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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 12~
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勘定奉行は訴訟を担う公事方と財政を担う勝手方とに分かれており、このうち評定所一座として評定所に出廷することが認められているのは公事方であるが、しかし、序列という点では勝手方の方が公事方よりも格上であった。
そしてこの時点で、即ち、天明8(1788)年11月の時点では勝手方は柳生久通と、それに久世廣民と久保田正邦の3人もの奉行が存しており、本来ならば勝手方勘定奉行として最も長いキャリアを誇る久世廣民が勘定奉行上座に位置すべきところ、しかし、老中首座の松平定信の温情により柳生久通にその地位が与えられていたのだ。
そのような経緯があるだけに、信久らは忠籌が提案した、
「勝手方勘定奉行の柳生久通を公事方勘定奉行への横滑りさせる…」
その人事案に難色を示したのであった。
しかも公事方勘定奉行は訴訟を担うために、町奉行と似ており、つまりは、
「当意即妙…」
その才覚が要求され、その才覚に欠ける柳生久通には到底、勤まらぬであろう。
加納久周がその点を、柳生久通の面子も考えて、
「やんわりと…」
だが、柳生久通には当意即妙さが要求される公事方勘定奉行は荷が重いのではないかと、忠籌に反問したのであった。
すると忠籌はその反問を織り込み済みであったらしく、
「いやいや、それなれば相役もあることゆえ、懸念には及ぶまいて…」
相役である根岸鎮衛の「サポート」が期待出来るので柳生久通でも勤まる…、忠籌は久周の反問に対してそう応じたのであった。
だがこれに信久が更なる反問を試みた。
「これは異なことを…」
そう切り出した信久に対して忠籌は、「なにっ!?」とドスを利かせて睨め付けたものの、しかし信久は些かも動ずることなく続けた。
「柳生主膳は北の町奉行の折にも相役として山村信濃なる南の町奉行がいたにもかかわらず、町奉行としての勤めを果たし得ず…」
信久は柳生久通が北の町奉行時代には山村信濃こと信濃守良旺という同僚である南の町奉行がいたにもかかわらず、能力不足のために町奉行としての勤めを満足に果たせなかったことを「ストレート」に指摘するや、
「されば公事方勘定奉行として根岸肥前がいたとしても…、肥前が助を得たところで、やはり柳生主膳には町奉行の折と同様、その勤めを果たし得ないのでは?」
そのような柳生久通が今度は公事方勘定奉行として、根岸肥前こと肥前守鎮衛に「サポート」して貰ったところでやはり、北町奉行の時と同様、満足に勤めを果たせないのではないかとも、主張した。
「それよりは久世丹後か、或いは久保田佐渡を公事方へと異動させるのが上策ではござるまいか?」
信久は更にそう「逆提案」した。
「されば久世丹後は長崎奉行より、久保田佐渡は佐渡奉行より、それぞれ勘定奉行へと進みしゆえ…」
長崎奉行や佐渡奉行は遠国奉行であり、遠国奉行から勘定奉行への異動は紛れもなき昇進であり、それも、
「典型的な…」
昇進コースであり、それゆえ久世丹後こと丹後守廣民や久保田佐渡こと佐渡守正邦は江戸町奉行から勘定奉行へと左遷させられた柳生久通とは違い、それゆえその久世廣民や久保田正邦の方が柳生久通よりも遥かに公事方勘定奉行が相応しいと断言出来た。
「殊に久保田佐渡は根岸肥前と同じく、勘定吟味役、佐渡奉行を経て勘定奉行へと進みし程の者なれば…」
久保田正邦は「叩上げ」である根岸鎮衛と全く同様の「コース」を辿って勘定奉行に上り詰めただけあって、鎮衛同様に海千山千、当意即妙であり、久世廣民以上に公事方勘定奉行に相応しいと言えた。
するとここで忠籌は度々の信久の反論が、それも己を黙らせ、あまつさえ、腰巾着である小笠原信喜までをも頷かせる程に説得力のある反論が余程に腹に据えかねたらしく、思わず我を忘れたのであろう、
「久保田佐渡は佐渡奉行より勝手方奉行へと進んでからまだ日が浅い…、半年しか経ってはおらず、斯かる佐渡を勝手方より格下の公事方へと遷しては如何にも佐渡が憐れであろうぞ」
何を血迷ったのか、そう反対したのであった。
成程、確かに忠籌の言う通り、この時点では久保田正邦は天明8(1788)年の5月に佐渡奉行から勘定奉行へと、それも格上の勝手方勘定奉行へと昇進を果たしてからまだ半年しか経ってはいなかった。
だがそれを言うなら柳生久通とて江戸北町奉行から勝手方勘定奉行へと左遷させられてからまだ2ヶ月しか経ってはおらず、信久がこの点指摘するや、忠籌も己の迂闊さに気づいたようで、
「懲りずに…」
と言うべきであろうか、黙り込んだ。
すると信久はそのような忠籌の不様な姿が痛快であったのであろう、「追撃」した。
「いやいや、弾正大弼が申す通り、久保田佐渡も柳生主膳同様、いや、柳生主膳の場合は左遷でござろうが、ともあれ、勝手方勘定奉行に取立てられてからまだ半年しか経ち申さず、それを格下の公事方へと遷しては成程、如何にも久保田佐渡が憐れにて、されば久世丹後を公事方へと遷しては如何でござろうか?久世丹後は長崎奉行より勝手方勘定奉行へと昇進を果たし申してから既に4年以上が経ち申すゆえ…」
久世廣民は天明4(1784)年3月に長崎奉行から勝手方勘定奉行へと昇進を果たしたので、信久が言う通り、既に4年以上が経っていた。
「さればその上で、久世丹後には勝手方の次席、否、勝手方と同格と位置づけられましては如何でござりましょうや…」
信久は将軍・家斉の方を向いてそう提案した。
そしてこの時点で、即ち、天明8(1788)年11月の時点では勝手方は柳生久通と、それに久世廣民と久保田正邦の3人もの奉行が存しており、本来ならば勝手方勘定奉行として最も長いキャリアを誇る久世廣民が勘定奉行上座に位置すべきところ、しかし、老中首座の松平定信の温情により柳生久通にその地位が与えられていたのだ。
そのような経緯があるだけに、信久らは忠籌が提案した、
「勝手方勘定奉行の柳生久通を公事方勘定奉行への横滑りさせる…」
その人事案に難色を示したのであった。
しかも公事方勘定奉行は訴訟を担うために、町奉行と似ており、つまりは、
「当意即妙…」
その才覚が要求され、その才覚に欠ける柳生久通には到底、勤まらぬであろう。
加納久周がその点を、柳生久通の面子も考えて、
「やんわりと…」
だが、柳生久通には当意即妙さが要求される公事方勘定奉行は荷が重いのではないかと、忠籌に反問したのであった。
すると忠籌はその反問を織り込み済みであったらしく、
「いやいや、それなれば相役もあることゆえ、懸念には及ぶまいて…」
相役である根岸鎮衛の「サポート」が期待出来るので柳生久通でも勤まる…、忠籌は久周の反問に対してそう応じたのであった。
だがこれに信久が更なる反問を試みた。
「これは異なことを…」
そう切り出した信久に対して忠籌は、「なにっ!?」とドスを利かせて睨め付けたものの、しかし信久は些かも動ずることなく続けた。
「柳生主膳は北の町奉行の折にも相役として山村信濃なる南の町奉行がいたにもかかわらず、町奉行としての勤めを果たし得ず…」
信久は柳生久通が北の町奉行時代には山村信濃こと信濃守良旺という同僚である南の町奉行がいたにもかかわらず、能力不足のために町奉行としての勤めを満足に果たせなかったことを「ストレート」に指摘するや、
「されば公事方勘定奉行として根岸肥前がいたとしても…、肥前が助を得たところで、やはり柳生主膳には町奉行の折と同様、その勤めを果たし得ないのでは?」
そのような柳生久通が今度は公事方勘定奉行として、根岸肥前こと肥前守鎮衛に「サポート」して貰ったところでやはり、北町奉行の時と同様、満足に勤めを果たせないのではないかとも、主張した。
「それよりは久世丹後か、或いは久保田佐渡を公事方へと異動させるのが上策ではござるまいか?」
信久は更にそう「逆提案」した。
「されば久世丹後は長崎奉行より、久保田佐渡は佐渡奉行より、それぞれ勘定奉行へと進みしゆえ…」
長崎奉行や佐渡奉行は遠国奉行であり、遠国奉行から勘定奉行への異動は紛れもなき昇進であり、それも、
「典型的な…」
昇進コースであり、それゆえ久世丹後こと丹後守廣民や久保田佐渡こと佐渡守正邦は江戸町奉行から勘定奉行へと左遷させられた柳生久通とは違い、それゆえその久世廣民や久保田正邦の方が柳生久通よりも遥かに公事方勘定奉行が相応しいと断言出来た。
「殊に久保田佐渡は根岸肥前と同じく、勘定吟味役、佐渡奉行を経て勘定奉行へと進みし程の者なれば…」
久保田正邦は「叩上げ」である根岸鎮衛と全く同様の「コース」を辿って勘定奉行に上り詰めただけあって、鎮衛同様に海千山千、当意即妙であり、久世廣民以上に公事方勘定奉行に相応しいと言えた。
するとここで忠籌は度々の信久の反論が、それも己を黙らせ、あまつさえ、腰巾着である小笠原信喜までをも頷かせる程に説得力のある反論が余程に腹に据えかねたらしく、思わず我を忘れたのであろう、
「久保田佐渡は佐渡奉行より勝手方奉行へと進んでからまだ日が浅い…、半年しか経ってはおらず、斯かる佐渡を勝手方より格下の公事方へと遷しては如何にも佐渡が憐れであろうぞ」
何を血迷ったのか、そう反対したのであった。
成程、確かに忠籌の言う通り、この時点では久保田正邦は天明8(1788)年の5月に佐渡奉行から勘定奉行へと、それも格上の勝手方勘定奉行へと昇進を果たしてからまだ半年しか経ってはいなかった。
だがそれを言うなら柳生久通とて江戸北町奉行から勝手方勘定奉行へと左遷させられてからまだ2ヶ月しか経ってはおらず、信久がこの点指摘するや、忠籌も己の迂闊さに気づいたようで、
「懲りずに…」
と言うべきであろうか、黙り込んだ。
すると信久はそのような忠籌の不様な姿が痛快であったのであろう、「追撃」した。
「いやいや、弾正大弼が申す通り、久保田佐渡も柳生主膳同様、いや、柳生主膳の場合は左遷でござろうが、ともあれ、勝手方勘定奉行に取立てられてからまだ半年しか経ち申さず、それを格下の公事方へと遷しては成程、如何にも久保田佐渡が憐れにて、されば久世丹後を公事方へと遷しては如何でござろうか?久世丹後は長崎奉行より勝手方勘定奉行へと昇進を果たし申してから既に4年以上が経ち申すゆえ…」
久世廣民は天明4(1784)年3月に長崎奉行から勝手方勘定奉行へと昇進を果たしたので、信久が言う通り、既に4年以上が経っていた。
「さればその上で、久世丹後には勝手方の次席、否、勝手方と同格と位置づけられましては如何でござりましょうや…」
信久は将軍・家斉の方を向いてそう提案した。
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