぐ、つまりは「ナンバースリー」の大久保おおくぼ喜右衛門きえもん忠昌ただまさや、あるいは目付めつけしゅうの中では五番ごばんながら、目端めはし蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶんだった場合は最悪さいあくである。

 大久保おおくぼ喜右衛門きえもん蜷川にながわ親文ちかぶんの、

「目をぬすんで…」

 治済はるさだに「アドバイス」を…、例えば、今後は邸内ていないにても密談みつだんなどはひかえるように、などとそのような「アドバイス」を与えることは不可能であるからだ。

 これで大久保おおくぼ喜右衛門きえもん蜷川にながわ親文ちかぶん一橋ひとつばし家と「縁」があれば何ら問題はなかったのだが、生憎あいにく、世の中そこまで都合つごう良く出来てはおらず、大久保おおくぼ喜右衛門きえもんにしろ、蜷川にながわ親文ちかぶんにしろ絶対に、治済はるさだ監視かんし役としてくわわってもらっては、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうとしては、いや、村上むらかみ三十郎じゅうろろうのみならず、井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんにしても非常に困るのであった。

 そこで村上むらかみ三十郎さんじゅうろう先手せんてを打つ格好かっこう柳生やぎゅう久通ひさみち跡部あとべ兵部ひょうぶをも治済はるさだ監視かんし役としてくわえたのであった。

 それと言うのも、柳生やぎゅう久通ひさみち跡部あとべ兵部ひょうぶの2人なれば、

どくにもくすりにもなるまいて…」

 そのためであった。

 村上むらかみ三十郎さんじゅろうがそのように…、柳生やぎゅう久通ひさみち跡部あとべ兵部ひょうぶの2人を、

どくにもくすりにもなるまいて…」

 そう思ったのはひとえにこの2人が新人、所謂いわゆる、「ルーキー」であったからだ。

 柳生やぎゅう久通ひさみちにしろ、跡部あとべ兵部ひょうぶにしろ、去年…、それも正確には5ヶ月前に目付めつけいたばかりのバリバリの「ルーキー」であり、そうであれば、

ぎょやすい…」

 というものであった。実際、柳生やぎゅう久通ひさみちが特にそうで、久通ひさみちはかつては…、家基いえもとが次期将軍として西之丸にしのまるにいた頃には家基いえもと剣術けんじゅつの相手、つまりは師範しはんとして、

「それなりに…」

 仕事をこなしていたわけだが、それが畑違いの目付めつけともなると、その実力…、目付めつけとしての実力には疑問符をつけざるを得なかった。

 いや、久通ひさみち目付めつけいてからまだ5ヶ月しかってはおらず、それゆえ速断そくだん禁物きんもつなのやも知れなかったが、それでも、

こまぎて大局たいきょくを見られない…」

 というのが衆目しゅうもく一致いっちするところであった。

 その点、跡部あとべ兵部ひょうぶ久通ひさみちよりは幾分いくぶんか、いや、それどころかだいぶ目端めはしき、それでも久通ひさみち同様どうよう、「ルーキー」であるので、

「どうとでもなる…」

 村上むらかみ三十郎じゅうろうはその想いから、柳生やぎゅう久通ひさみち跡部あとべ兵部ひょうぶの2人をも、治済はるさだ監視かんし役としてくわえたのであった。これで最早もはや、これ以上、治済はるさだ監視かんし役が増えることはあるまいと、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうはそう確信かくしんし、実際、その通りになった。何しろ、残る4人の目付めつけ重好しげよし監視かんし役として振り分けられたわけだから、治済はるさだ監視かんし役がこれ以上、増えるはずがなかった。

 実際、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうたちは治済はるさだ一橋ひとつばし門内もんないにある一橋ひとつばし邸まで、それこそ護送ごそうする格好かっこうで送り届けるや、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう柳生やぎゅう久通ひさみち跡部あとべ兵部ひょうぶの2人に対しては、邸の外で待つよう命じた上で、己は井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんの2人を引き連れて邸内ていないへと入ると、そこで治済はるさだとその一族いちぞく郎党ろうとうに対して、しばらくの間…、少なくとも監視かんしかれるまでの間は例え邸内ていないであったとしても密談みつだんなどはしないようにと、そう「アドバイス」をしたのであった。

 なお、その際、柳生やぎゅう久通ひさみち村上むらかみ三十郎さんじゅうろうめいにもかかわらず、邸内ていないへと同道どうどうしようとして、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう一喝いっかつしかけたところで、意外いがいにも跡部あとべ兵部ひょうぶ柳生やぎゅう久通ひさみちを制してくれたので、村上むらかみ三十郎さんじゅうろう一喝いっかつする手間てまはぶけた。どうやら跡部あとべ兵部ひょうぶはその目端めはしで、

「ここは大人おとなしゅう、外で待つのが得策とくさく…」

 咄嗟とっさにそう判断したようであった。

 ともあれ、治済はるさだとしてはこの村上むらかみ三十郎さんじゅうろうらの配慮はいりょ…、適切てきせつなる「アドバイス」のおかげで救われたわけである。

 仮に、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうらの「アドバイス」…、

しばらくの間、密談みつだんけるように…」

 その「アドバイス」を受けなかったならば、すなわち、村上むらかみ三十郎さんじゅうろうたち一橋ひとつばし家と所縁ゆかりのある目付めつけではなしに、他の、一橋ひとつばし家とは何の所縁ゆかりもない目付めつけによって、たつぐち評定ひょうじょうしょから自邸じてい…、一橋ひとつばし邸へと護送ごそうされたならば、あまつさえ、その目付めつけ邸内ていないまで付いて来たならばと、治済はるさだはそれを想像しただけでもぶるいした。

 目付めつけによって監視かんしされているとも知らない家臣が治済はるさだに対して…、その背後はいごでは目付めつけが目を光らせているとも知らずにペラペラと余計よけいなことを話してしまう恐れがあり得たからだ。

 例えば、池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件の真相、あるいは、家基いえもと毒殺どくさつの真相、それどころか最悪さいあく倫子ともこ萬壽ますひめ毒殺どくさつの真相までペラペラと「おしゃべり」をされてしまう恐れが、

きにしもあらず」

 それであり、その場合には目付めつけに、それも一橋ひとつばし家とは所縁ゆかりのない目付めつけに聞かれた場合、その時点で治済はるさだは終わり、所謂いわゆる

「ジ・エンド」

 であった。まさかに目付めつけまでも「消す」わけにはゆかないからだ。

 それゆえ己を「監視かんし」…、さきに「監視かんし役」を買って出てくれた村上むらかみ三十郎さんじゅうろうに対して、治済はるさだは大いに感謝し、また、井上いのうえ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに対しても同様どうように、大いに感謝したものであり、仮に、いや、もう間もなくだが、治済はるさだ実子じっし豊千代とよちよれて西之丸にしのまる入り、正式に次期将軍になったあかつきにはさきにこの3人を取り立てるつもりでいた。
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