元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・清水家老の岡部河内守一徳の降格人事 1~

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弾正だんじょう山城やましろがことはすで落着らくちゃくしておるぞ…」

 代官だいかん引負ひきおい…、代官だいかん徴収ちょうしゅう出来できなかった年貢ねんぐ負債ふさい山城やましろこと津田つだ信久のぶひさ肩代かたがわりすべく、伯母おば蓮光院れんこういんの「生活費せいかつひ」に手をつけた一件いっけんすでに、

しばらくのあいだ、将軍・家斉いえなりへの拝謁はいえつとどめる…」

 その処分しょぶん落着らくちゃくを見ていると、久周ひさのりはその一件いっけんかえそうとする忠籌ただかずせいした。

「にもかかわらず、ふたたびこのけんかえそうとは、山城やましろに対してはしばらくのあいだ御前ごぜんとどめるとの、おそおおくも上様うえさまのご裁許さいきょ楯突たてつくも同然どうぜんであろう」

 久周ひさのりの言うとおり、「御前ごぜんとどめる」、すなわち、

しばらくのあいだ、将軍・家斉いえなりへの拝謁はいえつとどめる…」

 その処分しょぶん信久のぶひさくだしたのは家斉いえなり当人とうにんであった。

 そして信久のぶひさはその処分しょぶんしたがい、しばら屋敷やしきにて謹慎きんしんしたものであり、その処分しょぶんすでけ、こうして家斉いえなりせっしていた。

 そうであれば今更いまさら、その一件いっけんかえそうとは、成程なるほど、将軍・家斉いえなり処分しょぶんに、

楯突たてつく…」

 とはぎであるとしても、ケチをつけるも同然どうぜんであり、これにはさしもの忠籌ただかずくちつぐんだ。

 こうして久周ひさのり忠籌ただかずだまらせるや、

たしかに弾正だんじょうもうとおり、財政難ざいせいなんおり無駄むだ出費しゅっぴつつしむべきであろうが、なれど必要ひつようなる出費しゅっぴまで切詰きりつめることを意味いみするものではなく…、それどころか必要ひつようなる出費しゅっぴはこれをしむべきではなく、されば松平まつだいら因幡いなばそく三郎太郎さぶろうたろう大久保おおくぼ下野しもつけそく榮吉えいきちをそれぞれ中奥なかおく小姓こしょうへと取立とりたてることにより発生はっせいせし、わせて千俵の基本きほん切米きりまいすなわち、蔵米くらまいけっして無駄むだ出費しゅっぴではのうて、それどころか必要ひつようなる出費しゅっぴにて、これをしむべきではなかろう…」

 みなに、とりわけ忠籌ただかずの「金魚きんぎょふん」とも言うべき小笠原おがさわら信喜のぶよしかせるかのように、たたみかけた。

 すると将軍・家斉いえなりが「如何いかにも久周ひさのりもうとおりぞ」と久周ひさのり意見いけん同意どういしたので、久周ひさのり家斉いえなり鎮座ちんざする上段じょうだんへとからだけるや、「ははぁっ」と平伏へいふくした。

 家斉いえなりはそのような久周ひさのりに対して満足気まんぞくげうなずいてみせたかと思うと、

「されば信久のぶひさもうとおり、側衆そばしゅう松平まつだいら因幡いなばそく三郎太郎さぶろうたろうおなじく側衆そばしゅう大久保おおくぼ下野しもつけそく榮吉えいきち両名りょうめい中奥なかおく小姓こしょう取立とりたてようぞ…」

 そう裁断さいだんくだしたので、まずは信久のぶひさ久周ひさのりならい、家斉いえなりの方へとからだけて平伏へいふくし、定信さだのぶ老中ろうじゅうたちもそれにつづいて平伏へいふくした。

 久周ひさのり信久のぶひさとはかい格好かっこうにて、丁度ちょうど、将軍・家斉いえなりはさんでひかえる忠籌ただかず信喜のぶよし二人ふたり不承不承ふしょうぶしょうではあっただろうが、平伏へいふくした。

 こうして中奥なかおく小姓こしょう人事じんじ片付かたづくや、つづけて御三卿ごさんきょう家老かろう人事じんじうつった。

 すなわち、御三卿ごさんきょうひとつ、清水しみず家の家老かろうつとめる岡部おかべ河内守かわちのかみ一徳かずのり人事じんじ、それも降格こうかく人事じんじについて、であった。

 岡部おかべ一徳かずのりは4年前の天明5(1785)年11月に小納戸こなんど頭取とうどりから清水しみず家老かろうへと異動いどうたした。

 これはそれまで清水しみず家老かろうであった本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただが、

おいげて…」

 つまりは老齢ろうれいのために退職たいしょくしたことにより、そこで本多ほんだ昌忠まさただ後任こうにんとして白羽しらはったのが当時とうじ小納戸こなんど頭取とうどりであった岡部おかべ一徳かずのりであった。

 御三卿ごさんきょう家老かろう家政かせいあずかるポストゆえに、財政ざいせいの「エキスパート」とまでは言わないにしても、財政ざいせいつうじているもののぞましく、それがあかしに、御三卿ごさんきょう家老かろう定員ていいんは2人とさだめられてはいるものの、しかし、当主とうしゅ不在ふざいである明屋形あきやかた場合ばあいは2人のうち1人とは勘定かんじょう奉行ぶぎょうとの兼任けんにんであり、実際じっさい田安たやす家がそうであった。

 御三卿ごさんきょうの中でも筆頭ひっとうである田安たやす家はしかし、2年前の天明7(1787)年7月にその当主とうしゅとして一橋ひとつばし治済はるさだ庶子しょしである慶之丞けいのすけむかえられるまでは明屋形あきやかたであった。

 先代せんだい治察はるあきが安永3(1774)年9月にしゅっしてから、慶之丞けいのすけあらたな当主とうしゅとしてむかえられるまでのおおよそ13年ものながきにわたり、田安たやす家は当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたであり、そのかんはずっと、専任せんにん家老かろう一人ひとりで、もう一人ひとり勘定かんじょう奉行ぶぎょう、それも財政ざいせいにな勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう兼任けんにんであった。

 石谷いしがや淡路守あわじのかみ清昌きよまさ松本まつもと伊豆守いずのかみ秀持ひでもち、そして青山あおやま但馬守たじまのかみ成存なりすみがそうであった。

 こと青山あおやま成存なりすみ最後さいご兼任けんにんであり、勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとして田安たやす家老かろうねていた成存なりすみがその兼任けんにんかれたのは慶之丞けいのすけ一橋ひとつばし家から田安たやす家へとうつった、つまりは当主とうしゅとしてむかえられた7月より5ヶ月前の2月のことであった。

 天明7(1787)年の2月にはながあいだ明屋形あきやかたであった田安たやす家の当主とうしゅとして一橋ひとつばし治済はるさだ庶子しょしである慶之丞けいのすけむかえられることが内定ないていしたために、そこで青山あおやま成存なりすみ兼任けんにんかれ、そのうえで、新番頭しんばんがしらであった蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶん専任せんにん田安たやす家老かろうとして異動いどう昇進しょうしんたしたことで、ようやく、専任せんにん家老かろうが2人となった。

 それまでは戸川とがわ山城守やましろのかみ逵和みちとも唯一人ただひとり専任せんにん家老かろうであり、そこへ蜷川にながわ親文ちかぶんあらたな専任せんにん家老かろうとしてくわわったわけである。

 ちなみにその戸川とがわ逵和みちとももそのとし…、天明7(1787)年の11月に大目付おおめつけ異動いどうたしたために、その後任こうにんとしてむかえられたのはほかならぬ青山あおやま成存なりすみであり、今では青山あおやま成存なりすみ蜷川にながわ親文ちかぶんの2人が田安たやす家老かろうつとめていた。

 ともあれこういうわけで、やはり御三卿ごさんきょうである清水しみず家の家老かろうとしては財政ざいせいつうじている勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうのぞましかったが、しかし、その当時とうじ勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう繁忙はんぼうであった。それもなみ繁忙はんぼうではなく、それゆえ勝手かってがたくらべればそれほどいそがしくはない、おも訴訟そしょうつかさど公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうの「サブ」にまわらねばならぬほどであり、それゆえこのような状況下じょうきょうかではとてもではないが勘定かんじょう奉行ぶぎょう公事くじ勝手かってとも異動いどうさせられず、そこで次善じぜんさくとして小納戸こなんど頭取とうどり白羽しらはったのである。

 清水しみず家老かろうとして、勘定かんじょう奉行ぶぎょうわって小納戸こなんど頭取とうどり白羽しらはったのはひとえに、小納戸こなんど頭取とうどりもまた、財政ざいせいになうためであった。

 いや、財政ざいせいになうといってもそれはけっして、勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうのようなだいそれたものではなく、あくまで将軍の御手許金おてもときんようは将軍の「お小遣こづかい」を管理かんりするにぎないのだが、それでも一応いちおうはこれもまた、財政ざいせいになう言っても間違まちがいではなかろう。拡大かくだい解釈かいしゃくそしりはまぬがないとしてもだ。

 そこで小納戸こなんど頭取とうどりしゅうなかでも一番いちばん古株ふるかぶであった岡部おかべ一徳かずのり白羽しらはち、こうして岡部おかべ一徳かずのり本多ほんだ昌忠まさただ後任こうにんとして清水しみず家老かろう着任ちゃくにんし、それまで昌忠まさただとも家老かろうつとめていた吉川よしかわ摂津守せっつのかみ従弼よりすけあらたな相役あいやく…、同僚どうりょうとなったのであった。

 だが結果的けっかてきにはこの人事じんじ失敗しっぱいであった。それと言うのも岡部おかべ一徳かずのりまったくと言ってほど家老かろうとしての職責しょくせきたさなかったからだ。

 岡部おかべ一徳かずのり成程なるほどたしかに中奥なかおくにて小納戸こなんど頭取とうどりとして将軍の「お小遣こづかい」の管理かんりこそになっていたものの、しかし、それ以外いがい世界せかいらなかった。

世間せけんらない…」

 そうえてもいだろう。そこが吉川よしかわ従弼よりすけとのちがい、さらえば前任者ぜんにんしゃである本多ほんだ昌忠まさただとのちがいであった。

 すなわち、本多ほんだ昌忠まさただにしろ吉川よしかわ従弼よりすけにしろ、とも岡部おかべ一徳かずのりおなじく小納戸こなんど頭取とうどり経験者けいけんしゃであり、しかし、昌忠まさただ従弼よりすけ小納戸こなんど頭取とうどりほかにも様々さまざま御役目おやくめのち清水しみず家老かろういたのであった。

 具体的ぐたいてきには本多ほんだ昌忠まさただの場合は小納戸こなんど頭取とうどりから先手さきて弓頭ゆみがしら小普請こぶしん奉行ぶぎょう、そして新番頭しんばんがしらてから清水しみず家老かろうき、一方いっぽう吉川よしかわ従弼よりすけもまた、小納戸こなんど頭取とうどりから目付めつけ小普請こぶしん奉行ぶぎょうてから清水しみず家老かろういた。

 二人ふたりとも小納戸こなんど頭取とうどりほかにも小普請こぶしん奉行ぶぎょうつとめたという共通点きょうつうてんがあった。

 この小普請こぶしん奉行ぶぎょうというポストはおもに江戸城本丸ほんまる西之丸にしのまる、それぞれの大奥おおおくや、あるいは二ノ丸にのまる三ノ丸さんのまる、それに伝奏てんそう屋敷やしき評定所ひょうじょうしょはじめとする御用ごよう屋敷やしきやく屋敷やしき普請ふしん修繕しゅうぜんつかさどり、作事さくじ奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょうならんでぞくに、

下三したさん奉行ぶぎょう

 そうしょうされることもある。

 ただし、小普請こぶしん奉行ぶぎょう作事さくじ奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょうくらべて、下位かい位置いちづけられていた。

 それと言うのも作事さくじ奉行ぶぎょうが江戸城本丸ほんまる西之丸にしのまる、それぞれの表向おもてむきや、あるいは歴代れきだい将軍の霊廟れいびょうのある上野うえの寛永寺かんえいじ普請ふしん修繕しゅうぜんといった大規模だいきぼ工事こうじつかさどり、普請ふしん奉行ぶぎょうおも土木どぼく工事こうじといったこれまた大規模だいきぼ工事こうじつかさどるのに対して、小普請こぶしん奉行ぶぎょう小規模しょうきぼ工事こうじつかさどることに由来ゆらいする。

 そしてこのことは支配しはい殿中でんちゅうせきにもあらわれていた。

 すなわち、作事さくじ奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょうとも老中ろうじゅう支配下しはいかにあり、殿中でんちゅうせき大名だいみょうやくである奏者番そうじゃばんやその筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょうのそれでもある芙蓉之間ふようのまであるのに対して、小普請こぶしん奉行ぶぎょうはと言うと、若年寄わかどしより支配下しはいかにあり、殿中でんちゅうせき中之間なかのまと、芙蓉之間ふようのまよりもおとる。

 また組織そしきにおいても作事さくじ奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょう小普請こぶしん奉行ぶぎょうよりもめぐまれていた。

 すなわち、作事さくじ普請ふしんりょう奉行ぶぎょうには工事こうじ予算よさん見積みつもりといった会計かいけい事務じむつかさどした奉行ぶぎょうがその属僚ぞくりょうとしてはいされているのに対して、小普請こぶしん奉行ぶぎょうにはその属僚ぞくりょうはおらず、それゆえ小普請こぶしん奉行ぶぎょうみずから、陣頭じんとうって、工事こうじ予算よさん見積みつもりをまねばならなかった。

 だがそれだけに、小普請こぶしん奉行ぶぎょう作事さくじ奉行ぶぎょう普請ふしん奉行ぶぎょうくらべて、より実務的じつむてきな、それも財政ざいせいつうずる官僚かんりょうとして成長せいちょうすることが出来でき本多ほんだ昌忠まさただ吉川よしかわ従弼よりすけがそうであった。

 一方いっぽう岡部おかべ一徳かずのりはと言うと、小納戸こなんどから小納戸こなんど頭取とうどりへと昇進しょうしんたしたくちだが、しかし、それ以外いがいのポストは経験けいけんしておらず、将軍の居所きょしょである中奥なかおくばたけしかあゆんではおらず、それゆえ小普請こぶしん奉行ぶぎょうとして大分だいぶまれてきた本多ほんだ昌忠まさただ吉川よしかわ従弼よりすけくらべるとどうしても、

世間せけんらない…」

 そうなってしまう。

 そして岡部おかべ一徳かずのりのその「世間せけんらず」なところが吉川よしかわ従弼よりすけまれたのであった。

 吉川よしかわ従弼よりすけ新任しんにん相役あいやく…、同僚どうりょうである岡部おかべ一徳かずのりが「世間せけんらず」であるのをいことに、清水しみず家の「叩上たたきあげ」とも言うべき勘定かんじょう奉行ぶぎょう長尾ながお幸兵衛こうべえ保章やすあきらなる者とんで、派手はで横領おうりょうひろげたのであった。

 御三卿ごさんきょうには幕府ばくふよりねんに10万石もの経費けいひ支給しきゅうされていた。

 清水しみず家に対しても勿論もちろんそうであり、吉川よしかわ従弼よりすけ長尾ながお幸兵衛こうべえはそれを着服ちゃくふくしたのであった。

 いや、吉川よしかわ従弼よりすけ長尾ながお幸兵衛こうべえによる横領おうりょう本多ほんだ昌忠まさただ従弼よりすけ相役あいやくであったころよりはじめられたものだが、しかし、従弼よりすけは「世間せけんらず」の岡部おかべ一徳かずのりとはちがい、おのれ同様どうよう経理けいりあかるい昌忠まさただ相役あいやくであったころにはその横領おうりょう慎重しんちょうさをきわめた。それこそ徹底的てっていてき監査かんさでもしないかぎりはからないような横領おうりょうであった。

 だがその本多ほんだ昌忠まさただ老齢ろうれいのために隠退いんたいし、その後任こうにんとして「世間せけんらず」の岡部おかべ一徳かずのりおくまれるや、従弼よりすけはこの新任しんにんの、それも「世間せけんらず」の岡部おかべ一徳かずのり完全かんぜんめてかかり、そしてそれは勘定かんじょう奉行ぶぎょう長尾ながお幸兵衛こうべえにしてもそうで、従弼よりすけ幸兵衛こうべえ本多ほんだ昌忠まさただ家老かろうであったころには到底とうていかんがえられないような派手はでな、つまりはおおっぴらに横領おうりょうひろはじめたのであった。

 それに対して本来ほんらいならば、岡部おかべ一徳かずのり吉川よしかわ従弼よりすけ相役あいやくとして、そして勘定かんじょう奉行ぶぎょう長尾ながお幸兵衛こうべえ支配しはいする家老かろうとして、この二人ふたり横領おうりょういさめるべきところであった。あるいは告発こくはつするべきであった。

 だが、御三卿ごさんきょう家老かろうとして、

日々ひび大過たいかなく…」

 ごしたいと、それしかあたまにないわば「ことなかれ主義しゅぎ」の岡部おかべ一徳かずのりにはそのような発想はっそうもとよりなかった。

 いや、岡部おかべ一徳かずのりには無理むりとしても、長尾ながお幸兵衛こうべえおなじく叩上たたきあげにしてその相役あいやくである勘定かんじょう奉行ぶぎょうや、あるいはこおり奉行ぶぎょう清水しみず家にはいたので、かれらが告発こくはつすべきであったが、しかしみな二人ふたりを、とりわけ長尾ながお幸兵衛こうべえおそれて告発こくはつするものはいなかった。

 それと言うのも長尾ながお幸兵衛こうべえもと清水しみず家の所領しょりょうのある甲斐かいにて、代官所だいかんしょ相当そうとうする清水しみず陣屋じんやにおいて手代てだいとしてはたらいていた。清水しみず家へと支給しきゅうされる年貢ねんぐ徴収ちょうしゅうたずさわっていたのだ。

 その長尾ながお幸兵衛こうべえ伝手つてたよって江戸えど清水しみずやかたにて召抱めしかかえられ、そこで幸兵衛こうべえ清水しみず家の当主とうしゅである重好しげよし最側近さいそっきんとも言うべき、その当時とうじ家老かろう側用人そばようにん重職じゅうしょくにあった本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまき徹底的てっていてき取入とりいることで、ついには勘定かんじょう奉行ぶぎょうにまで栄達えいたつげたのであった。

 このような経緯いきさつがあるために、家老かろう吉川よしかわ従弼よりすけもとより、長尾ながお幸兵衛こうべえにはだれ手出てだしが出来できなかった。

 一方いっぽう長尾ながお幸兵衛こうべえ本目ほんめ権右衛門ごんえもんうしだていことにまさに、

「やりたい放題ほうだい

 であった。つまりは家老かろう吉川よしかわ従弼よりすけんで、清水しみず家の財産ざいさんを「もの」にしたわけだが、しかし、長尾ながお幸兵衛こうべえ本目ほんめ権右衛門ごんえもんうしだて威光いこうといったものに安住あんじゅうしていたわけではなかった。

 長尾ながお幸兵衛こうべえ吉川よしかわ従弼よりすけんで着服ちゃくふくしたかね一部いちぶ、それも相当そうとうがく同家どうけつかえる番頭ばんがしら用人ようにん、それにはた奉行ぶぎょう長柄ながえ奉行ぶぎょう、そしてこおり奉行ぶぎょう幸兵衛こうべえ相役あいやくである勘定かんじょう奉行ぶぎょうといった所謂いわゆる、「幹部かんぶクラス」にもばらいていたのだ。

 これではだれ長尾ながお幸兵衛こうべえ注意ちゅうい出来できものなどおらず、結果けっか長尾ながお幸兵衛こうべえ専横せんおうゆるすことになった。

 一方いっぽう吉川よしかわ従弼よりすけにしても明和2(1765)年2月に清水しみず家老かろう着任ちゃくにんするや、清水しみず家においては勘定かんじょう奉行ぶぎょう長尾ながお幸兵衛こうべえがそれこそ、

かげ実力者じつりょくしゃ…」

 そうであることを素早すばや見抜みぬくと、幸兵衛こうべえ横領おうりょうちかけ、幸兵衛こうべえにもそれにり、こうして従弼よりすけ幸兵衛こうべえによるまさに、

二人三脚ににんさんきゃく

 での横領おうりょうはじめられたのであった。

 それでも本多ほんだ昌忠まさただ従弼よりすけ相役あいやくであったころすなわち、明和8(1771)年12月から天明5(1785)年10月までのおおよそ14年間は従弼よりすけ幸兵衛こうべえ横領おうりょう慎重しんちょうさをきわめていたために毎年まいとし2千両の横領おうりょう限界げんかいであった。

 だが、天明5(1785)年10月に本多ほんだ昌忠まさただ退任たいにんし、その後任こうにんとして「世間せけんらず」の岡部おかべ一徳かずのり着任ちゃくにんするや、従弼よりすけ幸兵衛こうべえ横領おうりょう拍車はくしゃがかかり、毎年まいとし横領おうりょうがく一気いっきに10倍、2万両にもふくがった。

 だがそれもつい破局はきょくむかえるときがやってきた。
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