元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~老中首座・松平定信と側用人・本多忠籌の対立~

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「三人は…、いくつになるかの…」

 家斉いえなりは目をキョロキョロさせながら定信さだのぶたずねた。

 家斉いえなりのその所作しょさは将軍としていささたよりないものであり、しのつよ定信さだのぶからすれば、

見苦みぐるしい…」

 その一語いちごきたものの、しかし、同時どうじ定信さだのぶ内心ないしんうなずきもした。いや、定信さだのぶかぎらず、老中ろうじゅうみなうなずいた。それと言うのも家斉いえなりいまいが定信さだのぶたち老中ろうじゅう予想よそうしたとおりであったからだ。

上様うえさまかならずやとし基準きじゅん判断はんだんあそばされるはず…」

 定信さだのぶたち老中ろうじゅうはそう考え、そこで小普請こぶしんぐみ支配しはい候補者こうほしゃとして、

浅野あさの佐渡守さどのかみ長富ながとみ

水野みずの石見守いわみのかみ貞利さだとし

大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠道ただみち

 以上いじょうの3人の中奥なかおく小姓こしょうえらんだのであった。

 すなわち、定信さだのぶたち老中ろうじゅうとしては当初とうしょより、浅野あさの長富ながとみ松平まつだいら乗季のりすえ後任こうにん小普請こぶしんぐみ支配しはいにと、そうかんがえていた。

 そこで定信さだのぶたち老中ろうじゅう家斉いえなりにも浅野あさの長富ながとみえらんでもらうべく、本命ほんめいである浅野あさの長富ながとみほか水野みずの貞利さだとし大久保おおくぼ忠道ただみちの2人を「ダミー」としてぜたのであった。

 浅野あさの長富ながとみ御齢おんとし42であるのに対して、水野みずの貞利さだとし大久保おおくぼ忠道ただみちの2人はともに24の若造わかぞうであり、それこそが水野みずの貞利さだとし大久保おおくぼ忠道ただみちの2人を「ダミー」としてえらんだ理由わけであった。

 定信さだのぶ家斉いえなり下問かもんこたえる格好かっこう長富ながとみたち3人の候補者こうほしゃとしげるや、

左様さようか…、されば小普請こぶしんぐみ支配しはいにはもっと年嵩としかさ浅野あさの佐渡さど相応ふさわしいのではあるまいかの…」

 家斉いえなり定信さだのぶたち老中ろうじゅう期待きたいしたとおりの判断はんだんしめしたので、定信さだのぶたち老中ろうじゅうはすかさず、「ははぁっ」と平伏へいふくして了承りょうしょうしてみせた。

 将軍・家斉いえなり最側近さいそっきんたる忠籌ただかずもそれには異論いろんがないらしく、と言うよりは小普請こぶしんぐみ支配しはいのようなさして重要じゅうようなる御役おやく人事じんじにはもとより興味きょうみ関心かんしんもないらしく、それゆえ忠籌ただかず平伏へいふくした。

 それから定信さだのぶ浅野あさの長富ながとみ後任こうにん中奥なかおく小姓こしょう人事じんじについてした。

 中奥なかおく小姓こしょう小普請こぶしんぐみ支配しはいとはちがい、定員ていいんはなく、それゆえ浅野あさの長富ながとみ一人ひとりけたところで、その後任こうにん補充ほじゅうする必要ひつようはなかった。

 それゆえ閣議かくぎ主宰しゅさいしていた側用人そばようにん忠籌ただかずもよもや定信さだのぶ浅野あさの長富ながとみ後任こうにん中奥なかおく小姓こしょう人事じんじすとは予想よそうだにせず、「おや?」と意外いがいおもったものである。

 それと言うのも、忠籌ただかずとしては質素しっそ倹約けんやくむねとする定信さだのぶのことゆえ、浅野あさの長富ながとみ後任こうにん中奥なかおく小姓こしょうなど補充ほじゅうせぬものとばかりおもっていたからだ。

 中奥なかおく小姓こしょう持高もちだかづとめゆえ役高やくだかはなく、それゆえ役高やくだか家禄かろく差額さがく支給しきゅうされる足高たしだかせい適用外てきようがいであった。つまりは家禄かろくのままつとめねばならぬ御役目おやくめであった。

 しかしそれはあくまで原則げんそくであり、例外れいがいもあった。家督かとく相続そうぞくまえの、つまりはいま部屋へやずみ嫡子ちゃくし就任しゅうにんした場合ばあいがそれで、その場合ばあいには、

基本きほん切米きりまい

 というかたちでそのものに5百俵もの蔵米くらまい公儀こうぎより、つまりは幕府ばくふより支給しきゅうされ、実際じっさい本郷ほんごう中務少輔なかつかさ少輔しょうゆう泰久やすひさ小堀こぼり下総守しもうさのかみ政共まさとも、そして岡野おかの能登守のとのかみ知隣ともちかの3人がそうであった。

 本郷ほんごう泰久やすひさ小堀こぼり政共まさともの2人はともに、将軍・家斉いえなり御側衆おそばしゅうあいつとめる本郷ほんごう大和守やまとのかみ泰行やすゆき小堀こぼり土佐守とさのかみ政明まさあきらのそれぞれ嫡子ちゃくしであり、一方いっぽう岡野おかの知隣ともちか留守居るすい岡野おかの肥前守ひぜんのかみ知曉ともさとのやはり嫡子ちゃくしであり、彼ら嫡子ちゃくしに対しては公儀こうぎより500俵もの「基本きほん切米きりまい」が支給しきゅうされていた。

 それゆえそのうえさらべつ嫡子ちゃくし浅野あさの長富ながとみ後任こうにん中奥なかおく小姓こしょうとしてえようものなら、幕府ばくふ出費しゅっぴがそれだけすことになる。

 忠籌ただかず意外いがいおもったのはまさにそのてんであった。質素しっそ倹約けんやくむねとする定信さだのぶたしてその信念しんねん逆行ぎゃっこうするかのような提案ていあんをするものかと。

 無論むろん浅野あさの長富ながとみ後任こうにん中奥なかおく小姓こしょうとして定信さだのぶが、いや、定信さだのぶたち老中ろうじゅうかんがえているそのもの嫡子ちゃくしでなければ「基本きほん切米きりまい」を支給しきゅうする必要ひつようはなく、そうであれば正真しょうしん正銘しょうめい持高もちだかづとめとなり、幕府ばくふふところいたむことはない。

 それゆえ定信さだのぶたち老中ろうじゅうかんがえているその後任こうにん候補こうほたるや、すで家督かとくいでいるれきとした旗本はたもと候補者こうほしゃとして将軍・家斉いえなり推挙すいきょするのにちがいないと、忠籌ただかずはそうおもなおして、定信さだのぶつづきの言葉ことばけた。

「されば浅野あさの佐渡さど後任こうにんとして、側衆そばしゅう嫡子ちゃくしをこれに…、それも無役むやく嫡子ちゃくし中奥なかおく小姓こしょうにんじられましては如何いかがでござりましょう…」

 忠籌ただかず予想よそう見事みごと裏切うらぎられた。

 定信さだのぶ忠籌ただかず予想よそうしたのとは正反対せいはんたいに、いや、当初とうしょおそれていた幕府ばくふ出費しゅっぴすことになる提案ていあんをしてみせたのだ。

 それも固有こゆう名詞めいしげるのではなく、

側衆そばしゅう無役むやく嫡子ちゃくし

 としたところが「ミソ」であった。

 成程なるほど中奥なかおく小姓こしょう取立とりたてられる旗本はたもと嫡子ちゃくしと言えば、将軍に近侍きんじする御側衆おそばしゅうのそれがもっとも、

「セオリー」

 と言えた。

 それゆえ定信さだのぶはその「セオリー」にしたがったまでと言えたが、しかし、忠籌ただかずにはそれ以上いじょうのものをかんじた。すなわち、

定信さだのぶ老中ろうじゅう側衆そばしゅうとのむすきをつよめようとほっしているのではあるまいか…」

 というものであった。

 将軍の居所きょしょであるここ中奥なかおく取仕切とりしきる「最高さいこう長官ちょうかん」は将軍・家斉いえなり最側近さいそっきんである側用人そばようにん本多ほんだ忠籌ただかずであるものの、しかし、忠籌ただかず独裁どくさいというわけではけっしてない。

 忠籌ただかずつとめる側用人そばようにんには御側衆おそばしゅう直属ちょくぞく部下ぶかとして附属ふぞくしており、忠籌ただかずたすけて中奥なかおく取仕切とりしきっていた。

 いや、たすけると言えばこえがいが、実際じっさいには側用人そばようにん御側衆おそばしゅうとは将軍の寵愛ちょうあいめぐって微妙びみょうな、それも隠微いんび競争きょうそう関係かんけいにあった。

 つまりはどちらがより将軍の寵愛ちょうあいられるか、側用人そばようにん御側衆おそばしゅうは「ライバル」にあった。

 その側用人そばようにんたる忠籌ただかずの「ライバル」にたる御側衆おそばしゅう嫡子ちゃくし態々わざわざ中奥なかおく小姓こしょう取立とりたてようとは、

「この中奥なかおくくさびむつもりか…」

 忠籌ただかず咄嗟とっさにそうおもった。

 くさびむとはほかでもない、定信さだのぶ老中ろうじゅう御側衆おそばしゅう嫡子ちゃくし、それも無役むやく、つまりはいまなん御役目おやくめにもいてはいない嫡子ちゃくし従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶやくである中奥なかおく小姓こしょう取立とりたててやれば、御側衆おそばしゅう歓心かんしんうことが出来できる。取入とりいると言ってもいであろう。

 そうして定信さだのぶ老中ろうじゅう忠籌ただかずとは「ライバル」にたる御側衆おそばしゅうえて取入とりいることで、御側衆おそばしゅうとのむすきをつよめ、

とも忠籌ただかず対抗たいこうする…」

 それが期待きたい出来できるというものであり、そしてそれはそのまま忠籌ただかずのその側用人そばようにんとしてのけん掣肘せいちゅうくわえることにつながる。

 いや、そればかりではない。本来ほんらい協力きょうりょく関係かんけいにあるはず側用人そばようにん御側衆おそばしゅうとが対立たいりつふかめればふかめるほどに、たがいにみずからの権力けんりょくぐことになる。つまりは、

共倒ともだおれ…」

 それをも期待きたい出来できるというものであった。

 表向おもてむき最高さいこう長官ちょうかんたる定信さだのぶたち老中ろうじゅうつねに、中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかんたる側用人そばようにんや、あるいはそれをささえる御側衆おそばしゅう目障めざわりであった。将軍の寵愛ちょうあい背景はいけいに、老中ろうじゅうさえも屈服くっぷくさせることが日常にちじょう茶飯さはんであったからだ。

 とりわけ側用人そばようにん忠籌ただかずがそうであった。忠籌ただかずは将軍・家斉いえなり側用人そばようにん就任しゅうにん当初とうしょ定信さだのぶたち老中ろうじゅうと、とりわけ首座しゅざ定信さだのぶとは協力きょうりょく関係かんけいにあった。

 だがときつにつれ、その協力きょうりょく関係かんけいにも徐々じょじょにだが「ひびれ」が目立めだはじめた。

 老中ろうじゅうなかでも首座しゅざ定信さだのぶ中奥なかおく兼帯けんたいおおけられ、日頃ひごろよりここ中奥なかおく自由じゆう出入ではいりすることがゆるされていた。それと言うのも、わかくして将軍に就任しゅうにんした家斉いえなり補佐ほさするためであった。

 だが忠籌ただかずにはそれが段々だんだん目障めざわりにかんじられるようになった。ようするに嫉妬しっとであった。

 将軍・家斉いえなり最側近さいそっきん自認じにんする忠籌ただかずとしては定信さだのぶ家斉いえなり御側おそばちかくへとすすては遠慮えんりょなく家斉いえなり言葉ことばわすのが目障めざわりであった。いや、正確せいかくにはうらやましかった。

 忠籌ただかず年若としわかい将軍・家斉いえなりに対してつねおそれ、ややもすると唯々諾々いいだくだくしたがうだけであるのに対して、定信さだのぶはと言うと、まるで家斉いえなり父親ちちおやのようであり、定信さだのぶ家斉いえなりに対していささかも遠慮えんりょするところがなく、それに対して家斉いえなりもそのような定信さだのぶをまるでじつちちのようにあおるところがあり、忠籌ただかずはそのさま間近まぢかけられるたび定信さだのぶうらやましかった。

 いや、としから言えば忠籌ただかずの方が父親ちちおややく相応ふさわしかったが、しかし、家斉いえなりおそれるだけの忠籌ただかずには家斉いえなり父親ちちおややくなどもとより期待きたい出来できず、なにより、家斉いえなり自身じしんがそれを期待きたいしていなかった。

 忠籌ただかずにしてもさとおとこゆえ、家斉いえなりのそのようなむねのうちはるようにかり、益々ますますもって定信さだのぶへの嫉妬心しっとしんこうじさせたものである。

 そこで忠籌ただかず可能かのうかぎり、定信さだのぶ中奥なかおく出入ではいりさせぬようにした。無論むろん、将軍・家斉いえなりとの接触せっしょくつためであった。

 定信さだのぶは将軍・家斉いえなり補佐ほさやくとして、中奥なかおく兼帯けんたいめいぜられ、中奥なかおくへの出入ではいりが自由じゆうとは言え、そのはあくまで表向おもてむき役人やくにんであった。

 それゆえ定信さだのぶ本来ほんらい職分しょくぶんである老中ろうじゅうしょくつとめるかたわら、将軍・家斉いえなり補佐ほさたそうとおもえば、たとえば家斉いえなり政事せいじじょうのことで意見いけん交換こうかんをしようとおもえば、如何いかに将軍の居所きょしょである中奥なかおく出入ではい自由じゆういえども、中奥なかおく取仕切とりしきる、それも最高さいこう長官ちょうかんたる側用人そばようにんたる忠籌ただかずかいさねばならず、忠籌ただかず側用人そばようにんとしてのおのれのその職分しょくぶんいことに、極力きょくりょく、将軍・家斉いえなり定信さだのぶとの接触せっしょく回数かいすうらすことにつとめた。

 無論むろん家斉いえなりはあくまで将軍であり、その家斉いえなりに対して忠籌ただかずはただおそれるばかりであり、それゆえ家斉いえなり定信さだのぶとの面会めんかいつよもとめれば、忠籌ただかずとしてもこれをこばむことは出来できなかったが、それでも大抵たいてい場合ばあい

越中えっちゅう殿どの政務せいむ繁忙はんぼうにて…」

 定信さだのぶ老中ろうじゅうとしての仕事しごと手一杯ていっぱいと、それで片付かたづいた。

 一方いっぽう定信さだのぶ一頃ひところくらべて将軍・家斉いえなりとの接触せっしょく回数かいすうったことははだかんじられ、そこに忠籌ただかず存在そんざいっていた。

 忠籌ただかずにしても定信さだのぶが将軍・家斉いえなりとの接触せっしょく回数かいすうったことについて、そこに側用人そばようにんたるおのれ存在そんざいすでっているにちがいないと、そう見越みこしてはいたものの、それでも忠籌ただかずいささかもどうずる気配けはいがなかった。何故なぜなら、

「そのはあくまで表向おもてむき役人やくにんぎぬ定信さだのぶにはなに出来できまいて…」

 そうタカをくくっていたからだ。

 そのような忠籌ただかずにとって、定信さだのぶのその「提案ていあん」はまさおもわぬ反撃はんげきであった。
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