元気出せ、金太郎

ご隠居

文字の大きさ
20 / 32

承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 13~

しおりを挟む
 勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうから格下かくした公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうへの異動いどう横滑よこすべりは明確めいかく左遷させんとまでは言いれないにしても、しかし、格下かくさげのかんまぬがない。

 そこで信久のぶひさ久世くぜ廣民ひろたみ面子めんつ配慮はいりょして、公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうへと横滑よこすべり、格下かくさげさせるにたり、廣民ひろたみには公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとなっても勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう同格どうかくとしてはどうかと、将軍・家斉いえなり提案ていあんしたのであった。そうすれば格下かくさげのかん幾分いくぶんかはやわらぐというものである。

 だがこれは久世くぜ廣民ひろたみ公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう上座かみざ筆頭ひっとう地位ちいすわることを意味いみしており、相役あいやくとなる根岸ねぎし鎮衛やすもりうえすわることを意味いみしていたのだ。

 そしてそれは2ヶ月前の7月より、それもたった一人ひとり公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうつとめていた根岸ねぎし鎮衛やすもりわば「後輩こうはい」となる久世くぜ廣民ひろたみかれることを意味いみしており、

「それでは如何いかにも根岸ねぎし肥前ひぜんあわれなり」

 忠籌ただかず信久のぶひさのその「プラン」に猛反対もうはんたいしたのであった。

「なればやはり、曲淵まがりぶち甲斐かい公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうへとすすませるが上策じょうさくでござろう?それとも、曲淵まがりぶち甲斐かいでは、それもすくなくとも柳生やぎゅう主膳しゅぜんよりは間違まちがいなく公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう役目やくめ立派りっぱつとるであろう曲淵まがりぶち甲斐かい公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょういては余程よほどにご都合つごうわるいことでもおりかな?」

 信久のぶひさ忠籌ただかず挑発ちょうはつするようにそう言った。

 すると忠籌ただかずおもたるふしでもあるのか、

なにが言いたいっ!」

 そう激昂げっこうしたのであった。信久のぶひさのその「やすっぽい」挑発ちょうはつに、

「うまうま…」

 せられてしまった。

 信久のぶひさは「してやったり」と言わんばかりにつづけた。

「されば弾正だんじょう大弼だいひつ公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう根岸ねぎし肥前ひぜんとはことほか懇意こんいにて…」

「だからなんだともうすのだっ!」

 忠籌ただかずはいよいよもって激昂げっこうした。

「そのうえ都合つごういことに公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう根岸ねぎし肥前ひぜん唯一人ただひとりにて、そこで評定所ひょうじょうしょでのさばき弾正だんじょう大弼だいひつ貴殿きでん懇意こんい根岸ねぎし肥前ひぜんまかせ、いや、まかせるなどと、然様さよう上等じょうとうなものではないな…、貴殿きでんにとって都合つごうさばきになるよう、肥前ひぜん使嗾しそうし…、何しろ評定所ひょうじょうしょでのさばき事実上じじつじょう評定所ひょうじょうしょ留役とめやくがこれをおこない、そして評定所ひょうじょうしょ留役とめやく勘定かんじょうしょよりの出向しゅっこうにて…」

 これまた信久のぶひさの言うとおりであった。

 すなわち、評定所ひょうじょうしょでのさばき、詮議せんぎ寺社じしゃ江戸えどまち公事くじがた三奉行さんぶぎょう構成こうせいされる評定所ひょうじょうしょ一座いちざによる詮議せんぎにしろ、あるいは評定所ひょうじょうしょ一座いちざ大目付おおめつけ目付めつけくわえた五役ごやくのうち三役さんやくからかく一人ひとりずつがえらばれて構成こうせいされる三手掛さんてがかりによる詮議せんぎや、しくはその五役ごやくの中から万遍まんべんなく一人ひとりずつがえらばれて構成こうせいされる五手掛ごてがかりによる詮議せんぎにしろ、実際じっさいには勘定かんじょうしょよりの出向者しゅっこうしゃである評定所ひょうじょうしょ留役とめやく裁判官さいばんかんつとめる。現代で例えるならば評定所ひょうじょうしょ留役とめやくはさしずめ、

最高さいこう裁判所さいばんしょ調査官ちょうさかん

 と言ったところであろうか。

 そしてその評定所ひょうじょうしょ留役とめやく勘定かんじょうしょよりの出向者しゅっこうしゃめられており、つまりは公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう配下はいかであった。

 それゆえ公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうさえ、

「そのになれば…」

 配下はいかである評定所ひょうじょうしょ留役とめやくめいじて、

都合つごうさばき…」

 それをさせることも可能かのうであり、それゆえ評定所ひょうじょうしょにおけるさばき、詮議せんぎにおいてはじつ公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう影響力えいきょうりょくおおきかった。

 そしてその公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうはその時点じてんでは、根岸ねぎし鎮衛やすもり唯一人ただひとりつとめており、その鎮衛やすもり側用人そばようにん本多ほんだ忠籌ただかず懇意こんいであることは周知しゅうち事実じじつであった。

 いや、それにとどまらず、鎮衛やすもり忠籌ただかずけて、ようめいじられ、忠籌ただかずの「パシリ」よろしく、配下はいか評定所ひょうじょうしょ留役とめやくめいじて、つまりは忠籌ただかずをそのままつたえて、忠籌ただかずにとって都合つごうさばきさせている、というのがもっぱらの評判ひょうばんであった。

 だがそこへ、実務じつむけた曲淵まがりぶち景漸かげつぐあらたに公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとしてくわわればどうなるか。

 もうこれまでのように鎮衛やすもりきには、ひいては側用人そばようにん忠籌ただかずきにはならないであろう。

 すなわち、忠籌ただかずめいけた鎮衛やすもり配下はいか評定所ひょうじょうしょ留役とめやく使つかって、忠籌ただかずにとって都合つごうさばきをくだそうにも、相役あいやくとなった曲淵まがりぶち景漸かげつぐがそれをゆるさないであろう。なにしろ曲淵まがりぶち景漸かげつぐ町奉行まちぶぎょう時代じだいには市井しせいきる庶民しょみんに対しては柔軟性じゅうなんせいをもってせっしていたが、しかしその反面はんめん忠籌ただかずのような権力者けんりょくしゃに対しては一転いってん秋霜烈日しゅうそうれつじつ表情ひょうじょうのぞかせたものだからだ。

 それゆえ忠籌ただかずとしてはそのようなおのれおもどおりにはならない曲淵まがりぶち景漸かげつぐ公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうくわわるのをきらって、そこで曲淵まがりぶち景漸かげつぐわりに柳生やぎゅう久通ひさみち公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう推挙すいきょしたのではあるまいか。

 当意即妙とういそくみょう才覚さいかくけ、その上、たよりないために町奉行まちぶぎょうから勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうへと左遷させんさせられた柳生やぎゅう久通ひさみちであれば、かならずや根岸ねぎし鎮衛やすもりの言いなりになるにちがいないからだ。つまりはこれまでどおり、鎮衛やすもり忠籌ただかず自身じしんにとって都合つごうさばきくださせることが出来できるというわけだ。

 信久のぶひさはそのことをにおわせたのであった。

 すると忠籌ただかず最早もはや勘弁かんべんならぬと、将軍・家斉いえなり御前ごぜんであることもわすれて、信久のぶひさつかみかかりろうとし、一方いっぽう信久のぶひさ武士ぶしはしくれとして当然とうぜん、これを迎撃げいげきする姿勢しせいしめしたので、あいだはさまれた格好かっこうの将軍・家斉いえなりはそれをハラハラした面持おももちでながめた。

両名りょうめいともひかえぃっ!」

 忠籌ただかず信久のぶひさが、

「あわや…」

 激突げきとつ寸前すんぜん加納かのう久周ひさのりがそう大喝だいかつして、二人ふたりうごきをめさせた。

おそおおくも上様うえさま御前ごぜんであるぞ…」

 久周ひさのり今度こんどこえひくくして、しかし、威厳いげんちたこえでそうげた。それに対して将軍・家斉いえなりはそのとおりだと言わんばかりに何度なんどうなずいたものである。

 信久のぶひさ側用人そばようにん忠籌ただかず共々ともども御側御用取次おそばごようとりつぎ久周ひさのりもまた事実上じじつじょう上司じょうしたり、それゆえその久周ひさのりから一喝いっかつ大喝だいかつけたところでなんともおもわなかったが、しかし側用人そばようにん忠籌ただかずちがう。

 側用人そばようにんたる忠籌ただかず御側御用取次おそばごようとりつぎ支配しはいし、それゆえ忠籌ただかず部下ぶかである久周ひさのり一喝いっかつ大喝だいかつされたわけで、忠籌ただかず屈辱くつじょくたるや如何いかばかりであっただろうか。

 いや、だがあのまま久周ひさのり事態じたい座視ざししていれば、忠籌ただかずは将軍・家斉いえなり御前ごぜんにおいて信久のぶひさと「大立回おおたちまわり」をえんじたに相違そういなく、そうなれば忠籌ただかず信久のぶひさ共々ともども厳罰げんばつまぬがれぬであろう。とても部下ぶかである久周ひさのりから一喝いっかつ大喝だいかつされたことでけた屈辱くつじょくではない。

 それをおもえば忠籌ただかずは、そして信久のぶひさもそうだが、久周ひさのり感謝かんしゃすべきところであったが、しかし、生憎あいにく忠籌ただかずはそこまで殊勝しゅしょう人間にんげんではなく、それどころか屈辱くつじょくあまり、信久のぶひさつづいて久周ひさのりまでも敵視てきしする始末しまつであり、実際じっさい忠籌ただかず久周ひさのりけた。

 一方いっぽう久周ひさのり忠籌ただかずのその「視線しせん」には勿論もちろんづいており、

「やれやれ…」

 久周ひさのり内心ないしん苦笑くしょうしつつそうおもったものである。

 それから久周ひさのりは将軍・家斉いえなりほうへとからだきをえるや、「おそれながら…」としたので、家斉いえなりはと言うと、

条件じょうけん反射的はんしゃてきに…」

 ゆるすと、即座そくざ久周ひさのりにそうげて、発言はつげんゆるした。忠籌ただかず信久のぶひさとのあいだはさまれた、つまりは「バトル」にまれていた将軍・家斉いえなりとしては御側御用取次おそばごようとりつぎ久周ひさのりだけがまさに、

こころのオアシス」

 さしずめ精神せいしん安定剤あんていざいであった。

 その久周ひさのり家斉いえなりから発言はつげんゆるしをるや、「されば…」としたかとおもうと、

公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうにはやはり、当初とうしょ津田つだ山城やましろ推挙すいきょせしとおり、曲淵まがりぶち甲斐かいてましては如何いかがでござりましょうや…」

 信久のぶひさ人事案じんじあんくみしたのであった。

 久周ひさのりとて人間にんげんである。けっして聖人せいじん君子くんしというわけではない。それゆえ如何いか公正こうせい中立ちゅうりつ立場たちばたもつことを心掛こころがけようとも、そこにはおのずと限界げんかいがあり、おのれ敵意てきい眼差まなざしをけてくる忠籌ただかずくみすることなど出来できなかった。

 それになにより、久周ひさのりもまた、信久のぶひさ指摘してきしたように忠籌ただかず側用人そばようにんという立場たちば利用りようして、公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう根岸ねぎし鎮衛やすもりをそれこそ、

手足てあしごとく…」

 使つかっては評定所ひょうじょうしょ自身じしん都合つごういように差配さはいしている現状げんじょう苦々にがにがしいものをかんじていたのだ。いや、苦々にがにがしいなどと、そのような生易なまやさしいものではなく、重大じゅうだい危機感ききかんいていたのだ。

 それゆえ久周ひさのりとしては忠籌ただかず専横せんおう掣肘せいちゅうすべく、信久のぶひさ人事案じんじあん賛成さんせいしたのだ。

曲淵まがりぶち景漸かげつぐなれば本多ほんだ忠籌ただかず専横せんおう掣肘せいちゅうするにうってつけ…」

 久周ひさのりにはそうおもえたからだ。

 一方いっぽう、将軍・家斉いえなり久周ひさのりのそのような胸中きょうちゅうなどよしもなく、

久周ひさのりもうすのであらば…」

 家斉いえなり信久のぶひさ人事案じんじあん賛意さんいしめしたのであった。

 すると当然とうぜんと言うべきか、忠籌ただかず抵抗ていこうしたので、そこで久周ひさのりは「最後さいご切札きりふだ」を使つかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...