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大詰め ~一橋治済、最期の晩餐。2~
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それから末吉善左衛門は小姓の丸毛政美と平賀貞愛の両名より、徒目付を通じてだが、
「将軍・家治がご不例…」
つまりは重篤であると知らされたことを治済に打ち明けたのであった。
「されば上様がご推察の通り、御城の警備を固めるべく、一橋邸、及び清水邸を取り囲みし大番組に御城の警備に当たらせるべく…」
末吉善左衛門は治済のことを「上様」と呼んで憚らず、また治済にしてもそれを当然のこととして受け止め、
「されば大番組は余や重好の監視に当たっている時ではないと、それで大番組を御城へと引き揚げさせるべく、そなたが参った次第だの?」
「御意…、されば本郷伊勢が判断にて…」
「御側御用取次見習いの?」
「御意…、されば今宵は本郷伊勢が宿直にて…、やはり宿直の小姓の丸毛中務と平賀式部が給仕によりご夕膳をお召し上がりになられし上様、いや、家治殿が俄かに発病…」
末吉善左衛門はそこで言葉を区切ると口元を歪め、治済もそれにつられて口元を歪めた。それにしても本来、上様と称されて然るべき将軍・家治のことを末吉善左衛門は目付の分際でこともあろうに、
「家治殿…」
まるで己と同格であるかのようにそのように呼ぶとは不敬極まりない所業と言えたが、しかし、治済は末吉善左衛門のその不敬を注意するどころか、やはり当然のこととして受け止めたものである。
「されば丸毛中務と平賀式部は家治殿の介護に当たると同時に、直ちに宿直のその御側御用取次見習いの本郷伊勢にも事の次第を告げた上でその判断を求めましたるそうにて…」
「成程…、それで本郷伊勢は大番組には余や重好の見張りに当たっている時ではないと、そう判断して目付のそなたに大番組を引き揚げさせる役目を担わせるべく、それな小姓の丸毛と平賀の両名をそなたの元へと差し向けたというわけだな?」
「御意…」
「左様か…、して重好の元には誰が?」
治済は大して興味はなかったものの、それでも一応、尋ねてみた。
「されば相役の堀帯刀が参りましてござりまする…」
「左様か…、まぁ良いわさ。これで豊千代が次期将軍、いや、晴れて征夷大将軍になったも同然にて…、その暁には…」
治済のその先の台詞は末吉善左衛門が引き取ってみせた。
「腹でも切らせまするか?重好殿には…」
末吉善左衛門がそう言うと、治済は実に底意地の悪い笑みを浮かべたものである。
治済はそれから両手を叩いて岩本喜内を呼び寄せるや、用人の杉山嘉兵衛美成と納戸頭の堀内平左衛門氏芳、それに近習の高尾惣兵衛信泰と瀧川主水一都、同じく近習の落合|山名荒二郎信鷹とそれに山名荒二郎の養母にしてこの一橋邸にて仕える岡村をも呼ぶよう命じ、併せて酒肴の用意をも命じたのであった。
末吉善左衛門は流石に席を立とうとしたものの、「まぁ、良いではないか」と治済によって制せられてしまった。
「今頃はもう、家治はあの世かも知れんでな…、急いで御城に帰ることもあるまいて…」
治済は先ほどまでの酔いが一気に回ってきたのか、酔余の挙句、遂にそんな本音をぶちまける始末であった。
ともあれこうなっては末吉善左衛門として席を立ちづらく、治済にとことん付き合うことにした。本来なれば末吉善左衛門はあくまで一橋邸を取り囲む大番組に対して急ぎ御城へと…、江戸城へと戻るよう伝えるのがその役目であり、その役目を終え次第、末吉善左衛門としても大番組の後からついて行く格好で江戸城へと、いや、大番組を先導する格好で江戸城へと急ぎ戻らねばならない役回りであった。
にもかかわらず、末吉善左衛門は大番組の先導役を担うどころか、その後からついて行くこともせず、こともあろうにこうして一橋邸にてぐずぐずと時間を浪費していた。とても目付の所業とは言えず、職務放棄も甚だしく、それだけでも切腹を命じられてもおかしくはないだろう。
だが治済が言う通り、将軍たる家治はもうあの世かも知れず、そうなれば11代将軍は治済の実の子である豊千代ということになり、そうであれば目付としての職務放棄の罪など帳消しである。
いや、それどころか今、治済の誘いを断る方が危ういというものである。間もなく新将軍に就任する豊千代の実父である治済からの折角の誘いを断ったりすればそれこそ切腹ものやも知れなかった。少なくとも、豊千代が晴れて征夷大将軍となった暁には末吉善左衛門の立場はなくなるというものである。
そこで末吉善左衛門は目付としての職務を放棄してでも治済にとことん付き合うことに決めたのであった。
さてそれから暫くしてから杉山嘉兵衛と堀内平左衛門、それに高尾惣兵衛と瀧川主水一都、それに山名荒二郎とそしてその養母の岡村が岩本喜内の案内により姿を見せたのであった。
皆、奥医師の池原長仙院良誠斬殺事件、或いは家基毒殺や、その前の萬壽姫毒殺、倫子毒殺、更には現在進行形とも言うべき将軍・家治毒殺に関与した者たちばかりである。
さて、皆が思い思いの席についたところで、治済が口火を切った。
「皆、これまでよう働いてくれた。礼を申すぞ…」
まずは治済は皆の「働き振り」について感謝の意を表して会釈程度だが、それでも頭を下げてみせ、これには皆も驚き、慌てて平伏したものである。
それから治済は頭を上げ、そして平伏している皆も頭を上げるのを待ってから続けた。
「されば家治の命は最早、風前の灯にて…、いや、既に黄泉へと旅立っているやもしれず…、ともあれこれで豊千代が新たな将軍に決まったも同然ぞ…」
そこで用人の杉山嘉兵衛が一座を代表して、「おめでとうござりまする」と祝意を述べ、他の者たちもそれに倣い、「おめでとうござりまする」と声を揃えて祝意を口にし、治済を大いに満足させた。
「されば今宵は豊千代が新将軍に就任せし前祝ぞ。存分に呑んでくれぃ…」
治済がそう言うや、皆、やはり「ははぁっ」と声を揃えた。
それから皆、治済の「お言葉」に甘えて用意された酒を口にし始めた。治済はと言うと、侍女の岡村の酌を受けていた。岡村の前にも酒肴が用意されていたものの、そこは女として、治済の酌をしようとしていた岩本喜内を制して女たる己が治済への酌を引き受けることにしたのであった。
治済は岡村の酌を受けつつ、
「此度の一番の功労者は岡村やも知れぬなぁ…」
そんなことを口にし、岡村を大いに恐縮させたものである。
「畏れ入り奉りまする…」
岡村は決して控えめな態度を崩そうとはせず、そのような奥ゆかしい態度がまた治済には好ましく思われたものである。
「いや、真ぞ…、ことに遊佐卜庵には世話になったぞ…、いや、遊佐卜庵の養母がそなたでなくば、此度の計画がこうも巧く運んだかどうか…」
治済はそう告げると、岡村が注いでくれた酒を一気に飲|み乾した。
「されば…、信庭、いえ、卜庵よりも小野西育が手柄にござりましょう…」
岡村はつい養子として育ててきたために呼び慣れていたその諱である「信庭」を口にし、慌てて「卜庵」と言い直して、尚も控えめな態度を崩そうとはしなかった。
ともあれ確かに岡村の言う通り、小野西育こと小児科医の小野章以の手柄と言え、さしずめ、
「殊勲甲…」
といったところであろうか。
「確かに…、シロタマゴテングタケの存在に気付いたは小野西育であるからのう…」
シロタマゴテングタケ…、それこそが倫子、萬壽姫、そして家基の命を奪った毒物の正体であった。
いや、千穂や種姫の命をも間もなく奪うことと相成ろう。遅効性ゆえまだ、千穂や種姫には自覚症状は出ないであろうが、それでも明日には苦しみ始めるに違いなく、家基らがそうであったように一進一退を繰り返しながらゆっくりと死に至るに違いなく、それは千穂と種姫が口にしたそのシロタマゴテングタケ入りの夕食の毒見を担った廣敷番之頭や中年寄にしても同じことが言えるに違いなく、ともあれその方は明日にでも今夜がやはり宿直の留守居である依田政次より治済へと報せが、それも「上首尾」の報せが入る筈であった。
「その小野西育の許に身を寄せておりまする高橋又四郎めは如何取り計らうご所存にて?」
納戸頭の堀内平左衛門が思い出したようにそう治済に尋ねた。
「そうよのう…、もう用済みだの…」
治済はそう言い切った。実際、納戸頭の高橋又四郎正美は治済にとっては用済み、いや、それどころか危険な存在と言えた。
高橋又四郎にはこの一橋家にて保管されてあった、意次よりの進物の一つである藤色の紫の袱紗を持ち出させた上で、池原長仙院良誠を斬らせ、そして鷲巣益五郎なる無頼の旗本に追われる途次、比丘尼橋のたもとにてその紫の袱紗を落とし、如何にも一橋家の家中による犯行…、それも治済が家臣…、それも贈答品を管理する、そして姿を消したもう一人の納戸頭であるその高橋又四郎に命じて池原長仙院良誠を斬らせた…、治済はそのように装わせたわけである。
いや、事実その通りなのだが、高橋又四郎には清水邸にて仕える二人の兄がおり、そのうち下の兄である吉左衛門正幸は何と清水邸にて納戸頭として仕える山下理右衛門満邦の養嗣子として迎えられていた事実から、高橋又四郎は実の兄である山下吉左衛門、或いはその養父である、それも高橋又四郎と同じく納戸頭として清水邸にて仕える山下理右衛門より、一橋治済に殺人教唆の濡れ衣を…、奥医師の池原長仙院を殺すよう一橋治済より命じられた…、その濡れ衣を着せるよう持ちかけられたのではあるまいか…、治済はそんな可能性を提示してみせたのであった。
その動機は勿論、次期将軍レースより一橋家を引きずりおろすため…、治済はその可能性をも提示した。次期将軍レースより一橋家が脱落すれば将軍・家治の実弟である清水重好が次期将軍候補として浮上するからだ。
いや、それだけではない。池原長仙院良誠は次期将軍であった家基が最期の放鷹…、鷹狩りに従った奥医師でもあり、その池原長仙院良誠を殺害に及んだとあれば、その黒幕は家基の死にも関与している、もっと言えば家基殺害の黒幕であり、池原長仙院良誠を殺したのはズバリ、
「口封じ…」
それに他ならないというわけだ。
即ち、清水重好はかつて、家基を池原長仙院良誠を使い、家基が鷹狩りの帰途、立ち寄った東海寺において家基を毒殺…、具体的には池原長仙院が予め用意しておいた毒物をやはり家基の鷹狩りに従った、それも東海寺においては家基が口にした茶菓子の毒見を担った小納戸にでもその毒物を事前に渡しておいて、その小納戸に茶菓子の毒見の機会を利用してもらい、つまりは茶菓子の毒見どころか茶菓子に池原長仙院良誠より受け取った毒物を混入して家基を死に至らしめたのではあるまいか…。
それと言うのもその毒見を担う小納戸たるや、石場弾正政恒と三浦左膳義和なる者であり、両者とも清水家と縁がある…、石場弾正の場合、実弟の采女定門が清水重好の御側近くに仕えており、三浦左膳に至っては重好の実母である安祥院の甥に当たり、重好とは従兄弟同士の間柄である…。
そうであれば石場弾正と三浦左膳には次期将軍であった家基を殺す動機があり…、清水重好を次期将軍にするというその動機があり、いや、或いは重好から直々に命じられたのやも知れず、その上、チャンスにも恵まれていた…。
そして将軍・家治が家基の死に疑念を抱き始めた今、重好は焦燥感に駆られ、そこで池原長仙院の口を封じることとし、併せて、それこそ一石二鳥とばかり、その罪を一橋治済に着せるべく、一橋邸にて贈答品を管理する納戸頭の高橋又四郎をその実兄である山下吉左衛門、若しくはその養父にして、清水邸にて納戸頭として仕える山下理右衛門を通じて仲間に引き入れることに成功、高橋又四郎には一橋家より何か治済に贈られた品であると分かるようなものを持ち出してもらい、それを池原長仙院良誠を斬殺した現場にでも置かせることで、さも一橋治済こそが池原長仙院良誠斬殺事件、ひいては次期将軍であった家基殺害の黒幕に見せかけようとしたのではあるまいか…、治済はそんな可能性を提示したわけだ。
無論、事実は違い、治済こそが池原長仙院斬殺事件、更には家基殺害、それも毒殺の黒幕であった。にもかかわらず、治済はさも重好こそが一連の事件の黒幕であり、治済にその罪を着せようとしていると、そう印象付けたわけである。
いや、治済としては意次に罪を着せられることができればそれも良しと思っていた。それと言うのも治済は自ら、意次より贈られた藤色の紫の袱紗を選んで高橋又四郎に渡したからだ。それは田沼家の家紋があしらわれた袱紗であり、意次が治済に何かの品を贈った折にその品が包まれていたものであった。
つまり治済としては当初は重好ではなく、意次に己の罪を着せるつもりであった。池原長仙院良誠は元々は意次の後ろ盾により奥医師にまで取り立てられたも同然だからだ。
それゆえ治済はわざわざ高橋又四郎に田沼家の家臣に扮させては、池原長仙院の留守を狙って奥方に対して、その同居している息・意知の子、つまりは意次の孫である龍助の体調が優れず、そこで池原長仙院良誠には帰邸次第、往診をお願いしたいと、そう田沼家の家臣に扮させた高橋又四郎に池原長仙院の奥方相手に嘘八百を並べたてさせ、そうして往診の帰りを高橋又四郎に襲わせたというわけだ。
うまくいけば意次に池原長仙院斬殺事件、更には家基殺害事件の罪までも意次に着せられるかと思いきや、誤算が生じた。それと言うのも、意次に罪を着せるために使った小道具であるその紫の袱紗が逆に意次の潔白を証明してしまったからだ。
即ち、意次は紫の袱紗の色を微妙に変えて幕閣諸侯は元より、将軍・家治にまで贈っており、その袱紗…、治済が高橋又四郎に託した紫の袱紗…、藤色から己に贈られた紫の袱紗であることがバレてしまったのだ。
尤も、治済が内心、驚いたのも束の間に過ぎなかった。それと言うのも、治済はその紫の袱紗が己に贈られた品であることがバレた場合に備えて、重好に罪を着せるためのその次善の策を用意しておいたからだ。
いや、それは家基を毒殺した時点からそうであった。即ち、家基を毒殺した黒幕がさも、意次であるかのように装うべく、意次と親しい池原長仙院良誠を家基の鷹狩りに従わせ、そして意次に家基殺しの罪を着せることができなかった場合に備えて、外出先にて家基が口にする食べ物の毒見を担う小納戸には清水家の縁者を従わせたのであった。
いや、更に言うならば…、治済が意次や、或いは重好に家基毒殺の濡れ衣を着せようとしたのは家基の死が万が一、毒殺であると判明した場合に備えてであり、これまでは…、我が子・豊千代がいよいよ次期将軍として西之丸へと迎えられようとしていたその時までは将軍・家治でさえ、家基の死がまさか毒殺であるとは思ってもいなかったに違いない。
それが急に、家治が家基の死に疑問を抱き始めたことから、治済は急遽、予定を変更したというわけだ。
「将軍・家治がご不例…」
つまりは重篤であると知らされたことを治済に打ち明けたのであった。
「されば上様がご推察の通り、御城の警備を固めるべく、一橋邸、及び清水邸を取り囲みし大番組に御城の警備に当たらせるべく…」
末吉善左衛門は治済のことを「上様」と呼んで憚らず、また治済にしてもそれを当然のこととして受け止め、
「されば大番組は余や重好の監視に当たっている時ではないと、それで大番組を御城へと引き揚げさせるべく、そなたが参った次第だの?」
「御意…、されば本郷伊勢が判断にて…」
「御側御用取次見習いの?」
「御意…、されば今宵は本郷伊勢が宿直にて…、やはり宿直の小姓の丸毛中務と平賀式部が給仕によりご夕膳をお召し上がりになられし上様、いや、家治殿が俄かに発病…」
末吉善左衛門はそこで言葉を区切ると口元を歪め、治済もそれにつられて口元を歪めた。それにしても本来、上様と称されて然るべき将軍・家治のことを末吉善左衛門は目付の分際でこともあろうに、
「家治殿…」
まるで己と同格であるかのようにそのように呼ぶとは不敬極まりない所業と言えたが、しかし、治済は末吉善左衛門のその不敬を注意するどころか、やはり当然のこととして受け止めたものである。
「されば丸毛中務と平賀式部は家治殿の介護に当たると同時に、直ちに宿直のその御側御用取次見習いの本郷伊勢にも事の次第を告げた上でその判断を求めましたるそうにて…」
「成程…、それで本郷伊勢は大番組には余や重好の見張りに当たっている時ではないと、そう判断して目付のそなたに大番組を引き揚げさせる役目を担わせるべく、それな小姓の丸毛と平賀の両名をそなたの元へと差し向けたというわけだな?」
「御意…」
「左様か…、して重好の元には誰が?」
治済は大して興味はなかったものの、それでも一応、尋ねてみた。
「されば相役の堀帯刀が参りましてござりまする…」
「左様か…、まぁ良いわさ。これで豊千代が次期将軍、いや、晴れて征夷大将軍になったも同然にて…、その暁には…」
治済のその先の台詞は末吉善左衛門が引き取ってみせた。
「腹でも切らせまするか?重好殿には…」
末吉善左衛門がそう言うと、治済は実に底意地の悪い笑みを浮かべたものである。
治済はそれから両手を叩いて岩本喜内を呼び寄せるや、用人の杉山嘉兵衛美成と納戸頭の堀内平左衛門氏芳、それに近習の高尾惣兵衛信泰と瀧川主水一都、同じく近習の落合|山名荒二郎信鷹とそれに山名荒二郎の養母にしてこの一橋邸にて仕える岡村をも呼ぶよう命じ、併せて酒肴の用意をも命じたのであった。
末吉善左衛門は流石に席を立とうとしたものの、「まぁ、良いではないか」と治済によって制せられてしまった。
「今頃はもう、家治はあの世かも知れんでな…、急いで御城に帰ることもあるまいて…」
治済は先ほどまでの酔いが一気に回ってきたのか、酔余の挙句、遂にそんな本音をぶちまける始末であった。
ともあれこうなっては末吉善左衛門として席を立ちづらく、治済にとことん付き合うことにした。本来なれば末吉善左衛門はあくまで一橋邸を取り囲む大番組に対して急ぎ御城へと…、江戸城へと戻るよう伝えるのがその役目であり、その役目を終え次第、末吉善左衛門としても大番組の後からついて行く格好で江戸城へと、いや、大番組を先導する格好で江戸城へと急ぎ戻らねばならない役回りであった。
にもかかわらず、末吉善左衛門は大番組の先導役を担うどころか、その後からついて行くこともせず、こともあろうにこうして一橋邸にてぐずぐずと時間を浪費していた。とても目付の所業とは言えず、職務放棄も甚だしく、それだけでも切腹を命じられてもおかしくはないだろう。
だが治済が言う通り、将軍たる家治はもうあの世かも知れず、そうなれば11代将軍は治済の実の子である豊千代ということになり、そうであれば目付としての職務放棄の罪など帳消しである。
いや、それどころか今、治済の誘いを断る方が危ういというものである。間もなく新将軍に就任する豊千代の実父である治済からの折角の誘いを断ったりすればそれこそ切腹ものやも知れなかった。少なくとも、豊千代が晴れて征夷大将軍となった暁には末吉善左衛門の立場はなくなるというものである。
そこで末吉善左衛門は目付としての職務を放棄してでも治済にとことん付き合うことに決めたのであった。
さてそれから暫くしてから杉山嘉兵衛と堀内平左衛門、それに高尾惣兵衛と瀧川主水一都、それに山名荒二郎とそしてその養母の岡村が岩本喜内の案内により姿を見せたのであった。
皆、奥医師の池原長仙院良誠斬殺事件、或いは家基毒殺や、その前の萬壽姫毒殺、倫子毒殺、更には現在進行形とも言うべき将軍・家治毒殺に関与した者たちばかりである。
さて、皆が思い思いの席についたところで、治済が口火を切った。
「皆、これまでよう働いてくれた。礼を申すぞ…」
まずは治済は皆の「働き振り」について感謝の意を表して会釈程度だが、それでも頭を下げてみせ、これには皆も驚き、慌てて平伏したものである。
それから治済は頭を上げ、そして平伏している皆も頭を上げるのを待ってから続けた。
「されば家治の命は最早、風前の灯にて…、いや、既に黄泉へと旅立っているやもしれず…、ともあれこれで豊千代が新たな将軍に決まったも同然ぞ…」
そこで用人の杉山嘉兵衛が一座を代表して、「おめでとうござりまする」と祝意を述べ、他の者たちもそれに倣い、「おめでとうござりまする」と声を揃えて祝意を口にし、治済を大いに満足させた。
「されば今宵は豊千代が新将軍に就任せし前祝ぞ。存分に呑んでくれぃ…」
治済がそう言うや、皆、やはり「ははぁっ」と声を揃えた。
それから皆、治済の「お言葉」に甘えて用意された酒を口にし始めた。治済はと言うと、侍女の岡村の酌を受けていた。岡村の前にも酒肴が用意されていたものの、そこは女として、治済の酌をしようとしていた岩本喜内を制して女たる己が治済への酌を引き受けることにしたのであった。
治済は岡村の酌を受けつつ、
「此度の一番の功労者は岡村やも知れぬなぁ…」
そんなことを口にし、岡村を大いに恐縮させたものである。
「畏れ入り奉りまする…」
岡村は決して控えめな態度を崩そうとはせず、そのような奥ゆかしい態度がまた治済には好ましく思われたものである。
「いや、真ぞ…、ことに遊佐卜庵には世話になったぞ…、いや、遊佐卜庵の養母がそなたでなくば、此度の計画がこうも巧く運んだかどうか…」
治済はそう告げると、岡村が注いでくれた酒を一気に飲|み乾した。
「されば…、信庭、いえ、卜庵よりも小野西育が手柄にござりましょう…」
岡村はつい養子として育ててきたために呼び慣れていたその諱である「信庭」を口にし、慌てて「卜庵」と言い直して、尚も控えめな態度を崩そうとはしなかった。
ともあれ確かに岡村の言う通り、小野西育こと小児科医の小野章以の手柄と言え、さしずめ、
「殊勲甲…」
といったところであろうか。
「確かに…、シロタマゴテングタケの存在に気付いたは小野西育であるからのう…」
シロタマゴテングタケ…、それこそが倫子、萬壽姫、そして家基の命を奪った毒物の正体であった。
いや、千穂や種姫の命をも間もなく奪うことと相成ろう。遅効性ゆえまだ、千穂や種姫には自覚症状は出ないであろうが、それでも明日には苦しみ始めるに違いなく、家基らがそうであったように一進一退を繰り返しながらゆっくりと死に至るに違いなく、それは千穂と種姫が口にしたそのシロタマゴテングタケ入りの夕食の毒見を担った廣敷番之頭や中年寄にしても同じことが言えるに違いなく、ともあれその方は明日にでも今夜がやはり宿直の留守居である依田政次より治済へと報せが、それも「上首尾」の報せが入る筈であった。
「その小野西育の許に身を寄せておりまする高橋又四郎めは如何取り計らうご所存にて?」
納戸頭の堀内平左衛門が思い出したようにそう治済に尋ねた。
「そうよのう…、もう用済みだの…」
治済はそう言い切った。実際、納戸頭の高橋又四郎正美は治済にとっては用済み、いや、それどころか危険な存在と言えた。
高橋又四郎にはこの一橋家にて保管されてあった、意次よりの進物の一つである藤色の紫の袱紗を持ち出させた上で、池原長仙院良誠を斬らせ、そして鷲巣益五郎なる無頼の旗本に追われる途次、比丘尼橋のたもとにてその紫の袱紗を落とし、如何にも一橋家の家中による犯行…、それも治済が家臣…、それも贈答品を管理する、そして姿を消したもう一人の納戸頭であるその高橋又四郎に命じて池原長仙院良誠を斬らせた…、治済はそのように装わせたわけである。
いや、事実その通りなのだが、高橋又四郎には清水邸にて仕える二人の兄がおり、そのうち下の兄である吉左衛門正幸は何と清水邸にて納戸頭として仕える山下理右衛門満邦の養嗣子として迎えられていた事実から、高橋又四郎は実の兄である山下吉左衛門、或いはその養父である、それも高橋又四郎と同じく納戸頭として清水邸にて仕える山下理右衛門より、一橋治済に殺人教唆の濡れ衣を…、奥医師の池原長仙院を殺すよう一橋治済より命じられた…、その濡れ衣を着せるよう持ちかけられたのではあるまいか…、治済はそんな可能性を提示してみせたのであった。
その動機は勿論、次期将軍レースより一橋家を引きずりおろすため…、治済はその可能性をも提示した。次期将軍レースより一橋家が脱落すれば将軍・家治の実弟である清水重好が次期将軍候補として浮上するからだ。
いや、それだけではない。池原長仙院良誠は次期将軍であった家基が最期の放鷹…、鷹狩りに従った奥医師でもあり、その池原長仙院良誠を殺害に及んだとあれば、その黒幕は家基の死にも関与している、もっと言えば家基殺害の黒幕であり、池原長仙院良誠を殺したのはズバリ、
「口封じ…」
それに他ならないというわけだ。
即ち、清水重好はかつて、家基を池原長仙院良誠を使い、家基が鷹狩りの帰途、立ち寄った東海寺において家基を毒殺…、具体的には池原長仙院が予め用意しておいた毒物をやはり家基の鷹狩りに従った、それも東海寺においては家基が口にした茶菓子の毒見を担った小納戸にでもその毒物を事前に渡しておいて、その小納戸に茶菓子の毒見の機会を利用してもらい、つまりは茶菓子の毒見どころか茶菓子に池原長仙院良誠より受け取った毒物を混入して家基を死に至らしめたのではあるまいか…。
それと言うのもその毒見を担う小納戸たるや、石場弾正政恒と三浦左膳義和なる者であり、両者とも清水家と縁がある…、石場弾正の場合、実弟の采女定門が清水重好の御側近くに仕えており、三浦左膳に至っては重好の実母である安祥院の甥に当たり、重好とは従兄弟同士の間柄である…。
そうであれば石場弾正と三浦左膳には次期将軍であった家基を殺す動機があり…、清水重好を次期将軍にするというその動機があり、いや、或いは重好から直々に命じられたのやも知れず、その上、チャンスにも恵まれていた…。
そして将軍・家治が家基の死に疑念を抱き始めた今、重好は焦燥感に駆られ、そこで池原長仙院の口を封じることとし、併せて、それこそ一石二鳥とばかり、その罪を一橋治済に着せるべく、一橋邸にて贈答品を管理する納戸頭の高橋又四郎をその実兄である山下吉左衛門、若しくはその養父にして、清水邸にて納戸頭として仕える山下理右衛門を通じて仲間に引き入れることに成功、高橋又四郎には一橋家より何か治済に贈られた品であると分かるようなものを持ち出してもらい、それを池原長仙院良誠を斬殺した現場にでも置かせることで、さも一橋治済こそが池原長仙院良誠斬殺事件、ひいては次期将軍であった家基殺害の黒幕に見せかけようとしたのではあるまいか…、治済はそんな可能性を提示したわけだ。
無論、事実は違い、治済こそが池原長仙院斬殺事件、更には家基殺害、それも毒殺の黒幕であった。にもかかわらず、治済はさも重好こそが一連の事件の黒幕であり、治済にその罪を着せようとしていると、そう印象付けたわけである。
いや、治済としては意次に罪を着せられることができればそれも良しと思っていた。それと言うのも治済は自ら、意次より贈られた藤色の紫の袱紗を選んで高橋又四郎に渡したからだ。それは田沼家の家紋があしらわれた袱紗であり、意次が治済に何かの品を贈った折にその品が包まれていたものであった。
つまり治済としては当初は重好ではなく、意次に己の罪を着せるつもりであった。池原長仙院良誠は元々は意次の後ろ盾により奥医師にまで取り立てられたも同然だからだ。
それゆえ治済はわざわざ高橋又四郎に田沼家の家臣に扮させては、池原長仙院の留守を狙って奥方に対して、その同居している息・意知の子、つまりは意次の孫である龍助の体調が優れず、そこで池原長仙院良誠には帰邸次第、往診をお願いしたいと、そう田沼家の家臣に扮させた高橋又四郎に池原長仙院の奥方相手に嘘八百を並べたてさせ、そうして往診の帰りを高橋又四郎に襲わせたというわけだ。
うまくいけば意次に池原長仙院斬殺事件、更には家基殺害事件の罪までも意次に着せられるかと思いきや、誤算が生じた。それと言うのも、意次に罪を着せるために使った小道具であるその紫の袱紗が逆に意次の潔白を証明してしまったからだ。
即ち、意次は紫の袱紗の色を微妙に変えて幕閣諸侯は元より、将軍・家治にまで贈っており、その袱紗…、治済が高橋又四郎に託した紫の袱紗…、藤色から己に贈られた紫の袱紗であることがバレてしまったのだ。
尤も、治済が内心、驚いたのも束の間に過ぎなかった。それと言うのも、治済はその紫の袱紗が己に贈られた品であることがバレた場合に備えて、重好に罪を着せるためのその次善の策を用意しておいたからだ。
いや、それは家基を毒殺した時点からそうであった。即ち、家基を毒殺した黒幕がさも、意次であるかのように装うべく、意次と親しい池原長仙院良誠を家基の鷹狩りに従わせ、そして意次に家基殺しの罪を着せることができなかった場合に備えて、外出先にて家基が口にする食べ物の毒見を担う小納戸には清水家の縁者を従わせたのであった。
いや、更に言うならば…、治済が意次や、或いは重好に家基毒殺の濡れ衣を着せようとしたのは家基の死が万が一、毒殺であると判明した場合に備えてであり、これまでは…、我が子・豊千代がいよいよ次期将軍として西之丸へと迎えられようとしていたその時までは将軍・家治でさえ、家基の死がまさか毒殺であるとは思ってもいなかったに違いない。
それが急に、家治が家基の死に疑問を抱き始めたことから、治済は急遽、予定を変更したというわけだ。
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