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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・清水家老の岡部河内守一徳の降格人事 1~
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「弾正、山城がことは既に落着しておるぞ…」
代官の引負…、代官が徴収出来なかった年貢の負債を山城こと津田信久が肩代わりすべく、伯母・蓮光院の「生活費」に手をつけた一件は既に、
「暫くの間、将軍・家斉への拝謁を止める…」
その処分で落着を見ていると、久周はその一件を蒸し返そうとする忠籌を制した。
「にもかかわらず、再びこの件を蒸し返そうとは、山城に対しては暫くの間、御前を止めるとの、畏れ多くも上様のご裁許に楯突くも同然であろう」
久周の言う通り、「御前を止める」、即ち、
「暫くの間、将軍・家斉への拝謁を止める…」
その処分を信久に下したのは家斉当人であった。
そして信久はその処分に従い、暫く屋敷にて謹慎したものであり、その処分も既に解け、こうして家斉に接していた。
そうであれば今更、その一件を蒸し返そうとは、成程、将軍・家斉の処分に、
「楯突く…」
とは言い過ぎであるとしても、ケチをつけるも同然であり、これにはさしもの忠籌も口を噤んだ。
こうして久周は忠籌を黙らせるや、
「確かに弾正が申す通り、財政難の折、無駄な出費は慎むべきであろうが、なれど必要なる出費まで切詰めることを意味するものではなく…、それどころか必要なる出費はこれを惜しむべきではなく、されば松平因幡が息・三郎太郎と大久保下野が息・榮吉をそれぞれ中奥小姓へと取立てることにより発生せし、合わせて千俵の基本切米、即ち、蔵米は決して無駄な出費ではのうて、それどころか必要なる出費にて、これを惜しむべきではなかろう…」
皆に、とりわけ忠籌の「金魚の糞」とも言うべき小笠原信喜に聞かせるかのように、畳みかけた。
すると将軍・家斉が「如何にも久周が申す通りぞ」と久周の意見に同意したので、久周は家斉が鎮座する上段へと体を向けるや、「ははぁっ」と平伏した。
家斉はそのような久周に対して満足気に頷いてみせたかと思うと、
「されば信久が申す通り、側衆の松平因幡が息・三郎太郎と同じく側衆の大久保下野が息・榮吉の両名を中奥小姓に取立てようぞ…」
そう裁断を下したので、まずは信久が久周に倣い、家斉の方へと体を向けて平伏し、定信ら老中たちもそれに続いて平伏した。
久周・信久とは向かい合う格好にて、丁度、将軍・家斉を挟んで控える忠籌と信喜の二人も不承不承ではあっただろうが、平伏した。
こうして中奥小姓の人事が片付くや、続けて御三卿家老の人事に移った。
即ち、御三卿の一つ、清水家の家老を勤める岡部河内守一徳の人事、それも降格人事について、であった。
岡部一徳は4年前の天明5(1785)年11月に小納戸頭取から清水家老へと異動を果たした。
これはそれまで清水家老であった本多讃岐守昌忠が、
「老を告げて…」
つまりは老齢のために退職したことにより、そこで本多昌忠の後任として白羽の矢が立ったのが当時、小納戸頭取であった岡部一徳であった。
御三卿家老は家政を預かるポストゆえに、財政の「エキスパート」とまでは言わないにしても、財政に通じている者が望ましく、それが証に、御三卿家老の定員は2人と定められてはいるものの、しかし、当主不在である明屋形の場合は2人のうち1人とは勘定奉行との兼任であり、実際、田安家がそうであった。
御三卿の中でも筆頭である田安家はしかし、2年前の天明7(1787)年7月にその当主として一橋治済が庶子である慶之丞が迎えられるまでは明屋形であった。
先代の治察が安永3(1774)年9月に卒してから、慶之丞が新たな当主として迎えられるまでのおおよそ13年もの長きに亘り、田安家は当主不在の明屋形であり、その間はずっと、専任の家老は一人で、もう一人は勘定奉行、それも財政を担う勝手方勘定奉行の兼任であった。
石谷淡路守清昌や松本伊豆守秀持、そして青山但馬守成存がそうであった。
殊に青山成存は最後の兼任であり、勝手方勘定奉行として田安家老を兼ねていた成存がその兼任を解かれたのは慶之丞が一橋家から田安家へと引き移った、つまりは当主として迎えられた7月より5ヶ月前の2月のことであった。
天明7(1787)年の2月には長い間、明屋形であった田安家の当主として一橋治済が庶子である慶之丞が迎えられることが内定したために、そこで青山成存の兼任が解かれ、その上で、新番頭であった蜷川相模守親文が専任の田安家老として異動、昇進を果たしたことで、漸く、専任の家老が2人となった。
それまでは戸川山城守逵和が唯一人、専任の家老であり、そこへ蜷川親文が新たな専任の家老として加わったわけである。
ちなみにその戸川逵和もその年…、天明7(1787)年の11月に大目付に異動を果たしたために、その後任として迎えられたのは外ならぬ青山成存であり、今では青山成存と蜷川親文の2人が田安家老を勤めていた。
ともあれこういうわけで、やはり御三卿である清水家の家老としては財政に通じている勝手方勘定奉行が望ましかったが、しかし、その当時は勝手方勘定奉行は繁忙であった。それも並の繁忙ではなく、それゆえ勝手方に比べればそれ程、忙しくはない、主に訴訟を掌る公事方勘定奉行が勝手方勘定奉行の「サブ」に回らねばならぬ程であり、それゆえこのような状況下ではとてもではないが勘定奉行は公事、勝手共に異動させられず、そこで次善の策として小納戸頭取に白羽の矢が立ったのである。
清水家老として、勘定奉行に替わって小納戸頭取に白羽の矢が立ったのはひとえに、小納戸頭取もまた、財政を担うためであった。
いや、財政を担うといってもそれは決して、勝手方勘定奉行のような大それたものではなく、あくまで将軍の御手許金、要は将軍の「お小遣い」を管理するに過ぎないのだが、それでも一応はこれもまた、財政を担う言っても間違いではなかろう。拡大解釈の謗りは免れ得ないとしてもだ。
そこで小納戸頭取衆の中でも一番の古株であった岡部一徳に白羽の矢が立ち、こうして岡部一徳は本多昌忠の後任として清水家老に着任し、それまで昌忠と共に家老を勤めていた吉川摂津守従弼の新たな相役…、同僚となったのであった。
だが結果的にはこの人事は失敗であった。それと言うのも岡部一徳は全くと言って良い程に家老としての職責を果たさなかったからだ。
岡部一徳は成程、確かに中奥にて小納戸頭取として将軍の「お小遣い」の管理こそ担っていたものの、しかし、それ以外の世界を知らなかった。
「世間を知らない…」
そう言い換えても良いだろう。そこが吉川従弼との違い、更に言えば前任者である本多昌忠との違いであった。
即ち、本多昌忠にしろ吉川従弼にしろ、共に岡部一徳と同じく小納戸頭取の経験者であり、しかし、昌忠も従弼も小納戸頭取の外にも様々な御役目を経た後、清水家老に就いたのであった。
具体的には本多昌忠の場合は小納戸頭取から先手弓頭、小普請奉行、そして新番頭を経てから清水家老に就き、一方、吉川従弼もまた、小納戸頭取から目付、小普請奉行を経てから清水家老に就いた。
二人共、小納戸頭取の外にも小普請奉行を勤めたという共通点があった。
この小普請奉行というポストは主に江戸城本丸や西之丸、それぞれの大奥や、或いは二ノ丸や三ノ丸、それに伝奏屋敷や評定所を始めとする御用屋敷や役屋敷の普請や修繕を掌り、作事奉行や普請奉行と並んで俗に、
「下三奉行」
そう称されることもある。
但し、小普請奉行は作事奉行や普請奉行に較べて、下位に位置づけられていた。
それと言うのも作事奉行が江戸城本丸や西之丸、それぞれの表向や、或いは歴代将軍の霊廟のある上野寛永寺の普請や修繕といった大規模工事を掌り、普請奉行も主に土木工事といったこれまた大規模工事を掌るのに対して、小普請奉行は小規模工事を掌ることに由来する。
そしてこのことは支配や殿中席にも現れていた。
即ち、作事奉行と普請奉行が共に老中の支配下にあり、殿中席も大名役である奏者番やその筆頭である寺社奉行のそれでもある芙蓉之間であるのに対して、小普請奉行はと言うと、若年寄の支配下にあり、殿中席も中之間と、芙蓉之間よりも劣る。
また組織においても作事奉行と普請奉行は小普請奉行よりも恵まれていた。
即ち、作事・普請の両奉行には工事の予算や見積もりといった会計事務を掌る下奉行がその属僚として配されているのに対して、小普請奉行にはその手の属僚はおらず、それゆえ小普請奉行が自ら、陣頭に立って、工事の予算や見積もりを組まねばならなかった。
だがそれだけに、小普請奉行は作事奉行や普請奉行に較べて、より実務的な、それも財政に通ずる官僚として成長することが出来、本多昌忠と吉川従弼がそうであった。
一方、岡部一徳はと言うと、小納戸から小納戸頭取へと昇進を果たした口だが、しかし、それ以外のポストは経験しておらず、将軍の居所である中奥畑しか歩んではおらず、それゆえ小普請奉行として大分揉まれてきた本多昌忠や吉川従弼に較べるとどうしても、
「世間を知らない…」
そうなってしまう。
そして岡部一徳のその「世間知らず」なところが吉川従弼に突け込まれたのであった。
吉川従弼は新任の相役…、同僚である岡部一徳が「世間知らず」であるのを良いことに、清水家の「叩上あげ」とも言うべき勘定奉行の長尾幸兵衛保章なる者と手を組んで、派手な横領を繰り広げたのであった。
御三卿には幕府より年に10万石もの経費が支給されていた。
清水家に対しても勿論そうであり、吉川従弼と長尾幸兵衛はそれを着服したのであった。
いや、吉川従弼と長尾幸兵衛による横領は本多昌忠が従弼の相役であった頃より始められたものだが、しかし、従弼は「世間知らず」の岡部一徳とは違い、己と同様、経理に明るい昌忠が相役であった頃にはその横領も慎重さを極めた。それこそ徹底的な監査でもしない限りは分からないような横領であった。
だがその本多昌忠が老齢のために隠退し、その後任として「世間知らず」の岡部一徳が送り込まれるや、従弼はこの新任の、それも「世間知らず」の岡部一徳を完全に舐めてかかり、そしてそれは勘定奉行の長尾幸兵衛にしてもそうで、従弼と幸兵衛は本多昌忠が家老であった頃には到底、考えられないような派手な、つまりは大っぴらに横領を繰り広げ始めたのであった。
それに対して本来ならば、岡部一徳が吉川従弼の相役として、そして勘定奉行の長尾幸兵衛を支配する家老として、この二人の横領を諫めるべきところであった。或いは告発するべきであった。
だが、御三卿家老として、
「日々大過なく…」
過ごしたいと、それしか頭にない謂わば「事なかれ主義」の岡部一徳にはそのような発想は元よりなかった。
いや、岡部一徳には無理としても、長尾幸兵衛と同じく叩上げにしてその相役である勘定奉行や、或いは郡奉行が清水家にはいたので、彼らが告発すべきであったが、しかし皆、二人を、とりわけ長尾幸兵衛を恐れて告発する者はいなかった。
それと言うのも長尾幸兵衛は元は清水家の所領のある甲斐にて、代官所に相当する清水陣屋において手代として働いていた。清水家へと支給される年貢の徴収に携わっていたのだ。
その長尾幸兵衛は伝手を頼って江戸の清水館にて召抱えられ、そこで幸兵衛は清水家の当主である重好の最側近とも言うべき、その当時は家老に次ぐ側用人の重職にあった本目権右衛門親収に徹底的に取入ることで、遂には勘定奉行にまで栄達を遂げたのであった。
このような経緯があるために、家老の吉川従弼は元より、長尾幸兵衛には誰も手出しが出来なかった。
一方、長尾幸兵衛も本目権右衛門の後ろ盾を良いことに正に、
「やりたい放題」
であった。つまりは家老の吉川従弼と手を組んで、清水家の財産を「食い物」にしたわけだが、しかし、長尾幸兵衛は本目権右衛門の後ろ盾、威光といったものに安住していたわけではなかった。
長尾幸兵衛は吉川従弼と手を組んで着服した金の一部、それも相当な額を同家に仕える番頭や用人、それに旗奉行や長柄奉行、そして郡奉行や幸兵衛の相役である勘定奉行といった所謂、「幹部クラス」にもばら撒いていたのだ。
これでは誰も長尾幸兵衛に注意出来る者などおらず、結果、長尾幸兵衛の専横を許すことになった。
一方、吉川従弼にしても明和2(1765)年2月に清水家老に着任するや、清水家においては勘定奉行の長尾幸兵衛がそれこそ、
「陰の実力者…」
そうであることを素早く見抜くと、幸兵衛に横領を持ちかけ、幸兵衛にもそれに乗り、こうして従弼と幸兵衛による正に、
「二人三脚」
での横領が始められたのであった。
それでも本多昌忠が従弼の相役であった頃、即ち、明和8(1771)年12月から天明5(1785)年10月までのおおよそ14年間は従弼と幸兵衛の横領も慎重さを極めていたために毎年2千両の横領が限界であった。
だが、天明5(1785)年10月に本多昌忠が退任し、その後任として「世間知らず」の岡部一徳が着任するや、従弼と幸兵衛の横領に拍車がかかり、毎年の横領額は一気に10倍、2万両にも膨れ上がった。
だがそれも遂に破局を迎える時がやってきた。
代官の引負…、代官が徴収出来なかった年貢の負債を山城こと津田信久が肩代わりすべく、伯母・蓮光院の「生活費」に手をつけた一件は既に、
「暫くの間、将軍・家斉への拝謁を止める…」
その処分で落着を見ていると、久周はその一件を蒸し返そうとする忠籌を制した。
「にもかかわらず、再びこの件を蒸し返そうとは、山城に対しては暫くの間、御前を止めるとの、畏れ多くも上様のご裁許に楯突くも同然であろう」
久周の言う通り、「御前を止める」、即ち、
「暫くの間、将軍・家斉への拝謁を止める…」
その処分を信久に下したのは家斉当人であった。
そして信久はその処分に従い、暫く屋敷にて謹慎したものであり、その処分も既に解け、こうして家斉に接していた。
そうであれば今更、その一件を蒸し返そうとは、成程、将軍・家斉の処分に、
「楯突く…」
とは言い過ぎであるとしても、ケチをつけるも同然であり、これにはさしもの忠籌も口を噤んだ。
こうして久周は忠籌を黙らせるや、
「確かに弾正が申す通り、財政難の折、無駄な出費は慎むべきであろうが、なれど必要なる出費まで切詰めることを意味するものではなく…、それどころか必要なる出費はこれを惜しむべきではなく、されば松平因幡が息・三郎太郎と大久保下野が息・榮吉をそれぞれ中奥小姓へと取立てることにより発生せし、合わせて千俵の基本切米、即ち、蔵米は決して無駄な出費ではのうて、それどころか必要なる出費にて、これを惜しむべきではなかろう…」
皆に、とりわけ忠籌の「金魚の糞」とも言うべき小笠原信喜に聞かせるかのように、畳みかけた。
すると将軍・家斉が「如何にも久周が申す通りぞ」と久周の意見に同意したので、久周は家斉が鎮座する上段へと体を向けるや、「ははぁっ」と平伏した。
家斉はそのような久周に対して満足気に頷いてみせたかと思うと、
「されば信久が申す通り、側衆の松平因幡が息・三郎太郎と同じく側衆の大久保下野が息・榮吉の両名を中奥小姓に取立てようぞ…」
そう裁断を下したので、まずは信久が久周に倣い、家斉の方へと体を向けて平伏し、定信ら老中たちもそれに続いて平伏した。
久周・信久とは向かい合う格好にて、丁度、将軍・家斉を挟んで控える忠籌と信喜の二人も不承不承ではあっただろうが、平伏した。
こうして中奥小姓の人事が片付くや、続けて御三卿家老の人事に移った。
即ち、御三卿の一つ、清水家の家老を勤める岡部河内守一徳の人事、それも降格人事について、であった。
岡部一徳は4年前の天明5(1785)年11月に小納戸頭取から清水家老へと異動を果たした。
これはそれまで清水家老であった本多讃岐守昌忠が、
「老を告げて…」
つまりは老齢のために退職したことにより、そこで本多昌忠の後任として白羽の矢が立ったのが当時、小納戸頭取であった岡部一徳であった。
御三卿家老は家政を預かるポストゆえに、財政の「エキスパート」とまでは言わないにしても、財政に通じている者が望ましく、それが証に、御三卿家老の定員は2人と定められてはいるものの、しかし、当主不在である明屋形の場合は2人のうち1人とは勘定奉行との兼任であり、実際、田安家がそうであった。
御三卿の中でも筆頭である田安家はしかし、2年前の天明7(1787)年7月にその当主として一橋治済が庶子である慶之丞が迎えられるまでは明屋形であった。
先代の治察が安永3(1774)年9月に卒してから、慶之丞が新たな当主として迎えられるまでのおおよそ13年もの長きに亘り、田安家は当主不在の明屋形であり、その間はずっと、専任の家老は一人で、もう一人は勘定奉行、それも財政を担う勝手方勘定奉行の兼任であった。
石谷淡路守清昌や松本伊豆守秀持、そして青山但馬守成存がそうであった。
殊に青山成存は最後の兼任であり、勝手方勘定奉行として田安家老を兼ねていた成存がその兼任を解かれたのは慶之丞が一橋家から田安家へと引き移った、つまりは当主として迎えられた7月より5ヶ月前の2月のことであった。
天明7(1787)年の2月には長い間、明屋形であった田安家の当主として一橋治済が庶子である慶之丞が迎えられることが内定したために、そこで青山成存の兼任が解かれ、その上で、新番頭であった蜷川相模守親文が専任の田安家老として異動、昇進を果たしたことで、漸く、専任の家老が2人となった。
それまでは戸川山城守逵和が唯一人、専任の家老であり、そこへ蜷川親文が新たな専任の家老として加わったわけである。
ちなみにその戸川逵和もその年…、天明7(1787)年の11月に大目付に異動を果たしたために、その後任として迎えられたのは外ならぬ青山成存であり、今では青山成存と蜷川親文の2人が田安家老を勤めていた。
ともあれこういうわけで、やはり御三卿である清水家の家老としては財政に通じている勝手方勘定奉行が望ましかったが、しかし、その当時は勝手方勘定奉行は繁忙であった。それも並の繁忙ではなく、それゆえ勝手方に比べればそれ程、忙しくはない、主に訴訟を掌る公事方勘定奉行が勝手方勘定奉行の「サブ」に回らねばならぬ程であり、それゆえこのような状況下ではとてもではないが勘定奉行は公事、勝手共に異動させられず、そこで次善の策として小納戸頭取に白羽の矢が立ったのである。
清水家老として、勘定奉行に替わって小納戸頭取に白羽の矢が立ったのはひとえに、小納戸頭取もまた、財政を担うためであった。
いや、財政を担うといってもそれは決して、勝手方勘定奉行のような大それたものではなく、あくまで将軍の御手許金、要は将軍の「お小遣い」を管理するに過ぎないのだが、それでも一応はこれもまた、財政を担う言っても間違いではなかろう。拡大解釈の謗りは免れ得ないとしてもだ。
そこで小納戸頭取衆の中でも一番の古株であった岡部一徳に白羽の矢が立ち、こうして岡部一徳は本多昌忠の後任として清水家老に着任し、それまで昌忠と共に家老を勤めていた吉川摂津守従弼の新たな相役…、同僚となったのであった。
だが結果的にはこの人事は失敗であった。それと言うのも岡部一徳は全くと言って良い程に家老としての職責を果たさなかったからだ。
岡部一徳は成程、確かに中奥にて小納戸頭取として将軍の「お小遣い」の管理こそ担っていたものの、しかし、それ以外の世界を知らなかった。
「世間を知らない…」
そう言い換えても良いだろう。そこが吉川従弼との違い、更に言えば前任者である本多昌忠との違いであった。
即ち、本多昌忠にしろ吉川従弼にしろ、共に岡部一徳と同じく小納戸頭取の経験者であり、しかし、昌忠も従弼も小納戸頭取の外にも様々な御役目を経た後、清水家老に就いたのであった。
具体的には本多昌忠の場合は小納戸頭取から先手弓頭、小普請奉行、そして新番頭を経てから清水家老に就き、一方、吉川従弼もまた、小納戸頭取から目付、小普請奉行を経てから清水家老に就いた。
二人共、小納戸頭取の外にも小普請奉行を勤めたという共通点があった。
この小普請奉行というポストは主に江戸城本丸や西之丸、それぞれの大奥や、或いは二ノ丸や三ノ丸、それに伝奏屋敷や評定所を始めとする御用屋敷や役屋敷の普請や修繕を掌り、作事奉行や普請奉行と並んで俗に、
「下三奉行」
そう称されることもある。
但し、小普請奉行は作事奉行や普請奉行に較べて、下位に位置づけられていた。
それと言うのも作事奉行が江戸城本丸や西之丸、それぞれの表向や、或いは歴代将軍の霊廟のある上野寛永寺の普請や修繕といった大規模工事を掌り、普請奉行も主に土木工事といったこれまた大規模工事を掌るのに対して、小普請奉行は小規模工事を掌ることに由来する。
そしてこのことは支配や殿中席にも現れていた。
即ち、作事奉行と普請奉行が共に老中の支配下にあり、殿中席も大名役である奏者番やその筆頭である寺社奉行のそれでもある芙蓉之間であるのに対して、小普請奉行はと言うと、若年寄の支配下にあり、殿中席も中之間と、芙蓉之間よりも劣る。
また組織においても作事奉行と普請奉行は小普請奉行よりも恵まれていた。
即ち、作事・普請の両奉行には工事の予算や見積もりといった会計事務を掌る下奉行がその属僚として配されているのに対して、小普請奉行にはその手の属僚はおらず、それゆえ小普請奉行が自ら、陣頭に立って、工事の予算や見積もりを組まねばならなかった。
だがそれだけに、小普請奉行は作事奉行や普請奉行に較べて、より実務的な、それも財政に通ずる官僚として成長することが出来、本多昌忠と吉川従弼がそうであった。
一方、岡部一徳はと言うと、小納戸から小納戸頭取へと昇進を果たした口だが、しかし、それ以外のポストは経験しておらず、将軍の居所である中奥畑しか歩んではおらず、それゆえ小普請奉行として大分揉まれてきた本多昌忠や吉川従弼に較べるとどうしても、
「世間を知らない…」
そうなってしまう。
そして岡部一徳のその「世間知らず」なところが吉川従弼に突け込まれたのであった。
吉川従弼は新任の相役…、同僚である岡部一徳が「世間知らず」であるのを良いことに、清水家の「叩上あげ」とも言うべき勘定奉行の長尾幸兵衛保章なる者と手を組んで、派手な横領を繰り広げたのであった。
御三卿には幕府より年に10万石もの経費が支給されていた。
清水家に対しても勿論そうであり、吉川従弼と長尾幸兵衛はそれを着服したのであった。
いや、吉川従弼と長尾幸兵衛による横領は本多昌忠が従弼の相役であった頃より始められたものだが、しかし、従弼は「世間知らず」の岡部一徳とは違い、己と同様、経理に明るい昌忠が相役であった頃にはその横領も慎重さを極めた。それこそ徹底的な監査でもしない限りは分からないような横領であった。
だがその本多昌忠が老齢のために隠退し、その後任として「世間知らず」の岡部一徳が送り込まれるや、従弼はこの新任の、それも「世間知らず」の岡部一徳を完全に舐めてかかり、そしてそれは勘定奉行の長尾幸兵衛にしてもそうで、従弼と幸兵衛は本多昌忠が家老であった頃には到底、考えられないような派手な、つまりは大っぴらに横領を繰り広げ始めたのであった。
それに対して本来ならば、岡部一徳が吉川従弼の相役として、そして勘定奉行の長尾幸兵衛を支配する家老として、この二人の横領を諫めるべきところであった。或いは告発するべきであった。
だが、御三卿家老として、
「日々大過なく…」
過ごしたいと、それしか頭にない謂わば「事なかれ主義」の岡部一徳にはそのような発想は元よりなかった。
いや、岡部一徳には無理としても、長尾幸兵衛と同じく叩上げにしてその相役である勘定奉行や、或いは郡奉行が清水家にはいたので、彼らが告発すべきであったが、しかし皆、二人を、とりわけ長尾幸兵衛を恐れて告発する者はいなかった。
それと言うのも長尾幸兵衛は元は清水家の所領のある甲斐にて、代官所に相当する清水陣屋において手代として働いていた。清水家へと支給される年貢の徴収に携わっていたのだ。
その長尾幸兵衛は伝手を頼って江戸の清水館にて召抱えられ、そこで幸兵衛は清水家の当主である重好の最側近とも言うべき、その当時は家老に次ぐ側用人の重職にあった本目権右衛門親収に徹底的に取入ることで、遂には勘定奉行にまで栄達を遂げたのであった。
このような経緯があるために、家老の吉川従弼は元より、長尾幸兵衛には誰も手出しが出来なかった。
一方、長尾幸兵衛も本目権右衛門の後ろ盾を良いことに正に、
「やりたい放題」
であった。つまりは家老の吉川従弼と手を組んで、清水家の財産を「食い物」にしたわけだが、しかし、長尾幸兵衛は本目権右衛門の後ろ盾、威光といったものに安住していたわけではなかった。
長尾幸兵衛は吉川従弼と手を組んで着服した金の一部、それも相当な額を同家に仕える番頭や用人、それに旗奉行や長柄奉行、そして郡奉行や幸兵衛の相役である勘定奉行といった所謂、「幹部クラス」にもばら撒いていたのだ。
これでは誰も長尾幸兵衛に注意出来る者などおらず、結果、長尾幸兵衛の専横を許すことになった。
一方、吉川従弼にしても明和2(1765)年2月に清水家老に着任するや、清水家においては勘定奉行の長尾幸兵衛がそれこそ、
「陰の実力者…」
そうであることを素早く見抜くと、幸兵衛に横領を持ちかけ、幸兵衛にもそれに乗り、こうして従弼と幸兵衛による正に、
「二人三脚」
での横領が始められたのであった。
それでも本多昌忠が従弼の相役であった頃、即ち、明和8(1771)年12月から天明5(1785)年10月までのおおよそ14年間は従弼と幸兵衛の横領も慎重さを極めていたために毎年2千両の横領が限界であった。
だが、天明5(1785)年10月に本多昌忠が退任し、その後任として「世間知らず」の岡部一徳が着任するや、従弼と幸兵衛の横領に拍車がかかり、毎年の横領額は一気に10倍、2万両にも膨れ上がった。
だがそれも遂に破局を迎える時がやってきた。
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歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
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俣彦
歴史・時代
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歴史・時代
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蔵屋
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