元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 9~

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 こうして牧野まきの忠精ただきよ加納かのう久周ひさのり仲裁ちゅうさいたのむべく、いったん評定所ひょうじょうしょをあとにすると江戸城おしろへともどった。

 そのとき久周ひさのり中奥なかおくにて相役あいやく小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよしや、さらには側用人そばようにん本多ほんだ弾正だんじょう大弼だいひつ忠籌ただかずとそして奥詰おくづめ津田つだ山城守やましろのかみ信久のぶひさとも少年しょうねん将軍・家斉いえなり政務せいむ補佐ほさたっていた。

 忠精ただきよ久周ひさのりんだのはまさにそのようなときであり、しかし、家斉いえなり手前てまえ事実じじつを、すなわち、

町奉行まちぶぎょう初鹿野はじかの信興のぶおき寺社じしゃ奉行ぶぎょうらをこうにまわしていまにも大立回おおたちまわりがえんじられそう…」

 だから仲裁ちゅうさいをしてしい、などとはけられず、そこで、

審理しんりもつれているのでちからしてしい…」

 忠精ただきよはそう適当てきとう口実こうじつをもうけては、久周ひさのりつかえる時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずかいして久周ひさのりしたのであった。

 一方いっぽう家斉いえなり政務せいむ補佐ほさたっていた久周ひさのりはと言うと、忠精ただきよよりの言伝ことづてたずさえてその姿すがたせた時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうずより忠精ただきよよりの「言伝ことづて」をつたえられるや、たして中座ちゅうざしていものかと、流石さすが判断はんだんまよったものの、

ぐにかうがいぞ」

 家斉いえなりからそうすすめられたので、そこで久周ひさのり家斉いえなり厚意こうい素直すなおあまえることにし、中座ちゅうざした。

 そうして久周ひさのり表向おもてむき中奥なかおくとの「境界きょうかい」である時斗之間とけいのまにて待機たいきする忠精ただきよ合流ごうりゅうするや、忠精ただきよ案内あんないにて評定所ひょうじょうしょへとあしはこんだのであった。

 その道中どうちゅう久周ひさのり忠精ただきよから「事実じじつ」をけられ、流石さすが仰天ぎょうてんすると同時どうじ合点がてんがいった。それと言うのもそのとき評定所ひょうじょうしょにおける審理しんりはさしてもつれるような事案じあんはないはずであったからだ。

 それが忠精ただきよから「事情じじょう」をけられたことで、久周ひさのり態々わざわざおいである忠精ただきよ出張でばってきたことに合点がてんがいったのであった。

 と同時どうじに、久周ひさのり暗澹あんたんたる気分きぶんおそわれもした。まさか評定所ひょうじょうしょがそのような「惨状さんじょう」になっていたとはおもいもしなかったからだ。

 ともあれ久周ひさのり忠精ただきよとも評定所ひょうじょうしょへといそいだ。

 さて、御側御用取次おそばごようとりつぎ加納かのう久周ひさのり評定所ひょうじょうしょ姿すがたせると、評定所ひょうじょうしょ支配しはいしていためた空気くうきやわらいだ。

 それまでたがいににらっていた初鹿野はじかの信興のぶおき牧野まきの忠精ただきよのぞいた寺社奉行じしゃ奉行ぶぎょう一党いっとう加納かのう久周ひさのり登場とうじょうおどろくと同時どうじに、久周ひさのりに対して平伏へいふくしようとしたので、それを久周ひさのりせいするや、

牧野まきの備前びぜんより審理しんりもつれているとうかがったが…」

 初鹿野はじかの信興のぶおきらに対してそうした。無論むろん実際じっさいには審理しんりもつれていたわけではなく、そのことは久周ひさのり勿論もちろん承知しょうちしていたが、しかし、

「おまえら、喧嘩けんか寸前すんぜんのようだな…」

 そう真実しんじつしては初鹿野はじかの信興のぶおきらの面子めんつを、こと信興のぶおき挑発ちょうはつせられる格好かっこういまにも信興のぶおきと「大立回おおたちまわり」をえんじようとしていた寺社じしゃ奉行ぶぎょう一党いっとう面子めんつつぶすことにもなりかねなかったので、そこで久周ひさのりおい忠精ただきよ当初とうしょ、将軍・家斉いえなり政務せいむ補佐ほさたっていた最中さなかおのれさい使つかった口実こうじつをそのまま拝借はいしゃくしたのであった。

 一方いっぽういまにも「大立回おおたちまわり」をえんじようとしていた初鹿野はじかの信興のぶおきらはと、流石さすが赤面せきめんした。それはほかでもない、久周ひさのりが「事実じじつ」を、つまりはおのれらがいまにも「大立回おおたちまわり」をえんじようとしていたことを把握はあくしていると、そのことをさっしたからだ。

 久周ひさのり忠精ただきよ案内あんないにてここ評定所ひょうじょうしょへとあしはこんだのであった。そうであればその道中どうちゅう忠精ただきよよりその「事実じじつ」がつたえられているはずであったからだ。

 初鹿野はじかの信興のぶおきらはそれゆえにおのれらのその、

大人気おとなげない態度たいど…」

 それにづかされ、赤面せきめんしたのであった。

 とりわけ「元凶げんきょう」とも言うべき初鹿野はじかの信興のぶおきがそうであった。

 信興のぶおき相手あいて大名だいみょうである寺社じしゃ奉行ぶぎょうであっても一歩いっぽかぬ「いのしし武者むしゃ」であり、それゆえおなじく大名だいみょうである加納かのう久周ひさのりに対しても、

一歩いっぽかぬ…」

 そのような「いのしし武者むしゃ」ぶりをけてくれるかとおもいきや、豈図あにはからんや、久周ひさのりにはこうべれるというじつ殊勝しゅしょうなる態度たいどせたのであった。

 いのしし武者むしゃ信興のぶおき加納かのう久周ひさのりに対しては殊勝しゅしょうなる態度たいどせた背景はいけいとして、

久周ひさのりが将軍・家斉いえなり信任しんにんあつい御側御用取次おそばごようとりつぎだから…」

 という事情じじょうがまずげられよう。

 だがそれ以上いじょうに、久周ひさのり自身じしん事情じじょうによる。

 すなわち、久周ひさのりにはいのしし武者むしゃである信興のぶおきでさえも殊勝しゅしょうなる態度たいどらせてしまうほど威厳いげんそなえており、それゆえ信興のぶおき久周ひさのりのその「威厳いげん」をまえにして自然しぜんこうべれさせたのであった。

 久周ひさのりはそのような信興のぶおきに対して、

「されば信興のぶおきよ、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう欠座けつざさせるにはおよばぬな?」

 曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう退席たいせきさせなくてもいなと、念押ねんおしするようにそうげたので、これには信興のぶおきも「ははぁっ」とこたえるよりほかにはなかった。

 すると久周ひさのりおのれ言葉ことばしたがった信興のぶおきに対してうなずいてみせるや、忠精ただきよのぞいた寺社じしゃ奉行ぶぎょう一党いっとう…、松平まつだいら輝和てるやす板倉いたくら勝政かつまさ松平まつだいら信道のぶみちの3人の寺社じしゃ奉行ぶぎょうに対しても、

しからばこれでもつれしいとけたな?」

 やはり念押ねんおしするようにそう言った。そのこころは、

「これで信興のぶおき大立回おおたちまわりなどえんじたりはしてくれるなよ?」

 というものであり、輝和てるやすらも信興のぶおき同様どうよう殊勝しゅしょうにもこうべれてみせることで久周ひさのり言葉ことばしたがったのだ。
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