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承前 夏の人事 ~家斉の寵臣・御側御用取次の加納遠江守久周~
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加納遠江守久周は八田藩1万石を領する歴とした大名であったが、旗本役である御側御用取次の職にあった。
いや、1万石と大名の中では少禄ゆえに旗本役であるこの御側御用取次の職に就けたとも言えようか。
御側御用取次は旗本役ではあるものの、これまでにも少禄の大名が就いた例があり、彼の有名な田沼意次も旗本から大名へと取立てられる過程において、この職に就いていた。
さて、この加納久周が御側御用取次に取立てられた経緯であるが、一応は、
「老中首座の松平定信が将軍・家斉に推挙して…」
との建前を取ってはいたものの、しかし実際には将軍・家斉の強い希望による。
これは2年前の天明7(1787)年5月に、それまでの…、十代将軍・家治の治世より、と言うよりは田沼時代よりの御側御用取次であった横田筑後守準松と本郷大和守泰行がその職を許されたことによる。
この2人は田沼意次の正に
「息のかかった者…」
であり、新将軍・家斉はそれを嫌い、こうして家斉に嫌われたこの2人は2年前の5月に正に、
「牛蒡抜きに…」
御側御用取次を許された、いや、実際には解任されたのであったが、しかしこの人事を強行したのは将軍・家斉ではなく、御側御用取次の小笠原若狭守信喜であった。
将軍の寵愛を巡って側用人と御側御用取次との間で「バトル」が繰り広げられると同時に、御側御用取次同士の間でもまた、その「バトル」が繰り広げられ、それは将軍・家斉に仕える御側御用取次とてその例外ではなかった。
即ち、2年前の天明7(1787)年5月までは横田準松と本郷泰行の2人に小笠原信喜を加えた3人が御側御用取次として新将軍・家斉に仕えていた。
御側御用取次には定員こそないものの、それでも通例は2人であり、それゆえ3人もの御側御用取次とは些か多い。
これは十代将軍・家治が3年前の天明6(1786)年9月に薨去したことによる。
それまで家治の御養君、つまりは養嗣子、更に言えば次期将軍として西之丸にて暮らしていた家斉は養父にして本丸の主たる将軍であった家治が薨去したために、翌々月の閏10月に家治に代わって、つまりは新将軍として本丸へと移徙、つまりは引き移ったわけだが、その際、家斉は西之丸にて己に仕えていた面々をも本丸へと引き連れ、その中には小笠原信喜の姿もあった。小笠原信喜は家斉が次期将軍として西之丸にて暮らしていた頃より御側御用取次として、つまりは西之丸の御側御用取次として家斉に仕えていたのだ。
それが家斉が新将軍として本丸へと移ったために、小笠原信喜もこれに随い、本丸へと移り、そして引き続き、今度は将軍となった家斉に御側御用取次として、つまりは本丸の御側御用取次として家斉に仕えるようになったわけだが、その際、前将軍・家治に御側御用取次として仕えていた横田準松と本郷泰行も合流、つまりは家斉の御側御用取次として引き続き本丸にて仕えることになり、それゆえに通例は2人が定員の御側御用取次が3人へと膨れたのであったが、家斉がまだ次期将軍であった頃より西之丸にてその家斉に仕えていた小笠原信喜としては横田準松と本郷泰行の2人が目障りでならなかった。
新たに将軍となった家斉は養父・家治への敬慕の念から、家治に仕えていた者をそのまま、引き続き登用する方針を採ったのだが、小笠原信喜にしてみれば堪ったものではない。殊に、相役…、同僚となる横田準松と本郷泰行の2人は正に、
「負の遺産…」
小笠原信喜にはそうとしか思えず、それゆえ信喜は事ある毎に家斉に対して横田準松と本郷泰行の「排除」を要求したのであった。
家斉はその度に、
「のらりくらり…」
信喜の要求をかわしていたのだが、しかし遂に2年前の天明7(1787)年に家斉が折れる格好にて、横田準松と本郷泰行の2人を解任したのであった。
これは所謂、「天明の打ちこわし」の事実を将軍・家斉に正確に伝えなかったかどにより、まず本郷泰行が5月24日に、続いて5日後の29日には横田準松がそれぞれ御側御用取次を解任されたのであった。
家斉としては横田準松と本郷泰行の2人を解任する気は毛頭なかった。確かに打ちこわしの事実を正確に伝えなかったのは不束の誹りは免れないにしても、解任しようとは思わなかった。
それに打ちこわしの事実を正確に伝えなかったという点では小笠原信喜とて同罪、連帯責任があるではないかと、それが当時の家斉の偽らざる心境であった。
それゆえ小笠原信喜が横田準松と本郷泰行の2人の解任を求めても、家斉としては2人を解任するつもりはなかったが、しかしそんな信喜に味方する者がいた。誰あろう、家斉の実父である一橋治済であった。
治済は愛息・家斉に仕える者の中でもとりわけ小笠原信喜に目をかけており、それゆえ信喜の解任要求に対して治済が即座にこれに呼応する格好にて、治済までが横田準松と本郷泰行の2人の解任を要求したのであった。
いや、今から考えれば、横田準松と本郷泰行の2人を、
「打ちこわしの事実を家斉に伝えなかった…」
それを口実にして解任を思いついたのは実父・治済であり、それに小笠原信喜が飛びついた、というのが真相ではないかと、家斉はそう睨んでいた。
ともあれ、こうして横田準松と本郷泰行が御側御用取次を解任されたことで、御側御用取次は小笠原信喜唯一人となり、信喜は唯一人の御側御用取次として、言うなれば、
「中奥における唯一人の支配者…」
として、将軍の居所である中奥をそれこそ、
「我が者顔にて…」
取り仕切るようになり、家斉はそんな信喜の専横ぶりが段々と鼻につくようになった。
家斉としては本来ならば小笠原信喜も解任したいところであったが、しかし実父・治済が信喜を今でも目をかけている現況、それは難しかった。いや、家斉は仮にも将軍であり、そうであれば将軍としての権威、権力を以ってすれば御側御用取次の首を飛ばすことなど造作もないが、しかし、実父・治済への遠慮からそれを躊躇していたのだ。
そこで家斉は次善の策として、新たにもう一人、御側御用取次を任じることで、その者に小笠原信喜を掣肘させることを思いつき、そこで白羽の矢を立てたのが加納久周というわけだ。
その当時…、小笠原信喜が唯一人の御側御用取次として大いに権勢を振るうようになった天明7(1787)年5月、加納久周は大番頭の職にあった。
この大番頭というポストもまた、御側御用取次同様、少禄の大名と旗本が混在する職であった。
大番頭は番方、つまりは武官の頂点に位置し、少禄の大名がこの大番頭の職に就いた場合、大番頭を皮切りに、譜代大名にとっての出世の登竜門とも呼ぶべき奏者番を経て若年寄へと昇進を果たすケースが散見され、加納久周も本来ならばその「昇進コース」を辿る筈であった。
加納久周は12組ある大番組のうち八番組の頭であった。
大番組は12組もあるゆえに、自ずと組毎にその個性とも言うべき風儀、所謂、
「組風」
それが醸成されており、加納久周が頭として着任した八番組の「組風」たるや、「悪」の一語に尽きた。
大番は番方、武官ゆえに、荒々しくなるのは致し方ないとしても、しかし八番組の「組風」たるや完全に一線を越えるものがあり、頭とてどうにもならなかった。いや、それまでの八番組の頭は皆、その「組風」に対して完全に、
「見て見ぬフリ…」
それを決め込んでいた。何しろ本来、大番頭を支えるべき直属の配下である組頭からして、「悪」に染まっていたからだ。
これでは頭とてどうにもならないのも無理はなかった。
だが加納久周は天明7(1787)年の3月に大番頭としてその八番組の頭に着任するや、「組風」の改善に乗り出したのであった。
具体的には久周が自ら、配下の番士たちに学問を教授したのであった。
久周は学問好きであり、それゆえ自ら、番士らの教授役を務めることで、「組風」を改めようとしたのだ。
そのような久周に対して無論、全ての番士らが帰服したわけではない。中には久周に対して背を向ける番士もいた。
だが、大方の番士はそのような久周に対して徐々にではあるが帰服するようになり、それに伴い、「組風」もまた徐々にではあるが改善されていった。久周が大番頭として八番組の頭に着任してから三月程、経った頃のことであった。
久周のその采配ぶりは幕閣は元より、将軍・家斉の耳にまで届き、そこで家斉は僅か三月程で「組風」を徐々にではあるが改善させた加納久周を小笠原信喜への「掣肘役」として御側御用取次に取立てようと決心したのであった。
中奥の「風儀」もまた、八番組の「組風」同様、悪くなっていたからだ。そしてその元凶は小笠原信喜であり、信喜の専横ぶりが中奥の「風儀」を悪くし、そこで家斉としては久周に信喜の「掣肘役」として、中奥の「風儀」の改善をも期待したのであった。
一方、新たに老中の、それも筆頭である首座に就いた松平定信も加納久周のその手腕に注目しており、定信は久周をまずは奏者番へと引き立て、次いで若年寄へと進ませようと考えていたのだが、それが将軍・家斉より久周を御側御用取次に取立てたいとの打診を受けたために、そこで定信は已む無く、久周を御側御用取次に異動させることにしたのであった。
大番頭は老中支配のポストゆえ、そこで家斉は久周の直属の上司に当たる老中の、それも筆頭である首座の定信にその旨、打診したのであり、それに対して定信も新将軍・家斉の要望を尊重することにしたのであった。定信もまた、中奥の「風儀」の悪さはかねてより気になっていたところであったからだ。
こうして加納久周は大番頭に就いてから僅か三月程経った天明7(1787)年の6月に御側御用取次へと異動を果たし、爾来、久周は将軍・家斉の「期待」に良く応えて中奥の「風儀」の改善に取組んだのであった。即ち、小笠原信喜の専横を掣肘する役目を果たしたのであった。
加納久周の「出現」は小笠原信喜にしてみればそれこそ、「目障り」以外の何物でもなかっただろう。出来れば排除したいところであっただろうが、将軍・家斉の「肝煎り」の人事ともあらばそうもいかない。
そこで小笠原信喜は本来、「ライバル」関係に立つ筈の側用人である本多弾正大弼忠籌に取入ったのであった。
本多忠籌は加納久周が御側御用取次に異動してから1年後の天明8(1788)年5月に側用人に取立てられた。
それまで本多忠籌は財政を担う勝手掛を兼ねる若年寄であったのだが、老中首座である定信の強い推挙により、将軍・家斉の最側近である側用人へと取立てられたのであった。
定信としては「改革政治」を推進する上でその陣容を整えるべく、「刎頚の友」とも言うべき本多忠籌を将軍・家斉の許へとその最側近となる側用人として送り込んだわけだが、しかし、これが結果的には裏目に出た。
小笠原信喜は加納久周と共に、その直属の上司ともなる側用人として本多忠籌が中奥へと送り込まれてくるや、信喜は本来、「ライバル」となる筈の側用人であるこの忠籌に徹底的に取入ったのであった。無論、加納久周に対抗するためであり、同時に、津田信久にも対抗するためであった。
津田信久は小笠原信喜への「掣肘役」として加納久周が御側御用取次に異動してくる4ヶ月程前の天明7(1787)年2月に小納戸頭取の、それも筆頭である上首に取立てられ、のみならず、奥詰として家斉の政務の場にも列座することが許され、それがまた、信喜には「目障り」の種であった。
それに対して忠籌もそのような自らに取入る信喜を憎からず思った。忠籌にしても将軍・家斉の最側近である側用人に取立てられた以上、家斉より一身に寵愛を受けることを望み、しかしそのためには御側御用取次」との「バトル」が予想された。
そのような忠籌にとって、信喜の存在は心強かった。何しろ、将軍・家斉の寵愛を巡って争うことが予想された御側御用取次の信喜が自らに取入ってきたからだ。忠籌にしてみればそれは正に、
「軍門に降った…」
そのように映ったことであろう。いや、信喜としてはそのようなつもりは毛頭なく、あくまで「対久周」、「対信久」という「バトル」を展開する上で、有利に運ぶべく、忠籌に取入ったまでだが、ともあれ忠籌と信喜は正に、
「タッグを組んで…」
久周、信久に対抗したのであった。
それに対して久周はと言うと、久周はあくまで将軍・家斉の側近として自らの職分を全うするまでであり、この手の「バトル」には興味はなかったのだが、しかし、信久が久周を頼ってきたので、そうもゆかなくなった。
信久は信喜に加えて忠籌からも「目の敵」にされ、そこで畢竟、もう一人の御側御用取次である久周を頼ったのであった。
それに対して久周はと言うと、元来、情に弱く、己を頼る信久を見捨てることが出来ず、久周はいつしか信久の後ろ盾となっていた。
こうして中奥においては、
「加納久周・津田信久対本多忠籌・小笠原信喜」
という図式が出来あがったのであった。
久周が信久に助け船を出したのはそのような経緯からであった。
いや、1万石と大名の中では少禄ゆえに旗本役であるこの御側御用取次の職に就けたとも言えようか。
御側御用取次は旗本役ではあるものの、これまでにも少禄の大名が就いた例があり、彼の有名な田沼意次も旗本から大名へと取立てられる過程において、この職に就いていた。
さて、この加納久周が御側御用取次に取立てられた経緯であるが、一応は、
「老中首座の松平定信が将軍・家斉に推挙して…」
との建前を取ってはいたものの、しかし実際には将軍・家斉の強い希望による。
これは2年前の天明7(1787)年5月に、それまでの…、十代将軍・家治の治世より、と言うよりは田沼時代よりの御側御用取次であった横田筑後守準松と本郷大和守泰行がその職を許されたことによる。
この2人は田沼意次の正に
「息のかかった者…」
であり、新将軍・家斉はそれを嫌い、こうして家斉に嫌われたこの2人は2年前の5月に正に、
「牛蒡抜きに…」
御側御用取次を許された、いや、実際には解任されたのであったが、しかしこの人事を強行したのは将軍・家斉ではなく、御側御用取次の小笠原若狭守信喜であった。
将軍の寵愛を巡って側用人と御側御用取次との間で「バトル」が繰り広げられると同時に、御側御用取次同士の間でもまた、その「バトル」が繰り広げられ、それは将軍・家斉に仕える御側御用取次とてその例外ではなかった。
即ち、2年前の天明7(1787)年5月までは横田準松と本郷泰行の2人に小笠原信喜を加えた3人が御側御用取次として新将軍・家斉に仕えていた。
御側御用取次には定員こそないものの、それでも通例は2人であり、それゆえ3人もの御側御用取次とは些か多い。
これは十代将軍・家治が3年前の天明6(1786)年9月に薨去したことによる。
それまで家治の御養君、つまりは養嗣子、更に言えば次期将軍として西之丸にて暮らしていた家斉は養父にして本丸の主たる将軍であった家治が薨去したために、翌々月の閏10月に家治に代わって、つまりは新将軍として本丸へと移徙、つまりは引き移ったわけだが、その際、家斉は西之丸にて己に仕えていた面々をも本丸へと引き連れ、その中には小笠原信喜の姿もあった。小笠原信喜は家斉が次期将軍として西之丸にて暮らしていた頃より御側御用取次として、つまりは西之丸の御側御用取次として家斉に仕えていたのだ。
それが家斉が新将軍として本丸へと移ったために、小笠原信喜もこれに随い、本丸へと移り、そして引き続き、今度は将軍となった家斉に御側御用取次として、つまりは本丸の御側御用取次として家斉に仕えるようになったわけだが、その際、前将軍・家治に御側御用取次として仕えていた横田準松と本郷泰行も合流、つまりは家斉の御側御用取次として引き続き本丸にて仕えることになり、それゆえに通例は2人が定員の御側御用取次が3人へと膨れたのであったが、家斉がまだ次期将軍であった頃より西之丸にてその家斉に仕えていた小笠原信喜としては横田準松と本郷泰行の2人が目障りでならなかった。
新たに将軍となった家斉は養父・家治への敬慕の念から、家治に仕えていた者をそのまま、引き続き登用する方針を採ったのだが、小笠原信喜にしてみれば堪ったものではない。殊に、相役…、同僚となる横田準松と本郷泰行の2人は正に、
「負の遺産…」
小笠原信喜にはそうとしか思えず、それゆえ信喜は事ある毎に家斉に対して横田準松と本郷泰行の「排除」を要求したのであった。
家斉はその度に、
「のらりくらり…」
信喜の要求をかわしていたのだが、しかし遂に2年前の天明7(1787)年に家斉が折れる格好にて、横田準松と本郷泰行の2人を解任したのであった。
これは所謂、「天明の打ちこわし」の事実を将軍・家斉に正確に伝えなかったかどにより、まず本郷泰行が5月24日に、続いて5日後の29日には横田準松がそれぞれ御側御用取次を解任されたのであった。
家斉としては横田準松と本郷泰行の2人を解任する気は毛頭なかった。確かに打ちこわしの事実を正確に伝えなかったのは不束の誹りは免れないにしても、解任しようとは思わなかった。
それに打ちこわしの事実を正確に伝えなかったという点では小笠原信喜とて同罪、連帯責任があるではないかと、それが当時の家斉の偽らざる心境であった。
それゆえ小笠原信喜が横田準松と本郷泰行の2人の解任を求めても、家斉としては2人を解任するつもりはなかったが、しかしそんな信喜に味方する者がいた。誰あろう、家斉の実父である一橋治済であった。
治済は愛息・家斉に仕える者の中でもとりわけ小笠原信喜に目をかけており、それゆえ信喜の解任要求に対して治済が即座にこれに呼応する格好にて、治済までが横田準松と本郷泰行の2人の解任を要求したのであった。
いや、今から考えれば、横田準松と本郷泰行の2人を、
「打ちこわしの事実を家斉に伝えなかった…」
それを口実にして解任を思いついたのは実父・治済であり、それに小笠原信喜が飛びついた、というのが真相ではないかと、家斉はそう睨んでいた。
ともあれ、こうして横田準松と本郷泰行が御側御用取次を解任されたことで、御側御用取次は小笠原信喜唯一人となり、信喜は唯一人の御側御用取次として、言うなれば、
「中奥における唯一人の支配者…」
として、将軍の居所である中奥をそれこそ、
「我が者顔にて…」
取り仕切るようになり、家斉はそんな信喜の専横ぶりが段々と鼻につくようになった。
家斉としては本来ならば小笠原信喜も解任したいところであったが、しかし実父・治済が信喜を今でも目をかけている現況、それは難しかった。いや、家斉は仮にも将軍であり、そうであれば将軍としての権威、権力を以ってすれば御側御用取次の首を飛ばすことなど造作もないが、しかし、実父・治済への遠慮からそれを躊躇していたのだ。
そこで家斉は次善の策として、新たにもう一人、御側御用取次を任じることで、その者に小笠原信喜を掣肘させることを思いつき、そこで白羽の矢を立てたのが加納久周というわけだ。
その当時…、小笠原信喜が唯一人の御側御用取次として大いに権勢を振るうようになった天明7(1787)年5月、加納久周は大番頭の職にあった。
この大番頭というポストもまた、御側御用取次同様、少禄の大名と旗本が混在する職であった。
大番頭は番方、つまりは武官の頂点に位置し、少禄の大名がこの大番頭の職に就いた場合、大番頭を皮切りに、譜代大名にとっての出世の登竜門とも呼ぶべき奏者番を経て若年寄へと昇進を果たすケースが散見され、加納久周も本来ならばその「昇進コース」を辿る筈であった。
加納久周は12組ある大番組のうち八番組の頭であった。
大番組は12組もあるゆえに、自ずと組毎にその個性とも言うべき風儀、所謂、
「組風」
それが醸成されており、加納久周が頭として着任した八番組の「組風」たるや、「悪」の一語に尽きた。
大番は番方、武官ゆえに、荒々しくなるのは致し方ないとしても、しかし八番組の「組風」たるや完全に一線を越えるものがあり、頭とてどうにもならなかった。いや、それまでの八番組の頭は皆、その「組風」に対して完全に、
「見て見ぬフリ…」
それを決め込んでいた。何しろ本来、大番頭を支えるべき直属の配下である組頭からして、「悪」に染まっていたからだ。
これでは頭とてどうにもならないのも無理はなかった。
だが加納久周は天明7(1787)年の3月に大番頭としてその八番組の頭に着任するや、「組風」の改善に乗り出したのであった。
具体的には久周が自ら、配下の番士たちに学問を教授したのであった。
久周は学問好きであり、それゆえ自ら、番士らの教授役を務めることで、「組風」を改めようとしたのだ。
そのような久周に対して無論、全ての番士らが帰服したわけではない。中には久周に対して背を向ける番士もいた。
だが、大方の番士はそのような久周に対して徐々にではあるが帰服するようになり、それに伴い、「組風」もまた徐々にではあるが改善されていった。久周が大番頭として八番組の頭に着任してから三月程、経った頃のことであった。
久周のその采配ぶりは幕閣は元より、将軍・家斉の耳にまで届き、そこで家斉は僅か三月程で「組風」を徐々にではあるが改善させた加納久周を小笠原信喜への「掣肘役」として御側御用取次に取立てようと決心したのであった。
中奥の「風儀」もまた、八番組の「組風」同様、悪くなっていたからだ。そしてその元凶は小笠原信喜であり、信喜の専横ぶりが中奥の「風儀」を悪くし、そこで家斉としては久周に信喜の「掣肘役」として、中奥の「風儀」の改善をも期待したのであった。
一方、新たに老中の、それも筆頭である首座に就いた松平定信も加納久周のその手腕に注目しており、定信は久周をまずは奏者番へと引き立て、次いで若年寄へと進ませようと考えていたのだが、それが将軍・家斉より久周を御側御用取次に取立てたいとの打診を受けたために、そこで定信は已む無く、久周を御側御用取次に異動させることにしたのであった。
大番頭は老中支配のポストゆえ、そこで家斉は久周の直属の上司に当たる老中の、それも筆頭である首座の定信にその旨、打診したのであり、それに対して定信も新将軍・家斉の要望を尊重することにしたのであった。定信もまた、中奥の「風儀」の悪さはかねてより気になっていたところであったからだ。
こうして加納久周は大番頭に就いてから僅か三月程経った天明7(1787)年の6月に御側御用取次へと異動を果たし、爾来、久周は将軍・家斉の「期待」に良く応えて中奥の「風儀」の改善に取組んだのであった。即ち、小笠原信喜の専横を掣肘する役目を果たしたのであった。
加納久周の「出現」は小笠原信喜にしてみればそれこそ、「目障り」以外の何物でもなかっただろう。出来れば排除したいところであっただろうが、将軍・家斉の「肝煎り」の人事ともあらばそうもいかない。
そこで小笠原信喜は本来、「ライバル」関係に立つ筈の側用人である本多弾正大弼忠籌に取入ったのであった。
本多忠籌は加納久周が御側御用取次に異動してから1年後の天明8(1788)年5月に側用人に取立てられた。
それまで本多忠籌は財政を担う勝手掛を兼ねる若年寄であったのだが、老中首座である定信の強い推挙により、将軍・家斉の最側近である側用人へと取立てられたのであった。
定信としては「改革政治」を推進する上でその陣容を整えるべく、「刎頚の友」とも言うべき本多忠籌を将軍・家斉の許へとその最側近となる側用人として送り込んだわけだが、しかし、これが結果的には裏目に出た。
小笠原信喜は加納久周と共に、その直属の上司ともなる側用人として本多忠籌が中奥へと送り込まれてくるや、信喜は本来、「ライバル」となる筈の側用人であるこの忠籌に徹底的に取入ったのであった。無論、加納久周に対抗するためであり、同時に、津田信久にも対抗するためであった。
津田信久は小笠原信喜への「掣肘役」として加納久周が御側御用取次に異動してくる4ヶ月程前の天明7(1787)年2月に小納戸頭取の、それも筆頭である上首に取立てられ、のみならず、奥詰として家斉の政務の場にも列座することが許され、それがまた、信喜には「目障り」の種であった。
それに対して忠籌もそのような自らに取入る信喜を憎からず思った。忠籌にしても将軍・家斉の最側近である側用人に取立てられた以上、家斉より一身に寵愛を受けることを望み、しかしそのためには御側御用取次」との「バトル」が予想された。
そのような忠籌にとって、信喜の存在は心強かった。何しろ、将軍・家斉の寵愛を巡って争うことが予想された御側御用取次の信喜が自らに取入ってきたからだ。忠籌にしてみればそれは正に、
「軍門に降った…」
そのように映ったことであろう。いや、信喜としてはそのようなつもりは毛頭なく、あくまで「対久周」、「対信久」という「バトル」を展開する上で、有利に運ぶべく、忠籌に取入ったまでだが、ともあれ忠籌と信喜は正に、
「タッグを組んで…」
久周、信久に対抗したのであった。
それに対して久周はと言うと、久周はあくまで将軍・家斉の側近として自らの職分を全うするまでであり、この手の「バトル」には興味はなかったのだが、しかし、信久が久周を頼ってきたので、そうもゆかなくなった。
信久は信喜に加えて忠籌からも「目の敵」にされ、そこで畢竟、もう一人の御側御用取次である久周を頼ったのであった。
それに対して久周はと言うと、元来、情に弱く、己を頼る信久を見捨てることが出来ず、久周はいつしか信久の後ろ盾となっていた。
こうして中奥においては、
「加納久周・津田信久対本多忠籌・小笠原信喜」
という図式が出来あがったのであった。
久周が信久に助け船を出したのはそのような経緯からであった。
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この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
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