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承前 夏の人事 ~側用人・本多忠籌と小納戸頭取上首にして奥詰の津田信久の対立~
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それにしてもと、忠籌は定信たち老中のその、
「水際立った…」
やり口に、半ば腹を立てつつも、しかし残り半分は感歎させられた。
「側衆の嫡子の中でも未だ、無役の者を中奥小姓に取立ててやろうとは…、そうして側衆に取入り、共闘して側用人たる己に立ち向かおうと欲するとは…、ひいては側衆と側用人たる己の共倒れまで期待しようとは…」
忠籌にはとても定信ら老中の発案とは思えなかった。
いや、老中の中でも老練な鳥居丹波守忠意か、或いは世故に長けた松平和泉守乗完辺りなら大いに考えられた。
しかし、忠籌は直ぐにその考えを否定した。
それと言うのも、御側衆の、それも無役の嫡子を中奥小姓に取立てることで、御側衆に取入り、側用人たる忠籌に対して、共闘して立ち向かおうとは、その上で忠籌と御側衆との共倒れまで期待しようとは、このような発想は中奥役人ならではのものであった。
だとするならば考えられるのは一つだけであった。
「まさかに…、側衆の中に老中と通じている者が…」
それ以外には考えられなかったが、しかし、忠籌はその見方にも懐疑的であった。
「側衆が左様な…、軽々しい挙に果たして出るものであろうか…」
それこそが懐疑的な理由であった。
それと言うのも、御側衆にしても忠籌同様、老中のその「策」が見抜けぬ筈がなく、それも直ぐに見抜ける筈であったからだ。
そうであれば共闘云々は兎も角、忠籌との共倒れまで視野に入れている老中のその「策」に軽々に乗るものであろうかと、それが忠籌には疑問であった。
それでは一体、中奥の誰がと、忠籌が思考を巡らせていると、陪席していた奥詰の津田山城守信久の声が忠籌の思考を破った。
「側衆の嫡子の中でも無役の者と申しますれば、松平因幡と大久保下野が両名の嫡子に限られますれば…」
津田信久は定信の提案に対してそう補足した。
信久は忠籌とは丁度向かい合う格好で控えていた。つまりは上段にて鎮座する家斉と下段にて控える老中らとの間に挟まれるようにして、それも忠籌と同様、下段の内でも特に将軍・家斉の直ぐ傍に控えていた。
その信久が口にした松平因幡と大久保下野だが、
「松平因幡守康眞」
「大久保下野守忠恕」
この2人の御側衆を指しており、成程、信久が指摘した通り、松平康眞と大久保忠恕の2人は共に無役の嫡子を抱えていた。
「されば、松平因幡が嫡子の三郎太郎康盛と、大久保下野が嫡子の榮吉忠雄の両名を中奥小姓へと御取立てあそばされましては如何でござりましょうや…」
信久がすかさず家斉にそう進言したことから忠籌は「内通者」が津田信久であると確信した。
現在、9人もの御側衆がおり、信久はその中でも無役の嫡子を抱えている者を即答してみせるとは、その上、無役の嫡子の「フルネーム」まで即答してみせるとは、事前に定信ら老中と示し合わせていたとしか考えられない。つまりは信久こそが定信ら老中への「内通者」というわけだ。
忠籌は「成程」と合点がいった。津田信久が内通者ならば辻褄が合うからだ。
信久は小納戸頭取の上首、つまりは筆頭であった。
小納戸頭取は一応、若年寄の支配下にあるものの、しかし実際には中奥役人であるために、御側衆の中でも筆頭である御側御用取次の支配下にあった。
だが殊、津田信久は別格であり、御側御用取次と肩を並べる存在であった。
中奥にて将軍が政務を執る折、これを補佐するのは側用人と御側御用取次のみであり、小納戸頭取衆にはその権限はなく、ヒラの御側衆である平御側でさえもそうであった。
それゆえ小納戸頭取衆の一人である津田信久もまた、本来ならば将軍の政務の補佐など許されよう筈もなかった。
だが、将軍たる家斉が直々にそれを許したのであった。
即ち、家斉は信久を小納戸頭取衆の中でも筆頭である上首に位置づけると同時に奥詰に任じて、日常の政務の補佐をするよう命じたのであった。
それが2年前の天明7(1787)年2月のことであり、爾来、信久は今に至るまで、側用人や御側御用取次と共に、将軍・家斉の政務の補佐をしていた。
信久の席次こそ、小姓組番頭格奥勤、所謂、御側御用取次見習の平岡美濃守頼長に次ぐ。つまりは将軍が政務を執る際、その補佐の臣としては末席に列なるものの、しかし実際には信久は補佐の臣としてはその筆頭である側用人の忠籌に次ぐ、次席の御側御用取次と肩を並べ、いや、それどころか忠籌とも肩を並べて家斉の政務の補佐をしていた。
家斉が政務を執る際、何を措いても信久に諮問をするのがその証であり、それに対して信久も側用人たる忠籌や、それに次席の御側御用取次に何ら憚ることなく、遠慮なく己の意見を家斉にぶつけた。
それゆえ本来ならば末席の者が、即ち、信久が担うべき書記を御側御用取次見習の平岡頼長が担わなければならず、そのような信久の存在が忠籌は疎ましく感じられ、その忠籌とは「ライバル」関係にある筈の御側御用取次も、いや、ヒラの御側衆をも含めた御側衆全体、いや、正確にはその大部分が忠籌同様、信久の存在が疎ましく、
「対信久…」
その一点においては「ライバル」である筈の側用人と御側衆の大部分との利害は完全に一致していた。
即ち、「対信久」においてはいったん休戦して共闘しようといわけであり、それに対して信久もそのような忠籌らの思惑、もとい「共闘」は薄々察しており、そこで定信ら老中に接近、内通したものと見える。少なくとも忠籌はそう読んでいた。
そこで忠籌は信久が定信の提案を後押しする格好にて、御側衆、それも平御側である松平康眞、大久保忠恕両名の嫡子である松平三郎太郎と大久保榮吉の2人の名を挙げて、将軍・家斉に対してこの2人を中奥小姓へと推挙するやすかさず、「あいや、暫く」と家斉と信久との間に割って入った。
「されば嫡子を中奥小姓へと取立てれば、基本切米として五百俵も給さねばならず、それも二人も取立てるとなれば、合わせて千俵もの切米を給することになり、斯かる出費は折からの財政難を鑑みれば如何なものか」
忠籌は信久を責め立てるような口調で財政難を理由にその推挙に難色を示した。
だがそれに対して信久は畏まるどころか至って平然としたままであり、それがまた、忠籌を苛立たせた。
「さればその千俵、身共が禄より給して頂いても結構でござる…」
信久は平然とそう言い返したので、これにはさしもの忠籌も一瞬、反論に窮した。まさか信久が自らの懐から二人分もの基本切米千俵を肩代わりするとは思ってもみなかったからだ。
成程、知行6千石もの大身旗本である津田家の当主たる信久ならば千俵など容易に肩代わりできるであろう。
そして信久が本来、公儀…、幕府の蔵より給する筈の基本切米千俵を肩代わりすると言うのであれば、幕府の懐は痛まずに済む。
それゆえ忠籌は一瞬、反論に窮したわけだが、それも束の間、直ぐに体勢を立て直すや、
「流石は分限者の山城らしい物言いよ。また何時ぞやの如く、蓮光院様の御手許金を押領してはそれを以ってして二人分の基本切米とする所存か?」
信久に対して強烈な痛打を放った。
忠籌が口にした「蓮光院様」とは信久の伯母にして、今は亡き十代将軍・家治の愛妾であった。
その蓮光院は今は二ノ丸の大奥にて暮らしており、しかも年1万両もの生活費が支給されていた。
信久は伯母・蓮光院に給されたこの生活費に手をつけたことがあったのだ。
尤も、私利を図るためではない。代官を救うためであった。
即ち、年貢徴収の責を負うべき代官が折からの凶作により年貢が徴収出来ずに引負、つまりは負債が嵩み、このままでは処罰は免れず、そこで代官が頼ったのが津田信久、いや、正確には信久の伯母である蓮光院であった。
その代官は人を介して信久に「コンタクト」を取り、そして事情を打ち明けて金融の申込みをした。つまりは金を貸してくれと頼んだのであった。
それに対して信久はと言うと、情に負けてしまい、伯母である蓮光院に頼んでその生活費より資金を融通してやったのだ。
その御蔭で代官は信久を介して蓮光院より融通を受けたその資金を元手に、引負分の年貢に相当する米を他所から仕入れ、これに充当して何とか乗り切ったのだが、しかし、代官を支配する勘定奉行の監査によりこの一件が露見し、結局、信久は暫くの間、将軍・家斉への拝謁が止められたことがあった。
将軍・家斉としても薄々、事情は察していたものの、しかし、厳罰を主張して已まない忠籌らの手前、信久に対して何らかの処分を下さざるを得ず、そこで暫くの間、
「御前を止める…」
という比較的軽い処分を科したことがあった。
忠籌はその点を突いたのであった。いや、蒸し返したと言った方が良いであろう。
それに対して信久も直ぐにそうと察して流石に顔を歪ませた。
するとそこで信久に助け船を出す者があった。
誰あろう、御側御用取次の加納遠江守久周であった。
「水際立った…」
やり口に、半ば腹を立てつつも、しかし残り半分は感歎させられた。
「側衆の嫡子の中でも未だ、無役の者を中奥小姓に取立ててやろうとは…、そうして側衆に取入り、共闘して側用人たる己に立ち向かおうと欲するとは…、ひいては側衆と側用人たる己の共倒れまで期待しようとは…」
忠籌にはとても定信ら老中の発案とは思えなかった。
いや、老中の中でも老練な鳥居丹波守忠意か、或いは世故に長けた松平和泉守乗完辺りなら大いに考えられた。
しかし、忠籌は直ぐにその考えを否定した。
それと言うのも、御側衆の、それも無役の嫡子を中奥小姓に取立てることで、御側衆に取入り、側用人たる忠籌に対して、共闘して立ち向かおうとは、その上で忠籌と御側衆との共倒れまで期待しようとは、このような発想は中奥役人ならではのものであった。
だとするならば考えられるのは一つだけであった。
「まさかに…、側衆の中に老中と通じている者が…」
それ以外には考えられなかったが、しかし、忠籌はその見方にも懐疑的であった。
「側衆が左様な…、軽々しい挙に果たして出るものであろうか…」
それこそが懐疑的な理由であった。
それと言うのも、御側衆にしても忠籌同様、老中のその「策」が見抜けぬ筈がなく、それも直ぐに見抜ける筈であったからだ。
そうであれば共闘云々は兎も角、忠籌との共倒れまで視野に入れている老中のその「策」に軽々に乗るものであろうかと、それが忠籌には疑問であった。
それでは一体、中奥の誰がと、忠籌が思考を巡らせていると、陪席していた奥詰の津田山城守信久の声が忠籌の思考を破った。
「側衆の嫡子の中でも無役の者と申しますれば、松平因幡と大久保下野が両名の嫡子に限られますれば…」
津田信久は定信の提案に対してそう補足した。
信久は忠籌とは丁度向かい合う格好で控えていた。つまりは上段にて鎮座する家斉と下段にて控える老中らとの間に挟まれるようにして、それも忠籌と同様、下段の内でも特に将軍・家斉の直ぐ傍に控えていた。
その信久が口にした松平因幡と大久保下野だが、
「松平因幡守康眞」
「大久保下野守忠恕」
この2人の御側衆を指しており、成程、信久が指摘した通り、松平康眞と大久保忠恕の2人は共に無役の嫡子を抱えていた。
「されば、松平因幡が嫡子の三郎太郎康盛と、大久保下野が嫡子の榮吉忠雄の両名を中奥小姓へと御取立てあそばされましては如何でござりましょうや…」
信久がすかさず家斉にそう進言したことから忠籌は「内通者」が津田信久であると確信した。
現在、9人もの御側衆がおり、信久はその中でも無役の嫡子を抱えている者を即答してみせるとは、その上、無役の嫡子の「フルネーム」まで即答してみせるとは、事前に定信ら老中と示し合わせていたとしか考えられない。つまりは信久こそが定信ら老中への「内通者」というわけだ。
忠籌は「成程」と合点がいった。津田信久が内通者ならば辻褄が合うからだ。
信久は小納戸頭取の上首、つまりは筆頭であった。
小納戸頭取は一応、若年寄の支配下にあるものの、しかし実際には中奥役人であるために、御側衆の中でも筆頭である御側御用取次の支配下にあった。
だが殊、津田信久は別格であり、御側御用取次と肩を並べる存在であった。
中奥にて将軍が政務を執る折、これを補佐するのは側用人と御側御用取次のみであり、小納戸頭取衆にはその権限はなく、ヒラの御側衆である平御側でさえもそうであった。
それゆえ小納戸頭取衆の一人である津田信久もまた、本来ならば将軍の政務の補佐など許されよう筈もなかった。
だが、将軍たる家斉が直々にそれを許したのであった。
即ち、家斉は信久を小納戸頭取衆の中でも筆頭である上首に位置づけると同時に奥詰に任じて、日常の政務の補佐をするよう命じたのであった。
それが2年前の天明7(1787)年2月のことであり、爾来、信久は今に至るまで、側用人や御側御用取次と共に、将軍・家斉の政務の補佐をしていた。
信久の席次こそ、小姓組番頭格奥勤、所謂、御側御用取次見習の平岡美濃守頼長に次ぐ。つまりは将軍が政務を執る際、その補佐の臣としては末席に列なるものの、しかし実際には信久は補佐の臣としてはその筆頭である側用人の忠籌に次ぐ、次席の御側御用取次と肩を並べ、いや、それどころか忠籌とも肩を並べて家斉の政務の補佐をしていた。
家斉が政務を執る際、何を措いても信久に諮問をするのがその証であり、それに対して信久も側用人たる忠籌や、それに次席の御側御用取次に何ら憚ることなく、遠慮なく己の意見を家斉にぶつけた。
それゆえ本来ならば末席の者が、即ち、信久が担うべき書記を御側御用取次見習の平岡頼長が担わなければならず、そのような信久の存在が忠籌は疎ましく感じられ、その忠籌とは「ライバル」関係にある筈の御側御用取次も、いや、ヒラの御側衆をも含めた御側衆全体、いや、正確にはその大部分が忠籌同様、信久の存在が疎ましく、
「対信久…」
その一点においては「ライバル」である筈の側用人と御側衆の大部分との利害は完全に一致していた。
即ち、「対信久」においてはいったん休戦して共闘しようといわけであり、それに対して信久もそのような忠籌らの思惑、もとい「共闘」は薄々察しており、そこで定信ら老中に接近、内通したものと見える。少なくとも忠籌はそう読んでいた。
そこで忠籌は信久が定信の提案を後押しする格好にて、御側衆、それも平御側である松平康眞、大久保忠恕両名の嫡子である松平三郎太郎と大久保榮吉の2人の名を挙げて、将軍・家斉に対してこの2人を中奥小姓へと推挙するやすかさず、「あいや、暫く」と家斉と信久との間に割って入った。
「されば嫡子を中奥小姓へと取立てれば、基本切米として五百俵も給さねばならず、それも二人も取立てるとなれば、合わせて千俵もの切米を給することになり、斯かる出費は折からの財政難を鑑みれば如何なものか」
忠籌は信久を責め立てるような口調で財政難を理由にその推挙に難色を示した。
だがそれに対して信久は畏まるどころか至って平然としたままであり、それがまた、忠籌を苛立たせた。
「さればその千俵、身共が禄より給して頂いても結構でござる…」
信久は平然とそう言い返したので、これにはさしもの忠籌も一瞬、反論に窮した。まさか信久が自らの懐から二人分もの基本切米千俵を肩代わりするとは思ってもみなかったからだ。
成程、知行6千石もの大身旗本である津田家の当主たる信久ならば千俵など容易に肩代わりできるであろう。
そして信久が本来、公儀…、幕府の蔵より給する筈の基本切米千俵を肩代わりすると言うのであれば、幕府の懐は痛まずに済む。
それゆえ忠籌は一瞬、反論に窮したわけだが、それも束の間、直ぐに体勢を立て直すや、
「流石は分限者の山城らしい物言いよ。また何時ぞやの如く、蓮光院様の御手許金を押領してはそれを以ってして二人分の基本切米とする所存か?」
信久に対して強烈な痛打を放った。
忠籌が口にした「蓮光院様」とは信久の伯母にして、今は亡き十代将軍・家治の愛妾であった。
その蓮光院は今は二ノ丸の大奥にて暮らしており、しかも年1万両もの生活費が支給されていた。
信久は伯母・蓮光院に給されたこの生活費に手をつけたことがあったのだ。
尤も、私利を図るためではない。代官を救うためであった。
即ち、年貢徴収の責を負うべき代官が折からの凶作により年貢が徴収出来ずに引負、つまりは負債が嵩み、このままでは処罰は免れず、そこで代官が頼ったのが津田信久、いや、正確には信久の伯母である蓮光院であった。
その代官は人を介して信久に「コンタクト」を取り、そして事情を打ち明けて金融の申込みをした。つまりは金を貸してくれと頼んだのであった。
それに対して信久はと言うと、情に負けてしまい、伯母である蓮光院に頼んでその生活費より資金を融通してやったのだ。
その御蔭で代官は信久を介して蓮光院より融通を受けたその資金を元手に、引負分の年貢に相当する米を他所から仕入れ、これに充当して何とか乗り切ったのだが、しかし、代官を支配する勘定奉行の監査によりこの一件が露見し、結局、信久は暫くの間、将軍・家斉への拝謁が止められたことがあった。
将軍・家斉としても薄々、事情は察していたものの、しかし、厳罰を主張して已まない忠籌らの手前、信久に対して何らかの処分を下さざるを得ず、そこで暫くの間、
「御前を止める…」
という比較的軽い処分を科したことがあった。
忠籌はその点を突いたのであった。いや、蒸し返したと言った方が良いであろう。
それに対して信久も直ぐにそうと察して流石に顔を歪ませた。
するとそこで信久に助け船を出す者があった。
誰あろう、御側御用取次の加納遠江守久周であった。
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