天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大詰め ~一橋治済、最期の晩餐。2~

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 それから末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんしょう丸毛まるも政美まさたか平賀ひらが貞愛さだゑの両名より、かち目付めつけを通じてだが、

「将軍・家治がご不例ふれい…」

 つまりは重篤じゅうとくであると知らされたことを治済はるさだに打ち明けたのであった。

「されば上様うえさまがご推察すいさつの通り、御城おしろ警備けいびを固めるべく、一橋ひとつばし邸、及び清水しみず邸を取り囲みし大番組おおばんぐみ御城おしろ警備けいびに当たらせるべく…」

 末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん治済はるさだのことを「上様うえさま」と呼んではばからず、また治済はるさだにしてもそれを当然のこととして受け止め、

「されば大番組おおばんぐみ重好しげよし監視かんしに当たっている時ではないと、それで大番組おおばんぐみ御城おしろへと引きげさせるべく、そなたが参った次第しだいだの?」

御意ぎょい…、されば本郷ほんごう伊勢いせが判断にて…」

御側御用取次おそばごようとりつぎ見習いの?」

御意ぎょい…、されば今宵こよい本郷ほんごう伊勢いせ宿直とのいにて…、やはり宿直とのい小姓こしょう丸毛まるも中務なかつかさ平賀ひらが式部しきぶ給仕きゅうじによりご夕膳ゆうぜんをおし上がりになられし上様うえさま、いや、家治殿がにわかに発病…」

 末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはそこで言葉を区切ると口元をゆがめ、治済はるさだもそれにつられて口元をゆがめた。それにしても本来ほんらい上様うえさましょうされてしかるべき将軍・家治のことを末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん目付めつけ分際ぶんざいでこともあろうに、

「家治殿…」

 まるで己と同格どうかくであるかのようにそのように呼ぶとは不敬ふけいきわまりない所業しょぎょうと言えたが、しかし、治済はるさだ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんのその不敬ふけいを注意するどころか、やはり当然のこととして受け止めたものである。

「されば丸毛まるも中務なかつかさ平賀ひらが式部しきぶは家治殿の介護かいごに当たると同時に、ただちに宿直とのいのその御側御用取次おそばごようとりつぎ見習いの本郷ほんごう伊勢いせにも事の次第を告げた上でその判断を求めましたるそうにて…」

成程なるほど…、それで本郷ほんごう伊勢いせ大番組おおばんぐみには重好しげよし見張みはりに当たっている時ではないと、そう判断して目付めつけのそなたに大番組おおばんぐみを引きげさせる役目をになわせるべく、それな小姓こしょう丸毛まるも平賀ひらがの両名をそなたの元へと差し向けたというわけだな?」

御意ぎょい…」

左様さようか…、して重好しげよしの元には誰が?」

 治済はるさだは大して興味はなかったものの、それでも一応、たずねてみた。

「されば相役あいやくほり帯刀たてわきが参りましてござりまする…」

左様さようか…、まぁ良いわさ。これでとよ千代ちよが次期将軍、いや、晴れて征夷大将軍になったも同然どうぜんにて…、そのあかつきには…」

 治済はるさだのその先の台詞せりふ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんが引き取ってみせた。

「腹でも切らせまするか?重好しげよし殿には…」

 末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんがそう言うと、治済はるさだは実に底意地そこいじの悪いみを浮かべたものである。

 治済はるさだはそれから両手を叩いて岩本いわもと喜内きないを呼び寄せるや、用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえ美成よししげ納戸なんどがしら堀内ほりうち平左衛門へいざえもん氏芳うじよし、それに近習きんじゅう高尾たかお惣兵衛そうべえ信泰のぶやす瀧川たきがわ主水もんど一都いちくに、同じく近習きんじゅう落合おちあい|山名やまな荒二郎こうじろう信鷹のぶたかとそれに山名やまな荒二郎こうじろう養母ようぼにしてこの一橋ひとつばし邸にてつかえる岡村おかむらをも呼ぶよう命じ、あわせて酒肴しゅこうの用意をも命じたのであった。

 末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん流石さすがに席を立とうとしたものの、「まぁ、良いではないか」と治済はるさだによってせいせられてしまった。

「今頃はもう、家治はあの世かも知れんでな…、急いで御城おしろに帰ることもあるまいて…」

 治済はるさだは先ほどまでの酔いが一気に回ってきたのか、酔余すいよ挙句あげくついにそんな本音ほんねをぶちまける始末であった。

 ともあれこうなっては末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとして席を立ちづらく、治済はるさだにとことん付き合うことにした。本来ほんらいなれば末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはあくまで一橋ひとつばし邸を取り囲む大番組おおばんぐみに対して急ぎ御城おしろへと…、江戸城へと戻るよう伝えるのがその役目であり、その役目を次第しだい末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとしても大番組おおばんぐみの後からついて行く格好かっこうで江戸城へと、いや、大番組おおばんぐみ先導せんどうする格好かっこうで江戸城へと急ぎもどらねばならない役回りであった。

 にもかかわらず、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん大番組おおばんぐみ先導せんどう役をになうどころか、その後からついて行くこともせず、こともあろうにこうして一橋ひとつばし邸にてぐずぐずと時間を浪費ろうひしていた。とても目付めつけ所業しょぎょうとは言えず、職務放棄ほうきはなはだしく、それだけでも切腹を命じられてもおかしくはないだろう。

 だが治済はるさだが言う通り、将軍たる家治はもうあの世かも知れず、そうなれば11代将軍は治済はるさだの実の子である豊千代とよちよということになり、そうであれば目付めつけとしての職務放棄ほうきの罪など帳消しである。

 いや、それどころか今、治済はるさだの誘いを断る方が危ういというものである。間もなく新将軍に就任する豊千代とよちよの実父である治済はるさだからの折角せっかくの誘いを断ったりすればそれこそ切腹ものやも知れなかった。少なくとも、豊千代とよちよが晴れて征夷大将軍となったあかつきには末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんの立場はなくなるというものである。

 そこで末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん目付めつけとしての職務を放棄ほうきしてでも治済はるさだにとことん付き合うことに決めたのであった。

 さてそれからしばらくしてから杉山すぎやま嘉兵衛かへえ堀内ほりうち平左衛門へいざえもん、それに高尾たかお惣兵衛そうべえ瀧川たきがわ主水もんど一都いちくに、それに山名やまな荒二郎こうじろうとそしてその養母ようぼ岡村おかむら岩本いわもと喜内きないの案内により姿を見せたのであった。

 皆、奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件、あるいは家基いえもと毒殺どくさつや、その前の萬壽ますひめ毒殺どくさつ倫子ともこ毒殺どくさつさらには現在げんざい進行しんこうけいとも言うべき将軍・家治毒殺どくさつに関与した者たちばかりである。

 さて、皆が思い思いの席についたところで、治済はるさだ口火くちびを切った。

「皆、これまでよう働いてくれた。礼を申すぞ…」

 まずは治済はるさだは皆の「働き振り」について感謝の意を表して会釈えしゃく程度ていどだが、それでも頭を下げてみせ、これには皆も驚き、あわてて平伏へいふくしたものである。

 それから治済はるさだは頭を上げ、そして平伏へいふくしている皆も頭を上げるのを待ってから続けた。

「されば家治の命は最早もはや風前ふうぜんともしびにて…、いや、すで黄泉よみへと旅立っているやもしれず…、ともあれこれで豊千代とよちよが新たな将軍に決まったも同然どうぜんぞ…」

 そこで用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえ一座いちざを代表して、「おめでとうござりまする」と祝意しゅくいを述べ、他の者たちもそれにならい、「おめでとうござりまする」と声をそろえて祝意しゅくいを口にし、治済はるさだを大いに満足させた。

「されば今宵こよい豊千代とよちよが新将軍に就任せし前祝まえいわいぞ。存分ぞんぶんんでくれぃ…」

 治済はるさだがそう言うや、皆、やはり「ははぁっ」と声をそろえた。

 それから皆、治済はるさだの「お言葉」に甘えて用意された酒を口にし始めた。治済はるさだはと言うと、侍女じじょ岡村おかむらしゃくを受けていた。岡村おかむらの前にも酒肴しゅこうが用意されていたものの、そこは女として、治済はるさだしゃくをしようとしていた岩本いわもと喜内きないせいして女たる己が治済はるさだへのしゃくを引き受けることにしたのであった。

 治済はるさだ岡村おかむらしゃくを受けつつ、

此度こたびの一番の功労者は岡村おかむらやも知れぬなぁ…」

 そんなことを口にし、岡村おかむらを大いに恐縮きょうしゅくさせたものである。

おそれ入りたてまつりまする…」

 岡村おかむらは決してひかえめな態度をくずそうとはせず、そのようなおくゆかしい態度がまた治済はるさだにはこのましく思われたものである。

「いや、まことぞ…、ことに遊佐ゆさ卜庵ぼくあんには世話になったぞ…、いや、遊佐ゆさ卜庵ぼくあん養母ようぼがそなたでなくば、此度こたびの計画がこうもうまく運んだかどうか…」

 治済はるさだはそう告げると、岡村おかむらそそいでくれた酒を一気に|みした。

「されば…、信庭のぶにわ、いえ、卜庵ぼくあんよりも小野おの西育さいいく手柄てがらにござりましょう…」

 岡村おかむらはつい養子として育ててきたために呼び慣れていたそのいみなである「信庭のぶにわ」を口にし、あわてて「卜庵ぼくあん」と言い直して、なおひかえめな態度をくずそうとはしなかった。

 ともあれ確かに岡村おかむらの言う通り、小野おの西育さいいくこと小児科医の小野おの章以あきしげ手柄てがらと言え、さしずめ、

殊勲しゅくんこう…」

 といったところであろうか。

「確かに…、シロタマゴテングタケの存在に気付いたは小野おの西育さいいくであるからのう…」

 シロタマゴテングタケ…、それこそが倫子ともこ萬壽ます姫、そして家基いえもとの命を奪った毒物どくぶつの正体であった。

 いや、千穂ちほ種姫たねひめの命をも間もなくうばうこととあいろう。遅効ちこうせいゆえまだ、千穂ちほ種姫たねひめには自覚じかく症状しょうじょうは出ないであろうが、それでも明日には苦しみ始めるに違いなく、家基いえもとらがそうであったように一進一退いっしんいったいかえしながらゆっくりと死にいたるに違いなく、それは千穂ちほ種姫たねひめが口にしたそのシロタマゴテングタケ入りの夕食の毒見どくみになった廣敷番之頭ひろしきばんのかしら中年寄ちゅうどしよりにしても同じことが言えるに違いなく、ともあれその方は明日にでも今夜がやはり宿直とのい留守居るすいである依田よだ政次まさつぐより治済はるさだへとしらせが、それも「上首尾じょうしゅび」のしらせが入るはずであった。

「その小野おの西育さいいくもとに身を寄せておりまする高橋たかはし又四郎またしろうめは如何いかがはからうご所存しょぞんにて?」

 納戸なんどがしら堀内ほりうち平左衛門へいざえもんが思い出したようにそう治済はるさだたずねた。

「そうよのう…、もう用済ようずみだの…」

 治済はるさだはそう言い切った。実際、納戸なんどがしら高橋たかはし又四郎またしろう正美まさよし治済はるさだにとっては用済ようずみ、いや、それどころか危険な存在と言えた。

 高橋たかはし又四郎またしろうにはこの一橋ひとつばし家にて保管ほかんされてあった、意次よりの進物しんもつの一つである藤色ふじいろむらさき袱紗ふくさを持ち出させた上で、池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶらせ、そして鷲巣わしのす益五郎ますごろうなる無頼ぶらいの旗本に追われる途次とじ比丘尼びくにばしのたもとにてそのむらさき袱紗ふくさを落とし、如何いかにも一橋ひとつばし家の家中かちゅうによる犯行…、それも治済はるさだが家臣…、それも贈答品ぞうとうひんを管理する、そして姿を消したもう一人の納戸なんどがしらであるその高橋たかはし又四郎またしろうに命じて池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶらせた…、治済はるさだはそのようによそおわせたわけである。

 いや、事実その通りなのだが、高橋たかはし又四郎またしろうには清水しみず邸にてつかえる二人の兄がおり、そのうち下の兄である吉左衛門きちざえもん正幸まさとよは何と清水しみず邸にて納戸なんどがしらとしてつかえる山下やました理右衛門りえもん満邦みつくに養嗣子ようししとしてむかえられていた事実から、高橋たかはし又四郎またしろうは実の兄である山下やました吉左衛門きちざえもんあるいはその養父ようふである、それも高橋たかはし又四郎またしろうと同じく納戸なんどがしらとして清水しみず邸にてつかえる山下やました理右衛門りえもんより、一橋ひとつばし治済はるさだに殺人教唆きょうさぎぬを…、奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいんを殺すよう一橋ひとつばし治済はるさだより命じられた…、そのぎぬを着せるよう持ちかけられたのではあるまいか…、治済はるさだはそんな可能性を提示してみせたのであった。

 その動機は勿論もちろん、次期将軍レースより一橋ひとつばし家を引きずりおろすため…、治済はるさだはその可能性をも提示した。次期将軍レースより一橋ひとつばし家が脱落だつらくすれば将軍・家治の実弟じっていである清水しみず重好しげよしが次期将軍候補として浮上ふじょうするからだ。

 いや、それだけではない。池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶは次期将軍であった家基いえもと最期さいご放鷹ほうよう…、鷹狩たかがりに従った奥医師おくいしでもあり、その池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶを殺害に及んだとあれば、その黒幕くろまく家基いえもとの死にも関与している、もっと言えば家基いえもと殺害の黒幕くろまくであり、池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶを殺したのはズバリ、

口封くちふうじ…」

 それに他ならないというわけだ。

 すなわち、清水しみず重好しげよしはかつて、家基いえもと池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶを使い、家基いえもと鷹狩たかがりの帰途きと、立ち寄った東海とうかいにおいて家基いえもと毒殺どくさつ…、具体的には池原いけはら長仙院ちょうせんいんあらかじめ用意しておいた毒物どくぶつをやはり家基いえもと鷹狩たかがりにしたがった、それも東海とうかいにおいては家基いえもとが口にした茶菓子ちゃがし毒見どくみになった小納戸こなんどにでもその毒物どくぶつ事前じぜんに渡しておいて、その小納戸こなんど茶菓子ちゃがし毒見どくみの機会を利用してもらい、つまりは茶菓子ちゃがし毒見どくみどころか茶菓子ちゃがし池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶより受け取った毒物どくぶつ混入こんにゅうして家基いえもとを死にいたらしめたのではあるまいか…。

 それと言うのもその毒見どくみにな小納戸こなんどたるや、石場いしば弾正だんじょう政恒まさつね三浦みうら左膳さぜん義和よしかずなる者であり、両者とも清水しみず家とえにしがある…、石場いしば弾正だんじょうの場合、実弟じってい采女うねめ定門さだかど清水しみず重好しげよし御側おそば近くにつかえており、三浦みうら左膳さぜんいたっては重好しげよし実母じつぼである安祥院あんしょういんおいに当たり、重好しげよしとは従兄弟いとこ同士の間柄あいだがらである…。

 そうであれば石場いしば弾正だんじょう三浦みうら左膳さぜんには次期将軍であった家基いえもとを殺す動機があり…、清水しみず重好しげよしを次期将軍にするというその動機があり、いや、あるいは重好しげよしから直々じきじきに命じられたのやも知れず、その上、チャンスにもめぐまれていた…。

 そして将軍・家治が家基いえもとの死に疑念を抱き始めた今、重好しげよし焦燥感しょうそうかんられ、そこで池原いけはら長仙院ちょうせんいんの口をふうじることとし、あわせて、それこそ一石二鳥とばかり、その罪を一橋ひとつばし治済はるさだに着せるべく、一橋ひとつばし邸にて贈答品ぞうとうひんを管理する納戸なんどがしら高橋たかはし又四郎またしろうをその実兄じっけいである山下やました吉左衛門きちざえもんしくはその養父ようふにして、清水しみず邸にて納戸なんどがしらとしてつかえる山下やました理右衛門りえもんを通じて仲間なかまに引き入れることに成功、高橋たかはし又四郎またしろうには一橋ひとつばし家より何か治済はるさだおくられた品であると分かるようなものを持ち出してもらい、それを池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶ斬殺ざんさつした現場にでも置かせることで、さも一橋ひとつばし治済はるさだこそが池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件、ひいては次期将軍であった家基いえもと殺害の黒幕くろまくに見せかけようとしたのではあるまいか…、治済はるさだはそんな可能性を提示ていじしたわけだ。

 無論むろん、事実は違い、治済はるさだこそが池原いけはら長仙院ちょうせんいん斬殺ざんさつ事件、さらには家基いえもと殺害、それも毒殺どくさつ黒幕くろまくであった。にもかかわらず、治済はるさだはさも重好しげよしこそが一連の事件の黒幕くろまくであり、治済はるさだにその罪を着せようとしていると、そう印象付けたわけである。

 いや、治済はるさだとしては意次に罪を着せられることができればそれも良しと思っていた。それと言うのも治済はるさだは自ら、意次よりおくられた藤色ふじいろむらさき袱紗ふくさを選んで高橋たかはし又四郎またしろうに渡したからだ。それは田沼家の家紋があしらわれた袱紗ふくさであり、意次が治済はるさだに何かの品をおくった折にその品が包まれていたものであった。

 つまり治済はるさだとしては当初は重好しげよしではなく、意次に己の罪を着せるつもりであった。池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶは元々は意次のうしだてにより奥医師おくいしにまで取り立てられたも同然どうぜんだからだ。

 それゆえ治済はるさだはわざわざ高橋たかはし又四郎またしろうに田沼家の家臣にふんさせては、池原いけはら長仙院ちょうせんいん留守るすねらって奥方おくがたに対して、その同居どうきょしているそく意知おきともの子、つまりは意次の孫である龍助りゅうすけ体調たいちょうすぐれず、そこで池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶには帰邸きてい次第しだい往診おうしんをお願いしたいと、そう田沼家の家臣にふんさせた高橋たかはし又四郎またしろう池原いけはら長仙院ちょうせんいん奥方おくがた相手あいて嘘八百うそはっぴゃくならべたてさせ、そうして往診おうしんの帰りを高橋たかはし又四郎またしろうに襲わせたというわけだ。

 うまくいけば意次に池原いけはら長仙院ちょうせんいん斬殺ざんさつ事件、さらには家基いえもと殺害事件の罪までも意次に着せられるかと思いきや、誤算ごさんが生じた。それと言うのも、意次に罪を着せるために使った小道具こどうぐであるそのむらさき袱紗ふくさが逆に意次の潔白けっぱくを証明してしまったからだ。

 すなわち、意次はむらさき袱紗ふくさの色を微妙びみょうに変えて幕閣ばっかく諸侯しょこうは元より、将軍・家治にまでおくっており、その袱紗ふくさ…、治済はるさだ高橋たかはし又四郎またしろうたくしたむらさき袱紗ふくさ…、藤色から己におくられたむらさき袱紗ふくさであることがバレてしまったのだ。

 もっとも、治済はるさだ内心ないしん、驚いたのもつかの間に過ぎなかった。それと言うのも、治済はるさだはそのむらさき袱紗ふくさが己におくられた品であることがバレた場合に備えて、重好しげよしに罪を着せるためのその次善じぜんさくを用意しておいたからだ。

 いや、それは家基いえもと毒殺どくさつした時点からそうであった。すなわち、家基いえもと毒殺どくさつした黒幕くろまくがさも、意次であるかのようによそおうべく、意次と親しい池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶ家基いえもと鷹狩たかがりにしたがわせ、そして意次に家基いえもと殺しの罪を着せることができなかった場合にそなえて、外出先にて家基いえもとが口にする食べ物の毒見どくみにな小納戸こなんどには清水しみず家の縁者えんじゃしたがわせたのであった。

 いや、さらに言うならば…、治済はるさだが意次や、あるいは重好しげよし家基いえもと毒殺どくさつぎぬを着せようとしたのは家基いえもとの死が万が一、毒殺どくさつであると判明した場合にそなえてであり、これまでは…、我が子・豊千代とよちよがいよいよ次期将軍として西之丸にしのまるへとむかえられようとしていたその時までは将軍・家治でさえ、家基いえもとの死がまさか毒殺どくさつであるとは思ってもいなかったに違いない。

 それが急に、家治が家基いえもとの死に疑問を抱き始めたことから、治済はるさだ急遽きゅうきょ、予定を変更したというわけだ。
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