1 / 32
承前 夏の人事
しおりを挟む
「されば松平但馬が後任の小普請組支配でござるが…」
江戸城中奥は御座之間において、御側御用人、通称、側用人の本多弾正大弼忠籌の声が響いた。
中奥は将軍の居所であり、ここで将軍は起居すると同時に、政務を執った。さしずめ「職住一体」といったところであろうか。
その中奥を取り仕切るのが側用人であった。側用人は将軍の最側近であり、中奥の謂わば「最高長官」として配下の中奥役人を差配する。
のみならず、将軍と表向役人との結節点としての役目をも果たし得る。
その側用人の職にあるのが本多忠籌であり、忠籌は今、正に「結節点」としての役目を果たしていた。
即ち、今、ここ御座之間の上段にて将軍・家斉が鎮座し、|一方、下段にては将軍と向かい合う格好で老中ら表向役人、それも「幹部クラス」が居並ぶ中で、忠籌は老中らが居並ぶその下段にて、それも将軍・家斉と老中らとの間に正に、
「挟まれる格好にて…」
その場に陣取っては閣議を主宰していた。
さて、忠籌が主宰していた閣議だが、それは人事案件であり、忠籌が口にした「松平但馬」とは小普請組支配の松平但馬守乗季のことであり、松平乗季は四日前、即ち、寛政元(1789)年8月18日に卒したために、その後任人事についてであった。
いや、実を言えば昨日の段階で後任の小普請組支配は既に内定していた。
それと言うのも昨日の21日は評定所の式日に当たり、その場で後任人事が話し合われたのであった。
評定所とは幕府の最高司法機関であり、「最高裁判所」に当たる。
その評定所の「判事団」を構成するのが寺社・江戸南北両町・公事方の三奉行であり、「評定所一座」とも称される。
そして毎月、2日と11日と21日にはその評定所一座に老中が加わり、審理に当たる式日であり、昨日は21日、寛政|元(1789)年の8月21日なので、正に式日であった。
さて、評定所で扱う事件だが、それは基本的には公事出入と称される民事に限られ、稀に吟味物と称される刑事、その中でも特に重大事件である詮議物が裁かれることもある。
尤も、そういつも、評定所にて裁かれるべき民事事件や、ましてや重大な刑事事件があるわけではなく、事件が全くないことの方が多い程であり、昨日もそうであった。
その場合、特に老中も出座するような式日ともなると、評定所は司法機関ではなく、立法機関や行政機関と化す。
それゆえ人事案件も当然、評定所の議題となり、昨日21日の式日を利用して、評定所において松平乗季の後任の小普請組支配には誰を以ってして充てるか、それが話し合われ、既に候補者が絞られていた。
「されば中奥小姓の浅野佐渡守長富、同じく中奥小姓の水野石見守貞利、そして同じく中奥小姓の大久保志摩守忠道の三名に絞られましてござりまする…」
将軍・家斉に恭しくそう告げたのは老中首座の松平越中守定信であった。
定信は続けて、
「畏れ多くも上様の御裁断を仰ぎたいと…」
この3人の候補者の中から誰を小普請組支配に任じるか、将軍・家斉にその判断を求めたのであった。
小普請組支配とは家禄が3千石未満にして無役、つまりは何の御役目にも就かず、或いは就けずに働いていない「ニート」の旗本、及び譜代の御家人を支配する役職であった。
小普請組支配は老中支配に属する布衣、つまりは従六位に相当する役職であった。
従六位に相当する布衣の役は小普請組支配の外にも存在するが、その中でも小普請組支配は上位に位置していた。
だが小普請組支配の職務そのものは、その格式とは裏腹にさして重要ではなく、それゆえその小普請組支配の人事ともなれば、本来は直属の上司に当たる老中だけで決めてしまい、将軍にはその追認を求めるだけで十分であった。
だが定信がそれを許さなかった。
「されば上様を軽んじ奉ることにもなり…」
人事の追認を求めるだけでは家斉のその将軍としての権威を疵付け、ひいては家斉を軽んずることになる…、それが定信が許さなかった理由であったが、それだけではなかった。
「上様は未だ、17歳と御若く、そこで政務に慣れて頂くべく…」
本来、老中だけで決裁可能な、将軍はそれを追認するだけで十分な案件にも、家斉自身に判断させることで、若年の家斉に、
「一日でも早く政務に慣れて欲しい…」
定信はその一念から、家斉に小普請組支配の人事という、謂わば瑣末な案件にも家斉の判断を求めたのであった。
尤も、全くの白紙の状態から判断させるのは余りに酷というものであろう。
そこでまず定信たち老中が候補者を絞った上で家斉にはその候補者の中から判断して貰うことにしたのであった。
さて、その小普請組支配の候補者として定信たち老中が絞った3人だが、皆、中奥小姓であった。
中奥小姓とは「中奥」という単語こそ冠せられてはいるものの、しかし、その職務は表向にて儀式を掌り、中奥にて将軍に近侍する小姓とは別物であった。
但し、中奥小姓は中奥にて将軍に近侍する小姓と同じく従五位下の諸大夫役であり、それに比して小普請組支配は従六位の布衣役であり、それゆえ官位に着目すれば中奥小姓の方が、或いは小姓の方が小普請組支配の上に位置するものの、しかし幕府内の序列、つまりはここ江戸城における席次という観点においては小普請組支配の方が中奥小姓や、それに小姓よりも上であった。
そして中奥小姓から小普請組支配へと昇進を果たすのがこの時代に確立された、謂わば「昇進パターン」であり、実際、11人、いや10人存する小普請組支配のうち、過半の7人が中奥小姓からの「昇進組」であった。
無論、例外もあり、坪内式部定系がそうであり、坪内式部は定火消からの「昇進組」であった。
また酒井因幡守忠敬は遠国奉行である日光奉行からの「異動組」であった。
いや、遠国奉行と小普請組支配とでは、官位にしろ幕府内の序列にしろ、遠国奉行の方が上であり、してみると酒井忠敬にとってこの人事は格下げに外ならないとも言えるが、しかし、この小普請組支配を経て、書院番頭や小姓組番頭といった番方、つまりは武官の指揮官へと昇進を果たすのがこれまた「昇進パターン」であり、それゆえ酒井忠敬もまた、
「近々、書院番頭か小姓組番頭へと昇進を果たすのではあるまいか…」
それが専らの下馬評であった。
ともあれ斯かる事情から、定信たち老中は小普請組支配の候補者として中奥小姓である、
「浅野佐渡守長富」
「水野石見守貞利」
「大久保志摩守忠道」
以上の3人に絞ったのであった。
江戸城中奥は御座之間において、御側御用人、通称、側用人の本多弾正大弼忠籌の声が響いた。
中奥は将軍の居所であり、ここで将軍は起居すると同時に、政務を執った。さしずめ「職住一体」といったところであろうか。
その中奥を取り仕切るのが側用人であった。側用人は将軍の最側近であり、中奥の謂わば「最高長官」として配下の中奥役人を差配する。
のみならず、将軍と表向役人との結節点としての役目をも果たし得る。
その側用人の職にあるのが本多忠籌であり、忠籌は今、正に「結節点」としての役目を果たしていた。
即ち、今、ここ御座之間の上段にて将軍・家斉が鎮座し、|一方、下段にては将軍と向かい合う格好で老中ら表向役人、それも「幹部クラス」が居並ぶ中で、忠籌は老中らが居並ぶその下段にて、それも将軍・家斉と老中らとの間に正に、
「挟まれる格好にて…」
その場に陣取っては閣議を主宰していた。
さて、忠籌が主宰していた閣議だが、それは人事案件であり、忠籌が口にした「松平但馬」とは小普請組支配の松平但馬守乗季のことであり、松平乗季は四日前、即ち、寛政元(1789)年8月18日に卒したために、その後任人事についてであった。
いや、実を言えば昨日の段階で後任の小普請組支配は既に内定していた。
それと言うのも昨日の21日は評定所の式日に当たり、その場で後任人事が話し合われたのであった。
評定所とは幕府の最高司法機関であり、「最高裁判所」に当たる。
その評定所の「判事団」を構成するのが寺社・江戸南北両町・公事方の三奉行であり、「評定所一座」とも称される。
そして毎月、2日と11日と21日にはその評定所一座に老中が加わり、審理に当たる式日であり、昨日は21日、寛政|元(1789)年の8月21日なので、正に式日であった。
さて、評定所で扱う事件だが、それは基本的には公事出入と称される民事に限られ、稀に吟味物と称される刑事、その中でも特に重大事件である詮議物が裁かれることもある。
尤も、そういつも、評定所にて裁かれるべき民事事件や、ましてや重大な刑事事件があるわけではなく、事件が全くないことの方が多い程であり、昨日もそうであった。
その場合、特に老中も出座するような式日ともなると、評定所は司法機関ではなく、立法機関や行政機関と化す。
それゆえ人事案件も当然、評定所の議題となり、昨日21日の式日を利用して、評定所において松平乗季の後任の小普請組支配には誰を以ってして充てるか、それが話し合われ、既に候補者が絞られていた。
「されば中奥小姓の浅野佐渡守長富、同じく中奥小姓の水野石見守貞利、そして同じく中奥小姓の大久保志摩守忠道の三名に絞られましてござりまする…」
将軍・家斉に恭しくそう告げたのは老中首座の松平越中守定信であった。
定信は続けて、
「畏れ多くも上様の御裁断を仰ぎたいと…」
この3人の候補者の中から誰を小普請組支配に任じるか、将軍・家斉にその判断を求めたのであった。
小普請組支配とは家禄が3千石未満にして無役、つまりは何の御役目にも就かず、或いは就けずに働いていない「ニート」の旗本、及び譜代の御家人を支配する役職であった。
小普請組支配は老中支配に属する布衣、つまりは従六位に相当する役職であった。
従六位に相当する布衣の役は小普請組支配の外にも存在するが、その中でも小普請組支配は上位に位置していた。
だが小普請組支配の職務そのものは、その格式とは裏腹にさして重要ではなく、それゆえその小普請組支配の人事ともなれば、本来は直属の上司に当たる老中だけで決めてしまい、将軍にはその追認を求めるだけで十分であった。
だが定信がそれを許さなかった。
「されば上様を軽んじ奉ることにもなり…」
人事の追認を求めるだけでは家斉のその将軍としての権威を疵付け、ひいては家斉を軽んずることになる…、それが定信が許さなかった理由であったが、それだけではなかった。
「上様は未だ、17歳と御若く、そこで政務に慣れて頂くべく…」
本来、老中だけで決裁可能な、将軍はそれを追認するだけで十分な案件にも、家斉自身に判断させることで、若年の家斉に、
「一日でも早く政務に慣れて欲しい…」
定信はその一念から、家斉に小普請組支配の人事という、謂わば瑣末な案件にも家斉の判断を求めたのであった。
尤も、全くの白紙の状態から判断させるのは余りに酷というものであろう。
そこでまず定信たち老中が候補者を絞った上で家斉にはその候補者の中から判断して貰うことにしたのであった。
さて、その小普請組支配の候補者として定信たち老中が絞った3人だが、皆、中奥小姓であった。
中奥小姓とは「中奥」という単語こそ冠せられてはいるものの、しかし、その職務は表向にて儀式を掌り、中奥にて将軍に近侍する小姓とは別物であった。
但し、中奥小姓は中奥にて将軍に近侍する小姓と同じく従五位下の諸大夫役であり、それに比して小普請組支配は従六位の布衣役であり、それゆえ官位に着目すれば中奥小姓の方が、或いは小姓の方が小普請組支配の上に位置するものの、しかし幕府内の序列、つまりはここ江戸城における席次という観点においては小普請組支配の方が中奥小姓や、それに小姓よりも上であった。
そして中奥小姓から小普請組支配へと昇進を果たすのがこの時代に確立された、謂わば「昇進パターン」であり、実際、11人、いや10人存する小普請組支配のうち、過半の7人が中奥小姓からの「昇進組」であった。
無論、例外もあり、坪内式部定系がそうであり、坪内式部は定火消からの「昇進組」であった。
また酒井因幡守忠敬は遠国奉行である日光奉行からの「異動組」であった。
いや、遠国奉行と小普請組支配とでは、官位にしろ幕府内の序列にしろ、遠国奉行の方が上であり、してみると酒井忠敬にとってこの人事は格下げに外ならないとも言えるが、しかし、この小普請組支配を経て、書院番頭や小姓組番頭といった番方、つまりは武官の指揮官へと昇進を果たすのがこれまた「昇進パターン」であり、それゆえ酒井忠敬もまた、
「近々、書院番頭か小姓組番頭へと昇進を果たすのではあるまいか…」
それが専らの下馬評であった。
ともあれ斯かる事情から、定信たち老中は小普請組支配の候補者として中奥小姓である、
「浅野佐渡守長富」
「水野石見守貞利」
「大久保志摩守忠道」
以上の3人に絞ったのであった。
0
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる