元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~家斉の寵臣・御側御用取次の加納遠江守久周~

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 加納かのう遠江守とおとうみのかみ久周ひさのり八田はった藩1万石をりょうするれきとした大名だいみょうであったが、旗本はたもとやくである御側御用取次おそばごようとりつぎしょくにあった。

 いや、1万石と大名の中では少禄しょうろくゆえに旗本はたもとやくであるこの御側御用取次おそばごようとりつぎしょくけたとも言えようか。

 御側御用取次おそばごようとりつぎ旗本はたもとやくではあるものの、これまでにも少禄しょうろく大名だいみょういたためしがあり、有名ゆうめい田沼たぬま意次おきつぐ旗本はたもとから大名だいみょうへと取立とりたてられる過程かていにおいて、このしょくいていた。

 さて、この加納かのう久周ひさのり御側御用取次おそばごようとりつぎ取立とりたてられた経緯いきさつであるが、一応いちおうは、

老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいら定信さだのぶが将軍・家斉いえなり推挙すいきょして…」

 との建前たてまえってはいたものの、しかし実際じっさいには将軍・家斉いえなりつよ希望きぼうによる。

 これは2年前の天明7(1787)年5月に、それまでの…、十代将軍・家治いえはる治世ちせいより、と言うよりは田沼たぬま時代よりの御側御用取次おそばごようとりつぎであった横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとし本郷ほんごう大和守やまとのかみ泰行やすゆきがそのしょくゆるされたことによる。

 この2人は田沼たぬま意次おきつぐまさ

いきのかかったもの…」

 であり、新将軍・家斉いえなりはそれをきらい、こうして家斉いえなりきらわれたこの2人は2年前の5月にまさに、

牛蒡ごぼうきに…」

 御側御用取次おそばごようとりつぎゆるされた、いや、実際じっさいには解任かいにんされたのであったが、しかしこの人事じんじ強行きょうこうしたのは将軍・家斉いえなりではなく、御側御用取次おそばごようとりつぎ小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよしであった。

 将軍の寵愛ちょうあいめぐって側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎとのあいだで「バトル」がひろげられると同時どうじに、御側御用取次おそばごようとりつぎ同士どうしあいだでもまた、その「バトル」がひろげられ、それは将軍・家斉いえなりつかえる御側御用取次おそばごようとりつぎとてその例外れいがいではなかった。

 すなわち、2年前の天明7(1787)年5月までは横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人に小笠原おがさわら信喜のぶよしくわえた3人が御側御用取次おそばごようとりつぎとして新将軍・家斉いえなりつかえていた。

 御側御用取次おそばごようとりつぎには定員ていいんこそないものの、それでも通例つうれいは2人であり、それゆえ3人もの御側御用取次おそばごようとりつぎとはいささおおい。

 これは十代将軍・家治いえはるが3年前の天明6(1786)年9月に薨去こうきょしたことによる。

 それまで家治いえはる御養君ごようくん、つまりは養嗣子ようししさらに言えば次期じき将軍として西之丸にしのまるにてらしていた家斉いえなり養父ようふにして本丸ほんまるあるじたる将軍であった家治いえはる薨去こうきょしたために、翌々月よくよくげつうるう10月に家治いえはるわって、つまりは新将軍として本丸ほんまるへと移徙わたまし、つまりはうつったわけだが、そのさい家斉いえなり西之丸にしのまるにておのれつかえていた面々めんめんをも本丸ほんまるへとれ、そのなかには小笠原おがさわら信喜のぶよし姿すがたもあった。小笠原おがさわら信喜のぶよし家斉いえなり次期じき将軍として西之丸にしのまるにてらしていたころより御側御用取次おそばごようとりつぎとして、つまりは西之丸にしのまる御側御用取次おそばごようとりつぎとして家斉いえなりつかえていたのだ。

 それが家斉いえなりが新将軍として本丸ほんまるへとうつったために、小笠原おがさわら信喜のぶよしもこれにしたがい、本丸ほんまるへとうつり、そしてつづき、今度こんどは将軍となった家斉いえなり御側御用取次おそばごようとりつぎとして、つまりは本丸ほんまる御側御用取次おそばごようとりつぎとして家斉いえなりつかえるようになったわけだが、そのさい、前将軍・家治いえはる御側御用取次おそばごようとりつぎとしてつかえていた横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆき合流ごうりゅう、つまりは家斉いえなり御側御用取次おそばごようとりつぎとしてつづ本丸ほんまるにてつかえることになり、それゆえに通例つうれいは2人が定員ていいん御側御用取次おそばごようとりつぎが3人へとふくれたのであったが、家斉いえなりがまだ次期じき将軍であったころより西之丸にしのまるにてその家斉いえなりつかえていた小笠原おがさわら信喜のぶよしとしては横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人が目障めざわりでならなかった。

 あらたに将軍となった家斉いえなり養父ようふ家治いえはるへの敬慕けいぼねんから、家治いえはるつかえていた者をそのまま、つづ登用とうようする方針ほうしんったのだが、小笠原おがさわら信喜のぶよしにしてみればたまったものではない。ことに、相役あいやく…、同僚どうりょうとなる横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人はまさに、

遺産いさん…」

 小笠原おがさわら信喜のぶよしにはそうとしかおもえず、それゆえ信喜のぶよしことあるごと家斉いえなりに対して横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの「排除はいじょ」を要求ようきゅうしたのであった。

 家斉いえなりはそのたびに、

「のらりくらり…」

 信喜のぶよし要求ようきゅうをかわしていたのだが、しかしついに2年前の天明7(1787)年に家斉いえなりれる格好かっこうにて、横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人を解任かいにんしたのであった。

 これは所謂いわゆる、「天明てんめいの打ちこわし」の事実じじつを将軍・家斉いえなり正確せいかくつたえなかったかどにより、まず本郷ほんごう泰行やすゆきが5月24日に、つづいて5日後の29日には横田よこた準松のりとしがそれぞれ御側御用取次おそばごようとりつぎ解任かいにんされたのであった。

 家斉いえなりとしては横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人を解任かいにんする毛頭もうとうなかった。たしかに打ちこわしの事実じじつ正確せいかくつたえなかったのは不束ふつつかそしりはまぬがれないにしても、解任かいにんしようとはおもわなかった。

 それに打ちこわしの事実じじつ正確せいかくつたえなかったというてんでは小笠原おがさわら信喜のぶよしとて同罪どうざい連帯れんたい責任せきにんがあるではないかと、それが当時とうじ家斉いえなりいつわらざる心境しんきょうであった。

 それゆえ小笠原おがさわら信喜のぶよし横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人の解任かいにんもとめても、家斉いえなりとしては2人を解任かいにんするつもりはなかったが、しかしそんな信喜のぶよし味方みかたするものがいた。だれあろう、家斉いえなり実父じっぷである一橋ひとつばし治済はるさだであった。

 治済はるさだ愛息あいそく家斉いえなりつかえるものの中でもとりわけ小笠原おがさわら信喜のぶよしをかけており、それゆえ信喜のぶよし解任かいにん要求ようきゅうに対して治済はるさだ即座そくざにこれに呼応こおうする格好かっこうにて、治済はるさだまでが横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人の解任かいにん要求ようきゅうしたのであった。

 いや、いまからかんがえれば、横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆきの2人を、

「打ちこわしの事実じじつ家斉いえなりつたえなかった…」

 それを口実こうじつにして解任かいにんおもいついたのは実父じっぷ治済はるさだであり、それに小笠原おがさわら信喜のぶよしびついた、というのが真相しんそうではないかと、家斉いえなりはそうにらんでいた。

 ともあれ、こうして横田よこた準松のりとし本郷ほんごう泰行やすゆき御側御用取次おそばごようとりつぎ解任かいにんされたことで、御側御用取次おそばごようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし唯一人ただひとりとなり、信喜のぶよし唯一人ただひとり御側御用取次おそばごようとりつぎとして、言うなれば、

中奥なかおくにおける唯一人ただひとり支配者しはいしゃ…」

 として、将軍の居所きょしょである中奥なかおくをそれこそ、

者顔ものがおにて…」

 仕切しきるようになり、家斉いえなりはそんな信喜のぶよし専横せんおうぶりが段々だんだんはなにつくようになった。

 家斉いえなりとしては本来ほんらいならば小笠原おがさわら信喜のぶよし解任かいにんしたいところであったが、しかし実父じっぷ治済はるさだ信喜のぶよしいまでもをかけている現況げんきょう、それはむずかしかった。いや、家斉いえなりかりにも将軍であり、そうであれば将軍としての権威けんい権力けんりょくってすれば御側御用取次おそばごようとりつぎくびばすことなど造作ぞうさもないが、しかし、実父じっぷ治済はるさだへの遠慮えんりょからそれを躊躇ちゅうちょしていたのだ。

 そこで家斉いえなり次善じぜんさくとして、あらたにもう一人ひとり御側御用取次おそばごようとりつぎにんじることで、そのもの小笠原おがさわら信喜のぶよし掣肘せいちゅうさせることを思いつき、そこで白羽しらはてたのが加納かのう久周ひさのりというわけだ。

 その当時とうじ…、小笠原おがさわら信喜のぶよし唯一人ただひとり御側御用取次おそばごようとりつぎとしておおいに権勢けんせいるうようになった天明7(1787)年5月、加納かのう久周ひさのり大番頭おおばんがしらしょくにあった。

 この大番頭おおばんがしらというポストもまた、御側御用取次おそばごようとりつぎ同様どうよう少禄しょうろく大名だいみょう旗本はたもと混在こんざいするしょくであった。

 大番頭おおばんがしら番方ばんかた、つまりは武官ぶかん頂点ちょうてん位置いちし、少禄しょうろく大名だいみょうがこの大番頭おおばんがしらしょくいた場合ばあい大番頭おおばんがしら皮切かわきりに、譜代ふだい大名だいみょうにとっての出世しゅっせ登竜門とうりゅうもんともぶべき奏者番そうじゃばん若年寄わかどしよりへと昇進しょうしんたすケースが散見さんけんされ、加納かのう久周ひさのり本来ほんらいならばその「昇進しょうしんコース」を辿たどはずであった。

 加納かのう久周ひさのりは12組ある大番組おおばんぐみのうち八番組のかしらであった。

 大番組おおばんぐみは12組もあるゆえに、おのずと組毎くみごとにその個性こせいとも言うべき風儀ふうぎ所謂いわゆる

組風くみふう

 それが醸成じょうせいされており、加納かのう久周ひさのりかしらとして着任ちゃくにんした八番組の「組風くみふう」たるや、「あく」の一語いちごきた。

 大番おおばん番方ばんかた武官ぶかんゆえに、荒々あらあらしくなるのはいたかたないとしても、しかし八番組の「組風くみふう」たるや完全かんぜん一線いっせんえるものがあり、かしらとてどうにもならなかった。いや、それまでの八番組のかしらみな、その「組風くみふう」に対して完全かんぜんに、

ぬフリ…」

 それをんでいた。なにしろ本来ほんらい大番頭おおばんがしらささえるべき直属ちょくぞく配下はいかである組頭くみがしらからして、「あく」にまっていたからだ。

 これではかしらとてどうにもならないのも無理むりはなかった。

 だが加納かのう久周ひさのりは天明7(1787)年の3月に大番頭おおばんがしらとしてその八番組のかしら着任ちゃくにんするや、「組風くみふう」の改善かいぜんしたのであった。

 具体的ぐたいてきには久周ひさのりみずから、配下はいか番士ばんしたちに学問がくもん教授きょうじゅしたのであった。

 久周ひさのり学問がくもんきであり、それゆえみずから、番士ばんしらの教授きょうじゅ役をつとめることで、「組風くみふう」をあらためようとしたのだ。

 そのような久周ひさのりに対して無論むろんすべての番士ばんしらが帰服きふくしたわけではない。なかには久周ひさのりに対してける番士ばんしもいた。

 だが、大方おおかた番士ばんしはそのような久周ひさのりに対して徐々じょじょにではあるが帰服きふくするようになり、それにともない、「組風くみふう」もまた徐々じょじょにではあるが改善かいぜんされていった。久周ひさのり大番頭おおばんがしらとして八番組のかしら着任ちゃくにんしてから三月みつきほどったころのことであった。

 久周ひさのりのその采配さいはいぶりは幕閣ばっかくもとより、将軍・家斉いえなりみみにまでとどき、そこで家斉いえなりわず三月みつきほどで「組風くみふう」を徐々じょじょにではあるが改善かいぜんさせた加納かのう久周ひさのり小笠原おがさわら信喜のぶよしへの「掣肘せいちゅうやく」として御側御用取次おそばごようとりつぎ取立とりたてようと決心けっしんしたのであった。

 中奥なかおくの「風儀ふうぎ」もまた、八番組の「組風くみふう同様どうようわるくなっていたからだ。そしてその元凶げんきょう小笠原おがさわら信喜のぶよしであり、信喜のぶよし専横せんおうぶりが中奥なかおくの「風儀ふうぎ」をわるくし、そこで家斉いえなりとしては久周ひさのり信喜のぶよしの「掣肘せいちゅうやく」として、中奥なかおくの「風儀ふうぎ」の改善かいぜんをも期待きたいしたのであった。

 一方いっぽうあらたに老中ろうじゅうの、それも筆頭ひっとうである首座しゅざいた松平まつだいら定信さだのぶ加納かのう久周ひさのりのその手腕しゅわん注目ちゅうもくしており、定信さだのぶ久周ひさのりをまずは奏者番そうじゃばんへとて、いで若年寄わかどしよりへとすすませようとかんがえていたのだが、それが将軍・家斉いえなりより久周ひさのり御側御用取次おそばごようとりつぎ取立とりたてたいとの打診だしんけたために、そこで定信さだのぶく、久周ひさのり御側御用取次おそばごようとりつぎ異動いどうさせることにしたのであった。

 大番頭おおばんがしら老中ろうじゅう支配しはいのポストゆえ、そこで家斉いえなり久周ひさのり直属ちょくぞく上司じょうしたる老中ろうじゅうの、それも筆頭ひっとうである首座しゅざ定信さだのぶにそのむね打診だしんしたのであり、それに対して定信さだのぶも新将軍・家斉いえなり要望ようぼう尊重そんちょうすることにしたのであった。定信さだのぶもまた、中奥なかおくの「風儀ふうぎ」のわるさはかねてより気になっていたところであったからだ。

 こうして加納かのう久周ひさのり大番頭おおばんがしらいてからわず三月みつきほどった天明7(1787)年の6月に御側御用取次おそばごようとりつぎへと異動いどうたし、爾来じらい久周ひさのりは将軍・家斉いえなりの「期待きたい」にこたえて中奥なかおくの「風儀ふうぎ」の改善かいぜん取組とりくんだのであった。すなわち、小笠原おがさわら信喜のぶよし専横せんおう掣肘せいちゅうする役目やくめたしたのであった。

 加納かのう久周ひさのりの「出現しゅつげん」は小笠原おがさわら信喜のぶよしにしてみればそれこそ、「目障めざわり」以外いがい何物なにものでもなかっただろう。出来できれば排除はいじょしたいところであっただろうが、将軍・家斉いえなりの「肝煎きもいり」の人事じんじともあらばそうもいかない。

 そこで小笠原おがさわら信喜のぶよし本来ほんらい、「ライバル」関係かんけいはず側用人そばようにんである本多ほんだ弾正大弼だんじょうだいひつ忠籌ただかず取入とりいったのであった。

 本多ほんだ忠籌ただかず加納かのう久周ひさのり御側御用取次おそばごようとりつぎ異動いどうしてから1年後の天明8(1788)年5月に側用人そばようにん取立とりたてられた。

 それまで本多ほんだ忠籌ただかず財政ざいせいにな勝手かってがかりねる若年寄わかどしよりであったのだが、老中ろうじゅう首座しゅざである定信さだのぶつよ推挙すいきょにより、将軍・家斉いえなり最側近さいそっきんである側用人そばようにんへと取立とりたてられたのであった。

 定信さだのぶとしては「改革かいかく政治せいじ」を推進すいしんするうえでその陣容じんようととのえるべく、「刎頚ふんけいゆう」とも言うべき本多ほんだ忠籌ただかずを将軍・家斉いえなりもとへとその最側近さいそっきんとなる側用人そばようにんとしておくんだわけだが、しかし、これが結果的けっかてきには裏目うらめた。

 小笠原おがさわら信喜のぶよし加納かのう久周ひさのりともに、その直属ちょくぞく上司じょうしともなる側用人そばようにんとして本多ほんだ忠籌ただかず中奥なかおくへとおくまれてくるや、信喜のぶよし本来ほんらい、「ライバル」となるはず側用人そばようにんであるこの忠籌ただかず徹底的てっていてき取入とりいったのであった。無論むろん加納かのう久周ひさのり対抗たいこうするためであり、同時どうじに、津田つだ信久のぶひさにも対抗たいこうするためであった。

 津田つだ信久のぶひさ小笠原おがさわら信喜のぶよしへの「掣肘せいちゅうやく」として加納かのう久周ひさのり御側御用取次おそばごようとりつぎ異動いどうしてくる4ヶ月ほど前の天明7(1787)年2月に小納戸こなんど頭取とうどりの、それも筆頭ひっとうである上首じょうしゅ取立とりたてられ、のみならず、奥詰おくづめとして家斉いえなり政務せいむにも列座れつざすることがゆるされ、それがまた、信喜のぶよしには「目障めざわり」のたねであった。

 それに対して忠籌ただかずもそのようなみずからに取入とりい信喜のぶよしにくからずおもった。忠籌ただかずにしても将軍・家斉いえなり最側近さいそっきんである側用人そばようにん取立とりたてられた以上いじょう家斉いえなりより一身いっしん寵愛ちょうあいけることをのぞみ、しかしそのためには御側御用取次おそばごようとりつぎ」との「バトル」が予想よそうされた。

 そのような忠籌ただかずにとって、信喜のぶよし存在そんざい心強こころづよかった。何しろ、将軍・家斉いえなり寵愛ちょうあいめぐってあらそうことが予想よそうされた御側御用取次おそばごようとりつぎ信喜のぶよしみずからに取入とりいってきたからだ。忠籌ただかずにしてみればそれはまさに、

軍門ぐんもんくだった…」

 そのようにうつったことであろう。いや、信喜のぶよしとしてはそのようなつもりは毛頭もうとうなく、あくまで「対久周ひさのり」、「対信久のぶひさ」という「バトル」を展開てんかいする上で、有利ゆうりはこぶべく、忠籌ただかず取入とりいったまでだが、ともあれ忠籌ただかず信喜のぶよしまさに、

「タッグをんで…」

 久周ひさのり信久のぶひさ対抗たいこうしたのであった。

 それに対して久周ひさのりはと言うと、久周ひさのりはあくまで将軍・家斉いえなり側近そっきんとしてみずからの職分しょくぶんまっとうするまでであり、この手の「バトル」には興味きょうみはなかったのだが、しかし、信久のぶひさ久周ひさのりたよってきたので、そうもゆかなくなった。

 信久のぶひさ信喜のぶよしくわえて忠籌ただかずからも「かたき」にされ、そこで畢竟ひっきょう、もう一人ひとり御側御用取次おそばごようとりつぎである久周ひさのりたよったのであった。

 それに対して久周ひさのりはと言うと、元来がんらいじょうよわく、おのれたよ信久のぶひさ見捨みすてることが出来できず、久周ひさのりはいつしか信久のぶひさうしだてとなっていた。

 こうして中奥なかおくにおいては、

加納かのう久周ひさのり津田つだ信久のぶひさ本多ほんだ忠籌ただかず小笠原おがさわら信喜のぶよし

 という図式ずしき出来できあがったのであった。

 久周ひさのり信久のぶひさたすぶねしたのはそのような経緯いきさつからであった。
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